天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
部屋の中は、午後の光がカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
窓際のテーブルには白いクロスが敷かれ、その中央には小ぶりのケーキと、三人分のティーカップが並んでいる。
ヴァリウスは椅子に背を預け、俺の向かいで腕を組んだまま無言。
その視線はちらちらとルミナへ向けられている。
無理もない。彼女の挙動は、今の俺たちからすれば珍しいくらい初々しかった。
ルミナはケーキを見つめたまま、固まっていた。
視線は皿の上の白いクリームに吸い寄せられているが、手を伸ばそうとはしない。
その銀色のフォークを握ったまま、どう扱っていいのかわからない…そんな戸惑いが全身から伝わってくる。
「……ルミナ、食べたことないんだな?」
問いかけると、彼女は小さく瞬きをして、こくりと頷いた。
髪がふわりと揺れ、その横顔にはわずかな警戒と興味が同居している。
甘味なんて無縁だったのだろう。
俺はそっとフォークを手に取り、ケーキの端を小さく切り分ける。
ふわりと生地が沈み、白いクリームが少しだけ横に広がった。
その断面から、スポンジに染み込んだシロップの光沢がのぞく。
「口、開けて」
少し迷うだろうと思ったが、ルミナは俺の声に素直に従った。
小鳥のように小さく口を開き、俺を見上げる。
その仕草は妙に無防備で、心の奥で何かをそっと掴まれるような感覚が走った。
フォークをゆっくりと近づけ、唇の中へと運ぶ。
ルミナは一瞬、まるで毒を試すように小さく舌先で触れ――次の瞬間、ぱちっと瞳を見開いた。
「……!」
驚きと戸惑いが、そのまま表情に浮かんでいた。
甘さが衝撃だったのだろう。
慣れない刺激に、彼女はしばらくもぐもぐと噛みしめながら視線を落とす。
白い頬にわずかに赤みが差す。
その変化が、見ていて妙に微笑ましい。
「どうだ?」
問いかけても、返事はない。
けれど、その頬の膨らみ方と、時折こくこくと動く喉が答えだった。
味わおうとしている。甘味という未知の体験を、必死に受け入れようとしているのだ。
その様子を見て、俺は小さく笑った。
ヴァリウスさんは向かいから顎に手を添え、興味深そうに彼女を観察している。
まるで新種の小動物でも見ているかのような目だ。
だが彼なりの、悪意ではなく純粋な好奇心なのだろう。
しばらくして、ルミナは小さく息を吐いた。
その顔にはまだ甘さの余韻が残っていて、少し混乱しているように見える。
このままだと舌が甘味に支配されて、落ち着くのに時間がかかるかもしれない。
俺はティーポットに手を伸ばし、小さなティーカップに茶を注ぐ。
香りはやや柔らかいが、熱すぎないように少し時間を置いたものだ。
そこへ砂糖を一匙、そしてミルクを少しだけ垂らす。
白い渦がゆらゆらと広がり、やがて全体が淡いクリーム色へと変わった。
「これも、試してみろ」
カップを持たせるには少し不安があったので、俺が手で支えたまま、ルミナの口元へと運ぶ。
彼女は一瞬だけ俺を見上げ、それから唇をつけた。
啜る音が小さく響く。
温い液体が舌を包み、甘味と混ざった感覚を洗い流していくのだろう。
「……ん」
小さな声が漏れる。
ルミナは唇を離し、目を細めた。
先ほどまでの驚きと混乱が少し和らいでいる。
喉を通る茶の温かさが、彼女の緊張を解きほぐしていくのがわかった。
「甘さが、落ち着いたか?」
問いかけると、ルミナはまたこくりと頷いた。
言葉は少ないが、その反応は十分だ。
初めての甘味は衝撃だったに違いないが、こうして茶で整えてやれば、きっともう少し楽しめる。
その間も、ヴァリウスさんは腕を組んだまま観察を続けていた。
何も言わずに見ているだけだが、その目には細かい感情の揺れが隠れている。
「……ふむ。興味深いな」
唐突にヴァリウスさんが口を開く。
低く落ち着いた声だが、その眼差しはどこか探るようで、ルミナを見つめていた。
俺は思わず眉を寄せる。
「……何が、ですか?」
疑問が口をつく。
するとヴァリウスさんは、少し顎を引いて俺の方を見た。
「完全に一人の人間として存在している」
――完全に人間として存在。
その言葉に、俺の中でいくつかの疑問が渦を巻いた。
何故、俺が強く「ルミナはこの世界にいる」と意識しただけで、こんな変化が起きたのか。
「ヴァリウスさん、何故ルミナが……皆に見えるようになったのでしょうか?」
俺が尋ねると、ヴァリウスさんは一瞬だけ目を細め、すぐに視線を外した。
そして――わずかに指先を動かし、空気に揺らぎが走る。
(……!)
次の瞬間、声が直接、俺の頭の奥に響いた。
言葉は耳ではなく、意識に流れ込んでくる。
思念だけで会話できる魔法――か。
レイナも似たような術を使えるが、この滑らかさと安定感は桁が違う。
防音結果でも思ったが、やはり少し悔しい。
(リオ、お前がそう望んだからだ)
まず結論が、短く、確信を持って告げられた。
ヴァリウスさんは紅茶を口にし、ゆっくりと飲み下す。
(ルミナはお前の思念で在り方が変わる)
紅茶を置く音が、妙に静かに響く。
(お前が“自分にしかルミナが見えない”と思い込んでいたから、誰にも見えなかった)
ヴァリウスさんは目を閉じ、短く息を吐いた。
その仕草ひとつにまで、含みがある。
(そして――お前が“ルミナはこの世界に存在する”と強く思ったからこそ)
ゆっくりと目を開き、ルミナへ視線を向ける。
(その少女は、世界に認識されるようになった)
俺もつられてルミナを見る。
彼女は何も知らず、ケーキを頬張っていた。
フォークを口に運び、頬にクリームをつけたまま、どこか幸せそうに。
俺はそっと彼女のカップに茶を注ぎ足す。
あたたかな香りが立ちのぼり、甘味で火照った頬が少し落ち着くように見えた。
(何故……ルミナは、一体……)
思考の奥底で問いが浮かぶ。
その答えを、ヴァリウスさんは――
(……すまんが、言えん)
短い言葉だった。
だが、その声音には迷いがあった。
俺は彼の目を真っ直ぐに見据える。
(知っているんですね、ルミナの正体を)
ヴァリウスさんは黙って頷く。
(裏付けはまだないがな)
その一言に、胸の奥がざわついた。
つまり、推測の域ではあるが、彼の中ではほぼ答えが出ているということだ。
俺は目を閉じる。
思考の流れを整理しながら、息を整える。
(……裏付けが取れたら教えてくれる……そういうわけじゃなさそうですね)
返事はない。
だが、それが答えだった。
もし本当に教えるつもりなら、今の段階でそう言うはずだ。
ヴァリウスさんは沈黙を選んだ。
それはつまり、何らかの理由で真実を伏せる必要があるということだ。
目を開くと、ルミナがこちらを見上げていた。
口元に小さくクリームをつけたまま、不思議そうに瞬きをしている。
何も知らない――いや、何も思い出していないだけかもしれない。
その無垢な表情を見て、胸の奥で小さく疼く感情を押し殺した。
俺はティーカップを口に運び、温かな液体を喉に流し込む。
甘味と香りが、ほんの少しだけ心を落ち着けてくれる。
ルミナは、ちびちびと紅茶を口にしていた。
両手でカップを包み込むように持ち、唇をそっと触れさせる。
それは慎重というより、紅茶を飲むという行為そのものを噛みしめているように見えた。
窓から差し込む光に髪が淡く透け、まるでこの世界に生まれたばかりの存在のようだ。
(ルミナを……どうするつもりですか?)
俺はヴァリウスさんへ思念を送った。
目の前の少女が、極めて特異な存在であることはもうわかっている。
彼女がこの世界に現れた経緯も、その力の本質も俺には掴みきれていないが、魔法使いたちにとっては間違いなく垂涎の的になる。
研究、解剖、利用――そのどれもが現実味を帯びてしまう。
まして、ヴァリウスさんは王国一の魔法使いであり、国王陛下の親友の一人だ。
その立場からすれば、ルミナを“利用”するのは容易いはずだ。
(ヴァリウスさんは……全てが俺よりも上だ)
技術も、知識も、立場も、経験も。
俺が束になっても敵わない相手だ。
だが、それが――
紅茶を飲むルミナの姿を、一瞬だけ見る。
口元にカップの縁を触れさせ、小さく啜るその姿は、ただの少女だ。
穏やかで、守るべき日常の一部のように見える。
(だが、それがルミナを見捨てる理由にはならねぇ)
その瞬間――
「……聞こえてるぞ」
ヴァリウスさんが紅茶を口に運びながら、穏やかに言った。
一瞬、脳が空白になる。
俺は今、思念を送った覚えはない。
いや、正確には“送る意思”はなかった。
念話は、相手に意識して送らなければ届かないはずだ。
それが基礎的な仕組みだと、俺は知っている。
「……っ」
驚きと警戒が入り混じる。
俺の頭の奥に響いたのは、ヴァリウスさんの低い声ではなく、事実を突きつけるような冷静な響きだった。
(それなりの魔法使いになれば、念話相手の読心ができる)
そう、さらりと告げられる。
俺は言葉を返せなかった。
“それなり”なんて簡単に言うが、魔法に関する知識を持つ俺には、その技術がどれほど高度か理解できてしまう。
高度すぎて、常人なら一生かかっても到達できない領域だ。
「覚えておくと良い」
ヴァリウスさんは紅茶を口に含みながら、軽く釘を刺すように言った。
俺は歯噛みする。
完敗だ。
この人は、俺の心の奥底にまで踏み込み、その上で一切の力みを見せない。
圧倒的な差を感じる。
だが、引き下がる気はない。
ヴァリウスさんは、ふぅ……と小さく溜息を吐いた。
そして再び、思念が流れ込んでくる。
(お前の警戒は正しい)
その一言に、心臓がわずかに跳ねた。
やはり、ルミナは――。
(魔法使いにとって、ルミナは興味深いだろうさ)
彼の視線が、そっとルミナへ向けられる。
俺もつられて目を向ける。
小さくケーキを切り分け、また紅茶で口を潤している。
何も知らず、何も疑わず、ただ目の前のひとときを楽しんでいるように見える。
(だが――)
ヴァリウスさんの目が細められ、表情の奥にわずかな熱を宿す。
(俺はこの少女を害することが出来ない)
一瞬、その言葉の意味を測りかねた。
けれど、次の思念が決定的だった。
(絶対に)
強い響きだった。
理由は示されない。
根拠も説明もない。
それでも、その一言には妙な説得力があった。
何故かわからないが、胸の奥で「この人は嘘をついていない」と断言できた。
ヴァリウスさんの目は、ただの好奇心だけでルミナを見ているわけじゃない。
もっと深い何か――俺にはまだ知らされていない理由が、そこにある。
俺はカップを傾け、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
舌に広がる渋みと香りが、思考を少しだけ静めてくれる。
だが心の奥では、別の熱が静かに燃え続けていた。
ルミナを守る。
それは、俺が誰よりも強く望んでいることだ。
ヴァリウスさんがどう言おうと、その意志だけは揺るがない。
(……ヴァリウスさんがルミナを害する意思は無いと信じます)
そう心の中で確認しながら、俺は目の前のルミナに視線をやる。
彼女は相変わらずケーキをちまちまとフォークで切り分け、真剣な顔で食べ進めていた。
「……エドワール、国王陛下は?」
思わず口から出たのは、その名前だった。
人としてのエドワールさんは信じられる。あの気さくさ、飄々とした態度、妙に頼れる背中。
だけど――王としての彼はどうなんだ?
俺の胸の奥に小さな不安が残っている。
(エドワールさんを疑いたくなんてない)
でも、目の前の少女を見れば――
(この娘を守りたい)
例えそれが、王国の最高権力者を敵に回すことになっても。
ヴァリウスさんは、俺の問いを聞くや否や、片手で目を覆った。
長い指が額を押さえ、深い溜息とともに――
「……あいつはもっとありえん」
「は?」
予想外すぎる答えに、脳内が一瞬真っ白になる。
ヴァリウスさんはさらに続ける。
「そんなことをすれば王国が……終わる」
最後の一言とともに、わずかに肩が震えていた。
寒気か、それとも別の感情か。
俺は呆気に取られるしかなかった。
(そういえば……)
頭の片隅で、妙な記憶が蘇る。
――なんか遺言のようなことを言って、部屋を出て行ったエドワールさんの背中だ。
あのときは冗談だと思った。……冗談であってくれ。
「ヴァリウスさん、エドワールさんって……大丈夫ですか?」
その瞬間、空気が変わった。
ヴァリウスさんは沈黙した。
永遠のように長い沈黙だ。
時計の秒針が一回転するたびに、俺の不安がじわじわと膨れ上がっていく。
そして――
永遠にも感じられる沈黙が落ちた。
本当に永遠なんじゃないかと思うほど、ヴァリウスさんは何も言わない。
窓に視線を向け、わずかに口元が動いた――
「…………………………………大丈夫だろう…………………………たぶん」
「たぶんって何だぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
長い! 長すぎる!
考えた末の答えがそれか!?
俺は思わずツッコミを入れそうになり、テーブルに手をかけた。
だが――視界の端で、ルミナが小首をかしげて俺を見ている。
……危ねぇ。
ここで思いっきりテーブルを叩いたら、ルミナが驚くだろう。
俺は理性の全力を総動員して、拳を止めた。
そんなやり取りをしていると、ヴァリウスさんは窓の外に目をやった。
柔らかな光が差し込むはずの窓の向こうを、真剣な眼差しで見つめながら――
「……暴走したあいつを止められるのか……エドワール……」
その瞬間、俺の脳裏に――
爽やかな笑顔でサムズアップを決めるエドワールさんの姿が浮かんだ。
背景には意味不明なほど眩しい後光、そして風に揺れるマント。
……いや待て、なんでこんな場面でそんな脳内映像が流れるんだ俺。
「ごちそうさまでした」
俺の耳に、ルミナの声が届く。
見ると、彼女は小さな手を膝に置き、礼儀正しくお辞儀をしていた。
「……美味しかったか?」
「うん」
俺は現実逃避のように、その頭をそっと撫でる。
柔らかな髪の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。
ルミナが目をつむって受け入れる姿に癒されまくる。
ふと視線を横に向けると――
ヴァリウスさんは天を仰ぎ、両目を閉じていた。
その姿はまるで……黙祷。
「……もうやめてくださいよ、縁起でもない……!」
声をかけても、ヴァリウスさんは何も答えなかった。
ただ、天井の向こうにでもいるエドワールさんへ祈りを捧げているように見えた。
俺はそっとルミナの頭を撫で続ける。
――こうして、俺たちのティータイムは、妙な不安と笑いと共に幕を閉じた。
エドワールさんは死闘の準備をしています。