天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
冷たく、ひどく湿った空気が、石造りの地下牢を重苦しく満たしていた。
光の届かない深く暗い底。微かに灯る松明の炎だけが、壁に不気味な影を揺らめかせている。水滴がどこからか落ちる音——ぴちょん、ぴちょんという単調な響きだけが、時間の経過を辛うじて知らせていた。鉄錆と血、そして泥の混じったようなひどい悪臭が漂う中、空間の中央には太く黒い鎖で手足を戒められた一人の男がいた。
男の名は、アルバード。
このパルシリア王国の第一王子として、誰もがその輝かしい未来を疑わなかった傑物である。文武両道に秀で、民からは慕われ、臣下からの信頼も厚かった、次期国王となるはずだった男。
だが、今の彼にその面影を探すのは難しい。豪奢だったはずの衣服は無惨に引き裂かれて泥と血に塗れ、整っていた髪も今は汚れきって額に張り付いている。
彼は今や、国中から憎悪される大罪人であった。
この世界を救った最大の功労者の一人であり、民衆から絶大な支持を集めていた『終わりの聖女』アリアンナ。彼女を、あろうことか身重の状態で惨殺したという、到底許されざる大逆の罪を犯したのだ。
アルバードの正面には、一人の男が立っていた。
パルシリアの建国王であり、アルバードの実の父親である、エドワード。
彼は、『始まりの騎士』と称される英雄レオンハルト、そして殺されたアリアンナとは、苦楽を共にし、背中を預け合い、世界を救うために命を懸けて戦い抜いた無二の親友であった。
エドワードの纏う空気はまさに絶対零度だった。怒りという熱すら通り越し、ただひたすらに冷徹で、感情の一切を削ぎ落としたような氷の彫像の如き佇まい。彼の双眸は、鎖に繋がれた己の息子を、もはや人間としてではなく、理解不能な異形の怪物を見るかのように見下ろしていた。
長い、長すぎる沈黙が二人の間に横たわっていた。
松明の火の粉が爆ぜる僅かな音すらも、耳障りに感じられるほどの静寂。
やがて、その張り詰めた空気を破ったのは、拘束されたアルバードの方だった。
「……ふっ、ははっ……」
乾いた、ひび割れたような笑い声が、石壁に反響する。
アルバードは泥に汚れた顔を歪め、どこか必死さを取り繕うような、ひどく見苦しい表情を作ってエドワードを見上げた。
「……聞いてくれよ、父上。いや、国王陛下」
その声にはかつての王族としての威厳など微塵もなかった。ただ自己保身に走る、惨めな小悪党の響きだけが意図的に込められていた。
「俺は……俺は、あの二人が心底疎ましかったんだ! ええ、そうですとも! わかっているでしょう!? 俺がどれだけ血の滲むような努力をして、どれだけ剣を振り、どれだけ学問を修め、どれだけ国政で実績をあげようとも……!!」
アルバードは鎖をガチャガチャと鳴らしながら、身を乗り出すようにして叫んだ。その顔には、醜悪な嫉妬と劣等感がこれでもかと貼り付いている。
「あいつらが……あの『始まりの騎士』と『終わりの聖女』がこの国に居る限り、俺は一生、ただの凡人なんだ!! 太陽の前に輝く星など存在しない! 俺の努力も、俺の存在意義も、すべてあの二人の圧倒的な光の前に掻き消される! それがどれほど苦痛だったか……あんたにわかるか!?」
唾を飛ばし、目を血走らせて叫ぶ息子の姿。
それはあまりにも矮小で、あまりにも人間らしく、そしてあまりにも『ありきたりな』嫉妬に狂った男の末路の姿だった。権力と名声に執着するあまり、優れた者に嫉妬し、狂行に走った愚か者。
だが、エドワードの表情は、ただの1ミリたりとも動かなかった。
氷の如き冷徹な瞳は、ただ静かに、そして残酷なまでに正確に、アルバードを見透かしていた。
「……俺を舐めるな、アルバード」
地の底から響くような、重く、低く、そして圧倒的な威圧感を伴った声が、アルバードの甲高い叫びを一瞬にして叩き潰した。
エドワードはゆっくりと一歩だけ、アルバードへと歩み寄る。その一歩だけで、地下牢の空気が物理的な重さを持ったかのように圧縮された。
「お前があの二人を、心の底から尊敬しているのはわかっている」
その言葉に、アルバードの顔に貼り付いていた「醜悪な嫉妬の表情」が、ピシリと凍りついた。
「お前は幼い頃から、レオンハルトの剣技に目を輝かせ、アリアンナの優しさに救われてきた。誰よりもあの二人の英雄譚を愛し、誰よりもあの二人の背中を追いかけてきた男だ。己の地位が脅かされる程度のちっぽけな自尊心で、お前があの二人を害するはずがないことくらい……俺が一番よく理解している」
エドワードの言葉は、確信に満ちていた。
長年、息子を見つめてきた父親としての目。そして、生死を分かつ戦場を駆け抜けてきた王としての鋭い直感。それらが、アルバードの薄っぺらい言い訳を完全に否定していた。
「……本当の理由を話せ」
命令だった。王としての絶対の勅命であり、友を奪われた一人の男としての、血を吐くような要求だった。
アルバードは、凍りついた表情のまま、数秒間エドワードを見つめ返した。
やがて、彼の中で何かが切り替わる音がした。
見苦しく張っていた虚勢の糸がぷつりと切れ、彼を縛っていた「凡人の嫉妬」という仮面が剥がれ落ちる。
「はぁ…………」
深々と、肺の底から絞り出すような長い溜息が、アルバードの口からこぼれた。
それは諦めにも似た、しかしどこか安堵を含んだような不思議な響きを持っていた。鎖に繋がれたまま、彼はゆっくりと姿勢を正した。泥に塗れ、血に染まっていてもなお、そこに現れたのは間違いなく、気高く知性的なパルシリアの第一王子そのものだった。
「……知らない方が、良いですよ?」
先程までの喚き声とは打って変わった、静かで、冷たく、そして酷く澄み切った声。その声色は、あまりにも理性的であり、それゆえに不気味だった。
「嫉妬に狂った男が、劣等感に耐えきれずに凶行に走った。……そうしておいた方が、
良い。その方が、父上にとっても、民にとっても……誰にとってもまだ『マシ』なはずだ。理解できる悪意の方が、人は安心できるものですからね」
アルバードは自嘲するような、それでいてどこか哀れむような笑みを浮かべてエドワードを見つめた。真実を知れば、あなたは確実に壊れてしまう。そう警告するかのように。
「話せ」
だがエドワードの意志は揺るがなかった。友を殺された理由を知らずに、どうしてこの手で息子を裁けようか。
アルバードはまたしても深く溜息を吐いた。今度は、心底面倒くさそうな、あるいは、無理解な大人に真理を教えなければならない子供のような、そんな溜息だった。
「……絶好の機会だったのです」
ぽつりと、アルバードが呟いた。
その瞬間だった。
アルバードの瞳の奥に、誰も見たことのない、どす黒く、しかし太陽のように眩く燃え盛る『何か』が宿ったのは。
それは狂気。いや、狂気という言葉すら生ぬるい、絶対的な『信仰』と『愛』が入り交じった、異形の執念の炎だった。
「……なに?」
エドワードが初めて表情を僅かに歪めた。目の前にいるのは自分の知る息子ではない。何か、人の理解を超えたおぞましい怪物が、息子の皮を被ってそこに座っている。そんな錯覚すら覚えた。
「パルシリアの『神話』になる、絶好の機会だったのですよ」
アルバードは、まるで芸術家が自らの最高傑作を語るかのように、恍惚とした表情で言葉を紡ぎ始めた。
「考えてもみてください、父上。あの二人は、あまりにも強すぎた。あまりにも優しすぎた。そして、あまりにも謙虚すぎた。……後数十年もすれば、あの二人は歴史の表舞台からそっと身を引き、静かに、誰にも知られずに消え去ってしまうでしょう」
鎖がチャリ、と鳴る。
「そして、後世の人々はこう言うのです。『昔、そんな凄い人間が居たらしいね』と。ただそれだけで済まされてしまう存在になる! 歴史の教科書の片隅に数行記されるだけの、埃を被った過去の遺物になってしまう!」
アルバードの顔が怒りと恐怖に歪んだ。それは自分の命が失われることへの恐怖ではない。自分が愛してやまない至高の存在が、凡俗な時間の中に埋没してしまうことへの、絶対的な拒絶。
「嫌だ」
ギリリと、アルバードの奥歯が鳴る。
「絶対に嫌だ!!!」
地下牢の空気を震わせるほどの、魂からの絶叫だった。
「『始まりの騎士』と『終わりの聖女』が! 俺が心から敬愛し、この世界の誰よりも気高く美しいあの二人が! そんな、ただの『過去の偉人』という陳腐な存在になるなんて……絶対に耐えられない!!」
荒い息を吐きながら、アルバードは狂おしいほどの熱を持った瞳でエドワードを射抜いた。
「なら、どうするか? どうすれば、彼らの存在を、その美しさを、その気高さを、永遠に人々の心に焼き付けることができるか? ……簡単です。永遠に語り継がれる『悲劇的な結末』を迎えれば良い」
アルバードの唇が、ゆっくりと弧を描く。それはエドワードですら戦慄するような、無垢で純粋な笑顔だった。
「例えば……そう。世界を救った最強の夫は、最愛の妻子を、最も信頼していた親友の息子によって、無惨な形で殺される」
エドワードの呼吸が、ヒュッと止まった。目を見開き、信じられないものを見るように息子を見つめる。
「これなら……これならきっと! パルシリアという国が存続する限り、決して色褪せることなく、英雄夫妻は永遠不滅の悲劇の主人公として、神話の存在になれるんだ!! 人々の心に、永遠の痛みと畏敬を刻み込むことができる!!」
アルバードの声は、もはや歓喜に震えていた。彼の中では、アリアンナを殺害したという事実は、罪ではなく『神聖な儀式』へと昇華されていたのだ。
「そして俺は!! あの″狂乱の女帝″をも越える、″最悪の敵″として、最も呪われた裏切り者として、英雄夫妻の神話に永遠に刻まれる!!」
ガチャン! と、アルバードが両腕を広げ、鎖が限界まで張り詰める。彼は天井を仰ぎ見ながら、至福の涙すら浮かべていた。
「ああ……なんという幸福……! 俺のような、彼らの足元にも及ばないただの凡人が……彼らの神話を完成させるための、最も重要なピースになれるとは!! これ以上の喜びが、この世にあるでしょうか!?」
ザッ
エドワードは、後ずさりした。
無意識だった。歴戦の勇士であり、一国の王である彼が、鎖に繋がれた丸腰の息子から、恐怖のあまり後ずさりしたのだ。
「…………っ、あ…………」
震える手で、エドワードは自身の両目を覆った。
見たくなかった。知りたくなかった。
確かに、聞かなければ良かった。
この息子の心に巣食っていたのが、悪意でも、野心でも、嫉妬でもなく……底なしの純粋な『愛』と『崇拝』であったという事実を。
「お前は……お前は……ッ!!」
エドワードの口から、血を吐くような、獣の咆哮にも似た震える声が漏れた。
「お前は……あの二人が、どれだけ……!! どれだけ平和を望み、どれだけ血を流すことを嫌い、どれだけ静かな日常を夢見ていたか……!!」
親友たちが、あの地獄のような戦いの中で、どれほどささやかな幸せを渇望していたか。エドワードは誰よりも知っていた。彼らは神話になどなりたくなかった。ただの人間として、愛する者たちと共に笑い合いたかっただけなのだ。
「ええ、わかっていますとも」
エドワードの悲痛な叫びを、アルバードは静かに、涼やかな声で肯定した。
「あの二人は、後世に名を残したいなどとは欠片も思わないでしょう。むしろ、自分たちの力や功績など、綺麗に忘れ去られる方を望むでしょうね。彼らはそういう、愚直なまでに美しい人たちだ」
そこまで言って、アルバードは目を伏せた。
「……だが、俺はそれを望まなかった」
あまりにも身勝手で、あまりにも傲慢な宣告。
英雄たちの意志など関係ない。自分が彼らを永遠にしたかったから、そうした。ただそれだけのこと。
「それだけです」
沈黙が降りた。
先程までの沈黙とは違う、圧倒的な絶望と理解の断絶がもたらす、窒息しそうなほどの沈黙。エドワードは覆った手の隙間から、涙を流していた。一国の王としてではなく、一人の父親として、息子を怪物に育て上げてしまった一人の哀れな男として。
暫くの沈黙の後、アルバードが淡々と口を開いた。
「とはいえ……俺如きの腕では、レオンハルト様とアリアンナ様を殺すことなど、どれだけ巧妙に不意をついても、どれだけ罠を張っても、絶対に不可能でした。彼らの力は次元が違う。俺の野望も、叶わぬ夢だと諦めていたのです。……ええ、あの時までは」
アルバードの目に、暗い光が宿る。
「アリアンナ様の妊娠」
その単語が発せられた瞬間、エドワードの肩がビクッと跳ねた。
「人間から外れ、老いという概念すら無くなったことで、新たな生命を産み出すことが限りなく不可能になっていたレオンハルト様とアリアンナ様。その二人の間に、子供など出来るはずがないと誰もが思っていた。……しかし、奇跡は起きた」
アルバードは、まるで神の啓示を受けた預言者のように、静かに語った。
「その奇跡こそが、最大の『隙』だった。身重となり、力を著しく制限されたアリアンナ様。決して届くはずのなかった天上人に、致命的な弱点が生まれた。……叶わぬ筈の夢が、目の前に現れたのです」
アルバードはエドワードに向かって、まるで無邪気な子供のように微笑みかけた。
「なら、掴むしか無いでしょう?」
その笑顔を見た瞬間、エドワードの心の中で何かが完全に砕け散った。
息子を救う道など、最初からなかったのだ。この男は、狂っているわけではない。彼の中の完全な論理と美学に基づき、自らの意志で、この地獄への道を歩んだのだ。
「……俺は……」
エドワードは、ゆっくりと顔を上げた。その顔は、一気に十年も老け込んだように見えた。生気が抜け落ち、ただ深い後悔だけが刻み込まれた顔。
「俺は、お前の『才』ばかりを見ていて……お前の『心』が、見えて無かったのだな……」
剣の腕、魔法の才、政治の素質。それらすべてが完璧だった息子。だからこそ、その完璧な器の中に、これほどまでに歪で異形な魂が宿っていることに、気づけなかった。
「それは、仕方の無いことかと」
アルバードは、慰めるように、ひどく穏やかな声で言った。
「俺は、レオンハルト様とアリアンナ様を狂おしいほどに愛しています。そして、父上と母上、弟のエリック、このパルシリアの民を愛していることにも、一切の偽りはありません。俺は、皆を愛していました。本当に」
言葉の裏には、一切の嘘はなかった。だからこそタチが悪いのだ。
「ただ……俺は、自分の欲望、自らの描く『神話』のためなら、その愛するすべてを冷酷に裏切り、踏みにじることができる……『ケダモノ』だった」
自らをケダモノと呼ぶその声には、悲観も卑下もなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけだった。
エドワードは、長く、深い深呼吸をした。
肺の底から、すべての感情を吐き出すように。そして、王としての冷徹な仮面を、再び顔に貼り付けた。
「……俺と、次の王となるエリックの子孫には、徹底して『心』の教育を重視させよう。能力よりも何よりも、人としての心を」
「それが良いかと」
アルバードは満足げに頷いた。自分の死後の国のことすら、有能な王族として冷静に分析している。
「王として甘いと言われようが、侮られようが、俺のような人面獣心を王座に座らせる方が、国にとって遥かに危険ですからね。今後のパルシリアを考えると、父上のその判断は正しい」
アルバードはまるで国務の報告を終えたかのように、小さく息を吐いた。
「さて……父上。俺もすべてを語り終えました。そろそろ、終わらせては?」
自らの処刑を促す息子。
しかし、エドワードは首を横に振った。
「……それは、俺の役割では無い」
エドワードが視線を牢の入り口へと向ける。
重く厚い鉄の扉が、軋み音を立ててゆっくりと開かれた。
「入れ」
エドワードの短い声に促され、暗闇の中から一人の男が姿を現した。
ライオネル。
アルバードにとって、王族と臣下という立場や身分の壁を越えた、唯一無二の親友。
そして、アリアンナの義弟であり、彼女の命を守る絶対の警護を任されていた男。
アルバードは自らの計画のために、最も信頼されていた親友であるこのライオネルをアリアンナの警護に専念するよう手筈を整え、巧妙な嘘で引き離した。そして、その決定的な隙を突いて、身重のアリアンナの命を奪ったのだ。
ライオネルにとってアルバードは、無二の親友でありながら、最愛の義姉と、生まれてくるはずだった命を奪った、絶対に許されざる仇敵である。
「…………………」
牢の中に入ってきたライオネルは、言葉を発しなかった。
彼の歩みは、まるで幽鬼のように力なく、しかし確実な足取りでアルバードの前へと進み出た。
アルバードは、親友の顔を見上げた。
そして、僅かに目を瞠った。
ライオネルの瞳には、燃え盛るような怒りも、骨の髄まで焼き尽くすような憎悪も、鋭い殺意も、何もなかったのだ。
そこにあったのは、ただ果てしない『虚無』。
魂を完全にすり潰され、生きる意味も、絶望すらも通り越し、ただの空っぽの容れ物となってしまった男の、底なしの穴のような瞳孔だけがそこにあった。
「……なるほど、確かに」
アルバードはまるで珍しい美術品でも鑑賞するかのように、感心したような表情を浮かべた。
「父上の言う通りだ。誰よりも俺を憎み、誰よりも俺を殺すべきなのは、他でもないライオネルだ」
アルバードは親友に向かって、親しげに語りかける。
「どうした、ライオネル。殺らんのか? 君の剣で、俺の心臓を貫き、首を刎ねればいい。出来れば、俺が犯した罪に相応しい、惨たらしく、苦痛に満ちた末路を与えて欲しいのだがね。俺はそれを喜んで受け入れよう」
挑発ではない。純粋な提案だった。自分が悪役として惨たらしく死ぬことすらも、彼の描く『神話』の一部なのだ。
しかし、ライオネルは動かない。
ただ、虚無の瞳で、鎖に繋がれたかつての親友を、じっと見つめているだけだった。
沈黙が、重く、痛いほどにその場を支配する。
剣の柄に手すらかけようとしないライオネルを見て、アルバードは少しだけ困ったような、そしてひどく優しげな顔つきになった。
「やれやれ……」
アルバードは、まるで出来の悪い弟を諭す兄のような、慈愛に満ちた声を出した。
「この期に及んで、まだ俺を斬ることに躊躇いがあるのか? 君は本当に、優しすぎる男だな」
アルバードの言葉が、牢の中に優しく響く。
「……しょうがない」
そう言うと、アルバードは鎖に繋がれた体を限界まで曲げ、ライオネルに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとう、ライオネル」
それは心の底からの、偽りない感謝の言葉だった。
「君が俺を、最後まで親友として信じてくれたお陰で……俺はあの場から君を引き離し、アリアンナ様を殺すことができた。俺の夢が叶ったのは、君のおかげだ」
その言葉は、刃よりも鋭く、毒よりも残酷だった。
ライオネルの最大のトラウマであり、一生彼を苛み続けるであろう『己の判断ミス』を、アルバードは最大の称賛として語っているのだ。
「君という男を友にできたことが、俺にとってどれほどの幸運だったか。君の存在がなければ、この完璧な悲劇は成立しなかった」
エドワードがあまりの惨酷さに息を呑む。
しかし、アルバードは止まらない。彼は本気で、ライオネルに感謝しているのだから。
「アリアンナ様を守れず、親友に裏切られたという君の悲劇もまた……後世で英雄夫妻の神話を永遠に輝かせる、極上の要因になるだろう」
頭を下げたまま、アルバードは言葉を紡ぎ続ける。彼の声は感動に震えていた。
「本当にありがとう、ライオネル。俺は、君の親友でいられて……幸せだった」
空気を凍らせるような、極限の狂気。
これまでの美しい友情の記憶のすべてを、最も醜悪な形に裏返し、凶器として友の心臓にゆっくりと突き立てる行為。それを、アルバードは一切の悪意なく、純粋な『愛』と『感謝』として行っているのだ。
「君と初めて出会った——」
アルバードが顔を上げ、懐かしい出会いの日を口にしようとした、その瞬間だった。
——シュインッ!!
極限まで研ぎ澄まされた刃が空気を裂く、甲高い風切り音が地下牢に響き渡った。
言葉は、途中で唐突に途切れた。
アルバードの視界が、ぐるり、と縦に回転した。
ゴトッ……。
ボトボトボトッ!!
鈍い音と共に石畳に転がり落ちたのは、アルバードの首だった。
数拍遅れて、首を失った胴体から、間欠泉のように鮮血が噴き出す。凄まじい勢いで天井や壁を赤く染め上げ、やがて糸が切れた操り人形のように、鎖に繋がれたまま胴体が前のめりに崩れ落ちた。
「…………っ、はぁっ、はぁっ……!!」
血飛沫を全身に浴びて立っていたのは、ライオネルではない。
建国王、エドワードだった。
彼の手には、血に濡れた剣が握りしめられていた。
限界だった。
これ以上、この狂った怪物の言葉を、すでに壊れきっているライオネルの心に聞かせることは、あまりにも残酷すぎた。親として、いや、人として、これ以上の陵辱を許すことはできなかったのだ。
「すまない、ライオネル……!」
エドワードは剣を落とし、床に膝をついた。そして、ライオネルに向かって、泣き叫ぶように謝罪した。
「本当に……すまない……っ!!」
その悲痛な謝罪が、果たして何を意味しているのか。
仇を討つ権利を、直前で奪ってしまったことに対する謝罪か。
こんな無惨な狂気を前にして、ライオネルに直接手を汚させようと強要してしまったことへの謝罪か。
それとも、自分の息子が、親友である彼に対して行った、悪魔のような仕打ちに対する親としての謝罪か。
あるいは、そのすべてか。
それは、ライオネルには理解できなかった。
いや、謝罪の言葉を発しているエドワード自身にすら、もはや自分が何に対して謝っているのか完全に理解できてはいなかっただろう。ただ、世界で最も理不尽な悪意に打ちのめされ、謝ることしかできなかったのだ。
牢の中には、エドワードの嗚咽と、血の滴る音だけが響いていた。
ライオネルは、エドワードの謝罪に答えることもなく、ただゆっくりと視線を落とした。
彼の視線の先には、泥と血に塗れた石畳の上に転がっている、アルバードの生首があった。
「…………アル」
擦れた、感情の欠落した声で、ライオネルはかつての親友の名を呼んだ。
転がったアルバードの顔は、驚きに歪んですらいなかった。
恨みも、恐怖も、苦痛の表情もなかった。
その顔は、ただただ純粋に、自らの望んだ『英雄の神話』が完成したことを喜ぶような——
どこまでも無垢で、満足げな、美しい『笑顔』であった。
暗く冷たい地下牢の底で、狂気と悲劇の幕は、ただ静かに、そしてあまりにも残酷に下ろされた。残された者たちの心に、決して癒えることのない永遠の傷跡だけを残して。
この話の何が救えないって、国にとっちゃ最悪の悪行ですが、世界にとっては最高のファインプレーだった事です。
彼のお陰で世界は無事に存続出来ました。