天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
レインの口から深い、深い感嘆の息が漏れた。
「...なるほど、アリアが修正力を発生させずいたのは、そういうカラクリか」
レインの声には驚愕と、そして目の前にいる伴侶の底知れぬ頭脳に対する畏敬の念が入り交じっていた。
「限度はあるけどね」
アリアはさも当然のことのように、しかし少しだけ疲労を感じさせる微笑みを浮かべて答えた。彼女にとってそれは、生き延びるために、そして愛する者たちを守るために必死に編み出した苦肉の策であり、決して万能の解決策というわけではない。
しかし、レインにとってその事実は暗闇の中に灯った強烈な希望の光に他ならなかった。
「構わない、0と1では天地以上の差がある」
レインは力強く断言した。全く手出しができない完全な手詰まりの状態(ゼロ)と、どんなに困難で危険であろうともそこに一本の細い糸が垂れ下がっている状態(イチ)。その二つの間には、それこそ天地がひっくり返るほどの決定的な違いがある。方法があるのならそれを極限まで研ぎ澄まし、実行するだけだ。彼の中の戦士としての血が、静かに、しかし確実に沸き立ち始めていた。
「術式はコレ」
アリアがそう言って右手を軽く宙に掲げると、何もない虚空から突如として眩い光の粒子が溢れ出した。
それは優しく、しかし星々の瞬きのように荘厳な輝きを持っていた。光の粒子は瞬く間に集束し、空中に幾何学的な紋様——緻密にして複雑怪奇、人間の脳髄では到底処理しきれないであろう膨大な情報量を持った魔法陣を描き出した。青白い光を放つその術式は、ゆっくりと回転しながら、周囲の空気を微かに震わせている。
アリアはその魔法陣を手のひらでそっと押し出すようにして、レインの胸元へと流し込んだ。
「レインなら少し練習すれば使いこなせるよ」
アリアは、まるで料理のレシピでも教えるかのような、拍子抜けするほど軽い調子で言った。
その言葉にレインは顔をしかめ、これ以上ないほど呆れたような表情を浮かべた。彼の中で今まさに渦巻いている情報は、最高位の魔術師が一生をかけても理解できるかどうかという次元の代物である。それを「大して複雑じゃない」と切り捨てることができるのは、世界広しといえども目の前にいるこの女だけだろう。
「コレを簡単だと言えるのはお前だけだ」
レインは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら、重い溜息を吐いた。彼の言葉には呆れと同時に、アリアという規格外の存在に対する深い信頼と親愛が込められていた。
一方、ルミナの肩の上に座っていたステラは、二人のやり取りを信じられないといった様子で見つめていた。
「出来るんだ...出来ちゃうんだ、それ?」
ステラの呟きは感心を通り越して、もはや畏怖に近い響きを帯びていた。
ステラの驚きを受けて、アリアは少し照れくさそうに、困ったような笑みを浮かべた。
「別に純粋な神格って訳じゃないからね」
彼女は自身の特異な生い立ちを説明するように言葉を繋いだ。
「一応、私とレインは人間でもあるから」
そして、アリアは少し目を伏せ、後悔を滲ませた声で呟いた。
「...レインに教えるべきだったかな?」
もし、この術式をレインに教えていれば。そうすれば、彼はあんなにも苦しみ、絶望の淵を彷徨うことはなかったのではないか。そんな自責の念が、彼女の顔に暗い影を落とした。
しかしレインはその考えを即座に、そして断固として否定した。
レインは深く、重い溜息を吐き出した。それは自らの内に潜む、一歩間違えれば破滅をもたらしていたであろう恐ろしい感情を自覚してのものだった。
「遺書に残さなくて正解だ」
彼の声は低く、そして恐ろしいほどの真実味を帯びていた。
「お前が死んだ直後の俺が知れば、何をするかわかったもんじゃない」
あの時のレインはアリアを失った絶望で完全に正気を失いかけていた。もしあの状態でこの術式を手にしていたら。
「王国が滅ぼうとも、進んでいた可能性がある」
彼は間違いなく、アリアを取り戻すためだけに力を乱用しただろう。ただ自分の愛する女を取り戻すためだけに、狂気のように力を振るい続けたはずだ。
「...うん」
アリアはレインの言葉の裏にある深い愛情と、それゆえの恐ろしいまでの執念を理解し、ただ一言、小さく頷くことしかできなかった。
そんな重苦しい空気を打ち破ったのは、微かな衣擦れの音だった。
くいっ、くいっ。
アリアが視線を下げるとそこには、いつの間にか彼女の足元まで歩み寄っていたルミナの姿があった。ルミナの小さな手が、アリアのスカートの裾をしっかりと握りしめて引っ張っている。
「ルミナちゃん?」
アリアは驚いてルミナの顔を覗き込んだ。
ルミナの瞳は、燃えるような強い光を放っていた。
「...わたしにも、ちょうだい」
ルミナの声は小さかったが、その中には決して揺るがない、鋼鉄のような意志が込められていた。
「それは...」
アリアは躊躇した。いくらルミナの中に尋常ではない力が眠っているとはいえ、こんな小さな子供に背負わせるには、あまりにも重すぎる。
しかし、ルミナは一歩も引かなかった。彼女はアリアの目を真っ直ぐに見据え、自らの魂からの叫びを言葉にした。
「リオといっしょにたたかう」
その言葉には一切の迷いがなかった。リオを一人にしない。リオと共に運命に抗う。そのために力が必要ならば、どんな危険なものであろうと受け入れる。ルミナの全身から発せられる圧倒的な決意のオーラが、アリアを圧倒した。
「............」
アリアが言葉に詰まっていると、横からレインが静かに、しかし力強くルミナの言葉を後押しした。
「アリア、ルミナは決して引かんぞ」
レインにはわかっていた。ルミナがリオに対して抱いている感情は、単なる庇護欲や同情ではない。それは同じ絶望を共有し、同じように運命をねじ曲げられた者同士の、魂の深い部分での共鳴なのだ。ここでルミナを止めることは、彼女の存在意義そのものを否定することに等しい。
レインの言葉を聞き、ルミナの揺るぎない瞳を見つめ返したアリアは、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「だよね...」
アリアは苦笑いを浮かべ、ルミナと同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
「取り敢えず、渡しておくよ」
アリアの右手に、再び光の紋様が浮かび上がった。しかし、彼女の表情は極めて真剣だった。
「でも、戦って欲しいからじゃ無いよ?」
アリアはルミナの小さな手を両手で包み込み、言い聞かせるように語りかけた。
「自分の身を守る為だからね?」
アリアにとって、ルミナもまた大切な存在だ。これ以上、誰も傷ついてほしくない。誰も犠牲になってほしくない。だからこそ、これはあくまで防衛手段なのだと強く念を押した。
「ん」
ルミナは短く、しかしはっきりと頷いた。
「大丈夫かなぁ?」
アリアはまだ不安を拭いきれない様子だったが、意を決して手の中の魔法陣をルミナへと譲渡した。淡い光がルミナの小さな体へと吸い込まれ、彼女の瞳の奥で微かに魔力が瞬いた。
「ん、これでリオといっしょにいける」
術式を受け取ったルミナは、胸のあたりを両手でギュッと押さえ、心の底から嬉しそうに安堵の笑みを浮かべた。その無邪気な笑顔が、彼女が背負おうとしているものの重さと不釣り合いで見ている者の心を締め付けた。
「どうしよう、なんか不安になってきた」
ルミナのあまりにも真っ直ぐな反応を見て、アリアは思わず頭を抱えた。力を与えたことで、かえってルミナを危険な場所に飛び込ませる結果になるのではないか。そんな懸念が頭をよぎる。
レインもまた半分呆れたような、しかしどこか諦観の混じった声で呟いた。
「しょうがない、あのままだと突っ走るのが目に見えてる」
ルミナの性格上、力があろうとなかろうと、リオの危機となれば何も考えずに飛び出していくことは火を見るより明らかだった。ならば丸腰で突っ込ませるよりは、強力な防御手段を持たせておいた方がまだマシだ。レインはそう自分を納得させた。
そんな二人のやり取りを見て、ルミナの肩の上にいたステラが、ピンと背筋を伸ばしてアリアをフォローするように声を上げた。
「アリア、僕もルミナを抑えるから」
ステラは、ルミナのストッパー役を引き受けると宣言した。
「...あんまり自信無いけど」
しかし、すぐにしゅんとして付け加えたその言葉に、ステラ自身のルミナに対する制御の自信のなさが如実に表れており、少しだけその場の空気が和らいだ。
ステラはふわりと宙に浮き上がると、ルミナの肩からアリアの肩へと移動した。そして、ルミナやレインには聞こえないように、アリアの耳元に顔を近づけ、内緒話をするように囁いた。
(ところでさ)
ステラの声には、純粋な疑問と、微かな懸念が入り交じっていた。
(此処でルミナが神さまパワーで散々暴れまわったけど大丈夫?)
先程ルミナは自身の感情を爆発させ、この空間で凄まじい力の奔流を引き起こした。あれほどの規模で神に連なる力を振るえば、通常であれば即座に修正力のターゲットになり、世界から何らかのペナルティを受けてもおかしくないはずだ。
その問いに対し、アリアはステラに向かってウインクをして見せ、同じように小声で返した。
(大丈夫だよ、この世界は私のものだから)
アリアの声には、絶対的な自信が満ちていた。彼女が管理してきたこの特異な空間。ここでは彼女のルールがすべてに優先する。
(うん、暫く大変になるけど平気へっちゃら...)
しかしそれに続く言葉には、膨大な事後処理とシステム修復の苦労を予感させる、血の滲むような響きがあった。神の力によって負担をかけた空間の修復。それはまさに、精神をすり減らす終わりのないブラック業務そのものだった。
その隠された苦労を悟り、ステラは心底申し訳なさそうに眉を下げた。
(ごめんね...)
ステラはそう呟くと、再びふわりと飛び上がり、元の定位置であるルミナの肩へと戻っていった。
アリアはそんなステラを見送った後、ゆっくりと深く息を吸い込み、そして目を閉じた。
彼女の顔から先程までの柔らかな笑みが消え、代わりに避けられない別れの時を受け入れる、静かで、しかし張り詰めた決意の色が浮かんだ。
「...そろそろ、終わりにしよっか」
アリアの声は、静まり返った部屋の中に、波紋のように静かに広がっていった。
その言葉の意味を理解し、レインの顔が微かに歪んだ。
「アリア...」
レインはすがるように彼女の名前を呼んだ。もっと言葉を交わしたい。もっと一緒にいたい。しかし、今の彼女が置かれている状況の危うさを知っているからこそ、無理を言うことはできなかった。
「余り長居するのは良くないよ」
アリアはゆっくりと目を開け、悲しげに微笑んだ。長く留まれば留まるほど、取り込まれるリスクが高まり、結果として彼らを危険に晒すことになる。
「特に、この子はね」
アリアはそう言って、ルミナの腕の中で静かに眠り続けるリオの柔らかな髪をそっと撫でた。
ルミナはアリアの決意を痛いほどに理解していた。しかし、どうしても、最後に一つだけ叶えてほしい願いがあった。
ルミナはおずおずと、消え入りそうな声で口を開いた。
「アリア...もう一度リオを...」
最後に、もう一度だけ、リオを抱きしめてほしい。言葉にはならなかったが、その想いは十分に伝わっていた。アリアがどれほどの覚悟で彼らを送り出そうとしているかを知りながら、それでも、母としての温もりをリオに少しでも多く残してあげたかったのだ。
ステラは、そんなルミナの悲痛な願いと、アリアの葛藤を、ただ悲しげな眼差しで見つめることしかできなかった。
しかし、次の瞬間。
ルミナが言葉を言い終わるよりも早く、アリアは勢いよく両手を広げ、ルミナごと、そして彼女の腕の中にいるリオ、さらには肩に乗っているステラまでもまとめて、強引に、しかし力一杯抱きしめたのだ。
「とりゃあ!」
突然のことに、ルミナとステラから素っ頓狂な声が上がった。
「んん!?」
「うにゃあ!?」
視界が突然塞がれ、アリアの柔らかな胸と、彼女特有の甘く優しい香りに包み込まれる。
アリアは驚く二人を抱きしめたまま、先程までの悲壮感など微塵も感じさせない、悪戯っ子のような明るい声を上げた。
「むっふっふっふっふ!」
彼女はルミナの頬に自分の頬をすり寄せ、まるでぬいぐるみでも愛でるかのように堪能し始めた。
「ん〜ルミナちゃんも良い感じ!」
それは悲しい別れの空気を吹き飛ばすための、アリアなりの精一杯の強がりであり、そして不器用な愛情表現だった。
しばらくの間、アリアは三人(正確には二人と一匹)を抱きかかえたまま、その温もりを、その命の鼓動を、自身の魂に深く刻み込むように無言で抱擁を続けた。
やがて、アリアの腕の力が少しだけ緩んだ。
そして、ルミナの肩口に顔を埋めたまま、アリアの口から、微かに震える声が漏れ出した。
「...ごめんなさい」
その言葉と同時に、ポツリと、温かい雫がルミナの首筋に落ちた。
「私の、せいで、いっぱいツライ思いをさせちゃって...」
アリアの声は次第に嗚咽に変わっていった。強がりは完全に剥がれ落ち、そこにあったのは、愛する者たちに重すぎる運命を背負わせてしまった罪悪感に押し潰されそうな、一人の弱く、不器用な母親の姿だった。
「本当にごめんなさい...」
アリアの目から溢れ出した涙は止まることなく、ルミナの肩を濡らしていった。
ルミナはアリアのその痛いほどの悲しみを受け止め、そっと自分の小さな手を伸ばし、アリアの背中を、そして頭を優しく撫でた。
ステラもまた、アリアの頭の上から、彼女の髪を宥めるように撫で続けた。
レインは少し離れた場所から、その三人が抱き合い、涙を流す光景を、ひどく眩しそうな、そして慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。彼の胸の奥で、かつて失いかけた炎が、再び力強く燃え上がっていくのを感じていた。
レインは、静かに、絶対に果たすべき誓いとして、口を開いた。
「アリア」
涙に濡れた顔を上げたアリアの瞳を、レインは真っ直ぐに見据えた。
「俺とリオが、必ずお前を救い出す」
それは神の予言よりも確かな、魂の底からの誓いだった。
「待っててくれ」
その言葉に、アリアは涙を拭い、大きく、力強く頷いた。
「うん」
彼女の顔には、もう迷いも絶望もなかった。愛する者たちが迎えに来てくれるという希望が、彼女に再び立ち上がる力を与えていた。
しかし、そのレインの誓いに対して、ルミナとステラがすかさず訂正を入れた。
「ちがう、わたしも」
ルミナは、不満そうに頬を膨らませてレインを睨んだ。自分も一緒に戦うのだ。置いてけぼりになどされるつもりはない。
「僕もだよ!」
ステラもまた、ルミナの頭の上から元気よく声を上げた。
その二人の抗議の声に、レインは一瞬目を丸くした後、肩の力を抜いて、ふっと笑みをこぼした。アリアもまた、涙で濡れた顔のまま、堪えきれずに吹き出した。
初めて温かい笑い声が響き渡った。
絶望に満ちていた彼らの未来に、確かな希望の光が差し込み始めていた。彼らは孤独ではない。手を取り合い、力を合わせれば、どんな理不尽な運命であろうとも、きっと打ち破ることができる。誰もがそう信じ、来るべき戦いに向けて心を一つにしていた。
——希望が見えてきた。
だが、彼女たちは知らなかった。
この先、無垢な寝顔を見せているリオに待ち受けるものが、どれほど常軌を逸した、″残酷な運命″であるかを。
世界の残酷さをまだ見誤っている事を、彼女たちはそう遠くない未来、嫌というほど思い知らされる事になる。