霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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これが、フグの毒……!

 西アーカムの夕暮れは、焦げ付いた砂糖のような色をしていた。

 

 ピックアップトラックの荷台で、氷に閉じ込められた「深海の収穫」が、ガタガタと音を立てる。

 ○○○はハンドルを切り、ミスカトニック大学西アーカム分校の裏門へと滑り込んだ。

 研究室から近い校舎のドア近くには海洋生物学研究室の学生達が台車と一緒に待機していた。

 今や学生たちの顔は「興奮」一色だ。

 

 ドアの近くにピックアップを停めると、彼らは流れるような連携で台車にアイスチェストを載せ替え、校舎の中に運び込んだ。

 二人が学生達の後に付いていって海洋生物学研究室に入ると、立ち込めるホルマリンの匂いと、数人の学生たちがアイスチェストの重そうな音を聞いた興奮が肌を刺した。

 

「みんな!例の深海生物詰め合わせが届いたぞ!」

 

 運びこんだ学生の一人が声を張ると、顕微鏡や図鑑に齧り付いていた学生たちが一斉に顔を上げた。

 

「おい、本当か!?」

「待ってたぞ!」

 

 学生たちは、まるで飢えたハイエナのようにアイスチェストに群がった。

蓋が開けられ、氷の中から「それ」が取り出されるたびに、研究室には悲鳴に近い歓声が上がる。

 虹色にぬめる巨大なウミウシ。

 ガラス細工のように透き通った、形状すら定かではない棘皮動物。

 そして、暗黒の深海でしか育ち得ない、不自然なほど巨大な眼球を持つ魚たち。

 

「良いぞ!初めて見るやつばかりだ!」

「やっぱり網を沈めるだけじゃダメだったんだ!潜って捕まえないと!」

 

 学生たちが興奮状態でスケッチブックを広げ、ノギスを当てるのを横目に、ヒナタは不思議そうに首を傾げた。

 そして、最も熱心にウミウシを観察している学生の肩を叩いた。

 

「ねえ、これの中で『人間が食べられるもの』ってありますか?」

 

 一瞬、研究室が静まり返った。

 学生たちはペンを止め、信じられないものを見るような目でヒナタを見た。

 

「……食べる? 君、今これを『食べる』と言ったのか?」

「ええ。せっかく獲ってきたんだし、前に食べて美味しいやつは知ってるので毒無しがいるなら夕飯の足しにしようかなって」

 

 学生たちは顔を見合わせ、それから困ったように眉を寄せた。

 

「いや……ヒナタ君。残念ながら、今の深海生物学において『食用に適するか』なんてデータは、この世のどこにも存在しないんだ。

 我々が知っているのは、せいぜい筋肉の組織や骨格の構造だけさ」

「毒があるかどうかも?」

「わからない。何せ、生きたまま捕らえた前例がほとんどないんだから。……ああ、でも」

 

 学生の一人が、チェストの底に転がっている、丸々と太ったフグを指差した。

 

「こいつだけは別だ。おいしいとは聞くけどな。これだけは、絶対に食べさせるなよ。

 ……まあ、それ以外については『全くわからない』というのが、現代科学の誠実な回答だね」

 

 ○○○とヒナタは、揃って深い溜息をついた。

 科学の殿堂と呼ばれ、全米から秀才が集まるミスカトニック大学の結論が「わからない」だとは。

 

「……せっかく潜ったのに、結局その辺のダイナーと同じで、メニューの中身も保証されてないってわけか」

 

 ○○○が呆れたように肩をすくめたその時、廊下から勢いよく扉が開く音が響いた。

 

「おや、もう届いたのかね! 私の愛すべき未知の生物たちは!」

 

 用事を終えたコーエン教授が、夏の終わりの潮風を纏いながら研究室に飛び込んできた。

 

「おお、これは素晴らしい! 見事だ、ヒナタ君、○○○君!」

 

 コーエン教授は、深海生物と学生たちが広げたスケッチを眺め、子供のように目を輝かせた。

 その視線は、学術的な興奮で爛々と輝いている。しかし、一通り珍客たちを愛で終えた教授の目が、ふとアイスチェストの隅に転がっている「それ」を捉えた。

 

「おや……。これはまた、実に立派なフグじゃないか」

 

 教授が手袋をはめた手でそれを持ち上げると、学生の一人が慌てて注意を促した。

 

「教授、お気をつけて。例の毒殺事件の魚、猛毒のフグですよ」

「ふむ……。確かに、この膨らみ、この質感。紛れもなくフグだ。だが……」

 

 教授は目を細め、どこか遠くを見るような、あるいは禁断の果実を夢見るような顔で呟いた。

 

「この魚がとても美味だという話もまた、否定しがたい学術的事実なのだよ。

 何せあの時死んだ外交官は食べ過ぎて致死量を周回遅れにしたというじゃないか。……実に、罪深い」

 

 その言葉に、研究室の空気が一変した。

 学生の一人、成績優秀だが向こう見ずなことで知られるフランクが、ゴクリと唾を呑み込んで一歩前に出た。

 

「教授。……もし、もしもですよ。その毒を完全に回避して、味だけを享受する方法があるのだとしたら。

 それは生物学者として、一度は経験しておくべき『知の領域』ってやつだとは思いませんか?」

「フランク君、君もかね?実は私も、さっきから不謹慎な誘惑と戦っていたのだよ」

「ちょっと待て、二人とも」

 

 ○○○が呆れて割って入る。

 

「あんたたち、自分で毒って言ったばかりだろ。死にたいのか?」

「死にたくはないさ。だが、探求したいのだ。……ヒナタ君」

 

 コーエン教授が、かつてないほど真剣な眼差しでヒナタを振り返った。

 

「君は以前、日本でこれを食べたことがあると言ったね。

……毒のない部位だけを、完璧に切り分けることは可能かね?」

 

 ヒナタは少し困ったように頬を掻いた。

 

「……まあ、ピリッとくるのは内臓だけなので、身だけならもしかしたらいけるかもしれませんが……」

「ならば、実験だ。学術的な自己責任に基づいたね」

 

 コーエン教授はそう言うと、デスクの引き出しから一枚の便箋を取り出し、万年筆を走らせた。

 

『本件は私の個人的な好奇心に基づく実験であり、万が一の結果が生じてもヒナタ君および大学側に一切の責任はないものとする』

 

 サインをする教授の手は、恐怖ではなく、まるで新大陸を発見する冒険者のように高揚で震えていた。

 

「教授が書くなら、僕も書きます!」

 

 フランクもそれに続き、研究室には奇妙な「署名式」の静寂が訪れた。

 ○○○が「勝手にしろ」と壁に寄りかかる中、コーエン教授はさらに自分の棚の奥から、大事そうに一本の陶器の小瓶を取り出した。

 

「実はいつか、この日のために用意していたのだ。サンフランシスコの東洋街で手に入れた、秘蔵の『ショウユ』をね」

 

 ヒナタは、差し出された誓約書と醤油の瓶を交互に見て、観念したように溜息をついた。

 

「……わかりましたよ。その代わり、一口だけにしてくださいね?

 絶対にそれ以上食べないでください。約束ですよ?」

 

 研究室の実験机の上に、本来は解剖用であるはずの清潔なメスと、白く輝く紙皿が並べられた。

 西アーカムの狂った夕暮れが、その「実験場」を赤く染め上げていた。

 

 ヒナタがメスを握ると、丸々と太っていたフグは瞬く間に皮を剥がされ、白く輝く身だけが取り出される。

 ヒナタは内臓を慎重に隔離して別の袋に詰めると、身を紙のように薄く、しかし均一に削ぎ落としていった。

 白い紙皿の上に、透き通った魚肉の花が咲く。その中から一口分ずつ取り分けた。

 

「煮るか生が美味しいので刺身で食べましょう。ナベ……じゃなくてシチューにすると内臓入れたくなりますし」

「そ、そうなのかね?」

 

 コーエン教授が震える手で『ショウユ』の栓を抜くと、研究室にオリエンタルな、焦げた大豆のような独特の香りが広がった。

 

「さあ……学術的検証を始めよう」

 

 コーエン教授とフランクは、震える手でフォークを伸ばした。

 本来、フグ刺しには箸が相応しいのだろうが、ここはワシントン州の大学だ。

二人は慣れない手つきで、宝石のような一切れを黒い液体に浸し、祈るように口へと運んだ。

 

「…………!!」

 

 沈黙が研究室を支配した。

 二人の瞳が大きく見開かれ、頬が微かに震える。

 

「美味い……。なんだこれは、生の魚とはこれ程までに美味かったのか……今まで食べていた白身魚は何だったんだ。この歯ごたえ、噛むほどに溢れる淡白ながらも力強い旨味……」

「教授、このショウユというソースとの相性も抜群です!凄く美味しいです!」

 

 二人は当初の「一口だけの実験」という約束を、ショウユの香りと共に喉の奥へ放り投げた。

 ヒナタが止める間もなかった。

 あっという間に一口分を食べ切った二人は、ヒナタが自分用に確保していた皿にまで手を伸ばした。二切れ、三切れ。フォークを動かす速度は加速度的に増していく。

 

「あ、ちょっと!一口だけって話ですよ!止めてください!もう十分でしょう!」

「いいや、まだだ!死ぬならこの味を知った後で構わん!」

 

 ヒナタが慌てて二人を取り押さえ、皿を奪い取った。その時だった。

 フランクが突然、自分の顔を両手で押さえて膝をついた。

 

「ひ、教授……!顔が……顔の感覚が、ありません……!」

「な、何だと……?ああ、言われてみれば、私の指先も……ピリピリと……。これが、フグの毒……!」

 

 実際には食べた部位に毒は入っていないのだが、あまりの美味さと「死ぬかもしれない」という極限の緊張が、二人の脳に偽りの麻痺を作り出したのだ。

 

「誰か! 救急車だ! 教授とフランクが毒に当たったぞ!」

 

 他の学生たちがパニックになり、研究室は地獄絵図と化した。

 十分後、真っ赤なサイレンを鳴らして駆けつけた救急隊員たちは、ストレッチャーに載せられた二人の顔を見て、心底呆れたように怒鳴り散らした。

 

「またミスカトニックの連中か!

 いいか、あんたたちインテリの命を救うために俺たちは走ってるんじゃないんだぞ!今度は何を食った、腐った標本か!?」

 

 毒のサンプルとして刺身の一部を救急隊員に渡し、ガタガタと震えながら運ばれていく二人を見送った。

 嵐が去った後の研究室には、ヒナタと○○○、そして残された学生たちが立ち尽くしていた。

 

「……ヒナタ君、本当に、申し訳ない」

 

 残された学生の一人が、深々と頭を下げた。

 

「あの二人があんなに理性を失うなんて。君はちゃんと止めてくれたのに……」

「……いえ。止めきれなかった僕も悪いですから……」

 

 ヒナタは疲れ切った顔で残りの刺身を自分の口に運んだ。

 

---

 

 夜、レンタルしたピックアップトラックを返し終えた二人は重い足取りで学生寮への道を歩いていた。

 ○○○はポケットに手を突っ込み、途中のダイナーで買ったコーヒーを啜る。今回は淹れたてを買えたようだ。

 

「ヒナタ。……次は、下調べじゃなくて、鍵のかかる冷蔵庫を先に用意した方がいいかもしれないな」

「それはコーエン教授が用意しないといけないものじゃないかな?」

 

 遠くで救急車のサイレンが夜の街に溶けていく。

 西アーカムの空には、相変わらず無関心な星々が輝いていた。




当時の学者は大体こんなノリだったらしいです。
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