天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
白い世界に、微かな風の音が響く。
果てしない白。上下左右の境界さえ曖昧な、ルミナの精神世界。
先ほどまでの熱狂的な猫じゃらし合戦は、ステラの体力が尽きたことで一時の休息を迎えていた。
俺の視界の先では、ルミナとステラが新しい遊びに興じている。
「えい」
ルミナが小さな手で、どこからともなく取り出した柔らかそうなボールを投げる。
ポーン、と軽い音がして、白い放物線を描くボール。
「にゃっ!」
ステラが短い声を上げて、それを追う。
猫じゃらしの時の、あの物理法則を無視した超神速の動きとは違い、今のステラはとてものんびりとしていた。
トテトテ、という擬音が似合いそうな足取りでボールに追いつき、コロコロと転がるそれを前足でちょいちょいと突っつく。
そして器用に鼻先を使って、ルミナの方へ転がし返す。
「よしよし」
ルミナがそれを受け止め、また投げる。
キャッキャと笑うルミナと、楽しげに喉を鳴らすステラ。
平和だ。
先刻までの、バトル(猫じゃらしで)の緊張感が嘘のような、穏やかな時間が流れている。
俺は少し離れた場所で、その光景を眺めていた。
隣には、レオンハルトが立っている。
彼もまた、腕を組みながら二人の遊びを見守っていた。その横顔は鉄仮面のように無表情だが、纏う空気はどこまでも凪いでいる。
不思議な男だ。
ただ立っているだけで、周囲の空間そのものが彼に敬意を払っているかのように静まり返る。
これが英雄のオーラというやつだろうか。
ふと、脳内に直接響くような感覚があった。
音ではない。言葉としての形を持った意思そのものが、水が砂に染み込むように意識の中へと入ってくる。
『リオ、俺の方を向かずに心の中で話してくれ』
レオンハルトの声だ。
俺は反射的に隣を見そうになったが、ギリギリで踏みとどまった。
その言葉に従い、視線をルミナたちに固定したまま、意識を隣のレオンハルトに向ける。
念話、じゃない。魔力を使った通信とも違う。
この精神世界ならではの、魂と魂の直接的な接続のような芸当かもしれない。
『……ああ、どうしたんだ?』
心の中で問いかける。
思考だけで返事をするのは奇妙な感覚だったが、すぐに慣れた。
彼の声色は、先ほどまでの穏やかなものとは異なり、硬質で深刻な響きを帯びていた。
まるで、これから戦場に赴く戦士のような、張り詰めた緊張感。
『お前に伝えないといけない事がある』
間髪入れずに、次の言葉が送られてくる。
『管理者……ステラと外国について話をしていたな』
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
そうだ。
少し前のことだ。ステラは言っていた。女神が何かした可能性は大いに有り得ると。
この大陸で、パルシリアを除く周辺諸国に見られる異常な腐敗、狂気的なまでの悪意。
それらが自然発生的なものではなく、何者かの手によって意図的に誘導されているのではないかという懸念。
俺は無意識に喉を鳴らした。
嫌な予感がする。
彼の口調から、それが単なる世間話ではないことがひしひしと伝わってくる。
『お前の懸念は正しい』
レオンハルトの思念が、俺の脳裏に冷たい楔(くさび)を打ち込んだ。
『あの女神の遺した負の遺産が暗躍している』
思わぬ所から、明確な答えが突きつけられた。
俺は息を呑む。
推測が確信に変わる瞬間特有の、冷たい戦慄が背筋を走り抜ける。
負の遺産? 暗躍?
『……何だって?』
俺の動揺をよそに、レオンハルトの思念は淡々と、しかし決定的な事実を告げる。
『セラフィア聖国、べルドリア共和国、ガルザーク連邦、アーカディア学術都市』
大陸地図が脳内に浮かび上がる。どれも、列強と呼ぶべき大国ばかりだ。
『これらを女神が作り出した仮想神格が支配している』
『本来はまともな国だったんだ……!』
俺は絶句した。
言葉が出なかった。
挙げられた国名は、確かにそれぞれに問題を抱えていることで有名だ。
狂信と偽善が蔓延し、異端狩りという名目で無実の民を火刑に処す、堕落しきったセラフィア聖国。
金と欲望が全てを支配し、貧者は路傍の石ころ以下に扱われるべルドリア共和国。
力こそが正義とされ、弱肉強食を国是として掲げる軍事国家ガルザーク連邦。
そして、知識の探求のためならば倫理を無視し、人体実験すら厭わぬマッドサイエンティストの巣窟、アーカディア学術都市。
それらの国が腐敗しているのは知っていた。
だが、それが「仮想神格」なる存在によって支配されている?
本来はまともだった国が、神の偽物によって歪められ、変質させられたというのか?
仮想神格……つまり、あの女神が作り出した代行者。
ありえない。
そこまでの規模で、世界は侵食されていたのか。
『待ってくれ!』
俺は叫び出しそうになるのを必死に堪え、思念を送る。
動悸が激しくなる。冷や汗が止まらない。
『何でそんな面倒な事をあの女神がするんだ!?』
『その、仮想神格とやらを作り出してまで!?』
理解が追いつかない。
なぜわざわざ国の中枢に入り込み、長い時間をかけて腐敗させるような真似をする?
『女神は自由と引き換えに力を殆ど失った筈だ!』
『一つの国家に寄生するだけならまだしも、複数の国家をそんな手間ひまかけて支配する理由はあるのか?』
そうだ。
今まで聞いてきた女神像――傲慢で、自分勝手で、人類になどおもちゃでしかない存在。
そんな奴が、これほどの手間をかけるには、よほどの理由があるはずだ。
全盛期の力があるなら指先一つで世界を変えられるかもしれないが、今の女神は力を失っているはずだ。
ただの暇つぶしや悪意だけで、ここまでの壮大な陰謀を巡らせるとは思えない。
何か、明確な「利益」がなければ。
レオンハルトが一拍、間を置いた。
その沈黙が、次に告げられる真実の重さを物語っていた。
まるで、口にするのも憚(はばか)られるような、禁忌に触れるかのような間。
『……ヴァージニアを手に入れる為だ』
『……は?』
思考が停止する。
真っ白になる。
ヴァージニア。
俺たちが挑んでいる、童貞と処女しか入れない神域ダンジョン。
業魔がひしめき、人類の脅威となっている場所。
その正体は、女神の「神体」で作られた、世界の浄化装置だ。
世界中の穢れを吸い上げ、濾過し、浄化するシステム。
……女神の神体?
ヴァージニアを手に入れる?
その言葉の意味を反芻した瞬間、俺の胃の腑から強烈な吐き気がこみ上げてきた。
脳裏に、最低最悪なロジックがカチリと組み上がる。
パズルのピースが、おぞましい絵柄を描いて嵌まっていく。
『ヴァージニアは本来は表に出てはならない存在だ』
『だが、機能限界に達したら地表に出てくる仕様になっている』
レオンハルトの言葉が、俺の推測を裏付けていく。
そうだ。ヴァージニアが地上に現れたのは、内部に溜め込んだ業魔のキャパシティが限界を超えたからだ。
浄化が追いつかなくなり、溢れ出しそうになったからこそ、地上に顕現して排出しようとしているんだ。
『奴はどんな手を使ったか知らんがそれを知った』
『あの女神は″不当に奪われた力″を取り戻す為に、効率的に負の想念に染まった魂を送り込む事にしたんだ』
ああ、当たってしまった。
最悪の予想が、現実のものとなってしまった。
俺は眩暈を覚えた。
立っているのがやっとだった。
視界がぐらりと歪む。
女神は、自分の「元・身体」であるヴァージニアを取り戻したい。
だが、ヴァージニアは普段は外部から手出しができない。
ならば、どうするか?
壊せばいい。
内側からパンクさせればいい。
そのために必要なのは、大量の、極めて質の悪い「穢れ(業)」だ。
通常の死や、自然の摂理の中で生まれる穢れではない。
憎悪、怨嗟、絶望、苦痛、狂気。
そういった、魂を芯まで腐らせるような猛毒。
だから、国を腐らせた。
戦争を起こさせ、差別を助長し、欲望を肥大化させ、悲劇を量産した。
平和な国では生まれないような、ドス黒い感情を効率的に生産するために。
そこで死んだ魂は、怨嗟と絶望に染まり、どす黒い「業」となってヴァージニアへと流れ込む。
あたかも、排水溝を詰まらせるために、わざと大量のヘドロや汚物を流し込むように。
『……仮想神格共は女神に成り代わり神になろうとしている』
『仮想神格とは言え、あの女神から作られた……言わばステラの姉妹的存在だ』
『俺がステラを警戒していたのもそれだ』
俺は、ボールを追いかけるステラの姿を盗み見た。
無邪気に走り回る小さな背中。
フワフワの尻尾。愛らしい鳴き声。
彼女もまた、女神から分かたれた一部。
もし彼女が「そちら側」の意思を持っていたとしたら、あるいは洗脳されていたとしたら。
レオンハルトが警戒して当然だ。
世界を地獄に変えるための鍵になり得る存在なのだから。
俺は、怒りと絶望で震える拳を握りしめ、爪が食い込む痛みを感じながらレオンハルトに問いかけた。
だって、それじゃあ……。
『おいおい、まてよ、あんまりだろ……』
俺の心の声は、泣きそうに震えていた。
『今まで大勢の人があいつらのせいで苦しめられてきたのって』
『ヴァージニアを地表に出すために行われたって事か?』
噂や人伝でしか知らないが、酷い話ばかりだ。
貴族の玩具として扱われ、尊厳を踏みにじられた奴隷たち。
狂った研究のために、生きたまま切り刻まれた子供たち。
理不尽な戦争で家を焼かれ、家族を殺された人々。
彼らの苦しみは、涙は、叫びは、全て「ゴミ」だったのか?
ただダンジョンの蓋をこじ開けるためだけの、効率的な「汚染物質」の生成プロセスだったというのか?
彼らの人生に意味はなかったのか?
ただの燃料? ただの廃棄物?
『ははは、冗談キツイよレオンハルト』
『……嘘、だろ?』
酷すぎる。
あまりにも、人の命を軽んじている。
そこから産まれた怨嗟や復讐心すらも、女神たちの掌の上で踊らされていた計算式の一部でしかないなんて。
神の視点で見れば、人間など蟻と同じだというのか。
嘘だと言って欲しかった。
「考えすぎだ」「ただの冗談だ」と、いつもの無愛想な顔で笑い飛ばして欲しかった。
彼がそんなたちの悪い嘘をつく人間ではないとわかっていても、縋らずにはいられなかった。
『…………』
返ってきたのは、沈黙。
重く、苦い沈黙。
言葉よりも雄弁な、肯定の静寂。
レオンハルトが、静かに言葉を継ぐ。
『かつて、パルシリアの前に国があった事は知ってるな?』
『ああ……建国王エドワードと始まりの騎士レオンハルトが率いて打倒した』
『その後にパルシリア王国を作ったんだよな』
歴史の授業で習ったことだ。
かつてこの地には、民を虐げ、悪逆非道を尽くした古王国があった。
それを倒して建国されたのが、今のパルシリア王国だ。
『そうだ、その国こそ』
『あの女神が居座っていた』
点と点が、雷に打たれたように繋がる。
『……パルシリア王国にヴァージニアが出現したのは偶然じゃ無い?』
なぜ、この国にダンジョンが現れたのか。
それは、偶然じゃ無かった?
『自分の神体を間近で監視したかったんだろうな……』
女神にとって、ここは「自宅」のようなものだったのだ。
だからこそ、女神は執着する。
自分のモノを取り返すために。
いつでも戻れるように監視していた場所。
俺は頭を抱えた。
あまりにも、スケールが大きすぎる悪意。
そして、あまりにも身近にある悲劇の根源。
世界中を巻き込んだ壮大なマッチポンプ。
『ステラに何て言えば良いんだ……』
視線の先で、ルミナが投げたボールをキャッチして喜んでいるステラを見る。
彼女は、女神の「良心」だ。
慈愛、謙虚、貞淑。
かつて女神が持っていた、わずかな善性の残滓。
純粋で、臆病で、でも優しい猫。
もし彼女が知ったら、どうなる?
自分の本体が、自分の姉妹たちが、これほどまでに醜悪な理由で人々を苦しめ、世界を汚染していると知ったら。
自分と同じ魂を持つ者たちが、神になるために無数の人間を犠牲にしていると知ったら。
彼女の心は壊れてしまうかもしれない。
「自分もその一部なのだ」という罪悪感に押しつぶされかねない。
『この情報をどうするか、お前に任せる』
レオンハルトの声が、厳かに響く。
試すような響きではない。信頼の響きだ。
『俺に関する情報もお前の判断で伝えるか否か決めてくれ』
『すまない、重い選択を委ねてしまって』
伝わってくる思念には、心底からの申し訳なさが滲んでいた。
彼は英雄だ。本来なら、彼が断罪し、彼が決断すべきことなのかもしれない。
だが、彼は俺を尊重してくれている。
ステラの「家族」である俺の意思を。
俺が一番近くでステラを見ているからこそ、最善の選択ができると信じてくれている。
『いや、良いんだ』
この情報の重さは、俺が背負うべきだ。
『……まだ伝えられない』
『罪悪感で潰れちまう』
これは、本心だ。
真実を知ることは大事だ。だが、今はまだ早い。
今のステラは、生まれたばかりの赤ん坊のようなものだ。
猫の姿で、ルミナに甘え、ようやく世界を歩けるようになった、ただの「ステラ」。
彼女には、まず「幸せ」を知ってほしい。
愛されること、遊ぶこと、お腹いっぱい食べること。
そういった普通の幸せを積み重ねて、心を強くしてほしい。
『リオ……』
『わかってる、いつか知るだろうさ』
『それまでにステラと絆を深める』
いつか、必ずバレる時が来る。
ヴァージニアの最奥に到達した時か、あるいは仮想神格たちと対峙した時か。
いや、あの女神の性根を知ってるから、気付くかもしれない。
その時、ステラが絶望しないように。
「お前はお前だ」と、胸を張って言えるように。
俺たちが、彼女の確固たる「家族」になっていなければならない。
どんな出自だろうと、どんな過去があろうと、今のステラは俺たちの大切な家族なのだと、魂に刻み込むくらいに。
『わかった』
レオンハルトの思念が、強く、深く頷いたのを感じた。
言葉以上の意思疎通。
俺と彼は、共犯者になった。
ステラを守るための、優しい嘘の共犯者に。
「今の所、伝えるべきは伝えた」
不意に、レオンハルトが声に出して言った。
念話は終わりだ。ここからは、ただの会話。
「これ以上の事は後に回そう」
彼は俺を見て、小さく目配せをした。
いいな?
もう、難しい話は終わりだ、と。
今は、この時間を大切にしろ、と。
「……助かるよ」
俺は大きく息を吐き出した。
もう限界だった。
色んな事があり過ぎて、脳味噌が焼き切れそうだった。
怒りと絶望で、心がどうにかなりそうだった。
今はただ、何も考えずに頭を空っぽにしたかった。
「ルミナ、俺達の分はあるか?」
レオンハルトが、少し声を張ってルミナに呼びかける。
その声は、先ほどまでの重苦しさを微塵も感じさせない、優しい響きだった。
さすがだ。切り替えが早い。
俺も見習わなきゃな。
「ん」
ルミナがこちらを向き、こくりと頷く。
そして、手元にあったボールの二つをレオンハルトに差し出した。
「ありがとう……リオ」
レオンハルトはそれを受け取ると、一つを手首を返して俺の方へ放った。
緩やかな軌道を描いて、ボールが飛んでくる。
白い背景に、鮮やかな色彩のボールが映える。
俺は両手を伸ばし、それをしっかりとキャッチした。
パンッ、という乾いた音が、俺の意識を「今」に引き戻す。
掌に残る、ボールの感触。
柔らかく、温かい。
これが現実だ。この温もりが。
俺は、この温もりを守るために戦うんだ。
「……よし!」
俺はボールを握りしめ、顔を上げた。
目の前には、尻尾を振って待ち構えているステラと、期待に目を輝かせているルミナがいる。
俺の家族たち。
今は、忘れよう。
仮想神格も、腐敗した国家も、女神の陰謀も。
この白い世界にいる間だけは、ただの子供に戻って。
遊ぼう。
今は子供みたいに、泥臭く、無心に。
「いくぞ、ステラ! 特大のやつだ!」
「にゃあ!」
俺は思い切り腕を振りかぶった。
白い世界に、俺たちの笑い声が高らかに響き渡る。
ヴァージニアを地表に出したとして、どうやって神体を取り戻すねんって突っ込んじゃいけません!
ヴァージニアが出てくれば後はどうとでもなる、そう考えるのが女神マインド。
まったく、考えて、いないのである!!