天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
夢を見ていた。
胸を力任せに掻きむしりたくなるような、息が詰まるほど悲しい夢を。
視界は乳白色の靄に包まれ、はっきりとした形を認識することはできない。ただ、どこまでも穏やかで、日向のような温かな空気が満ちている空間だった。
そこに、二つの声が響く。
『調子はどうだ?』
ひどく不器用で言葉数は少ない。けれどその短い問いかけの中に、相手の全てを包み込もうとするような、海のように深い愛情が込められた男の声。
聞き覚えはある。魂の奥底が震えるほどに。なのに、こんなにも穏やかな響きを持つその声を俺は初めて聞いた気がした。
『大丈夫、私も赤ちゃんも元気一杯!』
答える女の声は、まるで鈴が軽やかに鳴るように綺麗だった。春の陽だまりそのもののような、混じり気のない優しさと慈愛に満ちた声。
その声には聞き覚えが無い。俺の記憶のどこを探しても、こんな美しい声で語りかけてくる存在は見当たらない。それなのに、何故だか俺は知っている。この声の主が誰なのかを、どうしようもなく理解しているのだ。
『そうか』
『もう、そんな心配そうな顔をしないの』
『すまん』
『ふふ、英雄もこうなると形無しだね』
『違いない』
微笑ましい、ありふれた夫婦のやり取り。
愛する者の身を案じる不器用な男と、それをからかいながらも心底嬉しそうに笑う女。
その温かな会話を聞いているだけで、俺の胸の奥がギリギリと軋むような痛みを上げ始める。
『お仕事は?』
『暫くお前の傍に居られそうだ。ライオに説教されたよ。アリア様は一生懸命戦っているんだから一緒に居てやれ、とな』
『もう、ライ君ったら。……嬉しいけどね』
ライオ。
その愛称に、俺の記憶が冷酷な歴史の事実を引っ張り出してくる。
『贖罪の騎士』ライオネル。
姉のように愛していたこの女性を結果的に見殺しにしてしまったという絶望。そして、同じくらい敬愛していた兄とも呼べるこの男の心を、取り返しのつかないほど深く傷つけてしまったという事実。
その終わりのない罪悪感を生涯背負い続け、血を吐くような悔恨の念に苛まれながら死した哀れな騎士。
レオネル様とアンナ様の直接の先祖。
この夢の中の彼は二人の幸せを誰よりも願い、気遣ってくれているというのに。
『クラリスはどうしている?』
『クラリスちゃんも良く来てくれてるんだ。……なんかいっつも、脳みそ壊されてる顔してるけど』
『……敬愛する師匠の腹を膨らませた姿に感無量なんだろう、きっと』
『そうかなぁ?』
クラリス・エル・グランツ。
王国筆頭魔法使い、ヴァリウスさんの直接の先祖であり、グランツ家の始祖となった大魔法使い。
彼女は、この声の主である女性の直弟子だった。
師の無惨な死という現実を受け入れられず、絶望のあまり狂気に墜ち、やがて歴史の表舞台から姿を消して行方不明となった女。残された親族が、彼女の代わりにグランツの家名を継ぐことになったのだ。
靄の向こうで語り合う二人の顔は見えない。
輪郭すらぼやけている。
だがその二人が誰なのか、俺の魂は痛いほどに理解している。
『名前、考えてくれた?』
『すまん、まだだ』
『まだ時間はあるから焦らなくていいよ』
『お前は?』
気配が揺れる。女がひどく愛おしそうに、慈しむように自分のお腹を撫でる仕草をしたのが、見えなくても伝わってきた。
『うん。女の子なら、レインにしようと思うの』
『レイン……良いな』
レイン。
雨。干上がった大地を潤し、命を育む恵みの雨。
その名前の響きを口の中で転がし、男は深く、心から納得したように頷いた。
女はいたずらっぽく、クスクスと微笑む。
『男の子ならあなたの考えた名前だよ。大丈夫?』
『うぐ!? ……少し待て、なんとか決めるからプレッシャー掛けないでくれ、アリア』
アリア。
アリアンナ。
かつて帝国の姫であり、パルシリアの歴史において最も偉大な魔法使い。そして――始まりの騎士レオンハルトが、その生涯で唯一愛し抜いた最愛の妻。
『良いの期待してるよ、◼️◼️』
女が呼んだ男の名前には酷いノイズがかかって、俺の耳には届かなかった。強制的に認識を阻害されているような感覚。
だが、彼がレオ……レオンハルトであることは疑いようがない。
女は、再び愛おしそうに腹を撫でる。
『本当に、不思議』
『私や◼️◼️みたいに、『人間』から外れちゃった存在が』
『こうして命を産み出すことが出来るなんて、思ってもみなかったよ』
圧倒的な力を持つが故の孤独。人ならざる領域に足を踏み入れてしまった者たちの、静かな述懐。
男もまた深く同意するように息を吐く。
『……ああ。正直、子供は諦めていた。妊娠を知った時のお前の慌てぶりは、今でも良く思い出せる』
ぶほぉ!!
女が盛大に噴き出す音が聞こえた。そして顔を真っ赤にして抗議する気配が伝わってくる。
『貴方だって、口を開けて目を丸くしてぽかーんって顔してたよ!? あの顔を思い出すと、今でも吹いちゃうんだから!!』
『当たり前だ。魔力が上手く使えないからと病気を心配していたら……妊娠したと聞いて、唖然としない訳がない』
『ぐぬぬぬぬ……』
女が悔しそうに唸る。
英雄と聖女。神話の住人のような二人が、まるで年相応の若い夫婦のようにじゃれ合う姿。
暫く悔しがっていた女が、不意に声のトーンを落とし、優しく男に尋ねた。
『ねえ、◼️◼️。……どんな風に育って欲しい?』
男は少しの迷いもなく即答した。
『人を思いやれる、そんな子だな』
『優しさは、強さだ』
『それさえあれば、多くの人が助けてくれる。剣や魔法の才よりも大切な能力だ』
誰よりも優れた武勇を持ち、己の剣一本で歴史を切り拓いてきた男から出たのは、ありふれた、ささやかな願いであった。
天下を取ってほしいわけでも、最強の騎士になってほしいわけでもない。ただ、優しくあってほしい。
男の言葉に、女は心底嬉しそうに微笑む。
『うん、私も』
『アリア……』
『本当に、それでいいの』
『友達と遊んで、好きな人が出来て、子供を育てる。今までそれが普通じゃなかった世界で、そういう人生を送って欲しい』
女の声が僅かに震え、沈む。
彼女が俯いてしまったのがわかった。戦場で『終わりの聖女』として恐れられ、圧倒的な力で数え切れないほどの命を奪ってきた己の罪の重さを、彼女自身が誰よりも堪えているのだ。
自分の子供には、そんな血塗られた道を歩ませたくない。
男は、そんな女の悲しみを包み込むように強く抱きしめた。
『そうだな』
『この子は戦わなくてもいい。俺達が、戦わなくてもいい世界を作るんだ』
女もまた男の広い背中に腕を回し、強く抱きしめ返す。
『……うん』
それが、誰よりも優れた『力』を持つ夫婦の、愛の結論であった。
生まれてくる新しい命への、純粋で無垢で、何よりも尊い祈り。
ああ。
何処までも、何処までも悲しい夢であった。
やめろ。
やめてくれ。
これ以上、俺にこんな光景を見せないでくれ。
俺はこの愛に満ちた物語の「結末」を知っている。知っているんだ。
この数ヶ月後に、絶望という言葉すら生ぬるいほどの残酷な悲劇しか待っていないことを。
この温かな光景が、二人の切なる願いが無惨に引き裂かれ、踏み躙られる未来を知っている。
それなのに。いや、それだからこそ、この幸せに満ちた光景を見せられることは、俺にとって魂を削られるような拷問でしかなかった。
「やめろ、お願いだ、その胎児を殺してくれ……」
俺の口から呪詛のような懇願が漏れる。
「そいつのせいで、多くの悲しみと憎悪が世界に撒き散らされてしまったんだ」
「それは祝福じゃない。世界が、アリアンナを殺すために用意した、忌まわしい呪いなんだよ」
その胎児さえお腹に宿らなければ、アリアンナは魔法を失うことはなかった。
彼女が魔法を使えていれば、裏切り者の刃など容易く退けられたはずだ。レオンハルトが、あんなにも深く傷つくことはなかった。ライオネルが狂うことも、クラリスが絶望に沈むことも、大勢の人々が悲しみと苦しみに見舞われる事も無かったんだ。
そして。
その赤子も決して二人の願い通りには育ちやしない。
わかっているんだ。どうしようもない歪な人間になることを。
自分を愛することができない。
誰かの為にしか動けない。己の命の価値を他人に奉仕し犠牲になることでしか見出せない、空っぽの男に育つんだ。
「ゼイン、ミリア、ガルド、レイナ……」
幼馴染たちの顔が浮かぶ。
同じ孤児院で育ち、家族同然に生きてきた彼ら。
孤児だからという理由で自分の可能性に蓋をして、夢を諦めて欲しくなかった。俺が彼らを守り、支え、夢を叶えて欲しかった。
彼らの笑顔を見るためなら、俺は戦い続ける事ができた。
だがその献身の底にあった本当の理由は、そんな美しいものではない。
俺には彼らが必要だったのだ。
俺が俺自身の生に意味を持たせるための都合の良い、戦う『理由』。彼らが俺に依存し俺を頼ってくれることでしか、俺は自分が存在していることの証明ができなかった。
だがその4人も、今では立派な大人になって己の足でしっかりと立ち、夢に向かって努力している。
ゼインは人々の平和を守る警備団に入る。
ミリアは苦しむ人を救う医者の道に進む。
ガルドは大きな夢を抱いて商人の勉強をしている。
レイナは子供たちに教えを導く魔法の先生になる準備をしている。
それぞれが明確な己の夢を見つけ、それを叶えるために前を向いて歩いている。俺の庇護などもう必要としていない。
俺はただ前に進む皆の背中を、立ち止まったまま眺めているだけだ。彼らの中から俺という存在の必要性が薄れていくことに、薄ら寒い恐怖すら感じていた。
「ルミナ……ステラ……」
俺の新しい家族。家族でありたいと思っていたはずの、大切な二人。
理不尽な世界で穢れを引き受け、苦しむ魂達の為に足掻こうとする優しい神様、ステラ。
誰よりも孤独で、暗闇の中を彷徨い続けた無垢なる幼子、ルミナ。
彼女たちを救いたいと、守りたいと心の底から思った。そのために命を懸けることに、微塵の躊躇いもなかった。
でも。俺は本当にあの娘達を愛しているのか?
俺は、二人の家族になる資格なんてあるのか?
俺は、ただ利用しているだけじゃないのか?
最早俺の助けなくとも自らの足で進む事が出来る、暁の剣の皆の『代わり』にしている。彼女たちが俺を必要としてくれるから、俺もまた彼女たちに依存しようとしている。
そうとしか思えない。
わからない。自分の心の底にある感情が、本当に愛なのか醜い自己陶酔なのか、わからなくなってしまった。
「俺は……」
偽善者ですら無い。
誰かのために生きている振りをしながらその実、誰かが自分を必要としてくれることでしか呼吸ができない。
ただ、中身が空っぽな子供。
レオンハルトとアリアンナが己の全てを懸けて望んだ「優しく、人を思いやれる子」なんていう理想からは程遠い。
絶望という名の冷たく暗い泥の底に蹲る。
もはや立ち上がる気力すら湧かず、ただ自分が完全に溶けて消滅してしまうのを待っていた。
その時だった。
背中をふわりと温もりが包み込んだ。
細く柔らかい手が俺の身体を背後からそっと、けれど決して逃がさないような強い力で抱きしめる。
なんだ、これは?
匂い。温かさ。
俺はこんな感触を知らないはずだ。
だが……俺は知っている。
俺の魂が、この温もりを完全に記憶している。
そして耳元で女の声が聞こえた。
先程夢の中で聞いた、あの銀の鈴のような美しい声。
だがその声は夢の中の弾むような響きとは違い、海よりも深い悲しみと、そして途方もない愛に満ちていた。
後ろを振り向こうと身体を動かそうとした。
だが、振り向けない。俺の本能が、理性が必死に全身の筋肉を硬直させてそれを止めている。
振り向いてその顔を見てしまえば、その存在を完全に認識してしまえば俺が俺でなくなってしまう。俺という人格の境界線が完全に崩壊し、狂気と絶望の底へと完全に落ちてしまう。
「優しい子に育ってくれたのは嬉しいけど……」
声が俺の強張った背中を優しく撫でるように響く。
「ちょっと優しすぎる、かな? 自分にも優しく出来なくちゃ、ダメだよ」
涙が溢れた。
どうして、そんなことを言うんだ。
俺は、そんな言葉を掛けてもらえるような人間じゃない。
「あなた……は?」
震える声でかすれる喉からようやく言葉を絞り出す。
抱きしめる腕の力が少しだけ強くなった。
「……内緒」
悪戯っぽく、けれどひどく泣きそうな声で彼女は囁いた。
「今は、眠りなさい……リオ」
その言葉は絶対的な安らぎをもたらす魔法だった。
抗うことのできない深い睡魔が、俺の意識を急激に下へと引きずり込んでいく。
薄れゆく意識の中で、最後に彼女の言葉が脳裏に溶け込んだ。
「私は、後悔してないよ」
「……本当にごめんなさい。貴方に、こんな重いものを背負わせちゃって」
「そして、ありがとう。壊れちゃう位に私達を想ってくれて」
その言葉に俺は声にならない慟哭を魂で響かせながら、完全な暗闇の中へと意識を沈めていった。
* * *
物理法則も時間の概念も存在しない曖昧な空間。
絶望に打ちひしがれていたリオの意識が完全に途絶えた瞬間、彼の人の形を保っていた輪郭がふっと陽炎のように揺らぎ、崩れ落ちた。
後に残ったのは、人の形ではなく純粋な魂の輝き。
美しくも儚い銀色に輝く光の球体が、空間の只中にふわりと浮かんでいた。
その光体の傍らに一人の女性が立っていた。
白亜の長い髪を揺らし、その横顔には慈愛と深い憂いの色が入り混じっている。
彼女はそっと両手を伸ばし、宙に浮かぶ銀色の光体をまるで壊れ物を扱うようにひどく愛おしそうに撫でた。
「封印、壊れちゃってる……」
彼女の唇から嘆息が漏れる。
自らの起源に触れ崩壊してしまわないようにと、かつて彼女自身が施したはずの厳重な記憶の封印。それが内部からの強烈な干渉によって無惨に砕け散っているのを、彼女の目は正確に見抜いていた。
彼女は悲しそうに、そして困惑と諦念が入り交じった笑みを浮かべた。
「どうして……彼の才能だけじゃなく、私の才能まで受け継いじゃったのかなぁ?」
事象の理を全て解体し真理を暴き出す、神の如き知覚能力。
それが彼に備わってしまったが故に、世界を正確に見つめすぎ、他者の痛みを感じ取りすぎ、そして何より運命の残酷な構造を理解しすぎてしまった。
平凡に生きてほしかった。戦う力など持たず、ただ愛する人たちに囲まれて笑っていてほしかった。
その願いは、残酷な形で裏切られたのだ。
彼女が静かに光体を見つめていた、その時。
ぞくり、と。
彼女の背後に信じられないほど強大な気配が唐突に顕現した。
それはあまりにも巨大で、そして……彼女の魂の奥底まで焼き付いて離れない、狂おしいほどに愛しい気配だった。
「………………久しぶり、だね」
彼女は震える声でそう呟いた。
彼女が一日たりとも忘れたことのなかった最愛の夫。
その彼が何らかの奇跡、あるいは執念によってこの世界に到達したのだ。
どれほどの苦難を乗り越えて、彼はここまで来てくれたのだろう。
感動で胸が張り裂けそうになりながら、彼女は万感の思いを込めてゆっくりと背後を振り向いた。
「リ………………」
そして、絶句した。
愛しい夫を呼びかけようとした彼女の声は、空気を読まずに間抜けな音を立てて停止した。
彼女の瞳が、信じられないものを見るように限界まで見開かれる。
「……だれぇ!!!?」
そこには彼女が待ち焦がれていた騎士の姿はなかった。
代わりに立っていたのは、慣れ親しんだ彼の気配を纏った……女が居た。
それもただの女ではない。
リオと同じ夜の闇を切り取ったような漆黒の髪と、吸い込まれるような黒曜石の瞳を持った絶世の美女。
その美しさは神が精魂込めて創り上げた彫刻のように完璧で、それでいてどこか猛禽類を思わせる鋭い凄みを漂わせている。
彼女(?)は目を丸くして固まっているアリアンナに向かって、男勝りなそれでいて艶やかな声で言い放った。
「ようやく会えたのに、最初がそれか?」
「え、ええええええええええええええええ!!!!!?」
精神世界にアリアンナの悲鳴のような絶叫がこだまする。
長き時を越えて、死と絶望を乗り越えてようやく果たされた、涙なしには語れないはずの感動の再会。
それはあまりにも予想外の、そして締まらない場面での幕開けとなった。
リオ君の自己評価は九割以上戯言だと思って下さい。
誰かを利用したり、まして代わりを立てるなんて、そんな風に生きれる程彼は器用な人間じゃありません。