霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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ミルクください

「ハッハッハ! 素晴らしい、実に素晴らしいよ、コーエン君! 君はついに、純粋な精神の力だけで死の淵を覗き込んだわけだ!」

 

 海洋生物学研究室に、カニンガム教授の野太い笑い声が響き渡った。

 数日ぶりに退院し、研究室に戻ってきたコーエン教授は、苦虫を噛み潰したような顔で、それでいてどこか誇らしげにコーヒーを啜っていた。

 

「笑い事じゃないよ、カニンガム君。私は本気で天国の門の前で聖ペテロと目があったんだからね。

 ところが救急車で運び込まれた先で医者は何と言ったと思う?

 『血中からもサンプルからも毒は一点も検出されませんでした、お引き取りを!』だとさ。

 貴重なベッドを妄想で占拠するなと、老婆のような看護師にまでキレられたよ」

「いいじゃないですか。おかげで僕たち『フグに勝った二人』として、すっかり有名人ですよ」

 

 隣でフランクが、同じく海洋生物学研究室の学生たちに小突かれながら、鼻を擦っている。

 「おいフランク、聖ペテロはどんな顔だったんだ?」「スケッチは取ったんだろうな?」と揶揄されるたびに、「味は最高だったよ、マジで」と恍惚とした表情で返している。

 そんな喧騒を、少し離れた位置で眺めているのが○○○とヒナタだ。

 二人の手元には、研究室のアルコールランプで淹れた、煮詰まっていない、まともなコーヒーのカップがあった。

 

「とにかく、死なずに済んで良かったよ。」

「ああ、ヒナタの包丁捌きが完璧だった証拠だよ。要するに、あの二人はあまりの美味さに脳が焼かれて、勝手に身体が痺れたフリをしたってわけだ。

……インテリの想像力ってのは、本物の毒より性質が悪い」

「僕達も世間一般的にはインテリだよ」

 

 ○○○が呆れたようにコーヒーを啜っていると、カニンガム教授が笑いすぎて涙の浮かんだ目を向け、手招きをした。

 

「さて、愉快な後日談はここまでだ。コーエン君、頼んでいた『アレ』は……届いているようだね」

 

 カニンガム教授の言葉を合図に、研究室の空気がわずかに引き締まった。

 ○○○とヒナタは、カニンガム教授に従って研究室の隅……先週ボストンに船便で送られた「半魚人」の剥製があった場所に置かれている樽を見た。

 樽の表面には『文化人類学・陶磁器標本』という貼り紙が無造作に貼られている。

 

「……これ、お酒ですよね? カナダの」

「察しがいいね。コーエン君に私が少しばかり“副業”を仲介してあげたというわけさ」

 

 カニンガム教授はニヤリと笑い、台車を指差した。

 

「○○○君、ヒナタ君。この『標本』を私の文化人類学研究室の奥にある隠し棚に運んでくれ。学生たちには『貴重な発掘品だから触るな』と言ってある」

 

 ヒナタは何も言わず、台車に樽を積んだ。

 

 コーエン教授の“副業”。それは、学術的な海域調査を隠れ蓑にしたカナダからの高級ウイスキーの密輸だった。

 

「運び終えたら、そのうちの三本を小分けにして、街の『イレギュラーズ』傘下の店に届けてもらいたい。場所は後で教える。」

 

 カニンガム教授の指示は、大学の講義よりも明快だった。

 ○○○は台車を押し出しながら、ヒナタに視線を送った。

 

「……行くぞ、ヒナタ。次は救急車じゃなくて、警察のお世話にならないようにな」

「わかってるよ。でも僕は救急車に乗せる側だと思うけどね」

 

 二人が押す台車からは、重厚な瓶同士が触れ合う、密やかな音が聞こえていた。

 

---

 

 文化人類学研究室の奥まった場所にある、本棚に偽装された隠し棚。

 そこに無事「標本」を納めた二人は、“中身”を抱えてカニンガム教授から渡されたメモを頼りに夜の街へと繰り出した。

 

 指示された場所は、西アーカムの港に近い、古びた精肉店の地下だった。

 表向きは店じまいした精肉店だが、裏口の重い鉄の扉を三回、間を置いて二回叩くと、覗き窓がスライドして鋭い視線が投げかけられる。

 

「……合言葉は?」

「『ミルクください』」

 

 ヒナタが西部劇で言ったら笑われそうな台詞を口にすると、重いかんぬきが外れる音がした。

 扉の向こう側は、外の静寂が嘘のような喧騒に包まれていた。

 紫煙が立ち込め、安っぽいジャズが蓄音機から流れている。

 そこは、カニンガム教授が自覚無しに事実上支配する「イレギュラーズ」の息がかかったスピークイージーだった。

 

「おい、例のブツか?」

 

 カウンターの中にいた、顔に大きな傷跡のあるバーテンダーが低い声で尋ねる。

 ○○○は鞄から、新聞紙で丁寧に包まれた三本のボトルを取り出した。

 

「教授からの届け物だ。カナダ産の『本物』だぞ」

 

 バーテンダーが包みを解き、琥珀色の液体をランプの光に透かすと、周囲の客からも「ほう」と感嘆の溜息が漏れた。

 

「……違いない。こいつは上等だ。最近の密造酒は喉が焼けるような代物ばかりだったからな」

 

 バーテンダーは満足げに頷くと、カウンターの下から一通の封筒を○○○に差し出した。

 

「これは教授への取り分だ。……そっちの坊主にも何か飲ませてやるか? もちろん、ミルクだがな」

「そう?じゃあ、ありがたく頂くね」

 

 ヒナタは笑ってミルクを一気に飲み干した。

 

「良い飲みっぷりじゃねぇか。大変なご時世だが頑張れよ」

 

 バーテンダーはヒナタからグラスを受け取り、流し台に置く。

 客たちは皆、酒に飢えた野獣のような目をして、教授が届けたばかりのボトルを見つめている。

 禁酒法という理不尽な法律が、この街の大人たちを、あの研究室のフランクたちと同じような「渇望」に追い込んでいるようだった。

 

 店を出ると、冷たい潮風が火照った顔を撫でた。

 ○○○は封筒を上着の内ポケットにしまい、煙草に火をつけた。

 

「ここまでやって、まだ協力者のつもりなんだから、教授って自己評価がおかしいよね」

「誰だってどこかしらおかしいんだ。今更気にする事じゃない」

 

 二人は夜の闇に紛れるように、港の停留所へと歩き出した。

 背後の地下からは、まだかすかに陽気なジャズの音が漏れ聞こえていた。

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