天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
「…………」
絶句。
今の俺の精神状態を表現するには、その二文字以外に適切な言葉が見つからなかった。
パルシリアの第一王女。そして、精神世界で俺たちを導いた神の残滓であるはずの、青い子猫。
本来であれば、国の中枢と神話の領域という、絶対に交わるはずのない、不可侵であるべき二つの存在が。
あろうことか、一介の平民である俺のベッドの上で、互いの髪と毛をむしり合い、容赦なく顔面を殴打し合い、シーツの上をゴロゴロと転げ回るという、世にもカオスな地獄絵図を繰り広げているのだ。
「痛い! 噛むなこの駄猫!」
「ニャー! ひっかくにゃ変態姫!」
飛び散る青い毛と、乱れる黒髪。
俺とルミナはベッドの端に追いやられ、嵐が過ぎ去るのを待つ遭難者のように、ただただ途方に暮れながらその凄惨なキャットファイトを見つめることしかできなかった。
だが、その絶望的な状況下で、神(ステラにあらず)は俺たちを見捨てなかった。
バンッ!
突如として、重厚な木製の扉が、蹴り開けられるのではないかというほどの勢いで開け放たれたのだ。
「…………あなたたち、何をやっているのかしら」
部屋に響き渡ったのは、決して大声ではない。
だが、吹雪のように冷たく、それでいて深海の底のように静かで重い、絶対零度の声だった。
その姿を見た瞬間、シーツの上で血みどろ(比喩)の修羅場を繰り広げていたステラとフィオナの動きが、まるで時を司る神に時間を止められたかのように、完全に、そしてピタリと停止した。
二人はお互いの首と頬を掴んだまま、ギギギ……と錆びた機械のように首だけを扉の方へ向ける。
そこに立っていたのは、アンナだった。
どうやら、先程「これは自分たちの管轄外だ」と判断して逃げるように扉を閉めたカイル君とアリッサさんが、この混沌を収拾できる唯一の存在として、アンナを呼んできてくれたらしい。
ありがとう、カイル君。ありがとう、アリッサさん。君たちのその迅速かつ的確な状況判断能力、そして『誰に頼れば正解か』を見極める危機管理能力には、個人的に金一封のボーナスを支給したい。
「……お説教は、ここまでにしておくわ」
現在。
ベッドから強制的に下ろされたステラとフィオナは、ボロボロに乱したまま、部屋の中央に敷かれた高級な絨毯の上で、見事なまでの正座をさせられていた。
俺とルミナはベッドの縁に並んで腰掛け、そのあまりにもシュールで、パルシリアの歴史上類を見ないであろう光景を静かに眺めている。
「にゃあ……」
「はい……」
先程まで威勢よく取っ組み合っていた姿はどこへやら。ステラは青い耳をペタンと後ろに伏せて丸くなり、フィオナは王女としての威厳の欠片も残さずに肩を落として、蚊の鳴くような小さな声で返事をした。
アンナは腕を組み、冷たすぎず、しかし絶対に逆らえないような圧倒的な威圧感を込めた眼差しで、絨毯の上の二人をしっかりと見据えながら言った。
「リオは病み上がりなのよ? 彼が目覚めたばかりで疲れているのに、そのすぐ傍で、大騒ぎをしない。……良いわね?」
「「ごめんなさい……」」
ハモりながら謝る2人。
その姿は正に、お母さんに叱られた子供であった。
(すげぇ……)
俺は心の中で、アンナに向かって割れんばかりのスタンディングオベーションを送っていた。
喋る猫(しかも中身は神様)と、一国の王女。その両者を前にしても、一切物怖じすることなく、威風堂々とお説教を言い放つアンナの姿が、あまりにも頼もしすぎる。
ただ、少し冷静になって考えてみれば、王国の姫君を絨毯の上に正座させて上から説教を垂れるというのは、一歩間違えれば不敬罪で即刻首が飛んでもおかしくない異常な状況だ。ていうか、そもそも喋る猫が目の前で正座しているというのに、彼女は微塵も動じていない。
だが、アンナがそれをやると、なぜかその全てに一切の違和感がないのだ。
彼女の全身から滲み出ている、あの圧倒的で深淵な『お母さん』オーラ。それが、身分や種族、常識といったあらゆる壁を易々と飛び越え、すべての不条理と違和感を強引に打ち消し、この空間を支配してしまっている。
まだ二十歳そこそこの、もしかしたら俺と同じ十代かもしれないうら若き女性に対して、口が裂けても「お母さんみたいだ」なんて言えないが、事実として彼女は今、この場の空間とヒエラルキーの頂点に完全に君臨していた。
さて……アンナによるお説教タイムが一段落したところで、俺はこの場のもう一つの重大な懸案事項を解決せねばならない。
そこの絨毯で反省のポーズをとっている、喋る青い猫の正体についてだ。
「え〜と、アンナ」
俺は、静まり返った部屋の中で、恐る恐る口を開いた。
「この猫はな……」
俺はアンナに、そこの絨毯でシュンとしている喋る猫について、どこからどう説明したものかと頭を悩ませていた。いきなり『神様です』と言って信じてもらえるだろうか。
「ステラちゃんって言うんでしょ?」
だが、アンナは俺の言葉を遮り、あっさりと、まるで近所の飼い猫の名前を呼ぶようにそう言った。
「レオンから聞いたわよ」
「そうか、そういやルミナと一緒に居たんだよな」
なるほど、見えない点と点が繋がった。
ルミナとレオンがこの部屋で遊んでいたところに、あの行動力お化けであるフィオナが何らかの手段で乱入してきたのだろう。そこで、ルミナと共にいたステラとも必然的に遭遇し、あのような惨劇(キャットファイト)に発展したというわけだ。
「そういや、レオンはどこにいるんだ?」
ふと気になって尋ねてみた。
真面目で責任感の強い彼なら、アンナと一緒にここまで様子を見に来ていてもおかしくないはずだ。
「彼は……ちょっと、お休み中よ」
アンナは、少しだけ視線を泳がせ、言い淀むようにして答えた。
「流石に、衝撃が強すぎたみたいで……」
「?」
衝撃?
フィオナの乱入のことだろうか。確かに、このカオスな状況は真面目なレオンにとっては、致死量の劇薬だったのかもしれない。
「何でもないわ。リオは気にしないで」
アンナは優しく微笑んで、それ以上の詮索をシャットアウトした。
「あ、ああ……」
俺は少し腑に落ちないものを感じたが、深く追求するのはやめた。今はそれよりも、目の前の状況を整理する方が先決だ。
すると、絨毯の上で正座していたステラが、ゆっくりと姿勢を正し、アンナの目を真っ直ぐに見上げて、自己紹介を始めた。
「……僕は、ステラ」
その声は、先程フィオナと取っ組み合っていた時のチンピラ猫のような荒々しいものではなく、かつて精神世界で聞いたような、神聖で、深く落ち着いた響きを取り戻していた。
部屋の空気が、微かにだが、清浄なものへと変化する。
「ヴァージニアの……『管理者』です」
その、世界を揺るがす重大な告白を聞いて。
アンナは、静かに瞑目した。
彼女の表情から、先程までの温かい「お母さん」のオーラがスッと消え去り、一人の聡明な女性、あるいは世界の過酷な運命に深く関わる者としての、張り詰めた真剣な顔つきに変わる。
彼女の表情からは、驚きも、動揺も読み取れない。ただ、己の肩にのしかかる重い事実を真っ向から受け止めるように、ゆっくりと、深く息を吐き出した。
「そう……わかったわ」
アンナは目を開き、ステラの瑠璃色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、アンナ・オーリン。貴女のことは、陛下達に伝えることになるけど、いいかしら?」
「……はい、お願いします」
ステラは、覚悟を決めたように小さく、しかし力強く頷いた。
一国のトップに、神の残滓が存在していることを報告する。それは、この国の歴史と未来の指針を大きく揺るがす、極めて重大な事態になるだろう。ステラ自身も、自分がただの猫として隠れ住むことができない存在であることは理解しているのだ。
だが、アンナはふっとその張り詰めた表情を和らげ、先程までのお母さんモードに戻って優しく微笑んだ。
「もう、そこまで硬くならなくてもいいわよ。もっと気楽にね? 多分、これから長い付き合いになりそうだから」
その身分も種族も超越した温かい言葉に、ステラは目を丸くした後、心の底から嬉しそうに目を細めた。
「うん。ありがとう、アンナさん」
「ふふ、どういたしまして。アンナでいいわよ。私も、ステラって呼ぶから」
「わかったよ、アンナ」
「よろしくね、ステラ」
アンナの持つ、人と人との距離を瞬時に縮める能力、あるいはその底なしの包容力は、本当に天性のものだと感心させられる。
種族も、身分も、存在の次元すらも全く違う二人が、互いに名前を呼び合い、微笑みを交わす。
そこには何の打算も、政治的な駆け引きもない。ただ純粋で温かい、一つの絆が生まれようとしていた。
だが、その心温まる光景を、すぐ横でじっと、瞬き一つせずに見つめている者がいた。
フィオナだ。
「…………」
彼女の漆黒の瞳は、和やかに言葉を交わすアンナとステラの姿を、まるで氷の刃のように冷徹に捉え続けていた。
いや、違う。彼女が見ているのは、微笑ましい「光景」などではない。
アンナという「存在」そのものを、肉体、精神、魂の構造に至るまで解剖するように、細部まで観察しているのだ。
その視線には、子供らしい純粋な好奇心など微塵も含まれていなかった。
何か極めて重要なパズルのピースを、脳内の巨大な盤面に嵌め込もうとするような、あるいは、世界の裏側に隠された致命的な真実を強引に暴き出そうとするような、鋭く、そして冷酷な探求者の目つきだった。
やがて、フィオナは静かに口を開いた。
「貴女が……『アンナ』?」
その短い問いかけには、単なる名前の確認以上の、ひどく深く、重い意味が込められているように聞こえた。
「初めまして、フィオナ様」
アンナは、先程説教していたことなど忘れたかのように、王族に対する完璧な礼を取り、優雅に頭を下げた。
「……後で、お話しましょう」
フィオナは、頭を下げるアンナの目を見据えたまま、年齢にそぐわない低く通る声で告げた。
「お互いの為に」
「そう、ですね」
アンナもまた、フィオナの放つ強い視線から逃げることなく、静かに頷き返した。
なんだ?
二人の間に流れる、この目に見えない火花が散るような、張り詰めた空気は。
確かに、アンナはジークフリード家の親類としてこの城に滞在している。そして、英雄夫妻の片割れであるアンナ・ジークフリード様と全く同じ名を持つ存在だ。
パルシリアの王女として、その奇妙な符合に強い興味や関心を持つのは無理もない……はずなのだが。
だが、俺の直感が、背筋を這い上がるような悪寒と共に、なにか決定的な違和感を告げていた。この二人の間には、俺の知らない何かがあるのではないか、と。
俺が一人で深い思考の海に沈みかけていると、アンナがスッと俺とルミナの方へと向き直った。
「……大丈夫?」
彼女の瞳には、先程のフィオナに向けたような緊張感や警戒心は欠片もなく、純粋で温かい心配の色だけが浮かんでいた。
「ああ、大丈夫だ。変なところで倒れちまって……心配掛けてごめん」
「いいわよ。私の方こそ、大事な会議の途中で抜け出しちゃったし」
「仕方無いよ」
俺は苦笑交じりに答えた。
そうだ。俺が倒れる前、俺たちはアンナとエドワールさん、それにヴァリウスさんたちと共に、今後のことについて極めて重要な話をしている最中だった。
そして、エドワールさんが途中で突如として錯乱状態に陥り、倒れてしまったのだから、アンナがエドワールさんを連れて会議を抜け出すのも無理はない。
……なんでだ?
ふと、黒い疑問が鎌首をもたげる。
どうしてあの時、エドワールさんは突然錯乱したんだ?
パルシリア王国の賢王とも称され、数々の修羅場を最前線で潜り抜けてきた強靱な精神を持つあのエドワールさんが、なぜあんなにも取り乱し、糸が切れたように倒れてしまったのか。
(俺は、あの時、何を言ったんだ?)
思い出せない。
俺は確実に、彼に向かって何か決定的な言葉を放ったはずなのだ。
エドワールさんが立っていられなくなるほどの、精神の根幹を揺るがすような強烈な衝撃を与える『何か』を。
なぜ覚えていない。なぜ、その肝心な部分の記憶だけが、ごっそりと抜け落ちている。
何故、自分の口から出たはずの言葉を忘れている?
思考の焦点を過去の暗闇へ向けようとした瞬間。
突如として、脳の奥底で、鋭く太い針で直接脳髄を突き刺されたような、言葉にならない激痛が走った。
「っ!」
なんだ、この尋常じゃない痛みは。
思い出そうとすればするほど、頭蓋がギリギリと見えない力で締め付けられるように痛む。
そうだ、俺は……思いださないといけない。
自分の、罪を。
多くの人を、取り返しのつかない深い絶望の淵に突き落とした、その罪を。
あの二人から……かけがえのない、温かい『幸せ』を奪い去った……決して拭いようのない罪を……。
「リオ!」
「リオくん!」
ルミナが小さな両手で俺の腕を強く掴み、ステラが絨毯の上から悲鳴に近い声を上げた。
しまった。
俺は頭を割るような痛みに耐えながら、心の中で激しく舌打ちをした。
また、彼女たちを心配させてしまった! 何度繰り返せば気が済むんだ。痛みに顔を歪め、周囲を不安にさせるばかりで、少しも成長していないじゃないか、俺は。
「リオ? どうしたの、顔色が悪いわよ」
アンナもすかさずベッドに駆け寄り、俺の顔を覗き込んで心配そうに声をかけてくる。
駄目だ。これ以上、この優しい人たちに無用な心配をかけたくない。
俺が痛みを堪え、無理やりいつものような笑顔を作ろうとしたその時。
「リオ……あなた」
フィオナが、極めて鋭い目で俺を見つめていた。
彼女の漆黒の瞳が、俺の心の奥底、必死に隠そうとしている罪悪感の闇までをも見透かしているかのように、真っ直ぐに突き刺さる。
俺の、何を見ているんだ?
彼女には、俺が抱えているこの醜い感情が見えているというのか。
「どうしたんだ、フィオナ?」
「ううん、なんでもないわ」
フィオナはすぐにその鋭い視線を引っ込め、ふわりと一歩前へ出た。
「……大丈夫?」
彼女が、王女としての仮面を脱ぎ捨てたような、年相応の真剣な顔をして、俺の調子を尋ねてきた。
その様子に、俺は自分の顔が今、どれほど酷い状態なのかを自覚せざるを得なかった。フィオナが、冗談を言わないほど、俺の顔色は死人のように蒼白だったのだろう。
「ああ、ちょっと呆けてただけだよ」
俺は、努めて明るい声を作って答えた。声が震えないように、腹に力を入れる。
「……短期間で、色々なことがありすぎたようだしね」
フィオナは、俺のその見え透いた嘘をそれ以上追及することなく、静かに頷いた。
「肉体的にも精神的にも、疲れるのも無理ないわ」
「ええ、そうね」
アンナも、深く同意するように頷いている。
不味い。本当に、取り繕えないほど酷い顔だったようだ。これ以上この空気を引きずるわけにはいかない。
「はは……一段落ついたら、ちゃんと休むよ」
俺はこれ以上彼女たちに心配をかけないために、そして何より、自分自身の混乱し、軋みを上げる思考を整理するために、強引に話題を変えることにした。
「そうだ。そろそろ、ルミナと一緒に外に出かけたいしな」
その言葉に、俺の腕にしがみついていたルミナが、不思議そうに首を小首を傾げた。
「外?」
「ああ。もう少ししたら、城下町にでも出ようか」
俺はルミナのサラサラとした金髪の頭を、優しく撫でた。
「その時に、ルミナの服も一緒に買おうな?」
現在、ルミナが着ている服は、最初に出会った時に俺のイメージを具現化させた、急造のワンピースだ。着替え用の数着の適当な服と下着は、無理を言ってメイドさんに頼み込み、市場でとりあえず見繕って買ってきてもらったものに過ぎない。
いい加減、ルミナのサイズにちゃんと合った、彼女の美しさを引き立てる可愛い服を買いに行かないといけない。
そうだ、服だけじゃない。ルミナ専用の生活用品……可愛い柄の歯ブラシとか、綺麗な櫛とか、女の子らしい小物類もたくさん買ってやりたい。
(あ〜……ルミナの服を一緒に選ぶの、すっげぇ楽しみだな)
俺の脳内で、先程までの暗く沈んだ感情が嘘のように、ピンク色の楽しい妄想が急速に膨らみ始めた。
(フリフリのレースがついたドレスも絶対に似合うし、動きやすいボーイッシュな服もいいな。悩むなぁ)
(それに、食事用のマグカップなんかも、俺とお揃いの柄を選んだりして……)
これからの、ルミナとの平和で温かい日常。
その想像に胸を躍らせ、俺の顔が自然とだらしない笑顔に崩れかけていた、まさにその時だった。
「へえ」
地獄の底から響いてくるような、低く、ねっとりとした声が耳元に届いた。
背筋が凍る。
意識を向ける。
そこには、極上の獲物を見つけた飢えた獣のような、爛々と輝く目をしたフィオナが立っていた。
(ぎゃあああああ!?)
(しまったあああああ!?)
俺は心の中で、頭を抱えて絶叫した。
完全に失念していた。この部屋には、俺とルミナとアンナの他に、この規格外のトラブルメーカー(自称:俺の嫁)が存在していたことを。
「コーディネートは、この私に任せなさいな」
フィオナは一切の拒否を許さない、王族特有の圧力を放ちながら、豊かとは言えない胸をドンと張った。
「それほど高級な店には行かないし、リオの意見もちゃんと聞いてあげるから。……そんな、この世の終わりみたいな絶望した顔をしないの」
そして彼女は、完璧なドヤ顔と共に、俺に向かってビシッと力強いサムズアップを決めた。
「ついて行く気、満々かよ……」
「逆に問うわ。この私が、大人しく城でお留守番してると思ったの?」
思わない。
絶対に、何があっても、地の果てまでついて来るだろう。
昨日会ったばかりのルミナの姉を自称し、俺の嫁を堂々と名乗る行動力抜群のこのじゃじゃ馬姫が、大人しく城の入り口で手を振って「行ってらっしゃい、お土産買って来てね」なんてしおらしいことを言うはずがないのだ。
すると、絨毯の上で正座していたステラが、弾かれたように立ち上がって叫んだ。
「リオ君とルミナの初デートの邪魔すんな、この変態姫!」
「ふふ〜ん、あんたの分も選んでやるわよ、駄猫」
フィオナは立ち上がったステラを余裕の表情で見下ろし、挑発的な笑みを浮かべた。
「そうね、あんたにはお洒落で、絶対に千切れない頑丈な首輪をプレゼントしてやるわ」
「お前のなんざ、絶対に要るかぁ!」
自身の尊厳と自由を守るため、フィオナの提案を即座にかなぐり捨てるステラ。
だが、彼女の口から次に出た言葉には、俺も渾身のツッコミを入れずにはいられなかった。
「リオ君とルミナが選んでくれた首輪じゃないと、絶対に着けないぞ!!」
「俺とルミナが選んだやつなら着けるって、それで良いのか神様!?」
頭で考えるよりも早く、俺の口から悲鳴に近いツッコミが飛び出していた。
女神の残滓とは言え、一応、あんた神様だろ!?
自ら進んでペット扱いを受け入れて、それでええんか!?
いや……でも、今のステラを見ていると、なんだかわかる気もするのだ。
かつて精神世界の深淵で出会った時の、世界に対する深い諦観と絶望の空気が滲み出ていた『管理者』としての彼女よりも。
今こうして、ただの一匹の猫として、フィオナとわちゃわちゃと低レベルな言い争いをしている姿の方が、何百倍も楽しそうだ。
俺も、今のステラの方が好きだ。
神様という重圧を下ろして、等身大の感情を剥き出しにしてぶつけ合っている彼女は、ちゃんとこの世界で「生きている」って感じがする。
「ほらほらほら! プリンセスくすぐり!!」
「にゃにゃにゃにゃにゃ!!?」
「うふふふ、姫の手にかかれば、猫の一匹や二匹……あだぁ!?」
「うおおおおお!! 必殺・肉球乱舞!!!」
「あだだだだ! 姫の美しい顔面をなぐるんじゃねぇ!!!」
「「ニャーニャーニャー!!!」」
俺の目の前で、絨毯をリングにして再び勃発する猫と姫の果てしない喧嘩。
もはやそこには、神としての威厳も、王女としての気品もない。ただの、縄張りを争う二匹の雌猫の、泥臭くも微笑ましい争いであった。
その騒がしい喧嘩を傍観していると、俺のシャツの裾が、クイクイと軽く引っ張られる感覚がした。
見下ろすと、ルミナが俺を見上げていた。
「おしゃれすると……うれしい?」
彼女の透き通るような翠玉の瞳が、期待にキラキラと輝いている。
いかん、可愛すぎて鼻血が出そう。
「ああ、凄く嬉しいよ。ルミナが可愛い服を着てくれたら、俺は最高に嬉しい」
「ん!」
ルミナは、心の底から嬉しそうにパァッと顔を輝かせた。
うん、すっげえ見てみたいよ。可愛い服を着て、少しはにかんで笑うルミナの姿を。
アンナも、そんな俺たちを見て、聖母のような温かい笑みを浮かべていた。
「ふふ。じゃあ、みんなで一緒にお洒落しましょうか」
「ん!」
ルミナが、小さな両手で元気よくガッツポーズをした。
そのあまりにも愛らしい姿に、俺は張り詰めていた心が解け、思わず吹き出してしまった。
「ははっ」
ああ、本当に楽しみだ。
絶対に騒がしく、カオスな買い物になるだろう。
だが、その未来を想像するだけで、俺の胸は温かい期待で満たされていた。
一方、絨毯の上では、ステラとフィオナの争いがさらにエスカレートし、本格的な取っ組み合いのプロレス技の掛け合いに発展していた。
「…………」
それを見下ろすアンナの額に、青筋がピキッと浮かび上がる。
こっちはガチで怖い!!
「とりあえず……あのおバカ達を、もう一度止めてくるわね」
アンナは、極上の笑顔のまま、一切笑っていない瞳でそう宣言した。
「お、おう……。なるべく、優しくな?」
俺は、これから無慈悲なお仕置きを受けるであろう二人のために、必死のフォローを入れる。
「俺は、あいつらが騒いでるの、別に嫌ってわけじゃないからな。……な?」
これは本心だった。
心底から憎み合っているわけではない。むしろ、あの二人はなんだかんだで楽しそうだ。
見ていて、不思議と微笑ましくすら感じるのだ。
「うん、わかってるわ。ちょっとだけ、強めにするだけだから」
アンナは極上の笑みを浮かべたままそう言うと、ステラとフィオナの首根っこを左右の手でひょいっと掴み、物理的に締め上げ始めた。
「ぎゃー!」「にゃー!」という断末魔のような悲鳴が上がる。
俺とルミナは、ベッドの上からその平和(?)な光景を、静かに見つめていた。
ルミナが、ポツリと小さな声で呟く。
「ぜったい、なかよし」
「……だな」
騒がしい日々になりそうだ。
俺は苦笑しながらも、そんな騒々しくて温かい未来が来ることを、心の底から楽しみにしていた。
(俺は、ルミナの)
(みんなの、この温かい幸せを、絶対に護る)
心の中でそう誓ったつもりが、無意識のうちに声となって漏れ出ていた。
「——今度こそ」
ハッとした。
何故、俺は今、そんな言葉を口にしたのだろう。
「今度こそ」?
まるで以前に一度、すべてを失い、絶望を味わったかのような、そんな暗く悲しい響きを持った言葉。
自らの口から出た言葉の意味が分からず、俺が深い疑問と不安に苛まれていると。
ルミナが、俺の右手を、彼女の小さな両手でギュッと強く握り締めてくれた。
「ルミナ?」
見下ろすと、ルミナは何かを必死に堪えるように、少しだけ眉を寄せていた。
だが、俺を見上げるその翠玉の瞳には、揺るぎない強い光が宿っていた。
「だいじょうぶだよ、リオ」
彼女は俺の不安をすべて包み込むように、優しく、しかし力強く告げた。
「大丈夫だから」
ルミナの小さな手から伝わってくる確かな温もりが、俺の心の奥底にある冷たい恐怖と不安を、少しずつ溶かしていく。
俺は何も言わずに、彼女のその小さな手を、ただ強く握り返した。
爆弾セット、よし。