霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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番外編:「……ただし、一つ条件がある」

 三月の終わり、西アーカム連邦禁酒局の取調室は、外の春めいた日差しが嘘のように、冷え切った沈黙に支配されていた。

 

 「……さて、ペンドルトン君。君が『ただの大学生』として、この席に座っているとは思わないことだ」

 

 新任捜査官のヘンダーソンが、机越しに身を乗り出して睨みつける。その目は、獲物を追い詰めた猟犬特有の、濁った愉悦に光っていた。

 

 向かい側に座るアーサー・ペンドルトンは、仕立ての良いスーツの袖を気にする素振りを見せ、深く溜息をついた。

 

「ですから、何度も申し上げている通りです。私はカニンガム教授の講義を受け、そのフィールドワークに参加している熱心な学生に過ぎません。

……ああ、その椅子、もう少し柔らかいものはありませんか? 私の家では、犬の寝床でもこれよりマシなクッションを使っていますよ」

 

 アーサーの不遜な態度に、ヘンダーソンのこめかみがピクリと動く。

 

 禁酒局が今回、ペンドルトン家の令息をあえて拘束したのは、彼を「大学と裏社会の癒着」を示す決定的な弱みだと睨んだからだ。

名門の跡取りが、怪しげな酒を飲み、マフィアとつるんでいる

――その事実さえ突きつければ、難攻不落のカニンガム研究室に風穴を開けられる。

 

「言葉に気をつけろ、お坊ちゃん。我々が探しているのは君の家の犬の寝床ではなく、君の背後で糸を引いている老学者の犯罪証拠だ」

 

 ヘンダーソンは、アーサーの私物が入った証拠品袋から、一冊の古い革装の手帳を取り出した。それは使い込まれ、所々に奇妙な染みが付いた、アーサーが肌身離さず持ち歩いていたものだ。

 

「……ほう。中身を拝見したが、実に見事な暗号表だ。地名、時刻、そして『死体喰い』だのといった不気味な隠語の数々。

これがイレギュラーズとの密造酒取引の記録でないと、誰が信じるかね?」

 

 ヘンダーソンが勝ち誇ったように手帳を振る。

 

 アーサーの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。それは大切なコレクションを汚された不快感であり、同時に、目の前の「愚鈍な正義の代行者」に対する冷ややかな計算の光でもあった。

 

(……ああ、なるほど。この男は、これを犯罪の記録だと思い込んでいるのか)

 

 アーサーの脳裏で、急速にロジックが組み上がっていく。

 

 この手帳に記された「噂」の数々は、彼がアーカムの古本屋や酒場の酔っ払い、そして禁忌の文献から地道に集めた、怪異のデータベースだ。

その多くは命の危険が伴うため、「港近くの古墓地」を除いて、実地検証ができていない。

 

(僕一人では、もし『本物』がいた場合、記録を遺す前に胃袋に収まってしまう。だが、彼らならどうだ?

国税を注ぎ込んだ最新の銃器を持った連邦捜査官たちが、僕の代わりにこの危険な検証作業を引き受けてくれる上に、国営組織だから報告書まで仕上げてくれる……ありだな)

 

 それはアーサーにとって、抗いがたい魅惑的な提案に思えた。

 

「……捜査官さん。どうやら、私の負けのようですね」

 

 アーサーは突如、殊勝な面持ちで項垂れてみせた。

 

「その手帳には、僕がこれまで心血を注いできた『秘密』がすべて記されています。

……ええ、認めましょう。そこにある地名に行けば、貴方たちが求めている『人智を超えた何か』に、必ず出会えるはずです」

 

 ヘンダーソンの顔に、卑俗な勝利の笑みが浮かぶ。

 

 アーサーは心の中で、カニンガム教授なら今の自分を「実に賢明で、かつ救いようのない好奇心の奴隷だ」と評するだろうと考え、愉快な気分を抑えるのに必死だった。

 

「いいでしょう。その手帳、貴方に差し上げます。

……ただし、くれぐれもご注意を。特にその『港近くの古墓地』には物騒な方達が多いので」

 

 アーサーの慈悲深い忠告を、ヘンダーソンは「往生際の悪い脅し」としか受け取らなかった。彼は手帳を乱暴に懐へ仕舞い込むと、同僚に向かって鋭く呼びかけた。

 

「野郎ども、準備しろ! 今夜、アーカムの闇に潜む『怪物』の正体を拝ませてやる!」

 

 取調室を後にする捜査官たちの足音を聞きながら、アーサーは背もたれに深く身を預けた。

 

---

 

 深夜二時。

 

 西アーカムの港に近い古墓地は、潮騒と混じり合う不気味な静寂に包まれていた。

 

 海から流れ込む湿った霧が、苔むした墓石の輪郭をぼやけさせ、空に浮かぶ三日月が、枯れ木を巨大な鉤爪のように投影している。

 

「……静かなものだな。マフィアどもの溜まり場にしては気配がなさすぎる」

 

 ヘンダーソンは、愛用のウィンチェスター・ライフルを握り直し、隣を歩く同僚のケインに囁いた。

彼らの背後には、同様に装備を整えた六名の捜査官と課長が、神経を尖らせて後に続いている。

 

 彼らが狙いを定めたのは、アーサーの手帳に『死体喰いの怪物を目撃。夜間の立ち入りは非常に危険』と赤字で記されたエリアの中心部だった。

 

「課長、見てください。あの地下墓所(カタコンベ)の入り口……扉が壊されています。

あそこが密造酒の隠し場所でしょう」

 

 ケインが指差す先、一段と巨大な石造りの廟が、暗い口を開けていた。

 

 ヘンダーソンは確信した。この先に広がる地下迷宮こそが、法の手を逃れ続けたイレギュラーズの拠点に違いない、と。

 

「よし、踏み込むぞ。抵抗する奴は容赦するな」

 

 課長が合図を出し、捜査官たちが懐中電灯を点灯させた。強力な光が地下への階段を貫いた、その刹那だった。

 

 ――ギィ、と。

 

 古びた扉の軋みとも、腐った肉が擦れる音ともつかぬ音が、足元からではなく「頭上」から響いた。

 

「おい、今の音は……」

 

 最後尾にいた捜査官が上を向こうとした瞬間、闇の中から「それ」が降ってきた。

 

 ゴムのように弾力のある、不気味なほど白い皮膚。犬に似た歪な顔立ちに、蹄を思わせる足首。

そして何より、闇の中でも爛々と輝く、知性と飢餓が同居した瞳。

 

「アッ、ガ……ッ!?」

 

 悲鳴を上げる暇もなかった。怪物の鉤爪が捜査官の肩に食い込み、凄まじい脚力で彼を墓石の裏へと引きずり込んでいく。

 

 直後、静寂を切り裂いたのは、骨が砕ける「メキメキ」という鈍い音と、生身の人間が発するものとは思えない絶叫だった。

 

「撃て! 撃てえぇ!!」

 

 課長が半狂乱になって叫び、ウィンチェスターが火を噴いた。

続いてトンプソン短機関銃の乾いた銃声が響き渡り、マズルフラッシュが闇を断続的に照らし出す。

 

 弾丸は怪物の肉を確かに捉え、確実に一体ずつ倒しているが、奴らは次々と現れる。

銃声に呼び寄せられるように、墓地の地面が次々と盛り上がり、不自然な角度で関節を曲げた異形たちが、地下から這い出してきているのだ。

 

「化け物だ! 密造者なんていない、ここは本当に化け物の巣だ!」

 

 ケインが叫びながら後退するが、背後の闇から伸びた細長い腕が、彼の足首を掴んだ。

「うわあああ!」という悲鳴と共にケインが転倒し、複数の怪物が彼に群がる。

 

「ケイン! クソッ……来るな、この化け物め!」

 

 ヘンダーソンは近距離から怪物の顔面に銃弾を叩き込み、一瞬の隙を作ってケインの腕を掴んだ。

 

 怪物の鉤爪に抉られたケインの脚からは鮮血が噴き出しており、他の捜査官二人も、腕や脇腹を深く引き裂かれ、血の海に沈みかけていた。

 

「総員退却! 怪我人を担げ! 急げ、車まで走るんだ!!」

 

 地上のパワーバランスも、連邦局の権威も、この深淵の住人の前では無意味だった。

 

 ヘンダーソンたちは、倒れた同僚の死体を回収することすら叶わず、重傷を負って喘ぐ数名を肩に担ぎ、這々の体で墓地の外へと逃げ出した。

 

 背後からは、狂ったような甲高い笑い声――あるいは「食事」を再開した怪物の咆哮が、いつまでも追いかけてきた。

 

 三十分後。西アーカム警察署の入り口に、タイヤを悲鳴させながら二台の捜査車両が突っ込んだ。

 

 車から転がり落ちた捜査官たちは、泥と返り血にまみれ、衣服はズタズタに裂けていた。

ヘンダーソンは、血の気の引いた顔で負傷したケインを抱えながら、署内へと叫ぶように駆け込んだ。

 

「医者だ! 誰か、すぐに止血を……! それと、増援だ! 武器を、もっとデカい武器をよこせ!!」

 

 深夜の警察署内。騒然とする禁酒局の面々を、受付の奥で椅子に深く座っていた西アーカム警察のベテラン巡査が、感情の消えた目で見つめていた。

 

 彼は慌てることもなく、使い古されたライフルを傍らに引き寄せると、ゆっくりとコーヒーを一口啜った。

 

「……ようやく、この街の『裏側』を知ったようだな、エリートさんよ」

 

 その落ち着き払った、どこか哀れみすら含んだ視線に、ヘンダーソンは言葉を失った。

 

「なんだ……その目は」

 

 ヘンダーソンは、止血帯をケインの脚に巻き付けながら、呻くように声を絞り出した。

目の前の巡査の冷淡な態度は、仲間を失い、恐怖に震える自分たちへの侮辱にしか思えなかった。

 

「化け物がいたんだ! 墓場の下から、犬のような顔をした……人間じゃない何かが!

我々は三人も殺られたんだぞ!」

 

 叫ぶヘンダーソンの横で、禁酒局の課長もまた、青白い顔で署内の壁に背を預けていた。

だが、署内を行き交う西アーカム警察の署員たちは、騒ぎ立てることもなく、ただ事務的に救急箱を運び、禁酒局の面々に毛布を渡した。

その誰もが、まるで「よくある交通事故」にでも対応するかのような、奇妙に冷え切った静けさを纏っている。

 

 ベテラン巡査は立ち上がり、ヘンダーソンの前に歩み寄ると、その震える肩に分厚い手を置いた。

 

「驚くのも無理はない。あんた方からすれば、俺たちは引き金の軽い異常者の集まりに見えていたんだろう?」

 

 巡査の問いに、ヘンダーソンは言葉に詰まった。

事実、州都から来た新任たちの間では、西アーカム警察は「不審者を見つければ警告もなしに撃ち、インスマスでは軍と共に街一つを焼き払った狂気的な集団」だと蔑まれていたからだ。

 

「……正直に言おう。狂っていると思っていた。だが、間違っていたのは俺たちの方だ」

 

 課長が、震える手で顔を覆いながら呟いた。

 

「あんなものが、この街の暗闇には潜んでいるのか。

……謝罪させてくれ。君たちの暴力には、それ以上の正当な理由があったんだな」

 

 その率直な吐露を聞き、巡査の表情がわずかに和らいだ。

彼は周囲の署員たちを見渡し、自嘲気味に笑った。

 

「知らなきゃそう見える。仕方のないことさ。

……俺たちだって、最初からこうだったわけじゃない。

だが、この街の『深淵』を一度覗いちまえば、誰もが安全装置を外して歩くようになる」

 

 それからの数時間は、異様な光景だった。

昨日まで互いを汚職警官と冷徹な役人として睨み合っていた男たちが、怪物の解剖学的特徴や、有効な銃弾の口径について、戦友のような真剣さで語り合い始めたのだ。

 

「いいか、エリートさん。あの手の化け物は、密造酒よりもずっと質が悪い。奴らには法も、取引も、下手すりゃ並の銃も通用しないからな。

……あんた方の捜査リストを書き換えるんだな。この街で一番追いかけるべきは、酒じゃない。化け物共だ」

 

 ヘンダーソンは、巡査から手渡された熱いコーヒーを啜り、ようやく人心地ついた。

 

 自分の懐にあるアーサーの手帳。その重みが、今は違って感じられた。これは単なる犯罪の証拠ではない。

この西アーカムという狂った土地の危険地帯を記したガイドブックなのだ。

 

「……課長。密造酒の摘発は、当面『面目が保てる程度』に留めましょう。

あんな化け物共を放っておくわけにはいきません」

 

 ヘンダーソンの進言に、課長は力強く頷いた。

 

---

 

 翌朝、朝靄に包まれた禁酒局の待合室で、アーサー・ペンドルトンは最後の一口の紅茶を飲み干した。

 

 扉が開き、現れたのは昨夜の勇猛さは微塵も消え失せ、顔中を包帯と憔悴で覆ったヘンダーソンと課長だった。

彼らはアーサーの前に立つと、帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。

 

「……ペンドルトン君。昨日の非礼を詫びたい。君の手帳は、犯罪の証拠などではなかった。

この街の『真実』を記した、重要な記録だった」

 

 ヘンダーソンの言葉に、アーサーは口角をわずかに上げた。

 

「ご理解いただけたようで何よりです。

……それで、実地検証の結果はどうでしたか?」

「地獄そのものだったよ」

 

 課長が苦渋に満ちた声で答える。彼は手帳を恭しくアーサーに返却し、言葉を続けた。

 

「我々は君を解放する。そして今後、カニンガム教授への執拗なマークも取り下げることを約束しよう。

……ただし、一つ条件がある。今後も君が収集する『噂』を、我々や警察に共有してほしい」

 

 アーサーは手帳の感触を確かめながら、あえて渋るような素振りを見せた。

 

「教授たちは平穏を好む方々です。協力するとなれば、彼らの自由を法的に保障していただく必要がありますが?」

 

 その時、横から割って入ったのは、昨夜のベテラン巡査だった。彼は禁酒局の面々に向け、念を押すように言った。

 

「連邦さん、西アーカム警察(うち)からも頼む。

カニンガム教授は、マフィアを通じた独自の情報網で怪物の発生をいち早く察知し、こっそり俺たちに流してくれる貴重な『窓口』なんだ。

あそこを突っついて潰すのは、西アーカムの平和をドブに捨てるのと同じことだぜ」

 

 禁酒局の課長は一瞬逡巡したが、昨夜見た「化け物」の悪夢のような光景を思い出し、即座に決断した。

 

「……承知した。カニンガム研究室は『最優先監視対象』から『重要情報源』に切り替える。

酒の摘発など、あの化け物どもの驚異に比べれば些末な問題だ」

 

 こうして、アーカムのパワーバランスは密かに、そして劇的に書き換えられた。

 

---

 

 数時間後、ミスカトニック大学西アーカム分校の研究室に戻ったアーサーは、待ち構えていた教授と○○○、そしてヒナタの前で、手に入れたばかりの「通行許可証」を誇らしげに掲げた。

 

「教授、朗報です! 禁酒局の面々もようやく『賢明』になりましてね。

今後は彼らも警察と共に西アーカムを掃除し、僕たちの背後を公権力が守ってくれることになりました!」

 

 報告を聞いた○○○とヒナタは驚いて紅茶が気管に入ったらしく、むせている。声も出ないようだ。

 

 カニンガム教授は万年筆を置き、窓の外でパトロールに励む禁酒局の車両を引きつった顔で眺める。

その荷台には、没収した酒樽ではなく、明らかに「対怪異用」と思われる重武装の装備が積み込まれている。

 

「……アーサー君……一体何が起こってそんな事になったのかい?」

 

 三月の風が、研究室の窓を静かに叩いていた。

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