天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ!   作:ナオ3

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夢、叶う時

 

先程までの、空間そのものを引き裂かんばかりに吹き荒れていた神威と怒りの嵐が嘘のように、今は静寂と穏やかな光だけが満ちていた。

その淡い光の中心で、一つの小さく尊い命が静かな寝息を立てている。

 

 

「あうぅ……」

 

 

愛らしい、無垢な声を漏らして身をよじるのは、黒い産毛のような髪を持った赤ん坊だった。

ほんの少し前まで、己の存在意義を見失い、絶望の泥土の中で魂を崩壊させかけていた青年、リオ。

彼の精神は、己の起源に触れたことによる致死量の衝撃と、それを修復し保とうとする強烈な自己防衛本能によって、魂の形態を極限まで退行させていた。それに加え、愛する彼を何としても守り抜きたいと願うルミナの内に芽生えた、強大で純粋な「母性本能」が共鳴し、結果として彼の魂は最も無防備で、最も守護を必要とする『赤ん坊』の姿としてこの世界に再構築されたのである。

もちろん、現実世界での肉体まで退行したわけではない。だが、この精神世界における姿は、彼自身の魂の在り方そのものだった。

その小さな小さなリオを腕の中に抱きかかえ、愛おしそうにゆらゆらと揺らしてあやしているのは、元の幼い少女の姿に戻ったルミナと、彼女の足元で長い尻尾を揺らしている蒼い子猫のステラだった。

 

 

「よしよし、リオ。だいじょうぶ、わたしが、ずっといっしょにいるからね」

 

 

ルミナは、新緑のように美しく澄んだ翠の瞳を細め、自身の頬を赤ん坊の柔らかい頬にすりすりと押し当てる。その表情は、つい先程まで世界を滅ぼす戦乙女のように怒り狂っていた存在と同一人物だとは到底思えないほど、純粋で無垢な慈愛に満ちていた。

ステラもまた、「にゃあ」と優しい鳴き声を上げながら、前足で器用に赤ん坊の小さな手をポンポンと軽く叩いてあやしている。

その光景は、一枚の宗教画のように神聖で、見る者の心を温かく溶かすような優しさに溢れていた。

少し離れた場所から、その微笑ましい光景を眺めている二人の人物がいた。

レイン——そして、アリアンナ。

アリアンナは、ルミナの腕の中で安らかに眠る赤ん坊のリオから、片時も目を離すことができなかった。

 

 

(いいな〜、ルミナちゃん……)

 

 

彼女の胸の奥で、どうしようもない羨望の感情がチリチリと音を立てて渦巻いていた。

 

 

(お願いだから、私も。私も、抱っこしたい……!)

 

 

アリアンナの両手が、無意識のうちに己の腹部へと伸びる。

かつて、確かにそこには命の鼓動があった。愛する夫との間に授かった、何よりも尊い宝物。

どれほどその重みを感じたかったか。どれほどその小さな体を抱きしめ、頬ずりをし、子守唄を歌ってあげたかったか。

だが、その願いが叶うことは永遠になかった。彼女は、我が子を一度もこの腕に抱くことのないまま、冷たい刃によってその命を理不尽に絶たれてしまったのだから。

今、目の前には、自分が生み出すはずだった命が、赤ん坊の姿で存在している。母親としての本能が、愛の渇望が、アリアンナの魂を激しく揺さぶっていた。

じっと、穴が開くほどにルミナと赤ん坊を見つめるアリアンナ。その物欲しそうな、今にもよだれを垂らしそうなほど切実な横顔を見て、隣に立つレインは肩をすくめて小さく苦笑を漏らした。

そんな二人の視線に気づいたのか、ルミナがハッと顔を上げた。

そして、赤ん坊のリオを大事そうに腕に抱えたまま、ステラと共にテクテクと小さな足音を立てて、レインとアリアンナの方へと近寄ってきた。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

レインとアリアンナの目の前で立ち止まると、ルミナは翠の瞳に大粒の涙をいっぱいに溜め、今にも泣き出しそうな、ひどく心細げな顔でそう呟いた。

自分が我を忘れ、殺害しかねないほどの猛攻撃を仕掛けてしまったことへの謝罪だった。

その瞬間。

 

 

——ぐさぁ!!!

 

 

レインとアリアンナの胸の奥底に、目に見えない巨大な杭のようなナニカが、致命的な深さまで突き刺さった感覚がした。

赤子を大事に抱えながら、大きな翠の瞳を潤ませて、上目遣いで申し訳なさそうに謝ってくる金髪の幼女。

その光景は、あまりにも美しく、愛らしく、そして……見ている者の「良心」という最も脆弱な部分を容赦なく抉り取ってくる、猛毒以外の何物でもなかった。

もし仮に、現実世界の王宮でパルシリアの変態姫ことフィオナがこの光景を目の当たりにしていたなら、彼女は「尊い! 尊すぎるわ!」と叫びながら、文字通り本当の意味で悶絶死していたかもしれない。

だが、今のレインとアリアンナにとって、この光景は「尊さ」などという生易しいものでは処理しきれなかった。

圧倒的なまでの『罪悪感』。それが、二人の精神を発狂寸前まで追い込んでいた。

 

 

(ね、ねえ、レイン! 滅茶苦茶胸が痛いんだけど!?)

 

 

アリアンナは、表面上は引きつった愛想笑いを浮かべながら、内側の念話では息も絶え絶えにレインへと悲鳴を上げた。

無理もない。ルミナが暴走する原因を作った大元の「呪い」とは、他ならぬアリアンナ自身の存在なのだ。自分が死んだという過去の事実が、息子の心を壊し、この健気な少女に殺戮の女神のような絶望的な怒りを抱かせてしまった。

その自覚があるアリアンナにとって、被害者とも言えるルミナからこんなにも悲しそうな顔で謝罪されることは、魂を切り裂く苦痛だった。

 

 

(…………ああ)

 

 

レインからの返事は、ひどく重く、苦渋に満ちた短いものだった。

アリアンナ以上に、自分が事態を悪化させた「元凶」であるという自覚があるレインにとって、ルミナの姿は致死量の毒だった。

かつて、どんな絶望的な戦場にあっても、どれほど深い傷を負っても、決して表情を変えることのなかった鋼の英雄が、今は目に見えて顔を苦痛に歪めている。

だが、これ以上ルミナに自分を責めさせるわけにはいかない。

アリアンナは、引き裂かれそうになる良心に必死に蓋をして、精一杯の明るい声を作ってフォローを入れた。

 

 

「だ、だいじょうぶだよ、ルミナちゃん! 気にしないで!」

「こう見えても、私達とっても強いんだから! 全然痛くも痒くもないよ!」

 

 

外見は吹けば飛ぶような小柄で可憐な少女にしか見えないアリアンナが、胸を張って力強く言い切る。

だが、ルミナの翠の瞳は、アリアンナの言葉に安心するどころか、さらに悲しげに揺らいだ。

 

 

「でも、レオに……」

 

 

ルミナの視線が、アリアンナの隣に立つレインの肉体へと向けられる。

ルミナが「レオ」と呼ぶ彼女の全身は、先程の攻防の凄惨さを物語るように傷だらけであった。特に、ルミナの重い一撃を無手で受け流し続けた両腕は、皮膚が裂け、内出血で赤黒く腫れ上がり、立っているだけでも激痛が走っているのは誰の目にも明らかだった。自分がどれほど酷いことをしてしまったのか、ルミナは己の罪を直視してしまっていた。

なおも謝罪の言葉を紡ごうとするルミナを、レインが静かに、だが毅然とした声で止めた。

 

 

「どうということはない」

 

 

レインは、血の滲む腕を隠し、平然と言い放った。

身体の痛みなど、本当にどうでもよかった。それよりも、目の前でこの幼い少女が己の罪悪感に押し潰されそうになっている姿を見ることの方が、何万倍も心が痛い。これ以上、ルミナの痛ましい顔を見たくないという一心からの、必死の強がりだった。

その時、レインとアリアンナの悲鳴を上げている心情と、ルミナの自責の念の板挟みを見かねたステラが、小さな身体を二人の間へと滑り込ませてフォローに入った。

 

 

「ルミナ、二人もこう言ってくれてるんだから、ね? これ以上ルミナが謝っちゃうと、逆に二人の方がどうしていいかわからなくて困っちゃうよ」

 

 

ステラのその言葉は、まさに慈雨のようだった。

レインとアリアンナは、ステラの言葉に救われたように、すぐさま首が千切れるほどの勢いで追随した。

 

 

「そ、そうだよ! だからもう謝らないで!」

 

「ああ。……俺たちは、何も気にしていない」

 

 

二人の必死の、そして心からの言葉に、ルミナはようやく張り詰めていた表情を和らげた。

 

 

「……うん。ありがとう」

 

 

ルミナの顔に、わずかながらも安堵の笑みが浮かぶ。

その小さな笑顔を見た瞬間、レインとアリアンナ、そしてステラの一匹は、一斉に心の底から安堵の吐息を漏らした。なんとか、最悪の発狂死の危機だけは免れたようだ。

場の空気がようやく落ち着きを取り戻したのを見計らって、アリアンナが一歩前に出た。

レインとルミナ、そしてステラは、リオの精神世界を通じて既に顔見知り同士である。だが、アリアンナがこうして彼女たちと直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。

 

 

「初めまして。私はアリアンナ。……よろしくね、ルミナちゃん。それと……ステラちゃん」

 

 

アリアンナは、ステラの名前を呼ぶ時、ほんの僅かだけ肩を強張らせ、身構えてしまった。

無理もない。ステラという存在の起源は、かつて世界を破滅に導き、アリアンナたちが討ち倒したあの忌まわしき「女神」の神体なのだから。

だが、リオの記憶を通じてアリアンナは、目の前にいるこの蒼い子猫が、あの邪悪な女神とは完全に切り離された、別の無垢なる神格であることを頭では理解している。理解しているが故に、なんとか警戒心を抑え込んで微笑みかけた。

ルミナは、挨拶をしたアリアンナの顔を、じっと不思議そうに見つめた。

どこか儚げな美しさを持つ白亜の女。だが、彼女の放つ魔力と魂の波長には、リオのそれと決定的に似通った何かがあった。

 

 

「あなたは……リオの、なに?」

 

 

ルミナの純粋な問いかけに、アリアンナの顔に複雑な色が浮かんだ。

悲哀と、喜びと、そして深い諦念がないまぜになったような表情。

彼女は、少しだけ視線を泳がせた後、寂しそうに微笑んで答えた。

 

 

「うん……お母さん……かな?」

 

「…………!」

 

「まあ、実際には、あの子を産んであげられなかったんだけどね」

 

 

その自嘲気味な言葉に、ルミナとステラの顔が悲しげに曇った。

リオの記憶を通じて、彼女がどのようにして命を落としたか、その大まかな悲劇は二人に伝わっている。母親になりたかったのに、なれなかった。その絶望の深さを思い、ルミナの翠の瞳が再び潤みかける。

アリアンナは、彼女たちを悲しませてしまったことに慌てて両手をパタパタと振った。

 

 

「あ、いいのいいの! 気にしないで!」

「だって、結果的にあの子が無事に産まれて、こうして健やかに成長してくれたんだから!」

「それに、私を世界中の誰よりも愛してくれている最高の旦那様が、私の代わりにリオを産んでくれたんだから! だから私は納得してるの! 納得……なっとく……」

 

 

アリアンナの言葉が、徐々に弱々しく尻すぼみになっていく。

笑顔を取り繕おうとしていた彼女だったが、己の口から出た「旦那様が産んでくれた」という、世界の理からあまりにも逸脱した事実を改めて脳内で反芻した瞬間、強固に保っていたはずの理性のタガが外れた。

 

 

「ああああああああああ!!?」

 

 

突如として、アリアンナは両手で頭を抱え込み、その場にしゃがみ込んで叫び出した。

 

 

「くっ、言葉に出して客観的に聞くと、やっぱり辛いぃぃぃぃぃ……!!」

「私の旦那様が! あの超絶イケメンで硬派だった騎士様が! 私より背が高くてスタイル抜群で胸の大きな超美女になって! 私のお腹にいた子供を産んだなんて! 情報量が! 情報量が多すぎて脳が処理しきれないのよおおおおお!」

 

 

現実の狂気性に直面し、頭を掻きむしって悶絶するアリアンナ。

 

 

「?????」

 

 

その様子を見ていたルミナは、頭の上に無数のクエスチョンマークを浮かべて完全に硬直していた。

父親が、子供を産む。

アリアンナが一体何語を話しているのか、さっぱり理解できなかった。

 

 

「あ、あれ? 人間で子供を産むことが出来るのって、女の人だけだよね……?」

 

 

ステラもまた、前足で自分の頭をポカリと叩きながら、人間の生態系についての深い悩みの森に迷い込んでいた。

 

 

「でも、今のレオ君は確かに『女性』だし……えっ、どういうこと?」

 

 

混乱の極みにある二人と一匹を見下ろし、当事者であるレインは、やれやれと深く、そして非常に重い溜息を吐いた。

 

 

「元は男で、今は女になった。……ただそれだけのことだ」

 

「いやいやいや!!」

 

 

レインのあまりにも淡々とした、まるで「昨日髪を切った」くらいに軽い調子の説明に、ステラが全力でツッコミを入れた。

 

 

「男が女になるって、どうやって!? 外見を変えるくらいならともかく、子供を産めるレベルで完全に肉体を造り変えるなんて、不可能だよ!?」

 

 

ステラの尤もな指摘に対し、レインは一つ頷いた。

 

 

「神殺しに関して、リオから聞いているな?」

 

「う、うん。確か、神様を倒してその力を奪う……みたいな?」

 

「神殺しとは、単なる力の略奪ではない。いわば、神という『立場』そのものの簒奪だ。神を殺した者は、その瞬間に世界における新たな神格として新生する」

 

 

レインは、自らの内に秘められた、世界を改変しうる絶大な力について静かに語る。

 

 

「神は、己自身の自己認識によって、その姿や在り方を自在に変えられる。……それは、お前もよく知っているだろう?」

 

 

その言葉は紛れもない事実だった。神格というものは、肉体という器に縛られない。自らの概念が形を成す存在だ。

だが、ステラはその説明に納得するどころか、さらに激しく抗議した。

 

 

「ちょっと待って!? 確かに、神は自分の認識で姿を変えられるよ! 僕だって、本来は形のない神格だったけど、ルミナの認識に合わせてこうして『猫』になっちゃったし!」

「でもね! 『性別』っていうのは、生き物にとって魂の根幹に関わる重大なアイデンティティなんだよ!? 思い込みだけで、簡単に変えられるようなものじゃないよ!?」

 

 

神でさえ、己の性別や根源的な在り方を変えることは容易ではない。ましてや、レインは元々、人間という強固な自己の枠組みを持って生まれた存在なのだ。

 

 

「神だって滅多に出来ないような事を、どうして元人間だったレオ君がやってのけたのさ!?」

 

 

ステラの叫びに対し、レインは、ただ真っ直ぐにステラを見下ろし、一片の迷いもない澄み切った声で断言した。

 

 

「男だろうが、女だろうが、俺は俺だ」

 

「…………え?」

 

「俺が俺である限り、アリアを愛し、アリアの遺した命を未来へ繋ぐという『意志』こそが、俺という存在の全てだ。その目的を果たすために女の身体が必要だった。だから、女になった。……ただ、それだけの理屈だ」

 

 

当たり前のように。呼吸をするのと同じように。

世界の法則も、生命の理も、神の摂理すらも、己の愛と意志の前に屈服させてみせた。

これが、レオンハルトという男の狂気。

これが、世界を救った英雄の愛の深淵。

 

 

「…………にゃあ」

 

 

暫くの沈黙の後、ステラの口から、情けない鳴き声がこぼれ落ちた。

蒼い子猫の目はまん丸に見開かれ、口は半開きになり、その意識は完全に宇宙の真理の彼方へと飛んでいってしまっていた。

いわゆる、別の世界で『宇宙猫(スペースキャット)』と呼ばれる状態である。ステラの常識では、レインの規格外すぎるエゴと愛の強さを処理することは不可能だったのだ。

アリアンナは、呆然としているステラを見て、ひどく遠い目をした。

 

 

「ステラちゃん……諦めて。この人はね、昔からこういう人なの……。自分の決めた事の為なら、常識とか不可能とか、全部力技でへし折って突き進むの……」

 

「苦労してるんだね、アリアンナ……」

 

「アリアでいいよ。……もちろん、ルミナちゃんもね」

 

「ん」

 

 

ルミナは、未だに話の半分も理解できていない様子だったが、小さく頷いた。

 

 

「まあ、でも……」

 

 

レインは、自らの豊満な胸元にそっと手を当て、少しだけ頬を染めながら言葉を続けた。

 

 

「実際に腹の中で命を育み……陣痛に耐えて出産し……自らの乳房で授乳を経験したことで、俺自身の認識も、大分『女』としてのそれに近付いてしまったのは事実だがな」

 

「…………」

 

「特に、夜泣きするリオに乳を与えている時の、あの満たされるような感覚は……」

 

「あーあーあー!!!」

 

 

突如、アリアンナが両手で耳を固く塞ぎ、ぶんぶんと首を激しく振り始めた。

 

 

「聞こえない! 聞こえない! 聞こえないぃぃぃぃぃ!!!」

「色んな意味で私の脳と尊厳が完全に壊れそうな言葉なんて、絶っっっっ対に聞こえない!!!」

 

 

夫が自分の代わりに子供を産んだだけでなく、女としての悦びや母性まで完全に獲得してしまっているという事実。それは、アリアンナの女としてのアイデンティティを根底から粉砕する最終兵器だった。

もはや直視できず、その場にうずくまって「あーあー」と声を上げ続けるアリアンナ。

その姿は、かつて世界を震撼させた『終わりの聖女』の威厳など欠片もなく、ただ現実に打ちのめされた可哀想な女でしかなかった。

そんな、パニック状態に陥っているアリアンナの前に、そっと一つの小さな影が近づいた。

ルミナだった。

彼女は、うずくまるアリアンナの目の前でしゃがみ込むと、腕の中に抱いていた赤ん坊のリオを、そっと、アリアンナの胸元へと差し出したのだ。

 

 

「……?」

 

 

耳を塞ぐのをやめ、不思議そうに顔を上げるアリアンナ。

 

 

「……だいてあげて」

 

 

ルミナは、澄んだ翠の瞳でアリアンナを見つめながら、静かにそう言った。

 

 

「……え? いいの?」

 

 

アリアンナは、ルミナと赤ん坊を交互に見比べた。

あれほどリオに執着し、誰にも渡すまいと、彼を傷つける世界そのものを敵に回すほどの怒りを見せていたルミナだ。その大切なリオを、他人の腕に預けてもいいと言うのか。

アリアンナの戸惑うような問いかけに、ルミナは静かに、けれど力強く頷いた。

 

 

「リオの、おかあさんだから」

 

 

その短い言葉が、アリアンナの魂を激しく撃ち抜いた。

リオの、お母さん。

そうだ。自分は、この子の母親なのだ。

ルミナは、アリアンナがリオを産むことができずに死んでしまった悲しみを知っている。だからこそ、今ここで、彼女に「母親」としての時間を与えようとしてくれているのだ。

 

 

「うん……。……ありがとう、ルミナちゃん」

 

 

アリアンナの声は、すでに涙で震えていた。

彼女は、差し出された赤ん坊を、壊れ物に触れるように、恐る恐る、震える両手で受け取った。

だが、彼女の腕はぎこちなく、どうやってこの柔らかい命を支えればいいのかわからずに戸惑っていた。

 

 

「アリア。……抱き方は、こうだ」

 

 

見かねたレインが、アリアンナの背後にそっと回り込み、彼女の腕に自らの手を添えた。

 

 

「片方の手で、しっかりと頭と首の裏を支えるんだ。そして、もう片方の手でお尻から背中を包み込むようにして……自分のお腹に密着させるように抱き寄せる」

 

「えっと……こう、かな?」

 

「ああ。そうだ。上手いぞ」

 

 

産みの親(父であり母)であるレインの的確なアドバイスに従い、アリアンナはようやく安定した姿勢で、赤ん坊のリオを自分の胸に抱き寄せることができた。

腕の中に伝わってくる、確かな重み。

そして、小さな体から発散される、日向のような温かさ。

赤ん坊のリオは、アリアンナの胸の鼓動を聞いて安心したのか、ふにゃりと愛らしい笑顔を浮かべ、小さな手を伸ばしてアリアンナの白亜の髪をきゅっと握りしめた。

 

 

「はは……」

 

 

アリアンナの口から、自然と笑みがこぼれた。

 

 

「軽いのに、凄く重いなぁ……」

「柔らかくて、暖かくて……甘い匂いがする」

 

 

彼女の翠の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、赤ん坊を包むおくるみを濡らしていく。

 

 

「そっか……こんな感じなんだね。……『お母さん』って」

 

 

ずっと、ずっと夢見ていた感触。

自分の胎内で育ちながらも、決して触れることのできなかった命。

魂だけの精神世界での出来事かもしれない。それでも、この温もりは、この重みは、紛れもなく本物だった。

暫くの間、アリアンナは腕の中の重みをただひたすらに堪能していた。

そして、心の奥底に封じ込めていた、最も純粋で、最も切実な想いが、涙と共に決壊した。

 

 

「…………産みたかったなぁ」

 

 

震える声が、静寂の空間に響き渡る。

それは、英雄でも、聖女でもない。ただの一人の女性としての、痛切な叫び。

 

 

「私のお腹を痛めて、この子を産んであげたかった」

「私のお乳を飲ませて、私の声で子守唄を歌ってあげたかった」

「初めて歩いた時、初めて喋った時、全部この目で見て、褒めてあげたかった」

「おかあさんに……なりたかった……っ」

 

 

産みたかった。抱きたかった。成長を見守っていたかった。

だが、運命はそれを許してくれなかった。

残酷な死が彼女を切り裂き、愛する夫と、まだ見ぬ我が子を置いて、暗い冥府へと旅立たねばならなかった。

どれほどの未練があっただろうか。どれほどの悔しさがあっただろうか。

それでも。

長い長い時を超え、紆余曲折を経て。

今、彼女はようやく、我が子をこの腕に抱くことができたのだ。

 

 

「う、ううっ……あああああぁぁぁ……っ」

 

 

声を上げて泣き崩れそうになるアリアンナの肩を、レインが背後からそっと、力強く抱きしめて支えた。

レインの瞳にもまた、静かな涙が光っている。

妻の叶わなかった夢を、己の身を歪めてまで叶えようとした男の、後悔と救済の涙。

ルミナは、アリアンナの泣き顔を見て、自分もまたポロポロと涙を流しながら、寄り添うようにアリアンナの服の裾をぎゅっと握りしめた。

ステラも、アリアンナの足元に身体をすり寄せ、慰めるように喉を鳴らしている。

未知の世界の中心で。

哀しくも温かい涙が、彼らの魂の傷を少しずつ、少しずつ癒していくように、静かに降り注いでいた。

 

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