霧の街のヒナタ   作:下駄ロボ

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それが私の懸念だ

 1927年6月。

 

 アーカムの街角には、蓄音機から流れるチャールズ・リンドバーグの快挙を祝うラジオ放送が響き渡っていた。

「翼の生えたアメリカ」の象徴がパリに降り立ってから、街の熱気は冷めることを知らない。誰もがこの国を無敵だと信じ、終わることのない黄金時代の絶頂に酔いしれていた。

 だが、その熱狂を一段低い視点から見つめる○○○と、少年の姿に擬態したヒナタにとって、目の前の現実は決して「輝かしい」ものではなかった。

 

「……ねえ、○○○。このイチゴ、値段の書き間違いじゃないよね?」

 

 市場の八百屋の軒先で、ヒナタが指差した木箱には、例年の倍近い値札がつけられていた。

 ○○○は眉をひそめ、店番をしている中年の店員に声をかけた。

 

「随分と強気な値段だね。今年は豊作だって聞いていたけど?」

「ああ、豊作さ。だがな、収穫する奴がいねえんだよ。一昨年にあの『イエロー』共を一掃して追い出した報いが、今になって一気に来たんだ」

 

 店員は、リンドバーグの快挙を報じる新聞の隣に置かれた、別の紙面を忌々しげに叩いた。そこには、日本政府が日系移民の行方について再び米国政府へ説明を求めたという、小さくも不穏なニュースが載っている。

 

 ○○○は何も言わずに新聞のその見出しを見つめた。

 一昨年、日本人達が「人外」であることがバレた際、大使館からの抗議はハリウッドのロビー活動と政界の都合によって、まるで存在しなかったかのように報道すらされずに黙殺されていたらしい。

だが、アメリカ中で大勢の日本人が失踪し、全米各地のチャイナタウンで食人レストランが見つかった以上、日本政府からの人外報道への抗議に加えて失踪事件への説明要請は米国政府がもはや「無視して躱す」ことができないレベルの外交問題へと膨れ上がっていた。

 

「農場は代わりの算段も立てずに、ただ不気味だからって追い出したんですか?」

 

 ヒナタが新聞の内容に触れず、店主に呆れたように呟く。人々が空を見上げ、銀色の翼に夢を見ている足元で、この国の「土台」を支えていた供給システムは、自ら抜き取った歯車によって静かに、だが確実に崩壊を始めていた。

 

 研究室に戻った二人は、カニンガム教授に市場の惨状と、加熱する外交問題について報告した。

 教授は万年筆を置き、窓の外で熱狂する学生たちの姿を冷ややかに眺めていた。

 

「当然だよ。何も驚くことではない」

 

 教授は机上の書類を整理しながら続けた。

 

「米国政府は日系人の人外報道や大量失踪を黙殺したが、『人肉レストラン』の発覚で無視できなくなった。

 更に、本来彼らが担っていた労働力を報道でパニックに陥った経営者達の短慮によって失った。

政府は日本が突きつける説明要請を重要視していないが、この国の供給システムが自壊していたことで混乱しているようだ。

そのせいでこんな報道が検閲されずに流れてしまった」

 

 教授は椅子に深く体を預け、眼鏡の奥で鋭い光を放った。

 

「経済、労働力、そして外交。それら全ての綻びが、今年に入って一気に露呈し始めた。

……笑っている場合でもないよ。○○○君、ヒナタ君、そしてカイ君。もし君たちが紙の資産を多く持っているなら、今のうちにすべて現金、あるいは金(ゴールド)に変えておきたまえ」

 

 あまりに具体的で、かつ唐突な忠告に○○○は呆気にとられたが、教授の目は揺るぎなかった。

 

「この宴は、まもなく終わる。次にくるのは、酒やパンも買えなくなるような暗黒時代(デプレッション)だ。

 この混乱の中で、政府の隠蔽や経営者達の経営努力もそろそろ限界だ。崩壊は一気に訪れるだろうね」

 

 教授が語る未来図には嫌な説得力があった。

 

 窓の外では、依然としてリンドバーグの「大西洋単独無着陸飛行」を讃えるファンファーレが鳴り響いている。しかし、この研究室の中だけは、数年後の冬に放り出されたかのような冷気に支配されていた。

 

「……とりあえず、僕とカイは紙の資産は現金しか持って無いので大丈夫です。○○○は?」

「大丈夫……っていうか、普通の大学生は現金以外持って無いだろ?」

 

 ヒナタが手元の空になったコップを見つめながら○○○に確認し、隣で静かにスコーンを咀嚼していたカイも、○○○の言葉に静かに頷いた。

 

「……地上の人たちが僕達込みで作り上げた『豊かさ』が崩れるなら、原因の一端を担った僕たちのような存在は、真っ先にその怒りの矛先に……ならなさそうだね。

ほぼ死んだと思われてる上に残りのチャイナタウンに今矛先にされてる人達がいるし」

 

 ○○○は、教授が広げた経済指標のメモを食い入るように見つめた。そこには、過剰生産に陥った製造業の数字と、労働力を失って荒廃しつつある農業生産指数の反比例が、予測込みで記されていた。

 

「言われて見れば、ヒナタやカイみたいな器用な重機じみた労働者前提のビジネスから、その労働者を追い出したら立ち行かなくなるのは当たり前ですね、教授。」

 

 教授は万年筆を胸ポケットにしまい、深く溜息をついた。

 

「……そうだとも、今のうちにリュウグウ側の同胞たちにも伝えておくんだ。

……そういえば、彼等は海底都市での生活の為に資産は全て物資に変えてたから心配要らなかったな……」

 

 1927年6月。人々が黄金の夢に浮かれ、青空の向こうにある無限の可能性を信じていたその夏。

 文化人類学研究室の一行だけは来るべき大恐慌と外交的破綻という暗黒の季節に向けて、静かに準備を始めるのだった。

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