霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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私が安全を保証してやろう

 一月初旬の西アーカムは、情緒などという言葉とは無縁の場所に成り下がっていた。

 

 空は重く垂れ込めた鉛色に閉ざされ、雪になることすら諦めた冷たい雨が、街中の雪を薄汚い泥水へと変えていく。

 肺の奥まで湿らすような寒気から逃れるように、○○○とヒナタは、理髪店に入り、いつものスピークイージー(潜り酒場)の隠し扉を開けた。

 

 昼間から澱んだ空気が溜まる店内のカウンター。その端で、密造業者のビルが項垂れるようにグラスを傾けていた。

 彼はバーテンダーに何事か小声でまくし立てていたが、バーテンダーが○○○たちに目配せをすると、観念したように口を閉ざした。

 

「……弱ったな。最悪のタイミングだ」

 

 バーテンダーが、○○○たちの前にルートビアを滑らせながら、溜息混じりに切り出した。

 

「ビルのところの若いのが三人揃って風邪でダウンしたそうだ。今夜から森の『蒸留器(スチル)』を回さなきゃならんのに、荷物持ちもいなければ、見張りもいない。このままじゃ、仕込んだマッシュが全部台無しになるって泣きつかれてね」

 

 バーテンダーは、拭いていたグラスを置き、じっと○○○を見つめた。

 

「どうだ、君たち。少しバイト代を稼ぐ気はないか? 森の中で数日、ビルの連中の見張りと荷運びをしてやってほしい。報酬は現金で弾む。

 それに、あそこはいい釣り場だ。キャンプ道具やボートも好きに使っていいという条件だが……」

 

 ○○○は、ストローを咥えたまま話を聞いているヒナタを横目で見た。

 この季節、寮の狭い部屋に引きこもっていても、カビ臭い思考が頭を巡るだけだ。適度な運動と、何より「釣り」という合法的なレジャーの口実ができるのは、今の自分たちには悪くない提案だった。

 

「見張り、か。……まあ、引きこもるよりは身体に良いだろうな。ヒナタ、どうする?」

「いいよ。……ちょうど、新鮮な魚が食べたかったところだし」

 

 ヒナタが淡々と答えると、隣で聞き耳を立てていたビルが、救われたような顔をして身を乗り出した。

 

「頼む、恩にきるよ! 報酬の他に、出来立ての最高な奴も一本つけてやるから!」

「いいね。ついでに上等の釣り餌と、帰りに冷えたルートビアを用意しておいてくれ」

 

 ○○○の打算的な返答に、ビルは呆れたように、しかし確かな信頼を込めて苦笑した。

 

---

 

 翌日。深い霧に包まれたコロンビア川の支流。

 

 視界を白く塗りつぶす霧は、音を吸い込み、距離感を狂わせる。そこから少し離れた森の奥、清らかな湧水が流れ込む場所では、ビルたちが蒸留器に火を入れ、熱を上げ始めていた。法の目を盗む男たちの荒い呼吸と、金属が擦れる硬質な音が、霧の膜を透かして時折ここまで届いてくる。

 

 ヒナタは密造業者のボートで移動する最中に、髪の擬態を解き、船縁から伸ばした触手で、十数匹のマウンテン・ホワイトフィッシュを瞬く間に掴み取りした後、また触手を髪に擬態させた。

 拠点となるキャンプ地に降り立つやいなや、彼はそれらに手早く塩とスパイスで下味をつけ、燻製器の代わりに設えた即席の干し場へ吊るしていく。

 

「さて、仕事をしなきゃね」

 

 ヒナタは一本の「のべ竿(ケーン・ポール)」を手に取ると、岩場に腰を下ろした。

 見張りとしての偽装だが、その手つきは真剣そのものだ。冷たい流れの中に糸を垂らし、冬でも元気なホワイトフィッシュの繊細なアタリを待つ。

 森の奥では、法を犯す男たちが火を焚き、熱い蒸気の中で酒を造る喧騒がある。

 

 一方、川べりの静寂の中では、ヒナタが釣り上げた魚をナイフ一本で鮮やかに捌き、コーンミールの衣を纏わせて、小さなフライパンで揚げ始めていた。

 ○○○は岩に寄りかかり、教科書を片手に糸を垂らした。

 

「ビルたちは今頃、煙の出方に神経を尖らせているだろうな」

「そうだね。終わったらこの燻製とお駄賃のウイスキーで一杯やろうよ」

 

 ヒナタは手際よく魚を裏返し、こんがりと黄金色に焼き上げていく。

 香ばしい油の匂いと、魚の焼ける香りが霧の中に溶け出し、上流のアルコール臭を上書きしていく。○○○は読書を止め、パチパチと爆ぜる火の粉を眺めながら、ヒナタとのたわいもない雑談に興じた。

 

---

 

 ヒナタが燻製用の焚き火に湿った枝を放り込み、見張り用の「狼煙」を兼ねた濃い煙を上げ始めてから、そう時間はかからなかった。

 霧の向こう側、乾いた小枝を踏みしめる重い足音がこちらに近づいてくる。

 

「おいおい、こんなクソ寒い日にキャンプとは、ミスカトニックの学生さんはよっぽど暇を持て余しているらしいな」

 

 霧を割って現れたのは、いつものスピークイージーの常連、オマリー巡査だった。

 彼は形式ばかりに腰の警棒を叩き、鋭い目つきで周囲を検分する素振りを見せたが、フライパンから漂う香ばしい匂いを嗅いだ瞬間、その表情は「仕事」から一気に緩んだ。

 

「よう、オマリー。巡回中か?」

「ああ。不届きな密造者が、森にスチルを隠して酒を焼いているなんていうタレコミがあってな」

 

 オマリーは上流から微かに流れてくるアルコール臭には見向きもせず、二人の焚き火のそばにどっかと腰を下ろした。

 

「だが、どうやら私の勘違いだったようだ。ここにいるのは、熱心に勉強しながら魚を釣っている健全な若者だけだ。……そうだろ、○○○?」

「ああ、全くだ。……ちょうど魚が揚がったところだ、一皿どうだ?」

 

 ○○○が促すと、ヒナタは当然のような顔をして、揚げたてのホワイトフィッシュを新聞紙に包んで差し出した。

 オマリーはそれを口に運ぶと、「あふっ、熱っ!」と悶絶しながらも、サクサクとした衣の食感に相好を崩した。

 

「……凄いな。サクサクの揚げ物なんて初めてだよ。ヒナタ、お前料理できたんだな」

「まあね。ルートビアならあるけど、飲む?」

「ああ、今はそれで我慢しておくよ」

 

 オマリーは上流で何が起きているか完全に把握していたが、彼もまた、ビルやバーテンダー、そしてこの学生二人と同じ「互助組織」の恩恵を受ける一員だ。

 彼は揚がった魚を二、三匹平らげると、包んでいた新聞紙で口元の油を拭い、焚き火に捨てると満足げに立ち上がった。

 

「この先の一帯は、私が安全を保証してやろう。だが、煙を出しすぎるなよ。……奥の連中にも、そう伝えておけ」

 

 巡査は最後にニヤリと笑うと、重い足取りで再び霧の向こうへと消えていった。

 

---

 

 オマリー巡査の足音が霧の中に溶けて消えてから、さらに一時間ほどが経過した頃だった。

 上流の方から、今度は騒がしい複数の足音と、安堵の混じった下卑た笑い声が聞こえてきた。

 

「よう、学生さん! こっちは一段落ついたぜ。……オマリーの野郎、何て言ってた?」

 

 霧を払うように現れたのは、煤と汗にまみれたビルと、その部下たちだった。彼らの体からは、出来立てのコーンウイスキー特有の、鼻を突くような鋭いアルコールの臭いが立ち上っている。

 

「『煙を出しすぎるな』とさ。ホワイトフィッシュのフライを三匹分賄賂に渡したから、あいつの腹の中では、上流の出来事は『なかったこと』になってるよ」

 

 ○○○が淡々と報告すると、ビルはガハハと豪快に笑い、担いでいたジャグ(陶器の瓶)を地面に置いた。

 

「ハハッ、そいつは安い買い物だ! ほら、出来立てだぜ。まだ熱いが、味は保証する」

 

 ビルがジャグの栓を抜くと、濃密な酒の香りが冬の冷気に広がった。

 男たちはヒナタが揚げておいた残りのフライに手を伸ばし、それを肴にジャグを回し始めた。

 

「……おい、マジかよ。なんだこのサクサク感は!」

「凄え……泥臭くねえ……こいつをアテに飲めないなんてオマリーも災難だったな」

 

 荒くれ者の密造業者たちが、ヒナタの揚げた魚を一口かじるごとに驚愕の声を上げる。

 ヒナタはその様子を、どこか誇らしげに、しかし当然だと言わんばかりの冷淡な瞳で見つめながら、自分の分のフライをじっくりと味わっていた。

 

「……○○○。もっと釣った方が良かったかな?」

「放っておけ。その分、ビルの懐から現金(チップ)を多めに引き出せばいい」

 

 ○○○はそう言いながら、自分も揚げたての魚の「断面」を眺めた。

 真っ白な身がふっくらと蒸し焼きにされ、黄金色の衣との対比が美しい。一口齧れば、冬の川魚らしい引き締まった旨味が、コーンミールの香ばしさと共に口の中で弾けた。

 

 裏社会の片隅。犯罪と隣り合わせの場所で食べるこの味が、今の二人にとっては唯一の、混じり気のない「甘え」の時間だった。

 

---

 

 すべての機材が撤収され、残ったのは焚き火の後の灰と、川面に立ち込める霧だけだった。

 ビルは約束通り、ポケットからクシャクシャになった数枚の紙幣を取り出し、○○○の手へと握らせた。

 

「助かったぜ、学生さん。おかげでスチルを止めずに済んだ。……それとヒナタ、その揚げ物のコツ、いつか俺の女房にでも教えてやってくれ。あいつの作る魚料理は、靴底を揚げたみたいな味がするんだ」

「気が向いたらね。……はい、これ、ビルの分の燻製」

 

 ヒナタは即席の干し場から回収した、飴色に輝くホワイトフィッシュの燻製をいくつか手渡した。ビルはそれを宝物のように受け取ると、男たちと共に霧の奥へと消えていった。

 

 数時間後。泥と雨にまみれた身体でアーカムの寮へ戻った二人は、重い荷物を床に下ろすと同時に、深い溜息を吐き出した。

 

 キッチンでは、数日分の保存食となる燻製や干し肉が、静かにその出番を待っている。

 ヒナタは無造作に棚を開けると、あらかじめ買っておいた冷えたルートビアの栓を抜いた。

 

「……お疲れ様、○○○」

「ああ、お疲れ。……やっぱり、外で飲むより、ここで飲む方が落ち着く」

 

 プシュッという小気味よい音と共に、独特のバニラの香りが部屋に広がる。

 二人は窓の外、いまだに降り続く鉛色の雨を眺めながら、瓶のままルートビアを煽った。

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