天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ!   作:ナオ3

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アンナ 運命

 

 私は苛立ちと不安が入り混じった、冷たい泥のような感情を腹の底に堪えながら、限られた者しかその存在を知らない隠し部屋で一人、人を待っていた。

 石造りの壁から染み出すような冷気が、私の足元をゆっくりと這い上がってくる。普段なら気にも留めないその温度が、今の私には酷く不快で焦燥感を煽るものに感じられた。

 やがて音もなく壁の一部がスライドし、秘密の通路から一人の男が姿を現した。

 

 

「ヴァリウス……」

 

 

 思わず、その名前を掠れた声で呼んでいた。

 現れた王国筆頭魔法使いの姿は、私が長年見知ってきた、常に冷静沈着で隙のない彼の面影を微塵も残していなかった。

 乱れた銀糸の髪。焦点の定まらない、虚ろで深い絶望を湛えた氷の瞳。

 そして何より彼の端正な頬にはどす黒く腫れ上がった酷いアザが刻まれ、口の端からは生々しい出血の跡が顎を伝って首筋へと流れ落ちていた。王国最高峰の仕立てであるはずの彼のローブには、彼自身の血と、床を転げ回ったような埃がこびりついている。

 

 本当だったんだ。

 

 

『ヴァリウスが、リオに殴られた。顔面を砕かれるほどの本気の打撃だ』

 

 

 つい先程、レオネルから魔導通信器越しにその報告を受けた時、私は自分の耳を疑った。

 長年連れ添った最愛の夫が、このような冗談や嘘を言うはずがない。それは魂の底から理解しているというのに、私は「本当に?」「見間違いではないの?」と、酷く間の抜けた確認を何度も繰り返してしまったのだ。

 しかし目の前に立つヴァリウスの惨状――ただ痛みに耐えるようにして立ち尽くすその姿を見て、私はようやくその報告が揺るぎない事実なのだと認識できた。

 

 本音を言えば今すぐにでも彼の胸ぐらを掴み、一体何があったのか、何をしでかしたのかと問い詰めたい衝動に駆られていた。

 だが、私にはまずやらねばならない事がある。

 口を開こうとするヴァリウスを、私は掌で制止した。

 

 

「待ちなさい。話は後、先ずは手当てをしてからよ」

 

 

 私はセシリアから預かっていた特殊な鍵の一つを取り出し、この隠し部屋に備え付けられている医療用の薬品保管庫を開く。

 カチャリという無機質な金属音と共に扉が開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。私は躊躇うことなく並べられた小瓶の中から必要な複数の薬品を的確に選び取り、滅菌処理された注射器と共に手元へと持ち運んだ。

 

 

「触るわよ」

 

 

 短い宣告と共に、私はヴァリウスの腫れ上がった頬にそっと指先を当てた。

 そして己の体内から微弱な生命力を練り上げ、彼の患部へと流し込む。

 かつて二十年前の邪竜との死闘で深い傷を負い、騎士として戦場に出られなくなってから、私が必死の思いで身につけた闘術の応用技。剣を握る力を失った代わりに、私は人の命を繋ぎ止める医者としての道を歩んできた。

 実際に医療現場の最前線に立つことができなくなってからすでに数年の歳月が経過しているが、私の指先はかつての感覚を完全に記憶していた。生命力の波紋が、ヴァリウスの皮膚の下、筋肉の断裂、そして骨の異常を正確に探り当てていく。

 

 

「……顎に罅が入ってるわね。それも、かなり深く」

 

 

 私は淡々と診断結果を告げ、注射器の針を薬瓶に突き刺して、淡い緑色をした高濃度の骨格再生治療薬を吸い上げた。

 最高品質の薬だ。これを直接患部に打ち込めば、直ちに効果が表れるはずだ。

 

 

「痛いわよ」

 

「…………」

 

 

 私の言葉に対し、ヴァリウスは虚ろな瞳のまま無言で微かに頷いた。

 彼の口の中も、おそらく深刻なダメージを負っているはずだ。血の匂いが呼吸の度に濃く漂ってくる。早く処置をしなければ。

 私は生命力探知で正確に把握した罅の入った顎骨の隙間を狙い、躊躇いなく注射器の針を突き立てた。そして冷たい治療薬を一気に骨の罅へと注入する。

 

 

「……ッ」

 

 

 その瞬間、ヴァリウスの喉の奥から押し殺したような苦悶の呻き声が漏れた。

 無理もない。骨に直接薬を流し込む痛みは強烈だ。だが彼は決して身を捩ろうとも、私の手から逃れようともしなかった。

 ただじっと全身を硬直させ、その激痛を噛み締めている。まるでこの痛みが己に課せられた当然の罰であるかのように、甘んじて受け入れているように見えた。

 

 よし。久しぶりの処置だったが、完璧な位置に薬を入れることができた。

 私は手早く針を抜き、予め用意しておいた清潔な白いタオルをヴァリウスの胸元へと押し付けた。

 

「口を開けて」

 

 私の指示に従い、ヴァリウスがゆっくりと口を開く。

 その瞬間、堪えきれなくなった赤黒い血が、彼の口腔から堰を切ったように流れ落ちた。私が押し付けた白いタオルはたちまちのうちにおびただしい量の血を吸い込み、不吉な真紅へと染まっていく。

 

 

「……奥歯が二本、根元から折れてるわね。歯肉も酷く裂けてる」

 

 

 冷静に口腔内の惨状を把握しつつ、私は素早く消毒済みの特殊なスライム膜の手袋を両手に装着した。

 新しい注射器を手に取り、今度は即効性の局所麻酔薬を吸い上げる。折れた歯の根元、血肉が混ざり合う痛々しい患部へと的確に麻酔を打ち込み、感覚を麻痺させてから本格的な処置に取り掛かった。

 専用の医療用ピンセットで歯肉に食い込んでいた砕けた歯の破片を一つ残らず慎重に取り除く。その後、骨の再生を促しつつ傷口を塞ぐ特殊な医療用ペーストをたっぷりと患部に埋め込んだ。さらに衝撃で大きく裂けていた頬の内側の粘膜にも、強力な止血剤と治癒促進剤を調合した軟膏を分厚く塗布する。

 ひたすらに無言のまま正確に、治療の工程をこなしていく。

 

 暫くの時間が、重苦しい沈黙と共に経過した。

 

 

「終わったわ」

 

 

 私は手袋を外し、傍らのテーブルに用意してあったコップを手にした。中には粘膜の炎症を抑える治癒薬を薄めた水が入っている。それと同時に、不要な血や唾液を吐き出すための金属製の容器を彼の口元へと差し出した。

 ヴァリウスは震える手でコップを受け取ると口に含み、ゆっくりと濯いでは容器へと吐き出した。

 チャプ、チャプという水音と共に、赤く濁った液体が何度も容器の底を叩く。

 やがて吐き出す水から血の色が消え完全に透明になったのを確認してから、私は金属容器に封を施し視界の端へと追いやった。

 

 

「暫く休みなさい。強力な薬を使っているから、完全に定着するまで口は動かさない方がいいわ」

 

 

 私の忠告にヴァリウスは再び小さく頷き、そのまま糸が切れた操り人形のように俯いて動かなくなった。

 

 

(相当、堪えているわね……肉体的な痛みじゃなく、心の方が)

 

 

 私は血に染まったタオルを片付けながら、彼の痛々しい姿を横目で見やった。

 詳しい事情を聞いていない内からこんな事を言いたくは無いが、状況からしてこの凄惨な事態を招いた原因は十中八九、目の前で項垂れているヴァリウス自身にあるのだろう。

 リオという少年は決して直情的な馬鹿ではない。むしろ恐ろしいほどの賢さと客観性を持っている。そんな彼が、パルシリア王国の国家中枢を担う重鎮である「王国筆頭魔法使い」に本気で危害を加えることの、リスクやその後の人生の破滅を想像できない訳がないのだ。

 それでも。自身の未来を全て投げ打ってでも、理性をかなぐり捨ててヴァリウスの顔面を砕き割るほどの激情を爆発させてしまった。

 ヴァリウスは、そこまでのことを彼にしてしまったのだ。

 決して彼に悪意があったわけではないだろう。むしろ、彼なりの不器用な善意と魔法使いとしての抗いがたい探求心が先行してしまった結果なのだと思う。

 だが悪意がないからこそ、人は時に残酷に、他者の最も柔らかい部分を無自覚に踏みにじってしまうことがある。

 

 でも。

 私は、自分の内側に渦巻くもう一つの巨大な疑問に思考を奪われていた。

 

 どうしても納得が出来ないのだ。

 動機がどれほど強烈なものであろうと、理性が吹き飛ぶほどの怒りがあったとて。

 何故、一介の冒険者に過ぎないリオが、あのヴァリウスを真正面から殴り飛ばすことが出来たのか?

 

 ヴァリウス・エル・グランツという男は、攻撃よりも防御や補助、事象の改変といった極めて高度で繊細な魔法を本領とする魔法使いだ。

 彼は常時、自身の周囲に『自動防衛結界』を展開している。それは彼自身が不意を突かれようと意識が他に向いていようと、物理・魔術を問わず一定以上の危害を感知した瞬間に自律的に発動し展開される王国最高峰の盾だ。

 その結界の異常なまでの強度は、過去の実験で彼に付き合った私とレオネルが誰よりもよく知っている。

 全盛期のレオネルと私の攻撃を同時に、一切の加減なく数回にわたって全力で叩きつけて、ようやく亀裂を入れることができるかどうかという途方もない代物なのだ。

 才能はあれど未熟なリオが、あのヴァリウスの絶対防御を物理的な打撃のみで越えることなど絶対に不可能な筈なのだ。

 

 ……理由は、思いつく。

 一つの、あまりにも恐ろしく、そして悲劇的な仮説。

 でも私はそれを考えたくなかった。己の脳が導き出したその結論から全力で目を背けたかった。

 

 もし。

 もし、リオが力任せに結界を破壊したのではなく。

 あのヴァリウスが構築した極めて緻密で多重的な結界の構造を瞬時にその目で『理解』し、論理的に『解体』したのだとしたら?

 この世界でそんな神の如き芸当ができる存在、事象の深淵を丸裸にする特異な知覚能力を持っていた存在を、私は一人しか知らない。

 

 でも、もしそうだとするならば。

 ヴァリウスがリオに対して一体何をしてしまったのか、どんなタブーに触れてしまったのか最悪の予想がついてしまう。

 

 私が重い思考の海に沈み息苦しさに耐えかねていたその時。

 俯いていたヴァリウスが、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

「アンナ」

 

 

 口を動かすなと言ったばかりなのに。

 彼の声は血が混じり、気管の奥で引き裂かれたような酷く掠れた響きを帯びていた。

 

 

「今は何も喋っちゃ駄目よ。顎の骨が――」

 

 

 私が医者としての強い語気で制止の言葉を言い終わる、その直前。

 彼は自らの喉を切り裂くような覚悟で、その致命的な言葉を絞り出した。

 

 

「アリアンナの、子だ」

 

 

 ――ドクン、と。

 私の心臓が痛いほどに大きく跳ねた。

 全身の血液が一瞬にして絶対零度の氷水に入れ替わったかのような凄まじい悪寒。

 息が完全に止まった。声帯が麻痺し言葉が出ない。

 

 

「『虹』を、確認した」

 

 

 それだけを言うと、ヴァリウスは再び重い沈黙へと沈み込んだ。

 

 ……決定的だ。

 逃げ道は、完全に絶たれた。

 レオンハルトの子供であるならばその母親は、彼の生涯でただ一人、魂の底から愛し抜いた伴侶であるアリアンナ様以外に考えられない。

 

 アリアンナ・ジークフリード。

 パルシリア王国という国で生きる者であれば誰もが知っている、そして決して忘れられない悲劇の象徴。

 かつて帝国の姫君であり、『終わりの聖女』と畏怖された比類なき最強の魔法使い。

 彼女は、女性魔法使いが妊娠期間中に一切の魔力行使が不可能になるという生命の理の絶対的な脆弱性を突かれ……最も無防備で最も守護を必要としていたその時に、冷酷な刃にかけられた。

 愛する者の子をその胎内に宿したまま、一切の抵抗すら許されず、なすすべもなく殺されるという卑劣極まりない手段によって喪われた、レオンハルトの最愛の妻。

 

 私達ジークフリード家にとって、そしてパルシリア王家にとって。

 レオンハルトという英雄以上に彼女の名は、彼女の存在は、恐ろしいほどの罪悪感と共に絶対的な不可侵の領域として深く刻み込まれている、触れ難い存在なのだ。

 そして母親の命もろとも、建国王の長男の狂気によって無惨に殺されてしまったはずの名もなき胎児。

 

 それが、リオ。

 あの優しく、不器用な少年が。

 私達の原罪の象徴でもある子供だったのだ。

 

 視界が歪む。過去の記憶が、血塗られた歴史が私の脳裏に鮮明に蘇ってくる。

 

 二代目ジークフリード、『贖罪の騎士』ライオネル。

 レオンハルトとアリアンナの義理の弟であり、彼らを心から慕っていた親友。そして、私とレオネルの、直接の先祖。

 あの惨劇の日。

 アリアンナ様の護衛という最も重要な任務を帯びていた彼は、建国王の長男の巧妙な嘘と計略によってアリアンナから引き剥がされてしまった。自分が持ち場を離れたその僅かな隙に、彼が姉のように慕い誰よりも敬愛していたアリアンナ様が殺害されたのだ。

 騙されたとはいえ、己の甘さと失態が招いた取り返しのつかない悲劇。

 その直後の彼がどれほどの絶望に叩き落とされ、どれほど血の涙を流して狂乱したか。文献や家伝に残された記録だけでも、読む者の精神を病ませるほどに凄惨なものだ。

 彼のその後悔と自責の念は生涯消えることはなかった。死の床につくまで、彼は自身を苛み続けた。

 本来であれば、ジークフリードという家名は偉大なる初代レオンハルトで終わらせるべきものだった。レオンハルト自身も、自分に降りかかった悲劇の連鎖を義弟に背負わせることを良しとせず、家を継ぐことに断固として反対したという。

 だがライオネルは己の罪を魂に刻み付け、永遠に忘れないための『枷』としてジークフリードの家名を引き継ぐことを強硬に押し切ったのだ。全てはアリアンナ様と、生まれてくるはずだった子供への終わりのない贖罪の為に。

 

 それだけの事実を思い返すだけで、ライオネルの底なしの絶望と血を吐くような悲痛な心情が、時を超えて私の胸を締め付ける。

 

 

「………………」

 

 

 私は震える唇を固く結んだまま、何も言うことができなかった。

 頭の中が完全に白く染まり、まともな思考が構築できない。

 だがそれでも。感情の奥底で、どうしても意識が引き寄せられてしまうことがある。

 

 

(ルミナ……)

 

 

 レオネルの話によると、ルミナも居たらしい。

 ルミナが我が身を呈して彼を強く抱きしめ、繋ぎ止めていたという。

 ああ。

 その場に居合わせたわけでもないのに私の脳裏には、その光景が痛いほど鮮明に、まるで一本の絵画のように浮かび上がっていた。

 絶望に打ちひしがれるリオを強く抱きとめ、そして彼を傷つけたヴァリウスに対して、一切の感情を排した絶対的な殺意の眼差しを向ける私の愛娘の姿が。

 

 レオンハルト…レインが私に告げた言葉が脳裏に蘇る。

 

 

『あの娘も、ダンジョン攻略に参加させるべきだ』

『ルミナは、すでにリオと運命を共にしている』

『リオが、あのヴァージニアを攻略するのは……決して避けられん』

 

 

 彼の言葉は残酷なまでの予言であり、覆すことのできない絶対の真理だったのだ。

 

 レオンハルトとアリアンナの血を受け継ぎ、悲劇の中心に在った子供、リオ。

 そして、その悲劇を防げなかった重い罪と後悔を背負い続けた、ライオネルの末裔たるルミナ。

 この二人の命は全く同じなのだ。

 この二人は一度死の淵に沈み、そこから理不尽な世界に抗うようにして蘇生した、合わせ鏡のような存在。

 

 私は冷たい空気を深く吸い込み、そして静かに吐き出した。

 認めざるを得ない。

 ルミナは必ずあの神域ダンジョン『ヴァージニア』の攻略に、リオと共に参加するだろう。どんなに私たちが親として彼女を危険から遠ざけようとしても、あの娘の魂がそれを許さない。

 だって、もし私がルミナの立場だったら。もし私が、愛するレオネルが世界から理不尽な運命を押し付けられ、独りで血を流しているのを見たとしたら。

 私やレオネルなら絶対に何があっても隣に立ち、共に地獄の底まで落ちる道を選ぶからだ。

 ルミナは私たちの娘なのだ。その業の深さから逃れられるはずがない。

 

 ふと、私の視線が再びヴァリウスへと向いた。

 彼にとっても『アリアンナ』という名は、単なる歴史上の偉人という枠に収まるものではない。極めて個人的で、そして重大な意味を持つ名前なのだ。

 かつてアーカディア学術都市の腐敗から逃れ、このパルシリアの地に辿り着いたグランツ家の始祖。

 その始祖こそが、他ならぬアリアンナの直弟子であったのだから。

 グランツ家にとってアリアンナの血脈は言わば自分たちの魔術の根源であり、敬うべき神にも等しい存在。

 その血を引くかもしれない者が目の前に現れたのだ。

 魔法使いとしての狂気にも似た探求心と、始祖の師の忘れ形見に対する過剰なまでの思い入れ。

 冷静な彼がリオの心の最深部に不用意に踏み込みすぎてしまったのか。その痛ましいほどの理由が、ようやく完全に理解できた気がした。

 

 私は静かに目を閉じ、祈るように両手を組んだ。

 隠し部屋の中に言葉を発する者はもういない。

 ただ重く果てしなく暗い沈黙だけが、子どもたちが背負うあまりにも巨大な運命の重圧を代弁するように、この冷たい空間を満たし続けていた。

 




数多の世界に存在する、飲むだけで瞬時に治るような奇跡の薬はありません、まだ。
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