天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
背中の痛みがまだ残っている。
肺は焼けつくように熱く、呼吸一つまともに出来ない。
それでも俺は立ち上がった。
膝が震えているのは、肉体の限界のせいか、それとも心の奥底で感じている恐怖のせいか――自分でも分からなかった。
「……素晴らしい」
レオンの声が、静かに響いた。
俺は反射的に顔を上げる。
その口から出てきた言葉を疑うように、呆然と。
「……は?」
思わず声が漏れる。
汗で視界が滲んでいるせいではない。
確かに、あの男は今――俺を褒めた。
「剣の腕もそうですが」
その瞳は曇りなく、まっすぐに俺を射抜いている。
軽く、社交辞令のように流す眼差しではなかった。
「優れた判断」
呼吸が浅くなる。
胸の奥がざわつく。
彼は本気で言っている。
どこまでも真剣に。
「何よりも――心が強い」
俺の内臓を握り潰すような、そんな言葉だった。
正面から浴びせられた称賛に、身体が固まる。
信じられない。
俺が?
この化け物みたいな強さを持つ男に?
「……冗談でしょう」
声が震える。
かろうじて口を開いたが、皮肉でもなく、怒鳴りでもなく――ただ困惑だけが混じった声だった。
「言い過ぎですよ」
俺は顔を背け、荒い息を整えながら、言葉を吐き出す。
「俺は貴方に……手も足も出せてない」
真実だ。
俺の全力は、あの人の片手一振りに吹き飛ばされた。
足掻いても、工夫しても、一歩も動かせなかった。
格が違う。
どう言い繕っても、それだけは否定出来ない。
「……貴方が敵になれば」
頭の中に浮かぶのは、いつもの小さな影。
無邪気に笑う少女。
俺が守ると決めた存在。
「ルミナを……守ることは出来ない」
言葉にした途端、胸が重く沈んだ。
心臓を圧し潰されるような痛みが走る。
どんな理屈を並べても、この現実だけは変えられない。
その男が、俺を称賛するなんて――滑稽だ。
俺は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて俺を現実に繋ぎ止めてくれる。
(違う……俺は強くなんかない)
膝が笑う。
肩が震える。
心臓が喉を叩き続ける。
(俺はただ……足掻いてるだけだ)
越えられない壁を前に、剣を握り、立ち上がり続けているだけ。
それを「心が強い」と言うなら――それはきっと、慰めに過ぎない。
俺は視線を地面に落としたまま、何も言えなくなった。
返す言葉が見つからない。
喉の奥で、言い訳と怒りと情けなさが絡み合い、重く沈んでいく。
レオンは俺を見ていた。
その瞳は決して冷たくはない。
むしろ――悲しみに満ちていた。
「……そうですね」
短く呟いた声は、鋼ではなく、柔らかな紙のように脆く揺れていた。
次の言葉を紡ぐたび、その重みが俺の胸を圧迫していく。
「力があっても、より大きな力に圧し潰される」
静かに、けれど確かに。
彼は己の内に刻まれた現実を吐き出していた。
「そして……力があっても、欲しいモノが手に入るとは限らない」
俺の喉が詰まる。
さっきまで剣を振るっていた男の声とは思えないほど、弱々しい。
その瞳が伏せられ、影を帯びるのを俺は見た。
(……レオンさん)
俺は言葉を失った。
この人は――強い。
ただ強いだけじゃない。
俺とは比べものにならない、頂に立つ存在だ。
そのレオンが。
「力があっても無力だ」と告げている。
「……貴方は」
絞り出すように言葉を口にした。
どうしても届かないと思った相手――絶望を与えた存在。
だが違う。
目の前のこの男は、絶望を与えるのではない。
己もまた絶望に呑まれ、抗ってきた人間なのだ。
剣の軌跡から伝わってきた重み。
圧倒的な壁のような力の裏に隠された、無数の痛みと傷跡。
(この人も……戦ってきたんだ)
幾度となく、勝てない敵に立ち向かい。
守れなかったものを胸に刻み。
それでも剣を捨てずに歩いてきた。
だからこそ、彼は強い。
だからこそ、彼の言葉は、こんなにも重い。
俺は俯いた。
目を合わせることが出来なかった。
もし見てしまえば、自分の弱さと、この男の傷が同時に突き刺さる。
耐えられる自信がなかった。
拳を握りしめる。
爪が皮膚を破りそうになる痛みが、かろうじて俺を現実につなぎ止めていた。
(俺は……どうする?)
目の前に立つこの男は、俺を簡単に殺すことが出来るだろう。
だが彼はそうしなかった。
ただ、真実を告げただけだ。
「力があっても……」
その言葉が耳に残り、離れない。
力ではどうにもならない。
けれど――俺はまだ立っている。
そして、彼も。
中庭に吹き抜ける風が、沈黙を切り裂く。
訓練場の石畳には俺の足跡と、砕けた破片が散らばっている。
全てが、この瞬間の証だ。
俺は唇を噛みしめ、胸の奥に芽生えた言葉を飲み込んだ。
それを吐き出せば、この男の痛みに踏み込むことになる。
まだ――その資格はない。
だからただ、呟くことしか出来なかった。
「……貴方は」
それ以上、言葉は続かなかった。
レオンは俯いたまま、静かに沈黙を守っていた。
その姿は、強者の背中ではなく――苦しみを抱えた一人の人間に見えた。
俺の胸の奥で、重く鈍い痛みが響き続けていた。
「リオ」
不意に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。
俯いていたレオンが、こちらに視線を向けていた。
その瞳には、先ほどまでの悲しげな影ではなく、何か強い意志が宿っていた。
「はい」
思わず背筋が伸びる。
この男に呼ばれると、それだけで身構えてしまう。
「……僕には恩人が居ます」
静かな声だった。
だが、その一言には、彼の人生そのものが凝縮されているかのような重みがあった。
その声音に触れた瞬間、胸の奥にずしりとしたものが落ちる。
これは軽い思い出話ではない。生死を分けた、魂に刻まれた言葉だ。
俺は黙って耳を傾けた。
「失われる未来を、失った過去を取り戻してくれた」
淡々とした語り口。
だがそこには、確信があった。揺るがぬものがあった。
彼にとって、それは絶対に覆すことのできない真実なのだろう。
「運命に見放された僕とアンナを救ってくれたのです」
アンナ――その名が出た瞬間、俺は息を呑んだ。
理知的で、優しく、それでいてどこか脆さを抱えた女性。
彼女の存在を思い浮かべた途端、レオンの言葉の意味がより鮮明に突き刺さる。
彼は妻と共に、何か大きな絶望を背負ってきたのだ。
そして、その絶望を救った存在が確かにいた。
「それが……貴方が守りたい人なのか?」
気付けば、言葉が口を突いていた。
問いを投げる俺の声は、想像以上にかすれていた。
それほどまでに、彼の語る「恩人」という響きに胸を打たれたのだ。
この男にとって「恩人」とは、命を救ってくれた者以上の意味を持っているのだと。
計り知れない重み。
失われる未来を、失った過去を取り戻してくれた。
それは、誰にでも果たせることではない。
たった一人の存在が、彼とアンナにとって、どれほど大きな意味を持っているのか。
その比重は、俺が想像できる範疇を遥かに超えていた。
(……だからこそ、守りたいのか)
自分の命を懸けてもいいと思えるほどの存在。
誰に否定されようと譲れないほどの「大切な人」。
俺にとってのルミナと同じか、それ以上の重さを抱えているのだろう。
だから、彼は迷わず答えたのだ。
「恩人」と。
まるで、それだけで全てが説明できると言わんばかりに。
俺は言葉を失い、ただ彼の瞳を見つめた。
その眼差しに宿るものの深さに、どう返せばいいか分からなかった。
レオンは迷いなく頷いた。
その頷きは重く、揺るぎなかった。
まるで自らの全存在を肯定するかのように。
「……ルミナが、その人に害を、成すと?」
その問いを口にした時、自分の心が震えた。
信じたくない。そんなはずはないと、叫びたい。
だが、口から出た声は震えながらも、確かに相手に届いていた。
ルミナが――あの少女が。
俺の隣で笑い、泣き、時に怒り、時に甘えてくるあの娘が。
誰かにとって「脅威」となるのか。
心臓が強く脈打ち、喉が渇く。
頭では否定したいのに、レオンの真剣な眼差しが「事実」を告げているように思えた。
息を詰める俺を見据えながら、彼は口を開こうとしていた。
重い問い。
自分の口から出てしまった言葉に、内心で舌打ちした。
認めたくない。そんな未来など考えたくない。
だが――彼の真剣な眼差しに、否応なく現実を突き付けられる。
「その、可能性があります」
レオンの言葉は、刃物のように胸に突き刺さった。
彼はゆっくりと顔を上げる。
高い天井を仰ぎ見るその姿は、まるで見えない運命そのものを睨みつけているかのようだった。
静かなはずの訓練場が、その一言で急に冷たく感じられる。
空気が重く沈み、息が詰まりそうになる。
「ルミナという少女は、極めて特異な存在なのは僕にもわかります」
淡々と告げられたその声に、俺の背筋は冷たくなる。
彼は断じて、感情で物を言っているわけではない。
騎士として、王国を支える者として、冷徹な眼差しでルミナを見ている。
俺の脳裏に、ルミナの笑顔が浮かぶ。
積み木で遊びながら無邪気に笑った顔。
ケーキを口いっぱいに頬張って目を丸くした顔。
俺の袖を掴んで「一緒にいて」と訴える、不安げな顔。
(……そのルミナが、特異? 害を成す可能性……?)
理解したくなかった。
だがレオンの声には揺るぎがない。
まるで確信に裏打ちされた重さがあった。
彼が言うのなら、ただの噂話や杞憂では済まされない。
俺は唇を噛み、拳を強く握りしめる。
守りたいという思いが、胸の奥で強烈に膨れ上がった。
それでも、言葉にして返すにはあまりに衝撃が大きすぎた。
「……」
言葉が出ない。胸の奥に鉛を詰め込まれたみたいだ。
ただ黙って、レオンの次の言葉を待つしかなかった。
レオンの歯が鳴った。
ギリ、と強く食いしばる音。
「あの少女を知れば、多くの欲深き者を招く」
声が低く、怒りに震えている。
その拳がわずかに震え、白くなるほど強く握られているのが見えた。
「他者を傷つけ、奪うことに何の痛みも覚えない」
言葉の一つ一つが鋭く、俺の胸を突き刺す。
「獣にも劣る畜生共を……!」
憎悪。
そこに宿っていたのは、紛れもなく憎悪だった。
どうしようもない怒りと嫌悪。
(……見てきたんだ)
俺は直感する。
彼の憎しみはただの想像じゃない。
血と涙の果てに刻まれた実体験だ。
彼はきっと――守りたかったものを、奪われてきた。
だからこそ、彼は怒るのだ。
だからこそ、ルミナという存在が「引き金」になり得ることを恐れているのだ。
「リオ」
再び名前を呼ばれる。
俺は反射的に顔を上げた。
その瞳が、真っ直ぐ俺を射抜いた。
「貴方は――それでもルミナを傍に置こうと思うのですか?」
静かな問い。
だが、逃げ道はなかった。
真正面から突き付けられた刃のような問いだった。
心臓が跳ねる。
呼吸が浅くなる。
(……そうだよな)
分かっていたことだ。
誰かに、いつか必ず問われると思っていた。
そして今、ようやく真正面から問われたのだ。
――お前は、それでも彼女を傍に置くのか?
訓練場に呼吸だけが響いている。
俺は口を開けかけて、言葉を飲み込んだ。
軽々しく答えてはいけない。
これは、俺の覚悟そのものを試す問いだ。
拳を握りしめる。
唇を噛む。
胸の奥で、ひとつの問いが繰り返し響いていた。
――俺は、それでもルミナを傍に置こうと思うのか?
答えを出すのは、今しかない。
目を閉じる。
胸の奥で、ざわつくものがあった。
(……なぜ、俺はあの娘を傍に置こうとする?)
頭の中で問い返す。
思い返す。
あの夜。
幽霊のように現れた少女を拾った時、ただ目を逸らすことができなかった。
見て見ぬふりをすれば、胸の奥がざわついて、きっと眠れなくなる。
だから傍に置いた。
(正直、最初は寝覚めが悪くなると思った)
助けなければ後悔する。
放置すれば、一生まとわりつく悪夢になる。
ただそれだけだった。
だが――今は違う。
思い出す。
一緒に飯を食った時の、ぎこちないけど楽しそうな表情を。
俺にちょっかいをかけて、くすくす笑った声を。
(守りたいと思った。あの娘の未来を)
誰にも名前を呼ばれず、誰にも愛されず、ただ世界に置き去りにされてきた少女。
そんな人生を、俺は許せなかった。
(ひとりぼっちにさせたくないと思った)
ずっと孤独だったのだから、せめてこれからは違うように――と。
(幸せになって欲しいと願った)
飯を食って、遊んで、誰かと笑って。
そんな当たり前を、当たり前に享受できるように。
理由はいくらでも出てくる。
胸の奥に溢れるように、次々と。
けれど。
(違う……そうじゃない)
俺は自分の胸の内を深く探る。
彼女を守りたい、幸せにしたい――それは確かに本心だ。
だが、その奥に、もっと単純で、もっと素直な感情が眠っている。
(そういうことか)
俺は笑みを浮かべそうになった。
馬鹿らしいほどに、あっけない答えだった。
目を開く。
目の前に立つレオンの姿が映る。
真剣な眼差しで俺を射抜く、その強さと重さを正面から受け止める。
そして――胸を張った。
「俺は」
言葉を置くごとに、心臓が高鳴る。
「俺は、あの娘と一緒に居るのが楽しいんだ」
声が震えなかったのは奇跡だと思う。
胸の奥から、ただ真っ直ぐに放り出した言葉。
取り繕いも理屈もない。
ただ、それが真実だった。
頭の中に光景が溢れる。
彼女が初めて見せた笑顔。
遊んでいるときの無邪気な瞳。
互いにくだらない話で笑い合った時間。
(あの娘と一緒にいるのは楽しい)
それがすべてだった。
守りたい、幸せにしたい――その気持ちは確かにある。
だがそれすら、この「楽しい」という感情の上に積み重なっているに過ぎない。
「だから傍にいて欲しいと願った」
口にすると、不思議と胸が軽くなった。
俺はようやく、自分の本心に辿り着けたのだと実感する。
「共に歩んで行けたら……きっとワクワクすると思った」
俺は、ふっと息を吐いた。
胸の奥に渦巻いていた言葉は、思っていたよりもずっと単純で、肩透かしのようだった。
自分でも笑えてくる。
(……俺は、その程度の理由で、得体の知れない幽霊少女と一緒に居るのか)
呆れるように苦笑した。
もっと立派な理由を用意できれば格好がついたかもしれない。
「彼女のために世界を敵に回す」とか、「あの娘の幸福のために命を賭ける」とか。
そういう大義名分を並べた方が、騎士団の英雄に向けて語るにふさわしいのだろう。
だが、俺はそんな気取った言葉を吐けるほど器用な人間じゃない。
「遊んだり、飯食ったり、お喋りしたりさ」
口にしてみれば、驚くほど日常的で、他愛のないことばかりだった。
「たまに悪戯してきたりと」
脳裏に浮かぶのは、あの娘の小さな仕草。
俺の背後に忍び寄って、肩を突いてきたり。
真顔でとんでもないことを言って俺を慌てさせたり。
思い返すたびに、呆れるようでいて、心の底から笑えてしまう。
「ああ、短いけど過ごした日々は面白かった」
気づけば、自然と口元が緩んでいた。
一週間に満たない日々。
長い人生から見れば取るに足らない一瞬だろう。
それでも、俺にとっては確かに色濃く刻まれた時間だった。
「そんなもんだよ、俺の理由なんて」
肩を竦めて言う。
だが、言葉にした瞬間、それが揺るぎない真実だと心から実感した。
――それでいい。
俺は、ただ一緒に居たい。
ただ笑い合っていたい。
それが俺のすべてだ。
「そして」
呼吸を整え、瞳をまっすぐに据える。
今度は言葉に力を込める。
「それを奪おうとする奴が居るなら」
剣を握る掌に、自然と力が籠もった。
「戦うさ」
それは決意というより、当たり前の事実を口にしただけだった。
俺にとって彼女は特別だ。
だから、奪わせはしない。
脅かそうとするなら、相手が誰であれ立ち向かう。
沈黙が落ちた。
レオンは微動だにせず、ただ俺を見つめていた。
その眼差しに、圧力も敵意もない。
だが確かに重さがあった。
英雄と呼ばれる男の眼は、嘘も虚飾も見抜くように鋭い。
だが――俺の言葉に偽りがないことを悟ったのだろう。
「……」
やがて、レオンの瞳が柔らかく揺らいだ。
ほんの一瞬だけ、そこに影が差す。
それは哀しみか、それとも羨望か。
「……そうか」
その声は、風のように静かで、しかし確かに胸に響いた。
俺は息を呑んだ。
自分でも馬鹿げていると思う理由を、真顔で告げただけなのに。
けれど、レオンの眼差しは。
嘘はなく、侮蔑もなく。
ただ、羨望と憧れが混じった眼で俺を見ていた。
(……この人は)
思わず胸の奥がざわついた。
目の前にいるのは、騎士団が誇る若き英雄。
数えきれない修羅場を潜り抜け、多くの命を救ってきた男だ。
その彼が、今の俺の言葉を羨むように見ている。
それはあまりにも不思議で――同時に、重い現実を突きつけられる気がした。
けれど俺は、胸を張って立ち続けた。
俺は俺の言葉を、俺自身が信じている。
それだけで十分だ。
ありふれた幸せを守るために立ち上がれるのがリオです。
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