天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
空気が、ひどく重かった。
先程までの、歪ながらも温かい姉妹の再会という奇跡の余韻は、あっという間に霧散していた。
重苦しく、そしてひどく冷たい沈黙が、ヴァージニアの核と呼ばれるこの特異な空間を支配していた。
時間の概念すら曖昧になるような果てのない白い世界の只中で、微かな寝息だけが、そこにかろうじて生命の営みがあることを証明している。
アリアンナは、ルミナの腕の中で安心しきったように眠る幼子――愛おしい我が子、リオの顔を、ただ静かに、そして底知れない悲しみを湛えた瞳で見つめていた。
(……話さない、訳にはいかない)
胸の奥底で、千の針に刺されるような痛みが走る。己の唇を噛み締め、アリアンナは内なる葛藤と戦っていた。
本来であれば、こんな残酷な真実など、誰の耳にも入れたくはなかった。墓場まで、いや、魂が完全に消滅するその時まで、自分とレイン(レオンハルト)だけの秘密にしておきたかった。この恐ろしくも悍ましい世界の悪意など、知らなくていい。ただ健やかに、ただ幸せに生きてほしいと、それだけを願っていたのだから。
しかし、現実はそれを許さない。
アリアンナの視線が、リオを抱きしめるルミナと、その傍らで寄り添うステラへと向けられる。
彼女たちは、この世界でも特異な立ち位置にいる存在だ。そして何より、彼女たちの心は、魂の根源は、すでにリオという存在と深く、どうしようもなく結びついている。どう考えてもルミナとステラは、これから先リオと運命を共にすることになるだろう。リオが背負うことになる途方もない重圧と、残酷な道のりを、共に歩むことになるのだ。
ならば、隠し立てすることは、彼女たちに対する裏切りであり、何よりリオ自身を孤立させることに繋がってしまう。
(この子を、本当の意味で支えてもらうためには……私が傍にいてやれない以上、彼女たち託すしかない)
これから自分の口から紡がれる言葉が、どれほど彼女たちの心を切り裂き、絶望の淵に叩き落とすことになるか、アリアンナには痛いほどわかっていた。それでも、言わねばならない。
アリアンナの纏う空気が、ふわりと、しかし決定的に変化した。
これまで場の空気を和ませようとしていた温かな母親の波動が消え失せ、代わりに、かつて『終わりの聖女』と呼ばれ、世界の命運を背負って戦い抜いた、覚悟を決めた者の冷たく研ぎ澄まされた気配が空間を満たし始めた。
「…………ッ」
その微かな、しかし決定的な空気の変容に、いち早く反応したのはルミナだった。
彼女の背筋に、氷の刃を滑らせたような、名状しがたい悪寒が走る。
(なに……?)
本能が警鐘を鳴らしていた。得体の知れない恐怖が、ルミナの胸を締め付けた。リオを抱く腕の力が、無意識のうちに少しだけ強くなる。
そんなルミナの怯えを察したように、アリアンナは悲しげに微笑み、そして、ゆっくりと右手を持ち上げた。
華奢な、しかし世界を救ったその手が、眠るリオへとかざされる。
「え……?」
ステラが不思議そうに小首を傾げる中、アリアンナの唇が微かに動き、音なき詠唱が紡がれた。
途端に、淡く、しかし絶対的な純度を持った魔力がアリアンナの掌から溢れ出し、薄布のようにリオの小さな身体を包み込んだ。
それは防御魔法でも回復魔法でもない。対象の聴覚、認識、そして魂への情報の干渉を完全に、絶対的に遮断するための、神域の封絶魔法であった。
これから語る言葉がどんな形であれ、決してリオの意識に、無意識に、魂の深淵にすら届かないようにするための、強固な結界。
(この子だけは……自分が何のために生み出されたのか、そのおぞましい真実だけは、絶対に知るべきじゃない)
レインは、そのアリアンナの行動を見て、ギリッと奥歯を強く噛み締めた。
口の中を切り、鉄の味が広がるが、そんな痛みなどどうでもよかった。
止めたかった。今すぐアリアンナの口を塞ぎ、「それ以上は言うな」と叫びたかった。
愛する女に、自らの口で己の残酷な運命とこの世界の狂気を語らせるなど、夫として耐え難い苦痛だった。しかし、彼にはアリアンナを止めるつもりは無かった。
なぜなら、それがリオの未来のために、そしてリオを支えるルミナたちのために、どうしても『必要な情報』であることを、痛いほど理解していたからだ。
レインはただ己の無力さを呪いながら、膝の上に置いた両の拳を、骨が白く浮かび上がるほどに強く握りしめることしかできなかった。沈黙を守ることが、今の彼にできる唯一の、そして最大の戦いであった。
黄金の光が完全にリオを包み込み、光の粒子が空間に溶けていくのを確認してから、アリアンナは静かに口を開いた。
その声はひどく澄んでいて、だからこそ残酷なほどに響き渡った。
「……私はね、半分は神で、半分は人間の様な存在なの」
唐突な、しかし余りにもスケールの大きな告白に、場は水を打ったような静寂に包まれた。
「アリア?」
ステラがその言葉の意味を咀嚼しきれず、戸惑うようにアリアンナの名を呼ぶ。神の残滓であるステラにとって、『神』という言葉は特別な響きを持つ。それが人間と混ざり合っているという状況が、どういうことなのか、すぐには理解が及ばなかった。
アリアンナはステラの戸惑いを肯定するように静かに頷き、言葉を続けた。
「そして……始まりの騎士、レオンハルトもまた、神殺しという大業を成し遂げたことによって、人間の枠組みから完全に外れてしまった存在だった」
アリアンナの瞳が、ふとレインへと向けられる。レインは目を伏せたまま、微動だにしない。
「人間を超越した者同士、理から外れた者同士。生命のサイクルから逸脱した私たちには、本来……」
アリアンナはそこで一度言葉を切り、苦しげに息を呑んだ。
「子供なんて、出来る訳がないの」
決定的な言葉だった。
生命の誕生とは、世界の理に則った奇跡だ。しかし、理から外れた者たちは、その恩恵を受けることができない。それは、神のごとき力を持つ彼らに課せられた、絶対的な枷であったはずなのだ。
「で、でも、実際にリオ君は!!」
ステラがたまらず叫んだ。ルミナの腕の中には、紛れもなく二人の血を引く、温かな命が息づいている。出来ないはずがない。現に今、ここにいるではないか。ステラの叫びは、世界の残酷な真理に対する、必死の抵抗だった。
「うん、完全に可能性がゼロ、という訳じゃ無いよ」
アリアンナは、泣きそうな顔で無理に笑みを作り、ルミナを宥めるように言った。
「でもね、それは計算上の話。私と彼のの間に子供ができるとしたら……この星が寿命を迎えて滅びるその時までに、もし出来たら『早い』って言えるレベルの話だよ」
ルミナとステラは息を呑んだ。星の寿命、人間の時間感覚からすれば、それは『永遠に出来ない』と同義である。
「それなのに……私と彼が出会って、愛し合って……こんなにも早く子供が出来るなんて。それはもう、奇跡を越えた奇跡……あり得ないことなの」
アリアンナの言葉の端々に滲む、ただの歓喜ではない、得体の知れない恐怖と絶望の匂いを嗅ぎ取り、ルミナは再び全身を震わせた。
駄目だ。これ以上は、本当に聞いてはいけない。世界がひっくり返ってしまう。
「やめて……アリア……!」
ルミナは懇願した。これ以上、残酷な真実で自分たちを、そして何よりアリアンナ自身を傷つけないでくれと、悲鳴のような声で止める。
しかし、アリアンナは首を横に振った。
「ごめんね、ルミナちゃん。……でも、リオの為にも、あなたたちには知っていて欲しいの」
「リオの……ため?」
「うん」
アリアンナの、静かだが決して揺らぐことのない決意の籠もった返事に、ルミナは口を噤むしかなかった。
リオのため。そう言われてしまえば、リオを愛し、リオを助けたいと願うルミナに、反論の余地など残されてはいなかった。
「………………」
重苦しい、窒息しそうなほどの沈黙が場を支配する。
レインは、ただひたすらに己の内に渦巻く破壊衝動を抑え込んでいた。世界を粉々に砕き、神という神を八つ裂きにし、この理不尽なシステムそのものを灰燼に帰してやりたいという黒く煮えたぎった憎悪が、喉元までせり上がってきている。それを、必死に、ただ必死に理性という鎖で縛り付けている。少しでも気を抜けば、その殺気が空間を破壊してしまうだろう。
ステラは、その異様な空気――アリアンナの静かな絶望と、レインから漏れ出す隠しきれない殺意の波動に当てられ、息をするのも苦しいほどの圧迫感に飲まれそうになっていた。猫の姿をした小さな体が、無意識に身を縮める。
「私はね、本当に凄く強いの」
ぽつりと、アリアンナが自嘲気味に呟いた。
「少なくとも、あのレオンハルトと真正面から渡り合えるくらいにはね。……私を殺すことなんて、普通の手段じゃ絶対に不可能だった」
そこまで言って、アリアンナはふと視線を落とし、かつてリオを宿していた自身の平らなお腹のあたりを、愛おしむように見つめた。
「……妊娠してなければ、がつくけどね」
その言葉の真意を理解した瞬間、ルミナとステラの時間が文字通り凍りついた。
呼吸が止まり、心臓の鼓動すらも一時停止したかのような錯覚に陥る。
「…………ッッ!!」
レインは歯が砕けるほどの力で食いしばった。唇の端から一筋の赤い血がツーッと流れ落ちるが、微動だにしなかった。思い出したくもない、しかし決して忘れることのできない、絶望の始まりの記憶がフラッシュバックしていた。
「女性の魔法使いは、体内に新しい命……妊娠すると魔法が使えなくなるの。それは、私であっても、例外じゃなかった」
アリアンナの声はひどく淡々としていた。それが逆に、彼女が抱えていた絶望の深さを物語っていた。
「完全に使えなくなったわけじゃない。私は多少は使えた。でも……それは、お腹の中で育っていくリオの小さな魂を、万が一が起きた時に、保護する魔法を維持するだけで精一杯だった」
神をも凌駕する力を持っていた『終わりの聖女』は、一人の母となった瞬間に、その力を全て我が子を守るためだけに使わざるを得なくなり、ただの、いや、ただの人間以上に無力な存在へと成り下がってしまったのだ。
「世界が壊れる前に……限界を迎えていたこのヴァージニアが破綻する直前に、私は『あり得ない奇跡』によって妊娠した」
アリアンナの言葉紡ぎは止まらない。残酷な真理を、世界のからくりを、白日の下に晒していく。
「妊娠し、魔法が使えなくなり……そして私は最も無防備になったそのタイミングで、暗殺された。私が殺されたことによって、世界の修正力が働き、ヴァージニアの完全な破綻は防がれた」
そこまで語り、アリアンナはルミナとステラを、そして眠るリオを見つめ、底知れない虚無を孕んだ瞳で微笑んだ。
「……凄く、〝都合がいい〟偶然だよね?」
その言葉は、冷たい刃となってルミナとステラの心を深く抉った。
偶然なわけがない。奇跡なわけがない。
それは、世界という巨大なシステムが、己の崩壊を防ぐために仕組んだ、あまりにも精巧で、あまりにも悪辣な罠だったのだ。
「だから……私自身が一番よくわかっていた。妊娠していると知ったその瞬間に、私は何となく、自分の運命を悟ったんだ」
アリアンナの目から、一粒の涙が零れ落ちた。それは、己の死を悲しむものではなく、我が子に背負わされた呪われた運命を嘆く、母親としての血の涙だった。
「私を殺すためには、私が『母』になるしかなかった。世界は私を殺し、システムを維持するための礎にする為に……」
アリアンナは、震える声で、最も残酷な結論を口にした。
「……リオは、私を殺す為に……世界が用意した『運命の子』なの」
ガンッ、と。
ルミナとステラの頭を、目に見えない巨大なハンマーで殴りつけられたような衝撃が走った。
視界が揺らぎ、世界が反転するような目眩を覚える。
二人は、ゆっくりと、恐る恐る、ルミナの腕の中で静かな寝息を立てるリオを見つめた。
ぷっくりとした頬、小さな握り拳、微かに上下する胸部。
つい先程まで、自分たちを助けようと、立ち上がった少年。
残酷な現実に幾度も打ちのめされ、心に深い傷を負いながらも、それでも前を向こうと、もがき苦しんでいた、あの優しく不器用な少年。
彼が。
彼という存在そのものが。
ただ「生まれてきた」というその事実だけで、最愛の母親から力を奪い、死に追いやり、そして世界を存続させるための人柱にするための「装置」として、この狂った世界によって設計されていたというのか。
生まれながらにして『母殺し』という、あまりにも重く、おぞましく、そして誰にも償うことのできない原罪を背負わされていたというのか。
「あ……ああ……」
ルミナの口から、呻き声とも悲鳴ともつかない音が漏れ出た。
ボロボロと、彼女の瞳から大粒の涙が堰を切ったように零れ落ち、リオの頬を濡らしていく。ルミナは声を殺して泣いた。リオという存在のあまりの不憫さに、世界というもののあまりの残酷さに、心が引き裂かれていた。
「うぅ……っ、ひぐっ……!」
ステラもまた前足で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き崩れていた。神の残滓である彼女でさえ、この悪意に満ちたシステムの所業を許容することはできなかった。理不尽な世界に対するやり場のない怒りと、リオの背負わされた重すぎる十字架への悲痛が、二人の心を容赦なく蹂躙していた。
「………………」
レインは、ただ目を固く閉じ、一言も語らなかった。
いや、語れなかったのだ。
ほんの少しでも口を開けば、口から溢れ出すのは言葉ではなく、この世界を、神を、運命を、すべてを破壊し尽くさんとするほどの、黒く煮えたぎった憎悪と殺意になることを完全に自覚していたからだ。
彼にできたのは、己の唇を噛み切り、血を流しながら、ただ黙してこの凄惨な現実を受け止め、妻の言葉を胸に刻み込むことだけであった。重苦しい、絶望的な悲鳴と沈黙が交差する地獄のような空間。
そんな中、アリアンナはそっとルミナに歩み寄り、ルミナの腕の中で眠るリオの頭を、愛おしそうに、何度も何度も、優しく撫でた。
「それでもね……私は、感謝しているの」
涙で濡れた顔に、聖母のような、底抜けに優しく、温かい微笑みを浮かべて。
「子供なんて、私とレインには本来絶対に望めないものだった。奇跡すら起こり得ないはずの私たちに、この子は来てくれた。……世界がどんな悪意を持ってこの子を作り出したとしても、私にとってこの子は、かけがえのない私の宝物なの」
撫でる手が、微かに震えている。
「……この子はね、本来は私の死と共に、なんの意味も持たずに虚無に還るはずだった、ただの無垢な魂だった。世界は、私を殺すためだけの使い捨ての道具として、この子を生み出したんだから」
アリアンナの言葉に、ルミナとステラはさらに強く泣きじゃくった。使い捨ての道具。そんな言葉で片付けられていい命など、あるはずがない。
「でも、それだけは絶対に許せなかった。この子が、ただ私を殺すためだけに生まれてきて、消えていくなんて、そんな運命は絶対に認められなかった」
アリアンナの瞳に強い光が宿る。それは、世界に抗う一人の母親としての、苛烈なまでの意志の光。
「だから、私は自分の死を受け入れた。抵抗することをやめ、自分が殺される運命を受け入れて、その分の力のすべてを……この子の魂を守り、未来を繋ぐことだけに注力し続けた。どんな手を使ってでも、この子だけは生かすと決めた」
アリアンナは、リオの小さな額に、そっと口付けを落とした。
「その結果……この子に、新たな、重すぎる運命を背負わせてしまった」
アリアンナは顔を上げ、涙に暮れるルミナとステラを、そして沈黙を貫くレインを見据えた。
「『始まりの騎士』と『終わりの聖女』。……本来交わるはずのなかった二人の血と、狂ったほどの才を、この子は完全に受け継いで、この世に誕生してしまった」
それは神にも等しい力を持つ可能性を秘めた、究極のイレギュラーの誕生。
世界が想定していた「使い捨ての道具」は、アリアンナの命がけの抵抗によって、世界そのものの理すらも覆しかねない存在へと変貌を遂げていた。
「この子は……リオは、ただの人間じゃない。私を殺して生まれた原罪を背負いながら、それでも生きていくために……」
アリアンナの声が、静かに、しかし確かな予言のように、空間に響き渡る。
「この狂った世界そのものを救う運命を背負っている……『救世主』なんだよ」
重すぎる真実の開示。
その言葉の余韻が白い空間に静かに溶けていく中、ただリオの穏やかな寝息だけが、無慈悲なほどに変わらぬリズムを刻み続けていた。
真実を知った者たちの心に、決して消えることのない、重く暗い焔を灯したまま。
リオの正体は主人公では無く、ただの舞台装置でした、最初は。
現時点では、ただの人間です。
次はとっても胸糞悪い話を投稿します。