霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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ハハッ、そんな奴もいたな

 二月の末、西アーカムの社交界には、春の訪れを告げる陽気とは程遠い、凍てつくような「風」が吹いていた。

カニンガム教授が上流階級の会合から持ち帰ったのは、連邦禁酒局の創設という、地上のパワーバランスを根底から覆す決定的な情報であった。

 

「ヒナタ君、○○○君。三月になれば、これまでの甘い癒着はすべて焼き払われるだろう。

君たちが精魂込めて造った『最高級品』も、私のささやかな『コレクション』も、今のうちに深淵へ沈めるんだ」

 

 教授の指示は迅速かつ冷徹だった。三月三日の組織改編を前に、カニンガム教授の私邸、大学の倉庫、そして○○○たちが暮らす寮の私室に至るまで、徹底的な「洗浄」が開始された。

 

 夜の帳が降りる頃、ヒナタとカイは、隠し持っていた酒樽や数多の酒瓶を改造漁船の船倉へと積み込み、ヒナタの細い腕と触手が樽を軽々と運び、カイがそれを紐で固定していく。

準備が完了し、改造漁船を結界で包むと海底まで潜航して行った。

リュウグウに入ると、それらをすべてカニンガム教授用のセーフハウスへと運び込んだ。

 

二人は全てを終わらせるとリュウグウを出て港に帰還し、漁船を港の倉庫に戻すと文化人類学研究室に戻ってきた。

 

「……ふう。これでよし、と。一滴の匂いも残ってないよね?」

 

 ヒナタが研究室の空気をクンクンと嗅ぎ回る。

教授の執拗なまでの指示により、清掃員に扮したイレギュラーズの手により酒の汚れ一つ、ラベルの破片一枚すら残されていない。

 

 嵐の前の静けさが、研究室を支配する。一時は芳醇なリンゴの香りが漂っていたその場所には、今や人類学の退屈な資料と、何の毒も含まれていない澄んだ紅茶の香りだけが漂っていた。

 

---

 

 3月3日。

 

 その日は、西アーカムの空を重く垂れ込める鉛色の雲と共に幕を開けた。

ワシントンから派遣された「連邦禁酒局」の新任捜査官たちが、軍隊を思わせる規律正しい足取りで街へ降り立ったのだ。

彼らの胸に輝く真新しいバッジは、これまでの「馴れ合い」を一切拒絶する鋼鉄の意志を象徴していた。

 

 彼らが最初に行ったのは、マフィアの摘発ではなく、身内の「大掃除」だった。

 

 昨日まで酒場の裏口で札束を受け取っていた汚職捜査官たちが、次々と手錠をかけられ、見せしめのように護送車へと押し込まれていく。

街の至る所で、地位を剥奪された男たちの罵声と、冷徹な新任官の事務的な声が響き渡った。

 

「カニンガム……あの老いぼれ学者の名前を吐け! 奴が裏で糸を引いていたんだろう!」

 

 取調室で詰め寄られる元捜査官たちの多くは、すでに自らの汚職については観念していた。しかし、カニンガム教授の名が出た瞬間、彼らは一様に口を閉ざした。

 

 彼らにとって、カニンガム教授は単なる「賄賂の送り主」ではなかった。自分たちのような卑俗な人間を対等な知性として扱い、時に厳しく、時に慈悲深く「教育」してくれた唯一の恩師であり、同時に逆らえば深淵へ突き落とされる怪物でもあった。

教授を売ることは、彼らが土壇場でしがみついている最後の「誇り」と「生への本能」を捨てることを意味していた。

 

 その頃、街が激震に揺れる中で、カニンガム教授は完璧な「聖域」の中にいた。

 

 教授は朝から大学の評議会に出席し、午後は地域の慈善活動の会合で高潔なスピーチを行っていた。

新任捜査官たちの手元にある「要注意人物リスト」の最上位に教授の名があったとしても、目の前で「文明の進歩と倫理」を説く高潔な学者の姿は、あまりに隙がなく、疑惑を差し挟む余地を与えない。

 

「……野蛮な時代だね。法を執行する側が、法を恐れる者よりも血の気が多いとは」

 

 研究室の窓から、元部下たちが連行されていく様子を眺めながら、教授は優雅にカップを置いた。

 

 アリバイは鉄壁。証拠はすべて深海。そして、かつての協力者たちは恐怖と敬意によって沈黙を貫いている。

西アーカムを覆う新体制の嵐の中で、研究室だけが物理法則から切り離されたかのように静まり返っていた。

 

---

 

 3月中旬。新設された禁酒局の包囲網は、ついにミスカトニック大学の重厚な門を潜った。

 

 標的は「裏社会の知恵袋」と目されるカニンガム教授、そしてその手足として動いていると睨まれた○○○とヒナタだ。

彼らは事前の予告もなく、靴の音を響かせて研究室へと踏み込んできた。

 

「失礼する、カニンガム教授。連邦禁酒局だ。令状に基づき、この施設内の徹底的な捜索を行う」 

 

 若く、血気盛んな新任捜査官が冷徹な声を放つ。

しかし、迎え撃つ教授は読書の手を止めることすらなく、眼鏡の奥の瞳を細めただけだった。

 

「どうぞ、お好きなだけ。フィールドワークに出向く手間が省けました。

法を執行する側の『熱意』というものを、間近で観察できるのですから」

 

 捜査官たちは棚から資料をぶちまけ、床板を叩き、壁の裏まで調べ上げた。

だが、そこにあるのは埃を被った石器や古い羊皮紙、そして何の変哲もないティーセットだけだった。

 

 一方、○○○たちが暮らす寮も同様の嵐に見舞われていた。

捜査官たちは血眼になって床下やクローゼットを暴いたが、一月の寒波の最中に学生たちが寒さを誤魔化す為に飲み干したおかげで、一滴のアルコールすら検出されない。

結局、見つかったのは数名の学生が隠し持っていた自作の蒸留器だけであり、持ち主たちは捜査官達から尋問と説教を受けた末に、家宝のような機械を没収され、泣きべそをかく羽目になった。

 

 そんな厳戒態勢の中、新局の捜査網を嘲笑うように「見えない通信」が街を走っていた。

 研究室の窓辺で退屈そうに爪を弄んでいたヒナタが、ふと瞳の焦点を外す。

 

(――カイ、聞こえる? 第三区画の隠れ家に捜査官が向かったよ。

あと、例の『元捜査官』が裏切りを強要されてるみたい)

 

 ヒナタのテレパシーを受け取ったのは、街の雑踏に紛れ、浮浪者に擬態してイレギュラーズの拠点の近くに待機していたカイだった。

 カイは濁った瞳で周囲を警戒しながら、ボスの配下へと短く告げる。

 

「……動け。北から『猟犬』が来る。それと、裏切り者は事前に処理しろ。教授からの伝言だ」

 

 新任捜査官たちが「完璧な包囲」を自負しているその裏で、ヒナタを中継局とし、カイを端末とした人外の連絡網が、イレギュラーズの被害を最小限に食い止めていた。

 

 捜査官たちに睨まれ、身動き一つ取れないはずの「標的」たちが、実は街全体の動向を完全に把握している――。

その事実に気づく者は、鋼鉄の規律に酔いしれる新任捜査官の中には一人もいなかった。

 

---

 

 嵐のような家宅捜索が終わり、荒らされた研究室に静寂が戻った。

捜査官たちは忌々しげに、しかし収穫ゼロという現実に肩を落として去っていった。

 カニンガム教授は、散乱した資料の山を片付ける○○○とヒナタを眺めながら、かつて腐敗捜査官たちから聞き出した言葉を回想していた。

 

『いいかい先生。もし本気で俺たちを、あるいはあんたを挙げる奴が来たら、真っ先に狙うのは「隙」じゃない。

そいつらが信じる「正解」に合わないものすべてを叩き壊しに来るのさ』

 

 彼らが教えてくれた「本気の捜査シミュレーション」は、驚くほど正確だった。新任捜査官たちの動きは、教授の脳内に描かれた図式をなぞるだけの、滑稽なダンスに過ぎなかったのである。

 

「……彼らは優秀だよ。かつての捜査官たちよりずっとね」

 

 教授は窓の外、三月の雪解けが作り出した泥濘にタイヤを滑らせながら去っていく捜査車両を見つめた。

 

「ただ、優秀さと賢明さは別物だ。彼らは教科書通りの答えを探すことに必死で、自分たちが踏みにじっている泥の深さに気づいていない」

 

 ヒナタが、踏み躙られた資料を拾い上げ、不思議そうに首を傾げた。

 

「教授。地上じゃ腐りかけの野菜やミルクが平気で売られているのに、あの人たちはそれを放って酒を目の敵にするんですね。

……酒も飲んでないのに、何に酔ってるんでしょう?」

 

 その純粋な問いに、カニンガム教授は皮肉な笑みを浮かべた。

 

「正義じゃないかな? ヒナタ君。自分たちは正しいことをしている、悪を根絶しているという万能感。

……全く、狂信者の正義ほど、御しがたい毒はないよ。それはメタノールよりも確実に、人の理性を焼き切ってしまうんだから」

「正義の為に酒場に乗り込んで、斧を振りまわしたデカい婆さんもいましたからね」

「ハハッ、そんな奴もいたな」

 

 ○○○は、手元の紅茶を見つめた。二月にリュウグウで味わった、あの透き通るようなトマトの味。

そして今、地上の三月を覆っているのは、法の執行という名目のもとに撒き散らされる不信と、より高濃度になった政府製の毒だ。

 

「さあ、片付けが終わったら新しいお茶を淹れよう。三月の風はまだ冷たい。

……もっとも、これから来る『春』は、冬よりもずっと冷酷なものになるだろうがね」




Q.酒場に乗り込んで斧を振りまわしたデカい婆さんって何者ですか?実在したんですか?

A.実在しました。

彼女の名前はキャリー・ネイション。身長180cm、体重80kgのデカい婆さんです。
1900年から1911年の間、酒場に石や斧を持って乗り込み酒瓶や酒樽を壊して回りました。
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