天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
診察室の重厚な木製扉を背後で静かに閉ざしてから、城の奥深くへと続く冷たい石造りの回廊を、俺はアンナと共に並んで歩いていた。
コツ、コツ、コツ——と、俺たちの履く革靴の底が硬質な石を叩く乾いた足音だけが、天井の高い吹き抜けの廊下に澄み渡るように反響していた。他には誰もいない。聞こえるのは、微かな風の鳴る音と、自分たちの衣服が擦れ合うかすかな気配だけだった。
隣を歩くアンナの横顔に、俺はそれとなく視線を走らせた。
先刻、アスク先生の診察室において、彼女が見せたあの剥き出しの感情の激発——『アンナ様が望んでいるのは、そんな血塗られた救済じゃないわ!』と悲鳴のように叫んだあの切迫した取り乱しぶりは、今や嘘のように綺麗に消え去っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、顎をわずかに引き、周囲のあらゆる死角に気を配りながら歩くその姿は、完璧な騎士そのものだ。洗練された立ち居振る舞い、一切の乱れがない足取り。
だが、その完璧すぎる静謐な佇まいの奥底に、隠しきれない微かな憂いと、俺に対する過剰なまでの気遣いの気配が、薄い膜のように張り付いているのを俺は見逃せなかった。
彼女の視線が、時折、俺の足元や呼吸の乱れを確かめるように、そっと、触れるような優しさで向けられるのだ。俺が少しでも足をもたつかせれば、いつでもその腕を差し伸べて支えられるように、わずかな重心の傾きすら計算されている。
(……心配、かけっぱなしだな)
俺は己の不甲斐なさに、胸の奥底で小さく舌打ちをした。
つい先日のレオンとの激闘での昏倒に続き、今朝のヴァリウスさんとの会話中のブラックアウト。そして、アスク先生から下された『精神の崩壊』という不名誉極まりない診断。
自分が倒れるたびに、周囲の人間がどれほど肝を冷やし、どれほど心を痛めているのか。アンナの張り詰めた横顔を見ていると、申し訳なさと居たたまれなさで胃の腑がシクシクと痛むようだった。
やがて、俺たちに割り当てられている客室の前に辿り着いた。
精緻なレリーフが彫り込まれた重厚な両開きの木製扉。その前には、本来であれば王宮の威厳を体現するはずの二人の騎士が、直立不動の姿勢で警護についていた。
カイル君と、アリッサさんだ。
だが、その二人の顔面を視界に捉えた瞬間、俺は思わず足を止めて絶句した。
彼らの表情は、あまりにも凄惨な有様だったのだ。
まるで前線において、食料も水も補給も絶たれた極限状況の中、三日三晩にわたる不眠不休の敵軍包囲戦をたった二人きりで耐え凌ぎ、魂の最後のひと欠片、最後の一滴まで搾り取られてしまったかのような、限界突破の疲労困憊ぶりが全身から滲み出ていた。
「お帰りなさい、リオさん……アンナさ……ん」
カイル君が、何年間も油を差されることのなかったブリキの人形のように、ギギギ……と軋むようなぎこちなさで頭を下げた。
語尾がかすれ、声の輪郭が曖昧に震えている。今にも膝の関節から崩れ落ちて、床に倒れ込んでしまいそうな頼りなさだ。
「お待ちしておりました……本当に、心の底から、お待ちしておりました……」
アリッサさんに至っては、灼熱の砂漠を何日も彷徨い歩いた末に、奇跡のオアシスを見出した遭難者のように、すがるような、今にも涙をボロボロと零しそうな湿った視線を俺とアンナに向けていた。
白手袋の指先が、小刻みに、止まることなくプルプルと痙攣しているのが痛々しい。
(……なんか、凄まじく疲れた顔をしてるな)
俺は引き攣った愛想笑いを浮かべながら、内心で冷や汗を滝のように流した。
俺とアンナがアスク先生の診察室へ向かうため、この部屋を空けていた時間など、せいぜい三十分かそこらのごく短いものに過ぎない。
そのわずかな時間の間に、一体どれほどの天変地異が、どれほどの理不尽な暴風雨がこの扉の向こう側で巻き起こったというのか。
いや、原因に心当たりがありすぎるのが恐ろしい。
あの自称・ルミナの姉にして、俺の嫁を堂々と名乗るパルシリアの暴風王女——フィオナが、俺のいない隙を見計らって、何かとんでもない凶行をやらかしたに違いないのだ。
「苦労をかけたわね、二人とも」
アンナが、すべてを察したような深い同情と、母親のような温かい労いが半分ずつ混ざり合った柔らかな声で二人に声をかけた。
すると、カイル君とアリッサさんは、まるで奇跡的に戦死を免れて生還した敗残兵のように、か細い吐息を漏らした。
「滅相もございません……」
「命があるだけで、神に感謝いたします……」
二人が震える手で真鍮のドアノブに手をかけ、軋み音を立てないよう慎重に、重い扉をゆっくりと押し開けた。
「入るわよ、リオ」
「ああ……」
俺の胸を去来したのは、何よりもルミナへの切実な心配だった。
俺が倒れてからというもの、あの幼い少女には心配をかけっぱなしだ。
俺が診察のために部屋を出る時も、捨てられた子犬のような目で俺の服の裾を握りしめていたのだ。
不安で顔を曇らせて泣いていなければいいのだが……。
「おーう、ただい……ま?」
部屋に足を踏み入れ、ルミナを安心させようと努めて明るい調子で口から出かけた帰還の挨拶は、一瞬にして間の抜けた疑問符へと姿を変えて凍りついた。
そこには、俺の貧相な予想の斜め上を、超音速の猛スピードで突き抜けていく、極めて情報量の多い混沌の空間が広がっていた。
部屋の中には、主である俺の帰りを待っていたルミナとフィオナの姿があった。
……それだけなら、まだいい。それだけなら、ごく平和な日常の光景として受け止めることができただろう。
だが、その周囲を取り巻く光景が、あまりにも異常だった。
「うあああああん!!」
ステラが、鼓膜を劈くような奇声を上げながら、高級な敷物の上を縦横無尽に、魚のように体をくねらせて転げ回っている。
そして——。
「ひい……っ! お、おしり……おしりがぁ……っ!」
見知らぬメイド服姿の少女が、まるで生まれたての小鹿のように四つん這いになって、床に額を擦り付けながらプルプルと激しく痙攣していたのだ。
なんなんだ、この阿鼻叫喚の地獄絵図は。
俺の脳の処理回路が完全にフリーズし、立ち尽くしていたその時だった。
「リオ〜」
部屋を支配する混沌と狂気を綺麗さっぱり置き去りにして、ルミナが小さな足音をパタパタと軽快に鳴らしながら、とてとてと俺に向かって駆け寄ってきた。
そして、俺の腰のあたりに頭から飛び込むようにして、ギュッと抱きついてきたのだ。
「ルミナ……!」
ぎゅっと、俺のシャツの布地を握りしめる、小さくて温かい二つの手。
俺を見上げてくる透き通った翠玉の瞳には、俺が無事に帰ってきた姿を認めたことによる、純度百パーセントの安堵と、混じり気のない歓喜の色が爛々と灯っていた。
ふわっと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
陽だまりの温もりと、熟した野果実を混ぜ合わせたような、彼女特有の無垢で優しい匂い。
その温もりと、腕の中に収まる確かな命の重みに触れた瞬間、先程まで診察室で張り詰めていた俺の神経が、まるで温かいお湯に溶かされるように一気に弛緩していった。
(ああ〜……マジで、心の底から癒やされる……)
先程までの頭蓋を割るような頭痛も、アスク先生から浴びせられた厳しい説教も、全部この瞬間のために耐え抜いた甲斐があったというものだ。
俺は両腕を回し、ルミナの小さな背中を、壊れ物を扱うように優しく、しっかりと抱きしめ返した。彼女の背骨のラインから伝わる小さな鼓動が、俺の荒んだ精神をじんわりと満たしていく。
だが——その至福の神聖なる空間に、すぐ横から、下劣極まりない雑音が混ざり込んできた。
「うっ……! かわいい……っ、尊い……死ぬ……っ!」
見ると、少し離れた場所に立つフィオナが、右手の甲で自らの鼻の下を必死に押さえつけながら、天を仰いで小刻みに身悶えしていた。
その漆黒の瞳は爛々と怪しい光を放ち、毛細血管が限界を迎えたのか、今にも鼻血を噴き出しそうな凄まじい勢いで興奮を煮えたぎらせている。
「…………」
気持ちは、よ〜くわかる。
ルミナの可愛さは天変地異レベルだし、世界を滅ぼすほどの破壊力があるのは紛れもない事実だ。
だが……こんなことで、この変態王女と魂のレベルで深く通じ合ってしまうのは、生理的かつ倫理的に激しく嫌だった。
まるで、俺とフィオナが同じ穴の狢——同類の歪んだ欲望を抱える変態であるかのように見えてしまうではないか。
「えっと、ルミナ?」
「なに?」
俺の腕の中で、ルミナが小首をコテンと可愛らしく傾げた。
黄金の絹糸のような前髪がさらりと揺れ、まん丸な翠玉の瞳が、何の疑いもなく俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
(うっ……かわいい……っ!)
俺の心臓が、物理的な衝撃を受けたかのようにドクンと激しく跳ね上がる。
すかさず視界の端で、フィオナが「ほら見なさいよ、アンタも完全に私と同じ目をしてるじゃないの!」と言いたげな、同志を見つめるような生暖かい、ねっとりとした眼差しを俺に向けてきた。
(やめろ! フィオナ、同胞を見つめるような目で俺を見るな!)
俺は心の中で、首がもげるほど激しく横に振った。
俺のこれは、親が子に向けるような、あるいは兄が幼い妹を慈しむような、純粋で無垢なる家族愛だ。
お前のような、業の深い倒錯した変態の欲望とは根本から次元が違うのだ。
俺は変態じゃない。絶対に違う。断じて違う。
俺はフィオナの生ぬるい視線から逃れるように強引に顔を背け、部屋の中央で繰り広げられている惨状へと視線を戻した。
「ええと……あそこでプルプル震えてるお姉さんは、一体誰なんだ?」
絨毯の上では、見知らぬメイド姿の少女が、床に額を擦り付けんばかりの土下座のような姿勢で、ビクン、ビクンと小刻みに震え続けている。
そしてそのすぐ隣では、青い毛玉——ステラが、仰向けにひっくり返った状態で両の前足を自分のお尻に必死に当てがい、激しく床の上をのたうち回っていた。
「あおおおん……! 痛い……! 魂の古傷が、心の傷が痛いよぉ……!」
などと、世にも情けない、神の威厳を微塵も感じさせない呻き声を上げている。
何があったんだ、本当に。俺がいない間のわずか数十分で、ここでどんな壮絶な局地戦が展開されたというのか。
「とりあえず、荒れ狂うステラを止めに行ってくるわね」
俺の背後から静かに歩み出たアンナが、深い溜息をつきながら、床で悶絶する青い毛玉へと歩み寄っていった。
アンナが膝をついて、優しく両手を差し伸べると、ステラは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、まるで母親を求める子猫のような、甘ったるく情けない声を上げた。
「うえーん、アンナー!!」
ステラは短い手足を必死にバタつかせながら、アンナの豊かな胸元へとダイブし、その柔らかい双丘の間に顔面から深々と埋もれた。
アンナは困ったように眉を下げて微笑みながら、慣れた手つきでステラの背中と頭を優しく、リズミカルにポンポンと撫でてやる。
「はいはい、可哀想に。痛かったわね、ステラ」
アンナの胸元に完全に顔を埋め、その極上の柔らかさと体温を全身で享受しながら、ステラは恍惚とした表情を浮かべ、トロトロに蕩けた声を漏らした。
「おお……素晴らしい……! この包容力、この神聖なる感触、このすべてを包み込む母性の香り……! 貴女こそが真の神か……!」
(おめぇが神(の残滓)だろうが!!)
何を女性の胸に顔を埋めながら世俗的な悦楽に浸ってんだ、このポンコツ猫は。
俺の脳内で、間髪を入れずにキレ味鋭いツッコミが炸裂した。
まあいい、ステラの精神的ケアはアンナに任せておけば間違いはないだろう。あの圧倒的なお母さん包容力の前には、神すら赤子同然に手懐けられてしまうのだから。
俺は再び、腕の中に収まるルミナへと視線を落とした。
「ルミナ、あの倒れてるお姉さんのこと、何か知ってるか?」
ルミナは俺の問いかけを受け、小さな人差し指をちんまりとした顎に当てて、少しだけ記憶を手繰り寄せるような素振りを見せた。
そして、とんでもない単語を、平然と口に出したのだ。
「……ねっちょり、ぐっちょりなひと?」
「は、はあ!?」
俺の口から、裏返った情けない叫び声が飛び出した。
ねっちょり?
ぐっちょり?
おい待て。それはおよそ、うら若き少女を形容するために使っていい言葉の範疇を遥かに逸脱している。
何より、そんな淫靡でドロドロとした生々しい語彙が、我が愛しのルミナの口から平然と発せられたという事実が、俺の純朴な精神にメガトン級の衝撃を与えていた。
なんだろう? 一体どういう文脈でその言葉が使われたんだ?
嫌な汗が背中を滝のように流れ落ちていくのを感じる。
「お帰りなさい、リオ」
俺がショックのあまり脳内で心肺停止しかけていると、背後から凛とした、しかしどこか悪戯っぽく鈴を転がすような声がかけられた。
振り返ると、フィオナが優雅な足取りで、床を踏みしめてこちらへと歩み寄ってくるところだった。
あ、着替えてる。
俺は目を見張った。
先程までの、目のやり場に困るどころか目の毒でしかなかった、あのスケスケの過激なネグリジェ姿ではない。
彼女が身に纏っていたのは、深い黒を基調とした、シックでありながらも随所に繊細な銀の刺繍が施された、非常に仕立ての良い上質なドレスだった。激しい動きにも耐えられるよう機能的に設計されており、露出は極めて控えめで、襟元も鎖骨のあたりまできっちりと閉じられている。
「ふふ、似合うかしら?」
フィオナはその場で軽やかに爪先立ちで一回転し、ドレスの裾をふわりと優雅に広げてみせた。
艶やかな漆黒の髪が宙に美しい弧を描き、彼女の雪のように白い肌と見事なコントラストを描き出す。
素材の良さが、衣服によって完璧に引き立てられていた。
「ああ、お姫様みたいだ」
俺は素直な感嘆の息を漏らした。
ふざけた言動や変態的な行動をすべて削ぎ落とし、ただ黙ってそこに立っていれば、彼女は絵画から抜け出してきたかのような絶世の美少女であり、紛れもない一国の王女なのだ。ガワだけは。外見だけは、完全に神の最高傑作と言っていい。
「『みたい』じゃなくて、れっきとした本物の姫よ!」
フィオナは不満そうに唇を尖らせ、細い腰に両手を当てて胸を張った。
「振る舞いが全然姫らしくないからな?」
「あら、姫そのものじゃない。傲慢不遜で、我が儘で、思い通りにならないと気が済まない所とか、大衆小説に出てくるテンプレ通りの高貴な姫君そのものだわ」
「お前、姫という人種に偏見を持ちすぎだろ。それ、流行りの冒険小説や大衆劇だと、最終章で民衆に断罪されて国外追放される悪役令嬢のムーブだからな?」
「あら、出来るもんならやってごらんなさいな。んでもって追放された先でも、私はリオとルミナを連れ去って楽しく暮らすだけだから、むしろ楽しみね」
クスリと小悪魔のように微笑むフィオナ。
楽しそうだな、おい。追放刑をバカンスか何かと勘違いしていないか。
だが、俺はこの少女の扱い方を少しずつ理解し始めていた。
過剰に王族としてへりくだったり、腫れ物に触るように扱うのではなく、こうして対等に、多少ぞんざいにツッコミを入れながら相手をした方が、彼女自身も肩の力を抜いて居心地が良さそうなのだ。
「そんで、フィオナ」
俺は床でまだピクピクと痙攣しているメイド服の少女へと視線を向けた。
「あの娘は、一体誰なんだ?」
フィオナは「ああ」と軽く顎を引き、倒れ伏す少女を指差した。
「この娘はメリル。私の専属メイドよ……まあ、これから度々顔を合わせることになるだろうから、名前くらいは覚えておいてあげて」
「フィオナの専属メイド……」
俺はその言葉の持つ途方もない重みを噛み締め、思わず心の中で合掌しそうになった。
こんな規格外のじゃじゃ馬で、頭脳明晰な変態王女に、四六時中至近距離で仕えているのか。
過酷。あまりにも過酷極まりない過酷な労働環境だ。今すぐパルシリア王室から、特別危険手当と精神的損害賠償が満額支給されるべき激務に違いない。
「そっか、メリルさんか……。で、そのメリルさんは、どうしてそんな床とお友達になってるんだ?」
健康な人間が、部屋の絨毯に突っ伏して、生まれたての仔馬のように痙攣している理由がまったくわからない。本当に何があったんだ。
「思春期が暴走したのよ」
フィオナは、さも当然といった風情で大袈裟に肩をすくめて言い放った。
「なんじゃそりゃ?」
思春期の暴走。
八歳かそこらの幼女が、年上の少女の思春期の暴走を達観したように案じているという構図が、すでにシュールすぎて頭が痛くなってくる。
俺はこれ以上彼女のペースに巻き込まれるのを防ぐため、床に倒れているメリルさんへと歩み寄り、膝をついて視線を合わせた。
「え〜と……大丈夫ですか、メリルさん?」
俺の呼びかけに反応して、メリルさんがビクッと肩を跳ね上げ、おそるおそる顔を持ち上げた。
間近でその顔を見て、俺は少し驚いた。
かなり若い。
整った顔立ちにはまだ幼いあどけなさが色濃く残っており、大きな栗色の瞳が涙で濡れている。恐らく、年齢は十二歳か十三歳くらいだろう。俺よりも年下だ。
「は、はい……」
メリルさんは涙目で俺を見上げ、それから、何か信じられないものを見るように目を限界まで丸くした。
「……その、貴方様は……?」
「俺は、リオ・ハートフィールド。この部屋を一時的にお借りしている……客ですよ」
「あ、貴方様が、リオ様……!?」
メリルさんの声が、裏返って一段高く跳ね上がった。
「お、おう」
俺の事を知っているのか?
いや、知っていない方がおかしいか。
王宮の謁見の間というパルシリアの権力の中心地で、大勢が見守る中、俺の淡い初恋が無惨にも散った、あの忌まわしき「青春殺人事件」。
あれは間違いなく、王宮の歴史に永久に記録されるレベルの大珍事だ。城内で働くメイドたちの格好の噂話のネタになっていても何ら不思議ではない。
ああ……思い出すだけで、胸の古傷がチクチクと痛む。まだ事件から一ヶ月も経過していないのに、精神的なダメージは百年分くらい蓄積されている気がする。
だが、メリルさんの口から飛び出したのは、俺の哀れな失恋を憐れむ同情の言葉ではなかった。
「こんな……こんな純朴で、どこからどう見ても誠実で優しそうな顔の下に……」
「え?」
な、なんだ?
急に何を言い出すんだ、この子は。
俺の困惑と警戒を完全に無視して、メリルさんは熱病に浮かされたような、トロンとした濁った瞳で、ぶつぶつと言葉にして呟き始めた。
「ああ……姫さまとルミナさんを、二人同時に……日夜、薄暗い部屋の中でねっとりぐっちょりと……」
「メリル」
背後から、氷柱を直接突き立てるような、底冷えのする声が響いた。
「ひゃあ!?」
メリルさんは、まるで熱湯を浴びせられた猫のように、床から弾かれたように飛び上がった。
見ると、フィオナが冷たい微笑みを口元に浮かべたまま、右手の中指と人差し指を立てて、クイッ、クイッと前後に妖しく動かしていた。
な、なんだその不穏すぎるジェスチャーは?
見てるだけで俺の背筋や臀部すらゾワゾワと粟立つような、禍々しい動きなのだが。
「次は……もっと、深〜く突き刺すわよ?」
「ひ、ひいいいいいいいいっっっ!!?」
メリルさんが両手でお尻をガッチリとガードしながら、顔面を蒼白にして絶叫した。
滅茶苦茶にビビりまくっている。完全に、肉体と魂の深層に刻み込まれたトラウマに対する条件反射だ。
「私の手を、これ以上汚させないでね、メリル?」
「ははははははいいいいいいいっっっ!! 申し訳ございませんっっっ!!」
「えっと、フィオナ……?」
俺は恐る恐る尋ねた。本当に、俺のいない間に何が起きたんだ。
「スルーして頂戴、リオ」
フィオナはフッと冷徹な表情を霧散させ、何事もなかったかのように優雅に微笑んだ。
「あの娘は、若さを持て余している年頃なのだから。大人の私たちが、広い心で受け流してあげるのが礼儀というものよ」
(ツッコむな、リオ……!)
俺は心の中で、自分自身に猛烈なブレーキをかけた。
『お前はどう見てもメリルさんより若えだろうが!』という、喉元まで出かかった魂の叫びを、鋼の意志で胃の腑へと飲み込む。
(こんなあからさまなボケに、ホイホイとツッコんだら負けだぞ……! 相手の思う壺だ!)
そうだ。
この目の前の変態王女は、俺をからかって反応を楽しむことを、至上のエンターテインメントにしているフシがある。
ここで俺が声を荒らげてツッコめば、彼女は「いい切れ味ね」と満足げにドヤ顔を晒すだけだ。
ツッコんでくれと言わんばかりの分かりやすいボケを、華麗に完全スルーしてこそ、真の大人の対応というもの。俺のプライドが、安易なツッコミを許さない!
「ふふ、若いっていいわね、リオ」
フィオナは窓の外に広がる抜けるような青空を遠い目で見つめながら、深みのある哀愁を漂わせて呟いた。
「……っ!」
何を人生の酸いも甘いも噛み分けた、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老境の熟女みたいな台詞をほざいてるんだ、この幼女は。
拳を握りしめ、耐える。
「私にも、あんな風にがむしゃらに前だけを向いて突っ走っていた時期があったわね……実に懐かしいわ」
「……ぐ……っ、う……」
あんな時期、じゃない。
お前は今まさに、その思春期の手前の、クソガキ真っ盛りの時期のド真ん中やろがい!!
奥歯がギリギリと音を立てて軋む。耐えろ、耐えるんだ俺。ここで屈したら負け犬だ。
「私達……どうして、こうなってしまったのかしらね……」
フィオナは胸元にそっと手を当て、深く、悲劇のヒロインのように重いため息を吐き出した。
ギリィッ!!
噛み締めた奥歯が、圧力で粉々に砕け散りそうだ。
(ツッコんじゃダメだツッコんじゃダメだツッコんじゃダメだツッコんじゃダメだツッコんじゃダメだ……!)
俺は心の中で、猛烈な自己暗示の呪文を何百回も繰り返し、荒れ狂うツッコミの衝動を必死に抑え込む。
「あの頃の私たちは……もっと、太陽のように眩しく輝いていたのに……」
「あの頃って、い……ぐううううっ!!」
(負けて……たまるかぁぁぁっ!!)
最早、何との戦いなのかすら分からない。ただの意地の張り合いだ。
なんで俺は、こんな幼女を相手に、血圧を限界突破まで跳ね上げて意地を張っているのか。
間違いなく、今の俺は、凄まじい形相をしているはずだ。
「リオ、へんなかお」
俺の足元で、ルミナが興味津々といった様子で俺の引き攣った顔面を見上げていた。
頼むからそんな純粋で穢れのない瞳で見ないでくれ、ルミナ。俺は今、精神の防壁が完全に決壊寸前なんだ。
「こんな……冷め切った仮面夫婦のような関係になるなんて、あの頃の私は夢にも思わなかったわ」
フィオナの波状攻撃は止まらない。
俺とお前が出会ったのは、今朝だ!
太陽が昇ってから、まだ数時間しか経過していない!
熱くなる暇もなければ、冷め切る暇すらないわ!
そして、フィオナはトドメの一撃とばかりに、慈愛に満ちた聖母のような柔らかな笑みを浮かべて、超特大の爆弾を投下した。
「思い返せば……私がルミナを産んだ時は、あなたもあんなに涙を流して喜んでくれたのに……」
プツン。
俺の脳内で、理性を辛うじて繋ぎ止めていた最後の極太チェーンが、火花を散らして音を立てて千切れ飛んだ。
「まだ産めねぇだろうが八歳児ィィィィィッッッ!!!!」
俺は部屋の分厚い窓ガラスがビリビリと激しく共鳴するほどの声量で、渾身の大絶叫を叩きつけた。
もう我慢の限界だ! プライドも大人の対応も知ったことか!
「お前はメリルさんより遥かに若いだろうがッ! 『あんな時期』なんて過去は一秒たりとも来てねぇだろ! 俺達が出会ったのは今朝だろうがッ! なんで出会って数時間で冷え切った熟年夫婦の空気を醸し出してんだよ! んで、何をごく自然な流れでルミナを自腹から産んだ設定にしてんだコラァ! お前はさっきまで自称『姉』だっただろうが! 設定の辻褄くらい自分で合わせろやボケェェェッ!!」
息を吸う間すら惜しんで、機関銃のように一気に捲し立てた。
肺の中の酸素が完全に空っぽになり、俺は両膝に手をついて肩で激しく息をした。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
完璧だ。
声の張り、言葉のチョイス、論理的な矛盾点の完全な網羅。
間違いなく、今の俺のツッコミはパルシリア王国の建国以来、最も鋭利で無駄のない歴史的最高傑作だった。
「♪」
しかし、当のフィオナはといえば。
怒られるどころか、満足げに細めた瞳を輝かせ、上機嫌で鼻歌交じりにふふんと微笑んでいた。
完全に「ごちそうさまでした、いいツッコミをありがとう」という顔だ。
(……くそっ、完全に完敗した気分だ……!)
俺は疲労困憊でガックリと項垂れた。このじゃじゃ馬姫の手の平の上で、最初から最後まで見事に転がされただけだった。
「ふ〜ん……ルミナの……『お母さん』、ねぇ……?」
その時。
部屋を満たしていた熱気が、突如として絶対零度へと急降下した。
声の主は、アンナだった。
彼女はステラを胸元に抱きしめた体勢のまま、スッと細められた瞳でフィオナを冷徹に射抜いていた。
その唇に浮かぶ微笑みは完璧に美しかったが、瞳の奥底には、決して触れてはならない神域を土足で踏み荒らされたかのような、静かで凄まじい怒りの業火がメラメラと燃え盛っている。
「ひえ!?」
さしものフィオナも本能的な生命の危機を感じ取ったようで、すかさず俺の後ろへと回り込み、俺の背中を盾にするように隠れた。
おう、この小娘、俺を躊躇いなく防壁にしやがって……!
「あんにゃあぁ……! ぐ、ぐるじいいいいい……っ!!」
アンナの腕の中で、突如としてステラが断末魔のような悲鳴を上げた。
何がアンナの逆鱗に触れたのかは分からないが、アンナが無意識のうちに込めた腕の力によって、ステラは彼女の豊かな胸元に小さな身体ごとギュウギュウに押し込まれ、完全に圧迫窒息死の危機に瀕していたのだ。
青い前足が、空気を求めて宙をバタバタと痙攣するように掻いている。
(おお……なんて羨ま……いや、苦しそうなんだ!)
一瞬、男としての本能が不埒な思考をよぎらせたが、俺は即座に首を振って正気に戻った。
あのままでは、神が女の象徴によって物理的に圧殺されてしまう!
「ア、アンナ! ステラが死んじまう! 離してやれ!」
「え? ……あら、ご、ごめんなさいステラ!」
俺の悲鳴のような叫び声で我に返ったアンナが慌てて腕の力を緩めると、ステラは胸元の谷間からボトッと絨毯の上に転がり落ちた。
「ぶみゃあぁぁぁ……! 息が……息が完全に止まるかと思ったにゃあ……! 天国と地獄の門が、同時に目の前でフルオープンした気分だったにゃあ……!」
ステラは四肢を大の字に広げて床に突っ伏し、ゼェゼェと荒い息を吐き出していた。
どうやら、文字通り九死に一生を得たらしい。
(……後で、こっそり感想を聞いてみるべきだろうか?)
アンナのあの暴力的なまでの包容力に包まれるというのは、一体どのような感覚なのか。
いや、違う。これは決してふしだらな下心などではない。あくまで、未知の物理現象に対する純粋な学術的好奇心だ。断じてやましい気持ちなどない。
ふと視線を感じて横を向くと、床から立ち上がったメリルさんが、キラキラと輝く瞳で俺をじっと見つめていた。
両手を胸の前でギュッと組み、まるで伝説の救世主を拝むかのような、熱烈な眼差し。
(え……なに、その目は?)
『見つけた……! 我が儘放題で王宮の誰の手にも負えなかったあの姫様を、真正面から受け止め、見事に飼い慣らすことのできる唯一の殿方を……!』
そんな言葉が、彼女の瞳の光から雄弁に語りかけてくる。
嫌だよ! なんで俺が、こんな歩く天変地異みたいな暴風王女の専属猛獣使いにならなきゃいけないんだ。冗談じゃない、俺の平穏な日常が完全に消滅してしまう。
すると、俺の足元で、ルミナが拗ねたように唇を尖らせて呻いた。
「むう……リオ、フィオナとなかよし」
ルミナは俺の服の裾をクイクイと引っ張り、不満そうに眉をひそめている。
俺がフィオナとばかり熱心にやり取り(ツッコミ)をしていたのが、面白くなかったらしい。
「もう、妬かないのルミナ」
フィオナがすかさず俺の背後から顔を出し、ルミナの金髪の頭をポンポンと撫でた。
「二人で一緒に、リオで遊びましょう?」
「ん」
ルミナはあっさりと納得し、コクンと頷いた。
「おい! 『俺で遊ぶ』じゃなくて、『俺と遊ぶ』だろうが!」
俺はお前たちのオモチャか!?
いつの間にか、俺を玩具にして遊ぶ謎の同盟が強固に結託されているではないか。
くそう、と俺が内心で歯噛みしていると。
グ〜〜〜……。
静まり返った部屋の中に、なんとも可愛らしい、控えめな虫の鳴くような音が響き渡った。
音の発生源は、ルミナの小さなお腹だった。
ルミナは両手でお腹をそっと押さえ、俺を見上げた。
「……おなか、すいた」
「おっと……そうだよな。色々ありすぎて、もうすっかり昼時だ」
朝から気絶したり、目覚めたら変態王女が腕に絡みついていたり、診察室で重い話を聞かされたり、王女と猫のプロレスを見せられたりしていたせいで、食事のことを完全に失念していた。
俺はルミナの目線に合わせてその場にしゃがみ込み、優しく微笑みかけた。
「今から、俺が何か作るよ。……パンケーキでいいか?」
「うんっ!」
ルミナの表情が、パァッと満開の向日葵のように輝いた。
パンケーキ。
俺がこの世界でルミナと出会って間もない頃、最初に作って食べさせて以来、彼女の不動の大好物になった料理だ。
普段は城の腕利きの宮廷料理人たちが食事を用意してくれるのだが、ルミナは時折、俺の作る素朴で飾らないパンケーキを食べたがるのだ。
「シロップとバターをた〜っぷりね!!」
横から、さも当然といった顔をしてフィオナが追加のリクエストを叫んだ。
「お前……」
俺は立ち上がり、呆れたようにフィオナを見下ろした。
同席してもいいか、とすら尋ねてこない。自分がその食事の輪に加わることを、一ミリも疑っていない凄まじい図々しさだ。
「ナチュラルに同席するつもりかよ……。まあ、仕方ないな」
元より、彼女を除け者にするつもりなど毛頭なかった。
どれほど破天荒で変態的であろうと、彼女がルミナの笑顔を引き出してくれたのは事実だし、何より、腹を空かせた子供を目の前にして飯を食わせないほど、俺は落ちぶれちゃいない。
「全員分作るから、そこで大人しく待ってろ」
俺がそう宣言すると、部屋の中にいた全員——ルミナ、フィオナ、床から起き上がったステラ、アンナ、そしてメリルさんまでもが、嬉しそうにパッと顔を綻ばせた。
騒がしく、理不尽で、けれどどこか温かい日常。
俺はエプロンを締めるため、客室に備え付けられた小さな調理場へと足を進めたのだった。
ギャグはいい、書いてて心が洗われる・・・