霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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夜の底に沈むもの

アーカムの夜は、どこかぼんやりとしている。霧のせいか、記憶のせいか、夜道の明かりが頼りなく滲んで、町そのものが静かに滲んでいるようだった。

 

その夜、僕は教授に連れられて、大学裏のスピークイージーへと向かっていた。建物の表向きは時計屋だが、合言葉を口にすれば、裏の階段を抜けて地下へ降りられる。

 

教授がドアをノックし、カウンター越しに合言葉を囁くと、錠が外れる音とともに重たい扉が軋んで開いた。

 

「よし、入ろうか。君も慣れてきただろう?」

「まぁ……なんというか、“教授と一緒なら大丈夫”って安心感だけで来てますけど」

 

階段を降りると、そこにはオーク材のカウンターと、琥珀色のランプが灯る静かな空間があった。夜の帳の底で、秘密めいた囁き声と酒の匂いだけが混ざり合っていた。

 

教授が見つけた空席の隣には、一人の男が座っていた。

インスマス面。

 

その顔を初めて見たとき、僕は少し言葉を失った。頬骨の高い頑固そうな顔立ちに、異様に膨らんだ目元。皮膚の色がどこかグレーがかっていて、肌の質感も妙に湿って見える。

 

男は手にしたグラスを静かに煽っていた。中身はアブサン――香草の強い香りが、遠目にもわかるほど鼻を突く。

 

「……珍しいな、あれほど強い酒を立て続けに」

教授が呟くと、男がこちらに気づいた。

 

「隣、いいかい?」

「ああ……ああ、どうぞ」

 

男の声はややくぐもっていた。喉の奥で泡が立つような響きがあった。

 

教授は男の隣に腰を下ろし、僕には「少し後ろの席で控えていてくれ。できればメモを頼む」と指示を出した。

 

僕は言われたとおり、陰になる席に座り、注文もせずに手帳を開く。

 

教授はグラスを頼み、男と並んで酒を飲む。

 

「悩みがあるなら、話してみたまえ。酒を飲むより、誰かに聞かれるほうが気が楽になることもある」

 

男は少し黙ってから、グラスを見つめるようにして言った。

 

「……数日前のことだ。俺の両親が、夏の休暇でインスマスに帰省しててな。海沿いのいつもの入り江で泳いでるうちに――ふと目を離した隙に、いなくなったんだ」

 

教授は静かに頷く。僕は手を止めずにメモを取る。

 

「……俺の両親は、昔から“進みが早い”方だったんだ。顔の皺とか、目の色とか……普通の人間とはちょっと違っててさ。でもまぁ、インスマスじゃ当たり前だったし」

 

男は言葉を選んでいるようだった。

 

「その日も、昼には一緒にランチを食べて、笑ってたんだ。それが、午後に海で泳いでる最中に……ふっと、目を離した隙に、潮の向こうへ……」

 

男の手が微かに震えていた。

 

「……そのとき、遠くの波間に……触手みたいな、ぬるっとした影が見えた気がした。見間違いだと思いたいが、あれを見た瞬間、脊髄が冷えて……“ヤバい”ってわかったんだ。言葉じゃなく、体が反応した」

 

「それ以来、誰も両親を見てない。あの町じゃ、妙なことが起きても誰も騒がない。地元の警官は“潮の流れが速いから”とか言ってたが……納得できるかよ。今にして思えば、あれは……きっと、戻れなかったんだ」

 

教授はしばらく黙っていた。男のグラスが空になり、バーテンダーが新しい酒を注ぐ。

 

「……話せてよかったよ」

男はぽつりとそう言い、カウンターに突っ伏すようにして眠りに落ちた。

 

教授はグラスの残りを飲み干すと、そっと立ち上がり、僕の席に歩み寄った。

 

「ありがとう。いい記録になった」

 

「……教授、あの話……」

 

「気になるかい?」

 

僕は口ごもった。

 

「……いえ。でも、なんとなく……ヒナタが今、アーカムを離れてるって聞いてて……なんだか、引っかかって」

 

教授はくすりと笑った。

 

「彼には“海の生物の標本をいくつか採取して持ち帰ってほしい”と頼んである。久々のフィールドワークだ、張り切ってるはずだよ」

 

「……その標本って」

 

「何かね?」

 

「……いえ。なんでもないです」

 

教授は満足げに頷いた。

 

「標本が届くのが楽しみだ。今夜はありがとう。帰ろう、冷える前に」

 

翌朝、大学構内はどこか湿り気を帯びていた。朝霧が低く垂れ込める中、僕は教授の研究室に顔を出した。

 

教授は既に机に向かい、昨夜のメモを読み返していた。

 

「おはようございます。昨夜の話、記録としては残しますか?」

 

「ああ。内容は改めて整理しよう。ただし実名は避けておこう。彼の語ったことが真実でも妄想でも、扱いには慎重を期すべきだ」

 

「了解です」

 

そのとき、机の上の電話が鳴った。教授が受話器を取り、短く応対すると、少しだけ顔をしかめた。

 

「……ちょうどいいところで来たな。ヒナタくんが戻ってきたらしい。標本を大学の保管庫に届けてくれたそうだ」

 

「怪我は……?」

 

「今のところ報告はないが、確認しに行こうか」

 

教授とともに保管庫に向かうと、ちょうど通路の角を曲がった先に見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 

「ヒナタ!」

 

こちらが呼びかけると、ヒナタが振り返った。いつもどおりの笑顔――だったが、その顔は日焼けし、どこか疲れを滲ませているようにも見えた。

 

「おかえり、ヒナタ。怪我はない?」

 

「はい。無事です。……ちょっと日差しが強くて、焼けちゃいましたけど」

 

そう言って首元を軽く掻いたヒナタのシャツの隙間から、うっすらと女性用水着のラインのような日焼け跡が見えた。

 

「……あれ? ヒナタ……その、水着の跡……」

 

「ああ、言ってなかったっけ?」

 

ヒナタはさらりと言った。

 

「僕、男女どっちにもなれるよ?」

 

頭が真っ白になった。

 

これまでに、何度も、二人で夜を明かしたことがあった。

何の疑問も抱かなかった、同じ部屋、同じ空間。

そして今、それが根底からぐらついた。

 

「……まさか、知らなかった?」

 

「いや……その……知ってたような……気が……」

 

言葉が出てこない。

 

そこに、ちょうど教授が現れた。

 

「おお、ヒナタくん。ちょうどよかった。朝から動き通しで腹も空いただろう。どうだ、久しぶりに一杯やらないか?」

 

「奢りですか?」

 

「もちろん」

 

「行きます!」

 

教授は笑い、僕の肩を軽く叩いた。

 

「お前も来るだろう? 顔が引きつってるぞ」

 

「……ええ、まあ。行きますよ」

 

そのまま三人、霧の中を歩いていった。

 

アーカムの街は今日も平穏だった。

だがその下には、確かに何かが沈んでいる気がしてならなかった――。

 

スピークイージー『ベローズ・ホール』の重い扉をくぐると、昼なお暗い店内に燻した木材と安酒の匂いが立ち込めていた。

壁際に控えめな明かりが灯され、奥のカウンターでは見覚えのあるバーテンダーが静かにグラスを磨いている。

 

教授と僕、それにヒナタの三人は、カウンターに並んで腰を下ろした。

 

「じゃあまずは乾杯といこうか。ヒナタくん、お疲れさま」

教授が手を挙げて合図すると、バーテンダーが小さく頷いて酒を注ぎ始めた。

 

「ありがとうございます。……水中作業だったので、ちょっと喉が渇いてまして」

ヒナタは軽く笑って受け取ったグラスに口をつける。今日は擬態を解いておらず、小柄な少年の姿のままだ。

 

教授が目を細めて問いかける。

「ところで、例の標本、どこで捕まえたんだい? 興味深くてね」

 

「インスマスから少し離れた海岸の方です。港からは離れていたので、人の目も少なかったですね」

ヒナタはぽつぽつと話し始めた。

 

「朝方、泳いでインスマスの近くまで行って、岸の岩場に隠れて様子を見ていたら……いましたよ。隙だらけのが2体」

 

「ギョジンを?」

 

「ええ。気配も鈍くて……ちょっと拍子抜けでした。髪を異形化して、ざばっと海に引きずり込んでから、騒がれないように首を折って……」

ヒナタはあっさりと語るが、その内容は到底“人間の作業”ではない。

「それから2体とも腕で抱えて、ちょっと離れた町まで泳いで戻って、用意しておいた車に積んでアーカムまで」

 

教授は思わず「それで疲れていないとは……」と呆れたように笑った。

 

一方で、僕はヒナタの話を聞きながら、目の前のグラスに視線を落としていた。

 

(泳いで、首を折って、抱えて……それを何の感慨もなく話せるあいつは――)

 

正直、僕は驚きもしなかった。

これまで何度も、ヒナタの怪力や妙な勘の鋭さ、時おり人間離れした言動に触れてきた。

一緒に講義を受け、一緒にレポートを徹夜で仕上げ、時には家に泊め合うほどの仲。

 

けれど――

 

それでも、あの水着跡の衝撃だけは、いまだに整理できていなかった。

 

ヒナタが神話生物であることよりも、男か女かも曖昧だった存在が、まさか“女性”でもあると知ったことのほうが、ずっと――ずっと、僕にとっては大きな衝撃だった。

 

(……いったい、俺はヒナタの何を見て、何を信じてたんだ?)

 

そんな問いが頭の中をぐるぐると巡る中、ヒナタは何事もなかったように次の注文をしていた。

 

「すみません、サイダーもらっていいですか? 甘いやつ。あ、それと、ピクルスかなんか軽いおつまみもあると嬉しいです」

 

バーテンダーが「了解」と返し、グラスと皿を準備する間、僕はそっと深呼吸した。

ヒナタは、変わらず僕の友人だった。

 

人間じゃなくても。

男女の区別があいまいでも。

あいつは、僕の隣にいる。それが、事実だった。

 

---

 

衝撃の真実と共に主人公の性癖がねじ曲がりました。

 

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