天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
資格試験や仕事で凄く忙しいですね。
気が付けば二万UAになっててビックリしました。
白亜の空間に、淡く、しかし確かな温もりを伴った魔力の粒子が漂っていた。
それは、これから旅立とうとする者たちと、それを此処に留まって見送らねばならない者との間に引かれた、残酷で美しい境界線のように見えた。
「行ってらっしゃい、ルミナちゃん、ステラちゃん」
アリアンナの唇から紡がれたその声は、春の陽だまりのように柔らかく、そして、どこまでも優しかった。彼女の透き通るような双眸には、深い慈愛と、ほんの少しの寂寥が入り混じった複雑な光が宿っている。
その言葉を受け取ったルミナの隣で、ステラが静かに一歩前へ出た。
「アリア、待っててね」
ステラの声は、静寂に満ちた空間に凛と響いた。彼女はアリアンナを真っ直ぐに見据え、己の魂に誓いを刻み込むように言葉を続ける。
「君も、救い出すから」
その言葉には、千金の重みがあった。
ヴァージニアに囚われている無数の魂を救い出すこと。それは彼女に課せられた大いなる使命である。だが今、ステラの胸中には、それと同等——いや、あるいはそれ以上に強烈な動機が宿っていた。
愛する妹、アリアンナを、この過酷な運命の檻から解放すること。
姉として、何があっても成し遂げねばならない悲願であった。
「うん、お姉ちゃん」
アリアンナは、微かに目元を潤ませながら、花がほころぶような笑みを浮かべて深く頷いた。
姉妹の絆を目の当たりにし、ルミナもまた、胸の奥底から湧き上がる熱い感情を抑えきれずにいた。
「アリア」
ルミナは、アリアンナを見上げて言った。理不尽な運命に真っ向から立ち向かい、打ち砕いてみせるという、燃え盛る炎のような決意が宿っていた。
「リオといっしょにむかえにくる」
一言一言を、噛み締めるように。
空間に言葉を刻みつけるように。
「絶対に」
その言葉は、ルミナの魂の叫びそのものだった。リオがいてくれれば、なんだってできる。どんな絶望的な闇の中にいても、必ず彼と一緒にアリアを光の下へ連れ戻す。その強固な意志が、ルミナの全身から立ち昇っていた。
そんなルミナの気迫に触れ、アリアンナは少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「……無茶しちゃ駄目だよ、ルミナちゃん」
それは、未来を見通す力を持つ彼女だからこそ抱く、切実な懸念だった。ルミナの危ういほどの真っ直ぐさが、時として彼女自身を傷つける刃になり得ることを、アリアンナは痛いほど理解していたのだ。母親が我が子を心配するような、優しくもたしなめるような口調。
そしてアリアンナは、ゆっくりと視線を動かし、ルミナの傍らに立つ青年に向けた。
リオ。
彼女の愛する息子。
アリアンナは静かに歩み寄り、そっと手を伸ばした。
細く白い指先が、リオの髪に触れる。
「……リオ」
名前を呼ぶ声は、微かに震えていた。
撫でる手のひらから、伝えたくて伝えきれない万感の思いが溢れていく。
産まれてからこれまでのこと。背負わせた過酷な運命のこと。親として、側にいてやれなかった後悔。そして、こんなにも立派に、心優しい青年に育ってくれたことへの底知れぬ感謝。
「…………」
アリアンナは、それ以上何も言わなかった。
いや、言葉にする必要がなかった。紡ぐべき言葉はあまりにも多く、どんな言葉を選んだとしても、この瞬間の感情を表現するには足りなかったからだ。
ただ静かに、慈しむように、幾度も幾度も彼の頭を撫でる。その沈黙の中に、母と子の間にしか通じ合わない、血よりも濃い感情の交感があった。
少し離れた場所から、レインはただじっと、その光景を見つめていた。
腕を組み、彫像のように動かない横顔には、厳格な騎士としての仮面の奥に、一人の父親としての痛切な感情が張り付いている。妻と息子が触れ合う、奇跡のような、しかしすぐに終わりを迎えてしまう残酷な時間。その一秒一秒を己の魂に焼き付けるように、レインは瞬きすら忘れてその光景を凝視していた。
やがて、別れの時は容赦なく訪れた。
空間の底から湧き上がるように、眩い光がリオ、ルミナ、ステラの三人を包み込み始める。
「アリア!」
「アリア……」
光の奔流の中で、ステラとルミナが同時に悲痛な叫び声を上げた。伸ばされた手は空を切り、彼女たちの姿は次第に強烈な光の中へと溶け込んでいく。
その刹那。
完全に姿が消え去る直前、リオの唇が微かに動いた。
「ま……」
声にはならなかった。だが、その唇の動きは確かに何かを伝えようとしていた。
『待ってて』なのか、『またね』なのか。あるいは、もっと別の言葉だったのか。
それは誰の耳にも届くことなく、光の爆発と共に呑み込まれた。
光が収束した後の空間には、もはや彼らの姿はなかった。
ただ、舞い散る魔力の残滓が、虚空を漂い、そしてゆっくりと消えていくだけだった。
圧倒的な静寂が、空間を支配した。
先程までの熱気や、交わされた言葉の余韻すらもが、冷たい風に吹き消されたかのように失われている。
レインは、静かに歩みを進め、アリアンナの傍らに立った。
彼女はリオたちが消えた虚空を、ただ呆然と見つめ続けていた。
その瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちる。
声も出さず、ただ静かに泣く彼女の肩は、ひどく小さく、脆く見えた。世界を救うために己を犠牲にする「終わりの聖女」としての重責を脱ぎ捨てた、一人の母親、一人の女性としての剥き出しの悲しみがそこにあった。
レインは、何も言わなかった。
安易な慰めの言葉など、今の彼女には何の意味も持たないことを知っていたからだ。
ただ、無言のまま彼女の隣に立ち、その存在で彼女を支えようとした。岩のように揺るぎない彼の気配が、アリアンナの冷え切った心を少しずつ温めていく。
二人の間に流れる時間は、ひどくゆっくりとしていた。
ただ涙の落ちる音だけが、世界のすべてであるかのように錯覚するほどの、深く静かな時間。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
永遠にも感じられた沈黙を破ったのは、アリアンナだった。
「もう、大丈夫だよ……」
彼女は手の甲で乱暴に涙を拭い、鼻をすすると、無理に作ったような、しかしどこか吹っ切れたような笑みをレインに向けた。
「アリア……」
「行ってあげて。リオの方が大変だろうから」
彼女の眼差しには、先程までの悲哀は薄れ、代わりに強い意志の光が宿っていた。自分はここで持ち堪える。だからあなたは、息子のために剣を振るってほしい。そんな無言のメッセージが込められていた。
「ああ、俺はリオを守る」
レインは力強く頷いた。
父親としての責任。騎士としての誇り。それらすべてを懸けて、リオの盾となり剣となることを誓う。
しかし、その決意に満ちたレインの言葉に対して、アリアンナから返ってきたのは、ひどく間の抜けた予想外の一言だった。
「……大変なのは、女の子関係だから」
「は?」
レインの口から、素っ頓狂な声が漏れた。
緊迫した空気が、見えない針で突かれた風船のように一瞬で弾け飛ぶ。
「女の子……関係、だと?」
眉根を寄せ、困惑を露わにするレイン。帝国の軍勢を単騎で殲滅したこともある伝説の騎士が、今ばかりは完全な思考停止に陥っていた。
「リオがダンジョンに入るには、その、ど、童貞じゃないといけなくって、ね?」
アリアンナは、少し頬を赤らめながら、言い淀むように、しかしはっきりとそう告げた。
「あ、ああ……」
レインは額に手を当て、深く天を仰いだ。
思い出したのだ。このふざけた、しかし極めて深刻なルールのことを。
「聞こえはバカらしいが、切実な事情があってだな……?」
自らに言い聞かせるように呟くレイン。
そう、ステラが与える「加護」。業魔という、常軌を逸した力を持つ怪異に対抗するための絶対条件であるその加護は、「純潔の存在」にしか与えられないという理不尽極まりない制約が存在した。
もし、リオが純潔を失った状態でダンジョンに足を踏み入れれば、加護を失い、業魔の前に成す術なく蹂躙される。それは即ち、自殺行為に他ならなかった。
「うん、わかってる、わかってるの」
アリアンナは何度も頷きながら、ふと首を傾げた。
「でも、リオって幼馴染みのミリアちゃんとレイナちゃん位しか女の子に縁が無いよね? しかも、彼女達には恋人が居るし……」
そのアリアンナの言葉は、レインの心の古傷を、塩を塗り込むように容赦なくえぐった。
「……ああ、最近派手に玉砕してしまったな」
レインの口調が、急激に重く、沈鬱なものに変わる。
彼の脳裏に、あの忌まわしい記憶が鮮明にフラッシュバックしていた。
——王宮の謁見の間。
その華やかな舞台の中心で、リオの淡く、純粋な初恋は、あまりにも無惨な形で引き裂かれた。
ミリアへの想い。幼い頃から積み上げてきた、不器用で誠実な感情。それが、衆人環視の中で、まるで安っぽい喜劇のワンシーンのように踏みにじられたのだ。
あれは「青春殺人事件」と呼ぶにふさわしい、凄惨極まる玉砕劇だった。
思い出すだけで、レインの拳がギリッと音を立てる。
若者が失恋を経験すること。それは成長のための通過儀礼かもしれない。
だが、あんな形で。あんな残酷な舞台装置の中で終わらせられるなんて、親として到底納得できるものではなかった。
その元凶とも言えるエドワール。彼に悪意がなかったことは百も承知だ。しかし、『もう少しやりようは無かったのか』という怒りが、当時の記憶と共に再びふつふつと胸の奥底から湧き上がってくる。
レインの周囲の空気が、微かにだが揺らいだ。
その感情の機微を敏感に察知したのか、アリアンナもまた、頬をぷうっと膨らませて、不満げな、そして少し怒ったような表情を見せた。
「あれに関しては、エドワールさんとちょ〜とお話したいかな、かな?」
終わりの聖女としての威圧感ゼロの、しかし裏を返せば底知れぬ圧力を孕んだ「母親の怒り」の表明だった。
「その分、俺がたっぷり絞ってやったから勘弁してやってくれ」
レインは溜息をつきながら、燃え上がりかけた怒りを鎮めた。
「始まりの騎士」に、文字通り雷を落とされるように怒られ、真実を知ったエドワールはショックのあまり倒れてしまった。
ただでさえ精神的に追い詰められているエドワールが、その上で「終わりの聖女」であるアリアンナにまで直接お小言を頂戴した日には、今度こそ彼の胃壁は完全に溶け落ち、修復不可能になるだろう。
「むう」
アリアンナはまだ少し納得がいかない様子で唇を尖らせたが、それ以上追及することはやめた。
「話を戻そう」
レインは咳払いをして、本題に軌道修正を図る。
「確かに、ミリアが好きだったにせよ、あいつは女に奇妙なくらい縁がない。まるで何かに避けられているかのようにな。だが……まさか」
レインの脳裏に、ある途方もない仮説が閃いた。
いや、この世界における神々の悪ふざけのような理不尽さを思えば、十分にあり得る仮説だ。
「世界が……リオから女運を堰き止めちゃったの」
アリアンナの口から告げられた真実は、レインの予想を遥かに超えるスケールの理不尽さだった。
「リオが……童貞であるために」
「………………おおう」
百戦錬磨の英雄であるレインの口から、情けない呻き声が漏れた。
世界そのものが、確率や運命を操作し、彼からあらゆる女性との縁を物理的・概念的に遮断していたというのか。
神の御業の無駄遣いにも程がある。
「それで、その堰もヴァージニアと接触して壊れちゃった」
アリアンナは、深刻な表情で言葉を続ける。
「今まで無理やり堰き止めていた水が、一気に決壊したのを想像してみて? その反動で、これからのリオの女運がすっごくなっちゃうの」
「すっごく?」
「物凄くモテるか、あるいは、物凄い女の子に好かれちゃうとか」
アリアンナの瞳に、未来のビジョン、あるいは現在のルミナの強烈な思念が映り込んでいるようだった。
「……例えば、ルミナちゃんとか、ステラちゃんとか、ルミナちゃんとかルミナちゃんとかルミナちゃんとか!」
「ルミナが大きすぎるぞ!?」
レインは思わずツッコミを入れた。
確かにルミナのリオへの執着は常軌を逸している部分がある。彼女の真っ直ぐすぎる愛情は、時にリオを飲み込んでしまうほどの質量を持っている。
「気持ちはわかるが……しかし、あの幼いルミナがそこまで……」
「それと最近は、黒髪の凄く元気そうな女の子が見えるの!!」
アリアンナはレインの言葉を遮り、両手で頭を抱えるようにして未来視の光景を語り始めた。
「『とうとい……とうといわ……』って、鼻血出しながら這いずって、リオとルミナちゃんに近寄ってくるの! なにあの生き物!? 怖い!」
「鼻血を出しながら這いずる女……?」
レインの顔が引き攣った。
世界が堰き止めていた「女運」の反動は、ただモテるという生易しいものではなく、強烈な個性(あるいは業)を背負った女性たちを磁石のように引き寄せる特異点に、リオを変えてしまったらしい。
「だから、リオに近寄る女に気を付けて! 絶対に彼を守って!」
「わ、わかった。善処する……」
凄まじい剣幕のアリアンナに気圧され、レインは冷や汗を流しながら頷いた。
業魔と戦うよりも、息子の貞操を狙う得体の知れない女たち(這いずる鼻血女含む)から彼を守る方が、よほど難易度が高い任務に思えてきた。
アリアンナは荒い息を吐きながら、まだ見え隠れする未来の断片に目を凝らしていた。
『物凄い女の子に好かれる』。
その概念が、彼女の優れた、しかし時として暴走しがちな思考回路の中で、あるひとつの危険な論理的帰結に到達してしまった。
(あれ……?)
アリアンナの内的独白が、急速に混乱の渦へと巻き込まれていく。
(そういう理屈で言えば……。物凄い女の子……。ルミナちゃんに負けず劣らずの、"凄い"女……)
彼女の視線が、ゆっくりと、恐る恐る目の前の人物——レインへと向けられる。
レイン。
伝説の騎士。そして、リオを産む為に肉体を『女性』へと作り変え、自らの胎内でリオを十月十日育て上げ、産み落とした存在。
レインは間違いなくこの世界でトップクラスの「凄い女(」であった。
(………………レイン、も?)
その思考が閃いた瞬間、アリアンナの脳内に、決して見てはならない可能性の果てが、フラッシュバックのように鮮明な映像として叩き込まれた。
(お、夫が、息子に寝取られるなんて耐えられないよ!!)
未来視の暴走。それは、限りなくゼロに近い、しかし「可能性としては存在する」並行世界のビジョンを無作為に引き寄せてしまう。
(ああああ、この眼が憎い! 極々僅かな確率だけど、リオとレインがあーんなことやこーんな事をしてる可能性がががががか!!?)
脳裏に浮かぶ、美青年に成長した息子と、レインが、禁断の背徳に溺れる映像。
(えっ?)
さらに、暴走は止まらない。
(私も……?)
自分と、レインと、リオ。
家族三人で、倫理の壁を粉々に打ち砕き、禁書指定レベルの背徳的で狂気的な愛の営みに耽っている未来。交錯する視線、絡み合う手足、喘ぎ声——。
「ごふう!?」
アリアンナの口から、カエルのような奇声と共に、目に見えない何かが噴き出した。
鼻血が出たわけではないが、彼女の脳内ヒューズが完全に飛んだ音だった。
「な、どうしたんだ!?」
突如として白目を剥き、膝から崩れ落ちようとするアリアンナを、レインが慌てて抱き止める。
「あふん」
アリアンナは情けない声を上げ、レインの腕の中で完全に脱力した。
息子と母(物理的な産みの母であるレインと、魂の母であるアリアンナ)の、常軌を逸した三つ巴の営み。それは、純真なアリアンナの脳のキャパシティを、光の速さで超越していた。
「アリア!!? しっかりしろ、アリア!」
レインが揺さぶると、アリアンナはハッと息を呑み、スプリングが弾けるような勢いで直に起き上がった。
「ふん!!」
顔を真っ赤にして、力強く鼻息を荒げる。
「ごめんね、ちょっと有り得ない事を妄想しちゃったから」
視線を泳がせながら、両手で顔をパタパタと扇ぐアリアンナ。
「うん、あんなの有り得ない。絶対に。天地がひっくり返っても」
ブツブツと自己暗示のように呟く妻を見て、レインは密かに観察と分析を行っていた。
(そうか。僅かでも可能性が見えたから、脳の処理が追いつかずにダウンしたのでは……?)
レインはアリアンナの未来視の特性を知っている。だが同時に、彼女の性格も熟知していた。
(この様子だと、差し迫った脅威や人死にが出るような未来を見たわけでは無さそうだ。……むしろ、何か下らない、しかし彼女にとっては致命的な恥ずかしい妄想か)
長年の付き合いから、レインは素早く結論を導き出した。
妻のこのポンコツな面は、昔から変わっていない。ここで下手にツッコミを入れて深掘りしようとすれば、彼女は羞恥心のあまり大暴走を起こし、収拾がつかなくなる。
(そっとしておこう……)
レインは賢明な夫として、敢えてそれ以上踏み込まないことを決断した。
「はあ、はあ、はあ……」
まだ少し息を乱しているアリアンナが、縋るような瞳でレインを見上げた。
「……リオを、守ってあげてね?」
その言葉には、迫り来る業魔の脅威からだけでなく、「恐るべき女たちの魔の手」から息子の貞操を死守してほしいという、並々ならぬ執念が込められていた。
「あ、ああ……」
レインは額の汗を拭いながら、少しだけ引き攣った笑みを浮かべた。
「女絡みで俺がどれだけ力になれるかはわからんが……やってみよう」
神殺しよりも難題に思えるが、父親として、母親として、何より愛する妻の頼みだ。全力で立ち向かうしかない。
「お願い」
アリアンナは、ふっと表情を和らげた。先程までのパニックが嘘のように、その顔には静かな微笑みが戻っていた。
「……ありがとう、レイン」
彼女は、レインの手を両手で包み込んだ。
その温もりが、冷え切っていたアリアンナの心臓の奥まで染み渡る。
「会えて、本当に嬉しかった」
「俺もだ、アリア」
レインは彼女の手を優しく握り返した。
その細い指が、過酷な運命の重さに耐え続けているのだと思うと、胸が張り裂けそうになる。
「……お前をここに置いて行きたくない」
本音が口をついて出た。
力ずくで彼女を連れ去りたい。この理不尽な空間から引き摺り出して、家族三人で、いや五人で、陽の当たる場所で笑い合いたい。その衝動を抑え込むのに、レインは全精神力を注ぎ込まねばならなかった。
「駄目だよ」
アリアンナは、静かに、しかし断固として首を横に振った。
「私が此処に居ないと、世界が滅んじゃう」
彼女の言葉は悲痛な事実だった。彼女がこの空間で「終わりの聖女」としての役割を果たし続けなければ、ヴァージニアの呪いは世界を完全に飲み込んでしまう。
「リオの生きる世界を、守りたいの」
母親としての、究極の愛。
自らの自由と幸福を永遠に放棄してでも、息子の明日を紡ぎたいという、高潔で悲しい決意。
「……アリア」
レインは言葉に詰まった。彼女の覚悟の前に、どんな反論も無力だった。
「私も辛いけど……」
アリアンナは、レインの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「貴方やリオ、ルミナちゃんやステラちゃんが居るから。みんなが、外の世界で戦ってくれているから」
彼女の目から再び涙が溢れそうになるのを、必死に堪えているのがわかった。
「うん、きっと大丈夫」
自らに言い聞かせるように、彼女は気丈に笑った。
だがその強がりが、レインには痛いほどにわかってしまう。
「お前の『大丈夫』はアテにならん」
わざと、少しだけぶっきらぼうな声を出して、レインは言った。
「酷い!?」
アリアンナが目を丸くして抗議の声を上げる。
その表情の変化に、レインは少しだけ救われた気がした。重すぎる空気を、いつもの彼ららしいやり取りで少しでも軽くしたかった。
「また、会えるか?」
レインは、すがるような思いで尋ねた。
「頻繁には無理だけど……」
アリアンナは少し首を傾け、考える素振りを見せた後、パッと顔を輝かせた。
「偶になら」
その言葉に、レインの全身から安堵の息が漏れた。
完全に断絶されるわけではない。微かでも繋がっているという事実が、これからの過酷な戦いを生き抜くための、何よりの希望となる。
「そうか」
レインは、目を伏せて深く頷いた。
「……少し、安心した」
「相変わらず心配性なんだから」
アリアンナが、クスクスと悪戯っぽく笑う。
かつて共に旅をしていた頃から変わらない、彼女の愛らしい笑顔。
「なにせ、妻がかなりのポンコツだからな。心配しない方が無理というものだ」
レインが意趣返しのようにそう言うと、アリアンナは顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
「うぐぅ!?」
可愛らしい抗議の声を上げるアリアンナを前に、レインの口元に自然と笑みがこぼれた。
悲劇的な別れの場には似つかわしくない、穏やかで、日常的な夫婦のやり取り。
だが、それこそが彼らにとって、何よりも尊い「光」であった。
別れの時間は、もう目の前まで迫っていた。
空間の揺らぎが、レインを外の世界へと弾き出そうとしている。
レインは最後にもう一度だけ、アリアンナの姿をその目に深く焼き付けた。
白亜の空間に一人取り残される彼女。
しかし、彼女はもう、絶望の淵で泣いているだけの少女ではない。
愛する者たちのために戦う、強き母親だった。
「はあ……」
レインは、短く息を吐き出した。
これ以上の未練は、彼女の覚悟に泥を塗ることになる。
「またな」
短く、力強い約束の言葉。
アリアンナは世界で一番美しい笑顔を浮かべて、大きく手を振り返した。
「うん、またね」
その言葉を最後にレインの視界は圧倒的な閃光に包まれ、彼の意識は白亜の空間から、戦いの待つ現実世界へと強く引き戻されていった。
残された静寂の中で、アリアンナは一人、愛する家族の無事を祈り続ける。
次なる再会の時を、心待ちにしながら。
レイン+アリアンナルートはこの世界線ではそこに行きませんw
今回でアリアンナさんとの邂逅をとても綺麗に締める事が出来ました。
後で台無しになりますが。