天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ!   作:ナオ3

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少し間が空いてしまいました。
ゴールデンウィークは悪しき文化。


あいあむゆーあ?

 

音のない空間。時間さえもが凍りつき、意味を成さないかのような隔絶された世界。

その中心で、アリアンナは己の腕の中に収まる小さな命、リオを抱きしめていた。

それは、永遠にも似た一瞬だった。

 

 

(ああ……愛しい。私の、私と◼️◼️の、可愛い子供……)

 

 

アリアンナの胸の奥底で、言葉にならない感情の奔流が渦を巻いていた。

腕から伝わってくるのは、ひどく頼りなく、それでいて力強い命の鼓動。トクトク、トクトクと、小さな心臓が一生懸命に血を巡らせている音が、彼女の肌を通して直接魂にまで響いてくるかのようだった。

微かに開いた小さな唇から漏れる、ミルクの甘い匂いと、無垢な吐息。柔らかく、まだ骨格さえもしっかりしていないその肉体は、少しでも力を込めれば壊れてしまいそうで、アリアンナはまるで世界で一番壊れやすい硝子細工を扱うように、しかし絶対に離すまいとする執念にも似た強さで、その小さな背中と後頭部をそっと包み込んでいた。

目頭が熱くなる。視界が滲む。

この腕の中にいるのは、紛れもなく自分の分身。愛する人との間に生まれた奇跡の結晶。

どれほどこの瞬間を夢見たことか。どれほどこの温もりを渇望したことか。

指先でそっとリオの頬を撫でる。すべすべとした赤ん坊特有の肌の感触が、アリアンナの凍てついていた心をゆっくりと溶かしていく。同時に、その溶けた部分から、耐え難いほどの悲哀と絶望がどくどくと血のように流れ出していた。

 

 

(ずっと、こうしていたい。このまま、時間が止まってしまえばいいのに)

 

 

脳裏をよぎるその甘美な誘惑に、アリアンナは奥歯を強く噛み締めた。

許されない願いだということは、誰よりも彼女自身が理解している。

 

 

「……」

 

 

深い、深い沈黙が降りた。

周囲を取り囲むルミナ、ステラ、レインは、誰も言葉を発することができない。

神聖な儀式を前にした信徒のように、ただただ、母と子の短い邂逅を息を呑んで見つめることしかできなかった。空間の温度が、アリアンナの放つ切ないまでの母性によって、ほんの少しだけ上昇したかのように錯覚するほど、そこには濃密な情愛が満ちていた。

やがて、アリアンナはゆっくりと、本当にゆっくりと、己の腕の拘束を解き始めた。

まるで自分の身体の一部を引き剥がすかのような、ひどくゆっくりとした動作。彼女の顔には、微笑みが浮かんでいた。しかしそれは、見る者の胸を締め付けるような、哀絶な微笑みだった。

アリアンナは、その腕から命の重みを、隣で静かに待機していたルミナへと委ねた。

 

 

「……」

 

 

ルミナは、受け取ったリオの重みと、アリアンナの腕から離れた瞬間の僅かな空気の揺らぎを感じ取り、瞳をわずかに見開いた。

リオをしっかりと腕に抱き留めながらも、ルミナはアリアンナの顔を真っ直ぐに見つめ返し、ぽつりと言葉を紡いだ。

 

 

「もう、いいの?」

 

 

その短い問いかけには、あまりにも多くの意味が込められていた。

言葉の裏にあるルミナの優しさに触れ、アリアンナはふっと目を伏せ、そしてまた、あのひどく澄んだ、けれど悲しい笑顔を浮かべた。

 

 

「うん」

 

 

短く、一切の迷いを断ち切るような声だった。

そして、彼女はルミナの瞳を見つめ返し、静かな、しかし確固たる声でその理由を告げた。

 

 

「これ以上抱いてると、この世界に閉じ込めたくなっちゃうから……」

 

 

その言葉が落ちた瞬間、その場の空気が凍りついた。

アリアンナの言葉は、単なる比喩ではなかった。この空間の絶対的な支配者である彼女が、もし本当にその「狂気」とも呼べる母性を暴走させ、リオをここに閉じ込めると決断してしまえば、それは容易に実現してしまうのだ。

己の内に潜む、エゴイスティックで恐ろしいまでの執着心。それを自覚しているからこそ、彼女は自ら手を離した。愛する我が子の未来を、己の寂しさを埋めるための犠牲にしないために。

ルミナは、アリアンナの言葉の重みと、そこに込められた壮絶な覚悟に触れ、僅かに肩を竦ませた。

それは恐怖からではない。一人の母親が下した、あまりにも残酷な自己犠牲への畏怖だった。

ルミナはこれ以上の言葉は無粋であると悟り、ゆっくりと、深く頷いた。彼女の腕の中で、リオが小さく寝息を立てる音だけが、不気味なほど静まり返った空間に響いていた。

そのやり取りを間近で見せつけられていたステラとレインの表情は、筆舌に尽くしがたい悲痛なものへと染まっていた。

 

 

(何故……何故なんだ……!)

 

 

レインは、己の胸を内側から引き裂かれるような錯覚に陥っていた。

奥歯が粉々に砕けそうなほど強く噛み締められ、握りしめた拳からは血が滲むのではないかと思えるほど爪が食い込んでいる。

レインの心の中に、どろどろとした黒い感情が渦を巻く。それは、理不尽な世界への怒りであり、神と呼ばれる存在への殺意であり、そして何より、運命というどうしようもない壁に対する絶望だった。

父であり、母でもあるレイン。

その特殊な立ち位置にいるレインだからこそ、今、アリアンナが感じているであろう「喪失感」と「身を切るような痛み」が、痛いほど……いや、狂おしいほどに理解できてしまった。

レインの脳裏に、一つの記憶が鮮明にフラッシュバックする。

自分の手で愛しい我が子、リオを孤児院に置き去りにしたあの夜。

小さな籠の中で眠るリオ。その寝顔を見るたびに、自分の手で育てたい、ずっと傍にいたいという願いが喉の奥から這い上がってきた。しかし、己の置かれた状況、背負っている宿命が、それを許さなかった。

しかし、レインはそれでも「恵まれていた」のだと、今ならわかる。

直接触れることは叶わなかった。親として名乗り出ることもできなかった。

それでも、レインは同じ世界で、同じ空の下で呼吸をし、リオが初めて立った日を、言葉を話した日を、友達と笑い合う日を、その目に焼き付けることができた。

健やかに、そして真っ直ぐに成長していく我が子の姿を、遠くからでも見守ることができた。その事実が、どれほどレインの心を救ってきたか。

だが、アリアンナは?

彼女はそれすら許されない。

この光も風もない、無機質で孤独な閉鎖空間。彼女はここに縛り付けられ、我が子の成長をその目で見ることさえ、その声を聴くことさえできないのだ。

ただ一人、永遠の静寂の中で、かつて抱きしめた数分間の温もりだけを反芻して生きるしかない。

 

 

(あんまりだ……こんなことが、許されてたまるか……!!)

 

 

レインは心の中で咆哮した。

しかし、その声は誰にも届かない。ただ、ギリッと奥歯の鳴る不快な音だけが、レインの口元から漏れていた。

一方、ステラもまた、目の前の光景に言葉を失ってい、ただ呆然と、己の腕を空虚に見つめるアリアンナの横顔を見つめていた。

 

 

(……これが、お母さん)

 

 

ステラは、母という存在を知らない。いや、知ってはいるが、それは知識としてのものだ。

しかし今、目の前にあるのは「理屈」ではない。理屈や論理を全て超越した、ただ純粋で、恐ろしく、そして美しい「母の愛」そのものだった。

自己を犠牲にしてでも、子の未来を想う。その圧倒的な感情の前に、ステラは自分がひどくちっぽけな存在に思えた。

しかし、同時に強烈な違和感と疑問が、ステラの脳内で警鐘を鳴らし始めていた。

「この世界」と、アリアンナは言った。

ステラは、ハッと我に返ったように周囲を改めて見渡した。

先程から無意識のうちに感じ取っていた、奇妙な感覚。

この空間は、自分の精神世界と決定的に異なっている。

 

 

「ねえ、アリア」

 

 

ステラは、震えそうになる声を必死に押し殺し、静寂を破った。

その声は、ひどく乾いていた。

 

 

「この世界ってなんなの?」

 

 

アリアンナがゆっくりとステラの方へ視線を向ける。その瞳は、すべてを見透かしているかのように静謐だった。

 

 

「やけに広くて頑丈なんだけど? 少なくとも、あれだけ暴れても安定してるくらいに……」

 

 

先程の激しい戦闘、神話クラスのエネルギーが衝突するような乱戦が繰り広げられたにも関わらず、この空間は一切の歪みを見せなかった。

空間そのものが、何か途方もない質量と意志によって強固に維持されている。

ステラの鋭い疑問に対し、アリアンナは隠立てする様子もなく、淡々とした、しかしどこか諦観の混じった声で答えた。

 

 

「ここは……ヴァージニアだよ」

 

「……え?」

 

 

その一言は、ステラの思考を完全に停止させた。

パチリ、と瞬きを一つする。その言葉の意味を処理することを拒否しているようだった。

ぽかんと口を開けたまま、呆然と立ち尽くすステラ。

数秒の完全な思考停止の後、ようやく意味を理解し、彼女の全身に悪寒のような震えが走った。

 

 

「……有り得ない」

 

 

ステラは、無意識のうちに後ずさりしていた。

否定の言葉が、ひきつった唇から漏れる。

 

 

「ヴァージニアを管理しているのは僕だった。僕は、アリアがヴァージニアに居るなんて全然知らなかった」

 

 

ステラの言葉には、激しい動揺が混じっていた。

ヴァージニア。それはステラ自身がそのシステムの中枢を担い、管理・運営してきたはずの巨大な世界。

それなのに、こんな巨大な未知の空間が存在し、そこにアリアンナがいるなどということが、システム上あり得るはずがないのだ。

ステラの混乱を宥めるように、アリアンナは静かに目を瞑った。

そして、子供に言い聞かせるような、優しくも残酷な事実を紡ぎ出す。

 

 

「そりゃそうだよ」

 

 

アリアンナの声は、どこまでも澄んでいた。

 

 

「自分の身体の中にあるものを、全て理解してる人なんて居ない」

 

 

その言葉の真意を測りかね、ステラは息を呑んだ。

 

 

「ステラちゃんは、ヴァージニアの『精神』と言うべきかな?」

 

 

アリアンナは目を開け、ステラを真っ直ぐに見据えた。

 

 

「ここはヴァージニアの『核』とも言えるべき場所。……私がヴァージニアの『脳』、真の管理者と言える存在なの」

 

 

――脳。

その単語が、重い鉄球のようにステラの頭を打ち抜いた。

ステラが精神であり、表面的な意識や感情、システムのアウトプットを司る存在だとするならば。

アリアンナは、そのすべてを根底から統括し、無意識の領域で世界そのものを維持し続ける、大元の生命維持装置。

ステラが知らなかったのも当然だ。人間が自分の脳細胞の働きを意識できないように、精神であるステラは、根源であるアリアンナの存在を認識できない構造になっていたのだ。

その圧倒的な事実の前に、ステラはただ愕然とするしかなかった。

己の存在意義すらも揺るがすような告白。

そして、その言葉の恐ろしい意味を即座に理解したレインは、ギリッと、ついに奥歯から血が滲むほど強く歯噛みをした。

「脳」として世界を維持しているということは、すなわち、アリアンナという個人の自由は完全に剥奪され、世界の部品として永遠に機能し続けなければならないということを意味する。

そんな彼らの絶望を他所に、アリアンナはどこか他人事のような、感情の抜け落ちた声で説明を続ける。

 

 

「世界は、安定を求める」

 

 

まるで、古い歴史書を読み上げるような口調だった。

 

 

「世界が壊れそうになった時、世界の修正力が働くの。私が生きていた時に、既にヴァージニアは限界だった」

 

 

アリアンナの目が、遠い過去を見つめるように細められる。

 

 

「集めた負の感情が箱から溢れ出すんじゃない。頭脳が無くなっていたヴァージニアは、箱そのものが壊れそうになってたの」

 

 

箱そのものの崩壊。

それは、内部の人間が死滅するなどのチャチな問題ではない。空間としての概念が消滅し、虚無へと還るということ。

 

 

「そうなっていたら、この世界はとっくに滅んで、他の世界に浸食していた。……そして、あの女神の代わりに、頭脳になったのが……私」

 

「そんな……!」

 

 

ステラは、耐えきれずに叫んだ。

前足で強く床を踏みしめ、全身の毛を逆立てて否定する。

 

 

「アリアは人間なんだろ!? 代わりになんて、なれやしない……!」

 

 

人間に、世界のシステムそのものを代行することなどできるはずがない。あまりにも負荷が大きすぎる。自我は崩壊し、肉体は消滅し、ただのエネルギーの塊になり果てるのが関の山だ。

しかし、アリアンナはゆっくりと、しかしはっきりと首を横に振った。

 

 

「ううん」

 

 

その顔に浮かんだのは、心底嫌悪に満ちた、ヘドロのように濁った表情だった。

それまで見せていた聖母のような慈愛は消え失せ、己の存在そのものを呪うような、暗く深い憎悪。

 

 

「私しか、代わりになれないの」

 

 

吐き捨てるように言った。

 

 

「あの糞婆の……この世界を滅茶苦茶にした女神の娘である私にしか……」

 

「………………は?」

 

 

ステラの口から、間の抜けた声が漏れた。

思考の糸が、プツンと音を立てて切れた瞬間だった。

女神の娘。

アリアンナが、あの忌まわしい元凶の娘。

言葉としては理解できる。しかし、その意味する所が、ステラの脳内で全く結びつかない。

アリアンナは、自暴自棄になったかのような、ヤケクソ気味の笑いを浮かべた。

 

 

「帝国の王妃の肉体を乗っ取ってから産んだのが私なの。……道具として、そして器としてね」

 

 

淡々と語られる、あまりにもおぞましい出生の秘密。

他者の肉体を奪い、その胎内で自らの分身を創造する。神という存在の絶対的な傲慢さと、命に対する冒涜。

ステラの身体が、ガタガタと震え始めた。

それは恐怖からか、それとも別の感情からか、本人にも分からなかった。

震える声で、かすれる喉から必死に言葉を絞り出す。

 

 

「じゃあ……アリアは……」

 

 

アリアンナは、ステラのその表情を見て、少しだけ困ったように、そして諦めたように笑って言った。

 

 

「ステラちゃんの妹だよ……」

 

 

沈黙。

1秒、2秒、3秒。

空間のすべてが停止したかのような、絶対的な静寂。

そして。

 

 

「Nyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!?」

 

 

鼓膜を突き破るような、ステラの絶叫が空間に木霊した。

その顔は完全にパニックを起こし、目玉が飛び出んばかりに見開かれている。

 

 

「ぼぼぼぼぼくのいもうとおぉぉぉぉぉ!!?」

 

 

ステラは完全に冷静さを失い、前足と後ろ足をばたつかせて空間をのたうち回り始めた。

 

 

「ていうことは、リオ君は僕の甥っ子おおおおおおおおおお!!?」

 

 

彼女の脳内を支配していたのは、世界の危機でも、アリアンナの悲劇的な運命でもなかった。

突如として突きつけられた、極めて個人的で、かつ致命的な事実。

 

 

「気になる男の子が甥っ子だなんてええええええええええええええ!!?」

 

 

ステラの頭の中では、様々な情報がショートを起こしていた。

アリアンナが妹。つまり自分はおばさん。

いやそれよりも、ずっと気になっていた男の子が、血の繋がった甥っ子!?

禁断の恋!? いやいや犯罪!? 親族!? 法的な問題!? 倫理的な問題!?

童貞の妄想すらも凌駕するようなドロドロの展開が自分の身に降りかかっている現実に、ステラの精神はメルトダウン寸前だった。

 

 

「ニャアーーーッ!! ニャンニャンニャアーーーーッ!!」

 

 

完全に猫の姿のまま錯乱し、空中で見えない敵とシャドーボクシングを始めるステラ。

そのあまりの騒がしさに、それまで重苦しかった空気が一気に破壊される。

 

 

ドンッ!

 

 

「ぱぎゅうううう!?」

 

 

その狂乱を物理的に止めたのは、ルミナだった。

ステラの頭上に冷酷なまでの速度でチョップを振り下ろし、そのまま強引に床へと押さえつける。

カエルのように潰れた声を上げるステラを冷ややかに見下ろし、ルミナは氷のように冷たい声で言い放った。

 

 

「うるさい。リオがぐずってる」

 

 

その言葉に、ハッとしてルミナの腕の中を見るステラ。

そこでは、先程までの騒音で目を覚まし、不快そうに顔を顰めて「ふぇ……ふぇ……」と泣き声を上げようとしているリオの姿があった。

赤ん坊を泣かせる。

それは、この場において万死に値する大罪である。

 

 

「ヒッ……!!」

 

 

ステラは慌てて二本の前足で自分の口をガバッと塞いだ。

冷や汗が滝のように流れ落ちる。

ステラは口を塞いだまま、ブンブンと激しく首を縦に振り、完全な沈黙を誓った。

ルミナは、ステラが静かになったのを確認すると、途端に表情を和らげ、不器用だが、確かな愛情の籠もった手つきでリオをあやし始めた。

 

 

「よしよし、だいじょうぶ」

 

 

彼女の抑揚のない声が、今は少しだけ甘く響く。

 

 

「みんなリオがだいすきだから、なかないで」

 

 

ゆらゆらと身体を揺らし、優しく背中をトントンと叩く。

その不器用な子守唄に、リオは少し安心したのか、再びスースーと規則正しい寝息を立て始めた。

リオが落ち着きを取り戻したのを確認し、レインが一歩前へと進み出た。

彼の顔には、静かな、しかし決して譲ることのできない怒りと決意が宿っていた。

レインの視線は、アリアンナへと真っ直ぐに向けられている。

 

 

「あれがアリアの母親であってたまるか」

 

 

レインの声は低く、しかし力強かった。

女神の娘であると自嘲するアリアンナの言葉を、真っ向から否定する声。

 

 

「アリアの母は、本来の王妃様だ」

 

 

レインは知っていた。その真実を。

狂気に支配された帝国の裏側で、何が起きていたのかを。

 

 

「あの人は本来は優しい人だったんだ……断じて、あんな最期を迎えるべき方では無い」

 

 

肉体を奪われ、精神を蹂躙され、胎内の我が子を道具にされた。

その屈辱と絶望は、どれほどのものであったか。それでも本当の彼女は、慈愛に満ちた気高い女性であったはずなのだ。

その言葉を聞いて、アリアンナは悲しそうに目を伏せた。

彼女の脳裏に、古い、しかし決して色褪せることのない記憶が蘇る。

 

 

(――逃げて……!)

 

 

それは、物心ついたばかりの記憶。

表向きは女神の意志のままに行動しているように見えた『母』。しかし、時折見せるその瞳の奥には、必死に抗い、娘である自分を守ろうとする『本当の母』の意志が確かに存在していた。

アリアンナは、その記憶があったからこそ、狂わずに生きてこられた。

その母の魂を救いたくて、女神という絶対的な存在に対して孤独な戦いを挑み続けたのだ。

しかし、結果はこれだ。母は救えず、自分は世界を維持するための生きた人柱となってしまった。

 

 

「……そう、だね」

 

 

アリアンナの口から漏れた声は、ひどく弱々しかった。

 

 

「でも、世界がそう認識しちゃってるんだ。そして、あいつの力を受け継いじゃってる」

 

 

血肉は女神の力で構成され、世界のシステムは自分を「女神の後継機」として処理している。

どれほど心で否定しようとも、物理的な事実が彼女を呪いのように縛り付けていた。

そのどうしようもない絶望感に包まれかけた空間。

それを打ち破ったのは、前足で口を塞いでいたステラだった。

彼女は口を塞いでいた手をゆっくりと離し、荒い息を吐き出しながら立ち上がった。

 

 

「はあ、はあ、はあ……そう、なんだ……」

 

 

先程までのパニック状態からは幾分か落ち着きを取り戻していたが、その瞳には、かつてないほどの怒りの炎が燃え上がっていた。

それは、自らの恋心を打ち砕かれた怒りではなく(それも少しはあるかもしれないが)、理不尽に運命を弄ばれた妹とその母に対する、純粋な義憤だった。

 

 

「あいつ……! 本当に不幸しかばら撒かないな!」

 

 

ステラは、見えない女神に向けて牙を剥き出しにして唸った。

 

 

「アリアも、アリアのお母さんも、被害者じゃないか!」

 

 

ただ巻き込まれ、利用され、そして捨てられた。

そんな理不尽を、ステラはどうしても許すことができなかった。そこにあるのは、傷ついた家族を想う一人の姉としての感情だった。

そのステラの激しい怒りと、そこに込められた紛れもない思いやりに触れ、アリアンナの瞳がわずかに見開かれた。

長年、孤独と絶望の中で戦い続けてきた彼女の心に、温かい光が差し込んだような気がした。

アリアンナの口元に、自然と笑みがこぼれる。

それは、先程までの哀絶な笑みではない。心からの、少しだけ幼さの残る、本当の彼女の笑顔だった。

 

 

「ふふ……ありがとう」

 

 

その笑顔の眩しさに、ステラは思わず目を瞬かせた。

 

 

「あ、でも、ステラちゃんの『家族』なら、嬉しいな」

 

 

少しだけ照れたように、はにかみながら言ったアリアンナの言葉。

その言葉は、ずっと一人で、世界の重圧を背負ってきたステラにとって、「家族」という言葉の響きは、何よりも優しく、甘美なものだった。

その純粋な言葉の破壊力に、ステラの胸がキュンと鳴る。

先程までの混乱はどこへやら、ステラの目から滝のような涙が噴き出した。

 

 

「僕もだよ、アリアぁ……っ!!」

 

 

ステラは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、感極まった声で叫んだ。

 

 

「こんな可愛い妹がいたなんてぇ……っ!」

 

 

そう言って、アリアンナに飛びつこうと前足を大きく広げるステラ。

世界のシステムだの、血の繋がりだの、そんな難しいことはもうどうでもよかった。

今、目の前にいる、不器用で、健気で、あまりにも可哀想で、そしてとてつもなく可愛いこの少女が、自分の妹なのだ。その事実だけで、ステラの心は満たされていた。

感動的な再会。姉妹の絆。

周囲の空気も、ようやく訪れた温かい結末に安堵の空気を漂わせ始めた、その時だった。

アリアンナは、泣きながら飛びついてこようとするステラを、スッと片手で制止した。

そして、その顔から一切の表情を消し去り、絶対零度の冷たい瞳でステラを見下ろし、言った。

 

 

「でも、リオとのお付き合いは認めないよ?」

 

 

ピシッ。

 

 

空間に、見えない亀裂が走る音がした。

その声には、一切の冗談や妥協の余地はなかった。

「妹」としての甘えや、「母親」としての悲哀は微塵もない。

そこにあるのは、愛する息子の貞操を狙う得体の知れない女(姉)に対する、凄まじいまでの牽制と、有無を言わさぬ絶対的な拒絶。先程まであれほど美しかった母の愛が、今度は姑としての最凶の防御壁となってステラの前に立ちはだかったのだ。

ステラは、広げた前足を宙に浮かせたまま、完全に硬直した。

感動の涙は一瞬で干上がり、アリアンナから放たれる圧倒的なプレッシャーの前に、全身の毛が再び逆立つ。

数秒の沈黙の後、ステラは、魂の底から絞り出すような、悲痛な叫び声を上げた。

 

 

「ニャンでぇ!!?」

 

 

その悲鳴は、決して誰にも届くことのないヴァージニアの核の空間で、ただ虚しく、いつまでも反響し続けていた。

ルミナの腕の中で、リオが再びすやすやと心地よさそうに眠り続ける中、ステラの前途多難すぎる恋(?)の行方と、新たなる姉妹の歪な絆が、ここに静かに幕を開けたのであった。

 




ややこしいから補足します
ステラと最初に出会った世界は、ステラ自身の世界。
今の世界はヴァージニアそのものの世界とイメージして下さい。
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