天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
窓枠で切り取られた朝の淡い光条の中に、無数の細かな塵が白くキラキラと浮遊していた。
パルシリア王城、堅牢な石造りの回廊から少し奥まった場所に位置する医務室。城内を行き交う近衛騎士たちの足音や、早朝の訓練に励む兵士たちの怒号といった喧騒からは完全に隔絶されたその空間には、独特の匂いが重く沈殿していた。
乾燥させた薬草が放つ苦味を帯びた青臭い芳香。消毒液や蒸留アルコールのツンと鼻腔を刺すような冷たい清涼感。そして、幾何学的に並べられた軟膏や薬品の瓶から微かに漏れ出る油の匂い。どこか懐かしく、同時に、生物としての本能が警戒を呼び起こすような、息の詰まる静けさだった。
「…………」
俺は木製の硬い診察椅子に腰掛け、診察台の上に差し出された己の右腕をじっと見つめていた。
手首の皮膚に直接触れているのは、幾重にも深い皺が刻まれた、しかし驚くほど温かく、確かな重みを持った老医師の手指だ。
トク、トク、トク——と。
皮膚の薄い膜一枚を隔てたすぐ下で、生命の証である血液の拍動が、一定のリズムを保ちながら老人の指先へと伝わっていく。規則正しいはずのその鼓動が、静まり返った部屋の中では、まるで時限爆弾の秒針のように不気味に響いていた。
すっかり馴染みになってしまった老医師、アスク先生。
このパルシリア城内の医療を一手に取り仕切る最高責任者であり、数多の傷病者や、死線の淵を彷徨っていた歴戦の戦士たちを、その卓越した医術で現世へと引き戻してきた伝説的な名医だ。
だが今、俺の脈を測り、手首の微細な体温や筋肉の緊張度合いを確かめているアスク先生の眉間には、深い、あまりにも深い渓谷のような皺が刻み込まれていた。
銀縁の眼鏡の奥にある灰色の瞳は、厳格な険しさを通り越して、どこかこの世で最も痛ましい悲劇を直視しているかのように、痛ましげに細められている。
「…………」
息が詰まるほどの長い沈黙が、部屋の隅々までを満たしていた。
壁に掛けられた木製の大型振り子時計が、コチ、コチ、コチと、無機質で冷徹な音を刻み続ける。その規則的な金属音だけが、この部屋の中で唯一、時間が流れていることを証明していた。
あまりの沈黙の重さに耐えかねて、俺はほんの少しだけ身じろぎをし、椅子の木肌を軋ませた。
また、倒れてしまったからなあ……。
胸の奥底に、苦い灰のような感情が広がる。
この前は、レオンとの戦いで意識を失った。そして、今度はヴァリウスさんとの会話の最中に突如として意識を断絶され、昏倒した。
自分でも呆れ果てるほど、ここ最近の俺の意識の糸は頼りなく、脆く途切れがちだ。
目覚めた瞬間に襲ってきた、あの頭蓋を万力で締め上げられるような激しい頭痛と、内臓を裏返されるような強烈な吐き気。そして何より——俺の隣で、瞳に大粒の涙をいっぱいに溜めて、不安に押し潰されそうになるルミナの顔。
それを思い出すだけで、胃の奥がキュッと縮み上がるような、居たたまれない罪悪感に苛まれる。
(俺は……何をやってるんだろうな)
誰かを守りたいと願いながら、結局は周囲に心配をかけ、守られる側に甘んじている。情けなさと自己嫌悪が、じわじわと心の隙間を侵食していく。
やがて、永遠にも思えた触診の時間が終わりを告げた。
アスク先生は俺の手首からゆっくりと指を離し、息を吐いた。
机の上に置かれていた金属製の聴診器や、微弱な魔力を通して生体反応を可視化する診察用の魔導具を手際よく片付けながら、先生は深く、肺の底に溜まった澱をすべて吐き出すような重い溜息を一つ漏らした。
「ふむ……肉体的には、何の問題もないだろう」
その診断結果を聞いた瞬間、俺の胸から張り詰めていた空気が抜け、自然と安堵の息が漏れた。
「そうですか。よかった……」
剣を振るうこと自体に肉体的な支障がないというのであれば、俺にとってはそれだけで万々歳だ。ほっと胸を撫で下ろし、強張っていた両肩の力を抜いて息を整えようとした。
だが、そんな俺の安堵を、アスク先生の冷たく厳しい一言が容赦なく打ち砕いた。
「安心するな」
「え……?」
「『肉体的に』は、と言ったはずだ」
アスク先生は木製の背もたれをギシと軋ませて深く腰掛け直し、白髪交じりの立派な顎髭を撫でながら、射抜くような鋭い眼光を俺の顔面へと真っ直ぐに向けてきた。
その瞳には、患者への安易な気休めや誤魔化しを一切許さない、厳格な医師としての冷徹な光が宿っていた。
「一体、何があった?」
低く、部屋の底を這うように押し殺された問いかけ。
その声に含まれた尋常ではない重圧に、俺は思わず言葉を喉の奥に詰まらせた。
「何が、とは……?」
「言葉通りの意味だ、リオ君」
アスク先生は机の上に広げられた分厚いカルテに視線を落とすことも、羽ペンを握ることすらもなく、ただじっと、逃げ場を塞ぐように俺の瞳を凝視し続けた。
「君の肉体は確かに頑強だ。極めて強靭な筋肉、骨格、そして異常なほどに純度の高い生命力。外傷や病変の兆候は見当たらん。だがな……君は今、精神にとてつもない負荷がかかっている」
「精神の……負荷?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「そうだ。脳髄が焼き切れんばかりの極度の緊張、自己を極限まで摩耗させる過剰な抑圧、そして底知れぬ恐怖と混乱。それらが幾重にも折り重なり、君の精神の器を内側から無理やり圧し折ろうとしている」
アスク先生は机に両肘をつき、指を組んだ。
「……率直に言おう。戦場で凄惨な地獄絵図を生き延び、仲間を失い、精神を病んで帰還した歴戦の軍人や騎士たちよりも、今の君の精神状態はずっと酷い」
先生の放った言葉は、まるで氷で作られた鋭利なメスのように、俺の胸の奥深くを容赦なく切り裂いた。
戦場で心を病んだ兵士よりも酷い。
そんな大袈裟な、と鼻で笑い飛ばしたかった。俺はただ、少し疲れて気を失っただけだ。記憶が少し曖昧なだけで、発狂したわけでも狂気に走ったわけでもない。
だが、目の前のアスク先生の瞳には、微塵の誇張も、冗談の色も浮かんでいなかった。数千人もの生死を見届けてきた老医師の眼差しは、俺自身すら気づいていない、あるいは無意識に目を逸らしている「精神の崩壊」を、寸分の狂いもなく見透かしていた。
「いや……確かに、ここ最近、色々と目まぐるしくドタバタしてましたから」
俺は喉の渇きを誤魔化すように唾を飲み込み、努めて軽い調子を装って愛想笑いを浮かべた。両手をひらひらと振ってみせる。
「新しい出会いがあったり、強い人と戦ったり、身に余るような立場に置かれたりして……少し気が張っていただけだと思います。それに、その……王宮の謁見の間で派手に失恋して恥をかいたりもしましたし。色々と重なって、ちょっとばかり疲労が溜まってキャパオーバーしただけですよ」
道化を演じるように笑ってみせる。失恋のショック。王宮での醜態。そしてルミナという大切な存在を守らねばならないという重圧。それらを理由にすれば、誰だって納得するはずだ。ただの若者の、一時的な精神的疲労だと。
だが、アスク先生はその見え透いた張り子の言い訳を一刀両断にした。
「そんな軽いものではない」
先生の声が、一段と低く、冷たく沈んだ。
「君の精神に刻まれている亀裂は、失恋や環境の変化などという生易しいものではないのだよ。まるで……自らの存在そのものを根底から全否定されるような、あるいは、魂引き裂かれるような——」
「アスク先生」
静まり返った診察室に、凛とした、しかし絶対の制止を含んだ声が静かに割り込んだ。
診察室の重厚な扉の傍ら、冷たい壁に背を預けて気配を消すように佇んでいた人物——アンナだ。
彼女は護衛騎士として、俺の正確な体調を把握するためにこの場への同席を許されていた。
そのアンナが、静かに、しかし射抜くような視線でアスク先生を見つめていた。
彼女の美しい双眸には、明確な光が宿っている。
「…………」
アスク先生はアンナの視線を真っ向から受け止め、数秒間の張り詰めた沈黙の後、コホンと一つ小さく咳払いをした。二人の間に、俺には理解できない見えない情報の奔流が交差したように見えた。
「……すまんな。この話は、ここまでにしよう」
先生は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、自身の昂ぶりかけた感情を押し殺すように、ゆっくりと息を整えた。
「とにかく、自覚したまえ。リオ君、君は病気だ」
「病気……」
「それも、心の、な」
心。
その単語の響きが、俺の胸の奥底に、冷たく重い鉛の塊のようにドロリと沈み込んでいく。
俺が、心の病気?
この健康そのものの五体があり、筋肉も骨も正常に機能し、今すぐにでも剣を抜いて戦えるというのに。俺の心が、目に見えない内側からボロボロに壊れかけているというのか。
「ですが、先生。俺は動けます」
俺は納得がいかず、椅子から身を乗り出すようにして反論した。
「意識だって今はこうして完全にハッキリしています。手足の痺れもありません。日常生活はもちろん、剣の訓練や任務に支障が出るとは思えません」
「悪いが」
アスク先生は、俺の必死の反論を遮るように、無情にも片手をスッと挙げた。
「私は患者の『大丈夫』を信じない主義でね」
老医師の冷徹な言葉が、俺の口を封じる。
「特に、君のような——他人の痛みにばかり過敏で、自分自身の痛みを完全に麻痺させて笑っているような患者の吐く『大丈夫』など、この世で最も信用ならん言葉だ」
アスク先生は深く、長いため息を吐き出すと、白髪の混じる頭を両手で抱えるようにして深々と俯いた。
診察机の上に落ちるその影は、先程までの厳格で近寄りがたい名医のものというよりも、あまりにも過酷な現実に打ちひしがれた、一人の無力な老人のように小さく、頼りなく見えた。
「……正直に言えばだな、リオ君。一人の医師として、こんな精神状態で君が戦場に赴くことなど、私は絶対に許可できん」
先生は頭を抱えたまま、絞り出すような掠れた声で言葉を紡ぐ。
「今すぐすべての役目を放棄させ、城の喧騒から遠く離れた静かな療養所で、何の重圧もない環境で心身を休ませるべきだ。半年、いや一年かけて、すり減った精神を縫い合わせる。……それが、医師としての私が君に下すべき、唯一の正しい処方箋だ」
「すみません、それは……」
俺は即座に拒絶の言葉を紡ごうとした。
療養などしていられない。俺にはやるべきことがある。ダンジョンへ行き、戦わなければならない。
何故なのか、明確な理由は自分でも説明できない。だが、そうしなければならないという、湧き上がる強迫観念のような激しい焦燥感が、俺の胸の奥で黒い炎となって渦巻いているのだ。足を止めることなど、死ぬよりも恐ろしい。
だが、アスク先生は自嘲気味に口元を歪め、俺の言葉を手で制した。
「わかっているよ。……わかっているとも」
先生の声には、深い苦汁と、己の無力さに対する痛切な諦念が滲んでいた。
「国家の存亡が関わっているこの極限の状況下で、一人の少年の壊れかけた心を守るために、医師としての倫理を貫き通せるほど……私は強くもなければ、偉くもない俗物なのだよ」
パルシリア王国の危機。
神域ダンジョンという、人智を超えた未曾有の脅威。そして、あの異形の怪物『業魔』。
国家という巨大で無慈悲な歯車を回すために、個人の幸福や健康など、これまでも無数にすり潰されてきた。アスク先生は、その血塗られた歴史と冷酷な現実を、長年の医師人生の中で誰よりも痛感し、誰よりも間近で見届けてきたのだろう。
アスク先生はゆっくりと顔を上げた。
再び俺の瞳を真っ直ぐに見つめてくるその眼差しの奥には、先程の厳しさを超えた、まるで父親が戦場へ赴く我が子を案じるかのような、深く温かい慈愛の色が湛えられていた。
「だが、これだけは絶対に忘れるな。リオ君」
一言一言に己の魂を込めるように、先生は重々しく告げた。
「君が傷つくと、君を大切に思う多くの者たちもまた、まったく同じように心から血を流して傷つくのだということを」
「…………っ」
「肉体の傷であれば、私の調合した薬や、高度な治癒魔法で塞ぐこともできよう。失われた血液も、いずれは戻る。だがな……精神に深く刻まれた傷というものは、そう簡単には治らないんだ」
何故だろうか。
先生のその静かな、しかし確かな重みを持った言葉が、まるで鋭利な槍の切先のように、俺の胸骨を直接貫いて心の奥底へと深く深く突き刺さった。
視界の裏側に、今まで俺が出会ってきた人々の顔が、走馬灯のように次々と浮かんでは消えていく。
孤児院で共に泥にまみれて育った兄弟たち。
『暁の剣』で背中を預け合ってきた大切な仲間たち。
この王城で出会った、不器用で、しかし温かい人々。
ステラ、フィオナ、そして——。
(ルミナ……)
最後に脳裏に鮮明に焼き付いて離れなかったのは、愛くるしい少女の姿だった。
俺が目を覚ました時、小さな手を震わせ、瞳に大粒の涙をいっぱいに溜めて俺を見つめていた顔。
俺の左腕に顔を埋め、温もりを確かめるようにすり寄ってきた、あの小さく柔らかな体。
「……あの、ルミナという少女をだな」
アスク先生は、俺の胸の内に去来した想いを見透かしたかのように、静かに、優しく言葉を継いだ。
「悲しませるな、とまでは言わん。君が選んだその過酷な道の上では、それは不可能に近い要求だろうからな。だが……せめて、彼女を悲しませる回数を減らしてやりたまえ。……大切な、家族なのだろう?」
「…………」
俺は声を出さずに、深く、深く頷いた。
喉の奥が熱く締め付けられ、言葉にならなかった。
そうだ。先生の言う通りだ。
完全に傷つかず、絶対に悲しませないなんて、今の俺の立場では口が裂けても約束できない。俺はダンジョンを攻略しなければならないし、これから先、どれほど凄惨で過酷な戦いが待ち受けているかもわからないのだから。
理屈ではない。言葉にもならない衝動が、今も俺の全身の血液を沸騰させ、前へ前へと突き動かそうとしている。今すぐにでもこの硬い椅子を蹴倒して、ダンジョンの最深部へと駆け出したいような、得体の知れない焦燥感が心臓の内壁を激しく叩き続けている。
だが。
(不要な無茶はするな、リオ・ハートフィールド)
俺は心の中で、自分自身の名を強く、厳しく呼んで戒めた。
(あの娘に……ルミナに、これ以上無駄な涙を流させるな。無駄な心配をかけるな)
先生の言葉が、暴走しかけていた俺の焦燥感のエンジンに、確かなブレーキをかけてくれた。
俺は小さく息を整え、先生に向かって真っ直ぐに視線を戻した。
アスク先生は、俺の表情に宿った決意と落ち着きを見て取ると、ふっと目元の険しい皺を緩め、わざとらしく大きな咳払いをしてみせた。
「……ゴホン! まぁ、これ以上の説教はやめておこう。私の本音を言えばだな、君をこの診察椅子に太いロープで縛り付けて、明日の朝までみっちりと説教してやりたいところだがね」
「そ、それだけは勘弁して下さい、アスク先生様……!」
俺は両手を顔の前で合わせ、心底から懇願した。
この人の言葉は、単なる感情的な怒声や理不尽な命令ではないのだ。医師としての確固たる倫理観と、俺という人間の立場や苦悩を痛いほど理解し、配慮してくれた上で放たれる言葉だからこそ、どんな頑丈な防具も無視して心臓のど真ん中にグサグサと突き刺さる。これ以上正論で説教されたら、精神の負荷で本当にその場に再気絶してしまいそうだ。
「ふん、まあいいだろう」
アスク先生は呆れたように肩をすくめると、広げていたカルテをパタンと閉じ、机の端へと押しやった。
「君のカルテの写しは……アンナにも渡しておこう。これからは、もし自分の体調や精神に少しでも異変を感じたら、私だけでなくアンナにも遠慮なく相談したまえ」
「?」
俺は首を傾げ、後ろの壁際に静かに佇んでいるアンナを見上げた。
相談? アンナに?
彼女は騎士であり、卓越した剣士のはずだ。医療の専門家ではない彼女に相談して、一体何になるというのだろう。
そんな俺の露骨な疑問の視線を察したのか、アスク先生は少しだけ誇らしげに、しかし同時にどこか悔しそうに口の端を吊り上げた。
「不思議そうな顔をするな。アンナはな、そこらの街医者や下手な治癒術士など足元にも及ばんほど、医療の腕も薬学の知識も確かだ。……まぁ、私には、まだ遠く及ばんがね」
「先生……流石に、王国最高峰の貴方と比較されるのは荷が重すぎます」
アンナは困ったように苦笑いを浮かべ、軽く肩をすくめてみせた。
だが、アスク先生は厳しい口調でそれを一蹴する。
「情けない事を言うな。君のはすでに一握りの領域にある。もっと自信を持ちたまえ」
(アンナって……医師としてもそこまで活躍できるのか……?)
俺は素直に、心の底から驚嘆していた。
彼女の剣の腕が、並の騎士を遥かに凌駕する超一流であることは知っている。それに加えて、周囲の状況を瞬時に把握する知性、あの場の空気を一変させる圧倒的な包容力と統率力。その上、専門的な医術や薬学の高度な知識まで完璧に修めているというのか。
一体、何処まで才媛なんだ、この人は。
天は彼女という一人の人間に、何種類の才能を与えれば気が済むのだろう。才能のパラメーターが完全にバグを起こしているとしか思えない。
(……これじゃ、まるで)
俺の脳裏に、パルシリア王国の歴史書に燦然と輝く、ある偉大な女性の姿がよぎった。
かつてパルシリアの英雄、レオネル・ジークフリードの傍らに立ち、救国の戦いを共に駆け抜けた後、騎士の身分を辞して医師となり、多くの民や兵士の命を救い続けた女性。
アンナ・ジークフリード様。
まさに、その生き写しではないか。
名前が同じというだけでなく、その卓越した武勇、慈悲深き精神、そして他者を癒やす医術の才能まで完璧に受け継いでいるなんて。ジークフリードの血筋というのは、そこまで完璧な傑物を生み出すものなのだろうか。
そうだ……アンナ・ジークフリード様。
その名前を心の中で反芻した瞬間、俺の胸の中に、以前からずっと燻り続けていた一つの巨大な疑問が浮上した。
今、この場には王国最高の医師であるアスク先生がいて、高度な医療知識を持つアンナ本人がいる。
この絶好の機会を逃せば、二度と真相を聞くことはできないかもしれない。
俺は膝の上に置いていた両手を握り直し、姿勢を正して、真剣な眼差しでアスク先生に向き直った。
「アスク先生、一つだけ質問があります」
アスク先生は、俺の急激な態度の変化と声の真剣さに、わずかに眉を上げて目を細めた。
「何のかね?」
「ルナ・マテリアルの研究は……現状、どうなっているのでしょうか?」
俺の口から発せられたその単語に、部屋の空気がわずかに、しかし確実に揺らいだ。
ルナ・マテリアル。
神域ダンジョンから回収された未知の物質。
アスク先生は手元のペン立てに視線を落とし、慎重に、極めて慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……国家の研究における最高機密に属する詳細なデータまでは、軽々しく口にすることはできんよ。だが……そうだな、一言で言うならば、あの物質は世界を根底からひっくり返す力を持っている」
「世界を……」
「大袈裟な表現ではないさ。……だからこそだ、リオ君」
アスク先生の灰色の瞳が、眼鏡の奥から鋭く俺の目を射抜く。
「だからこそ、国の上層部も、研究機関も、そして私自身ですらも、君が命を懸けてダンジョンを攻略することを止められないのだよ。あの物質がもたらすであろう恩恵は、このパルシリア王国の未来そのものだからだ」
先生の重々しい言葉に、俺は息を呑んだ。
ダンジョン攻略が国家にとって重要であることは理解していたつもりだった。だが、ルナ・マテリアルという未知の物質が持つ真の意味は、俺の想像を遥かに超えていた。
だが——俺が本当に聞きたかったのは、国家の未来や世界情勢の変革といった、そんな壮大で抽象的な話ではなかった。
もっと個人的で、もっと生々しく切実な、一握りの人々の幸福についての問いだったのだ。
俺は一度、乾いた唾を飲み込み、喉を潤してから、震えそうになる唇を制御して言葉を紡いだ。
「質問を……変えます」
「む?」
「アンナ・ジークフリード様の治療は、可能でしょうか?」
ピキリ、と。
診察室の温度が、一瞬にして数度下がったかのような錯覚を覚えた。
だが、俺の言葉はそれだけでは止まらなかった。胸の奥底で、まるで祈りのようにずっと渦巻いていた切実な問いを、熱を帯びた声で一気に吐き出した。
「あの物質……ルナ・マテリアルを使えば、アンナ様は、レオネル様の子どもを産めるように、なりますか?」
「…………ッ!?」
背後から、息を呑むような微かな悲鳴と、衣擦れの音が響いた。
アンナだ。
彼女が今、背後でどんな表情を浮かべているのか、俺の位置からは見えない。
だが、彼女の全身から発せられる気配が、激しい衝撃と動揺によって激震していることだけは、肌をチクチクと刺すような空気の張り詰めで痛いほどに伝わってきた。
そりゃそうだろう、と俺は思う。
ジークフリード家の親類であり、同じ名を持つアンナにとっても、これは決して他人事ではないはずだ。
いや、彼女だけではない。このパルシリア王国に住まうすべての民にとって、救国の英雄であるレオネル様とアンナ様が、真の幸福を掴むこと——二人の愛の結晶である子供が生まれ、温かい家庭を築くことは、悲願中の悲願なのだ。
かつてアンナ様は、過酷な戦いの中で母胎に致命的な傷を負い、子どもを産むことができない体になってしまった。
ルナ・マテリアルを用いた緊急の処置によって、辛うじて一命を取り留めたらしいアンナ様。
だが、命が助かったというだけで、本当に十分だと言えるのだろうか?
戦乱を生き延び、命を救われたとしても、愛する人との子どもを望むことすら許されない絶望を抱えたまま生き続けることが、果たして真の救済と呼べるのだろうか?
どうしても、俺は更なる欲を抱いてしまうのだ。あの偉大で、誰よりも優しかった英雄夫妻に、運命によって理不尽に奪われたはずの『普通の幸せ』を取り戻してほしい、と。
アスク先生は、すぐには答えなかった。
彼は視線を宙に彷徨わせ、深い苦悩を刻みながら、それから——背後に立ち尽くしているアンナの姿を、何かを確かめるように、ひどく痛ましげに見つめた。
診察室を満たす、息が詰まるほどの重い沈黙。
壁の時計の針の音だけが、やけに大きく、頭蓋の内側に響き渡る。
そして、アスク先生は静かに、絞り出すように口を開いた。
「……可能性は、ある」
「……!」
先生の唇から零れ落ちたその一言に、俺の心臓が大きく跳ね上がった。
可能性が、ある。
ルナ・マテリアルをダンジョンから持ち帰り、研究を完成させれば、成し遂げられるかもしれないのだ。
レオネル様と、アンナ様が。
互いに深く愛し合いながらも、残酷な運命の悪戯によって引き裂かれ、傷ついたあの二人が、自分たちの子どもを腕に抱き、幸せに笑い合える未来が、この世界のどこかに確かに存在する。
(よかった……本当に、よかった……!)
胸の奥底から、熱い奔流のような感情が込み上げてくる。
口元が緩み、思わず歓喜の笑みが零れそうになった。
俺がダンジョンに挑む理由。命を懸けて、業魔の巣食う深淵へと潜り続ける意味。その確固たる光が、今、俺の目の前に鮮明に提示されたのだ。
だが——。
歓喜に浸りかけた俺の耳朶を、切迫した、今にも泣き出しそうな叫び声が激しく叩きつけた。
「だめよ、リオ!!」
俺は弾かれたように椅子の上で振り返った。
「アンナ……?」
そこに立っていたアンナは、いつもの冷静沈着で、何事にも動じない彼女とはまるで別人のようになっていた。
彼女の美しい顔からは完全に血の気が引いており、紙のように真っ白になっていた。唇を小さく震わせ、その瞳には溢れんばかりの涙と、悲痛な光が激しく揺らめいている。
「アンナ……様だって、自分の為に貴方に無茶をされるのは、絶対に嫌な筈だから!!」
その叫びは、まるで魂を削って絞り出した悲鳴のようだった。
彼女の両手は固く、白くなるほど強く握りしめられ、爪が手のひらに食い込んで微かに血が滲んでいるのが見えた。
「貴方がボロボロになって、命を削って……そんな思いをしてまで手に入れた奇跡で救われたとして……! そんなもので子どもを産んで、一体誰が心の底から喜べるというの!? アンナ様が望んでいるのは、そんな誰かの犠牲の上に成り立つ血塗られた救済じゃないわ! だから……だから、そんな理由でダンジョンへ行こうなんて、絶対に考えないで……!」
アンナの声は最後の方は掠れ、祈るように、懇願するように震えていた。
その凄まじい気迫と、剥き出しの感情の激しさに圧倒され、俺の頭に上っていた歓喜の熱が一瞬で急速冷却されていく。
(……そうだ。そうだよな)
俺は深く反省し、気まずさに耐えかねて俯いた。
アンナの言う通りだ。俺の独りよがりな英雄願望や、勝手な自己満足で無茶をして、もし俺が命を落としたり、二度と戻れない傷を負ったりすれば、救われたはずのアンナ様だって生涯消えない深い罪悪感に苛まれることになる。
誰かを救うために、別の誰かが犠牲になる。そんな悲劇の連鎖を、あの心優しいアンナ様が望むはずがないのだ。
だが——。
(アンナ様だけじゃないんだ)
俺は俯いたまま、膝の上で静かに、しかし固く拳を握りしめ直した。
アンナ様だけじゃない。
この世界には、理不尽な運命によって未来を奪われ、暗闇の中で泣いている人たちがたくさんいる。
ルナ・マテリアルがもたらす奇跡は、そうした多くの傷ついた人たちを絶望の淵から救い出す、確かな希望の光になるはずなのだ。
そして何より——俺が前へ進み、ダンジョンを打ち破ることで、ルミナの未来を、みんなの明日を守ることができるなら。
俺が再び立ち上がり、過酷な戦場へと赴く理由としては、それだけで十分すぎるほどだった。
「……ごめん、アンナ。少し浮かれてたよ」
俺はゆっくりと顔を上げ、アンナに向かって努めて穏やかな、安心させるような笑みを向けた。
「無茶はしない。ちゃんと自分の命も大事にするよ」
アンナは俺のその笑顔を見て、何かを言いたげに微かに唇を開いたが、やがてすべてを諦めたように哀しげに視線を伏せ、小さく震える息を吐き出した。
「……ええ。絶対に、その約束を守ってね」
その二人のやり取りを、診察机の向こう側からじっと見つめていた人物がいた。
アスク先生だ。
先生は椅子に深く腰掛けたまま、両手を組んで口元を隠し、底知れぬ悲哀と痛ましさに満ちた瞳で、俺とアンナの姿を交互に見つめていた。
その眼差しは、世界のあらゆる理不尽と残酷さを一身に受け止めてしまったかのように、深く、暗く沈んでいる。
「…………」
部屋の中に、再び重く冷たい沈黙が降り注ぐ。
朝の光は部屋の奥まで差し込んでいるというのに、空気の冷たさは増していくようだった。
やがて、アスク先生は机の上に置かれたカルテにゆっくりと目を落とし、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと、掠れた声で呟いた。
「………………惨いな」
その言葉は、ひどく小さく、乾いた吐息のように部屋の空気に溶けて消えていった。
「え……?」
俺は思わず聞き返した。
惨い?
一体何が、誰が惨いというのだろうか。
ルナ・マテリアルによってアンナ様が救われる可能性が見つかり、世界が希望に向かって動き出そうとしているというのに。
なぜ、この老医師は、まるで世界が救いようのない絶望の底に呑み込まれてしまったかのような、そんな痛切で悲痛な言葉を口にしたのだろう。
俺には、その言葉の真意が、どうしてもわからなかった。
このお医者様は、12話で出てきたお医者様と同一人物です。
そして、アンナさんの事も知っています。