天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ!   作:ナオ3

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アンナ 絶望の予兆

 

パタパタと軽やかな足音を立てて、リオが客室に備え付けられた厨房の奥へと姿を消していった。

腰に白いエプロンをきっちりと巻き、手際よく調理器具を並べる金属的な澄んだ音が、微かに開け放たれた間仕切りの扉の向こう側から、コロン、カランとリズミカルに漏れ聞こえてくる。

やがて、火打ち石が立てる小さな火花と、魔導コンロに火が灯るボッと静かな破裂音が響き、フライパンを熱する微かな匂いが漂い始めた。

 

 

「…………」

 

 

私は部屋の壁際に静かに身を寄せ、その愛おしい生活の音にじっと耳を澄ませていた。

先刻までの、まるで嵐が吹き荒れていたかのような騒動が嘘のように、広々とした客室には穏やかで、どこか眠気を誘うような柔らかな光が満ちていた。

 

 

「えっと……その、ステラさま」

 

 

遠慮がちに、けれど隠しきれない好奇心と憧憬で瞳をキラキラと輝かせながら、メリルちゃんがおずおずと尋ねる声が聞こえた。

床にぺたんと正座し、先程までの狂乱と錯乱が綺麗に抜け落ちた初々しい顔立ちで、床に座る青い子猫——ステラをじっと見つめている。

 

 

「だ、抱いても……いいでしょうか?」

 

 

私は思わず、心の中でふっと口元を綻ばせた。

初対面の、それも人間の言葉を流暢に操る猫を前にして、怖じ気づくどころか「抱っこしたい」と目を輝かせるなんて、大したものだわ、メリルちゃん。

普通の街の娘や、王宮に仕える一般的な侍女であれば、悲鳴を上げて逃げ出すか、あるいは神聖な獣として畏れ多くて近寄ることすらできないはずだ。

けれど、彼女は怯える様子もなく、ただ純粋に愛らしい毛玉に触れたいと願っている。

やはり、あのフィオナ様という破天荒極まりないお姫様に、四六時中付き合わされてきた賜物かしら。

少々の異常事態や未知の存在程度では、ビクともしないのかもしれない。

そんなメリルちゃんの切実な懇願を受けて、ステラはふんと自慢げに鼻を鳴らした。

 

 

「も~、しかたにゃいな~! 今日は特別大サービスだぞ? 優しく抱いてよね?」

 

 

偉そうに胸を張り、二本足で立ち上がって前足を広げてみせるステラ。

ただの甘えたがりの猫そのものの仕草だ。

 

 

「はいっ! 失礼いたします……!」

 

 

メリルちゃんはまるで壊れやすい高級な陶磁器でも扱うかのように、両手をおそるおそる伸ばし、ステラの脇の下へと指を滑り込ませた。

そして、息を呑みながらそっと自分の胸元へと抱きかかえる。

 

 

「わあ……っ! すっごく、ふわふわで……手触りがいいです……!」

 

 

メリルちゃんの頬が、瞬く間に幸福感で桜色に染まった。

両腕の中にすっぽりと収まる温かな重み。極上の絹糸を何重にも織り重ねたような、滑らかで密度の高い青い毛並みに頬をすり寄せ、感嘆の吐息を漏らしている。

抱きしめられたステラも、まんざらではない様子で目を細め、喉の奥をごロゴロと鳴らしていた。

その微笑ましい光景のすぐ隣で、ルミナが膝を抱えて座り込み、じっと二人の手元を観察していた。

そして、小さな人差し指をちんまりと立てて、先輩風を吹かせるように口を開く。

 

 

「だきかたは、こう。おしりを、ちゃんとささえるの」

 

「あっ、こうでしょうか、ルミナ様?」

 

「ん。そう。じょうず」

 

 

ルミナが満足げにこくりと頷き、自分の小さな手をメリルちゃんの手の上に重ねて、ポンポンと軽く叩いてみせた。

黄金の髪を陽光に透けさせながら、少しだけ得意げに胸を張る我が娘の姿。

子供たちというものは、本当に驚くほどの速度で世界を塗り替えてしまう。

 

 

(一波乱あったけれど……仲良くやれて、本当によかったわ)

 

 

胸の奥にじんわりと、温かい蜜が広がるような感覚を覚える。

見ているだけで、先程まで診察室で氷のように冷え切っていた私の心がじんわりと解きほぐされていくようだった。

この温かな時間、この他愛もない平和こそが、私たちが血を流してでも守り抜きたかった光景そのものなのだと、胸の奥で深く噛み締める。

だが。

そんな穏やかな陽だまりの空気の中に、静かに、足音もなく滑り込んでくる気配があった。

 

 

「お疲れ様です、アンナ様」

 

 

かけられたその声に、私の思考がピシリと音を立てて引き締まった。

振り返ると、そこに立っていたのはフィオナ様だった。

その立ち姿、背筋の伸び方、重心の置き方。

あの無邪気で破天荒な姿は、どこにもなかった。

彼女の漆黒の瞳に宿っているのは、底知れぬ深淵のような知性。

他人の感情の機微を、呼吸の乱れを、瞳孔のわずかな収縮すらもミリ単位で観察し、瞬時に計算し尽くすような、冷徹で研ぎ澄まされた光だった。

とても——八歳そこそこの子供が浮かべていい表情ではない。

 

 

 

(やはり……私が『アンナ・ジークフリード』だと、完全に気付いているわね)

 

 

私は内心で小さく息を呑みながらも、表情の筋肉を微塵も動かさずに彼女を見つめ返した。

驚くには値しないことだ。

あのレオンの正体が、『レオネル・ジークフリード』であることを見抜いた彼女なのだ。

そのレオンの傍らに常に寄り添う妻——アンナ・オーリンが、アンナ・ジークフリード本人であると、この聡明すぎる王女が見抜けないはずがなかった。

フィオナ様は、私が静かに身構えたのを察したのだろう。

彼女はふっと瞳を伏せると、両手を優雅にドレスの前で重ね、完璧な宮廷作法に則って、深々と頭を下げた。

無駄のない、流れるような美しい礼。

 

 

「じゃあ、最初に」

 

 

顔を上げたフィオナ様の声は、先程までのふざけた調子とは打って変わり、澄み渡った鈴の音のように凛として、厳かだった。

 

 

「アンナ様。パルシリアの英雄であり、私の父エドワールと母セシリアの、掛け替えのない無二の友である貴女の元気なお姿をお目にかかれたこと……このパルシリア第一王女、フィオナは喜びで胸が詰まる思いです」

 

 

一言一言に、重みがあった。

それは単なる儀礼的な挨拶などではない。

両親から幾度となく聞かされてきたであろう英雄夫妻への敬意と、幼少の頃から抱き続けてきたであろう純粋な憧憬が、嘘偽りのない真実の響きを伴って私の耳朶を打った。

私は胸元に手を当て、騎士としての礼を返した。

 

 

「ありがとうございます、フィオナ様」

 

 

私の返礼を聞いて、フィオナ様はくすりと、少しだけ年相応の悪戯っぽい笑みを唇の端に浮かべた。

 

 

「ふふ、敬語はいいですよ。アンナ様」

 

「……そう? じゃあ、この場では『フィオナ』と呼ばせて貰うわね」

 

「ええ、それがいいわ。父や母の親友であり、この国の恩人である貴女にかしこまれるのは、私としてもどうにも座りが悪いのよ」

 

 

フィオナは小さく肩をすくめてみせた後、ふっとその笑みを消した。

空気が、瞬時にして数度冷え込む。

彼女の黒い瞳が、再びあの深淵のような光を宿し、私を射抜いた。

 

 

「それじゃあ——」

 

 

私は無意識のうちに、全身の神経を研ぎ澄ませて身構えた。

喉の奥が乾く。

彼女が次に何を口にするのか。何を私に問い質そうとしているのか。

これほどまでに聡明な少女が、リオが厨房へ引っ込んだこのわずかな隙を狙って私に接触してきた理由。

その予想は、嫌というほど正確についていた。

フィオナは、静かに、しかし逃れようのない切先のように鋭い言葉を投げかけてきた。

 

 

「アスク先生は、リオにどんな診断をしたの?」

 

 

心臓が、トクンと嫌な跳ね方をした。

やはり、それか。

リオの異変。今朝のあの尋常ではない目覚めと、彼が隠そうとしている精神の軋み。

この少女は、リオが必死に取り繕っていた笑顔の裏側に張り付く『決定的な歪み』を、とうに見抜いていたのだ。

私は息を整え、ゆっくりと首を横に振った。

 

 

「それは……私の口からは言えないわ」

 

 

声が揺れないように、細心の注意を払って言葉を紡ぐ。

 

 

「私は彼に付き添った護衛騎士であり、同時に医師の助手としての立場もある。患者の診断結果には、厳格な守秘義務があるもの。王女である貴女であっても、本人の承諾なしに軽々しく明かすことはできないわ」

 

 

それは、建前だった。

だが同時に、絶対の防壁でもあった。

リオの心がどれほどボロボロに傷ついているか。アスク先生が下した『心の病』という残酷な事実を、まだ出会って間もないこの少女に明かすわけにはいかない。何より、リオ自身が周囲に知られたくないと願っていることを、私が裏切るわけにはいかなかった。

フィオナは、私の拒絶の言葉を聞いても、眉一つ動かさなかった。

ただ、じっと。

まるで私の皮膚を透かし、骨を透かし、その奥で激しく波打つ心臓の鼓動を直接掴み取るかのような、恐ろしいほど静かな瞳で私を見つめ続けていた。

一秒。二秒。三秒。

針のむしろのような、息の詰まる沈黙が横たわる。

厨房から聞こえるパンケーキを焼く微かなジュウという音だけが、やけに遠く感じられた。

やがて、フィオナはふっと視線をわずかに下げ、小さく息を吐いた。

 

 

「……そう」

 

 

そして、呟くように告げた。

 

 

「予想以上に、酷いようね」

 

「…………っ!?」

 

 

私は、危うくその場で息を呑みそうになるのを必死に堪えた。

心臓が激しく脈打つ。

私は何も言っていない。肯定も否定も、診断の具体的な内容など一言も口にしていないのだ。

それなのに、彼女は私のわずかな視線の揺らぎ、呼吸の微細な乱れ、言葉を拒絶した際の拒絶の『質』そのものから、すべてを察知したのだ。

アスク先生の診断が、生半可なものではなかったという事実を。

 

 

(……驚いたわ)

 

 

背筋を、冷たい汗が一筋、音もなく伝い落ちていく。

表情の些細な変化、筋肉の硬直一つで、私の心理状況と隠された真実の深度を完全に読み切るなんて。

エドワール。セシリア様。

あなたたちの娘は……『賢い』なんて生易しいレベルじゃないわよ。

これはもはや、天賦の才という名の異能だ。人の心の暗がりを照らし出してしまう、恐るべき観察眼と洞察力。

 

 

「今の所、私が聞きたい事はこれだけよ」

 

 

フィオナは私の驚愕と動揺をすべて見届けた上で、あっさりとそれ以上の追及を打ち切った。

彼女はくるりと踵を返し、ルミナたちが戯れる日だまりの方へと視線を向ける。

 

 

「アンナ様、あなたには今、一人でじっくり考えたい事が山ほどあるでしょう? 過去の因縁も、これからの国の行く末も、そして……リオとルミナのことも」

 

 

背中越しに投げかけられる言葉が、あまりにも的確すぎて胸に刺さる。

 

 

「私がここに居座ってあれこれ詮索していたら、おちおち思考の整理も出来ないでしょうからね。私はルミナと遊んで来るわ」

 

 

軽やかな足取りで、彼女は私から離れようとした。

大人の事情にこれ以上無粋に踏み込まないという、彼女なりの極めて高度な気遣いと配慮。八歳の少女が演じていい立ち振る舞いではない。

その小さな背中を見つめながら、私の胸の中に、抑えきれない衝動が湧き上がった。

このまま、彼女を背中で見送るわけにはいかない。

どうしても、今この瞬間に確かめておかなければならないことがあった。

 

 

「待って、フィオナ」

 

 

私の呼びかけに、彼女の足がピタリと止まった。

フィオナは振り返り、小首を傾げて私を見上げた。

 

 

「どうしたの、アンナ?」

 

 

その瞳には、再び先程の鋭利な知性の光が灯っていた。

私は一歩、彼女へと歩み寄る。

 

 

「貴女は……」

 

 

喉の奥で、言葉がわずかに引っかかる。

だが、私は逃げることなく、その漆黒の双眸を真っ直ぐに見据えて問いを投げかけた。

 

 

「貴女は……リオと、ルミナの『味方』なの?」

 

 

部屋の空気が、再びピンと張り詰めた。

最早、私は目の前に立つこの存在を、ただの子供とは思っていなかった。

一国の王女としての権力。そして何より、常人を遥かに凌駕する圧倒的な頭脳と、人の本質を見抜く洞察力。

この驚異的な知性を持つ少女が、果たしてどちらを向いているのか。

彼女がその類稀なる頭脳を、リオやルミナを政治の駒として利用するために使うのか、それとも——彼らの盾となるために振るうのか。

それだけは、何があっても今、この場でハッキリとさせておかなければならなかった。

もし彼女がリオたちを害する脅威となり得るのなら、私はたとえ親友の愛娘であろうと、容赦なく敵として警戒しなければならないのだから。

私の放った、刃のような問いかけ。

それを受け止めたフィオナは、怯えることも、怒ることも、あるいは不敵に笑うことすらしなかった。

ただ——少しだけ困ったように、眉尻を下げて微笑んだ。

それは先程までの冷徹な観察者の顔でも、王族としての傲岸な仮面でもない。

あまりにも自然で、どこか切なさを孕んだ、年相応の少女の柔らかな笑顔だった。

 

 

「味方よ」

 

 

それだけだった。

 

 

「…………」

 

 

飾り立てる言葉も、誓いの言葉も何もない。

ただ「味方」と、それだけを彼女は告げた。

だが、その極めて短く、簡潔な言葉が。

私の胸の奥底に、まるで巨大な鐘を打ち鳴らされたかのような、途方もない重みと確信を伴ってズシリと響き渡った。

嘘偽りのない、魂の底からの言葉。

彼女は計算でそう答えたのではない。

その一言が雄弁に物語っていた。

 

 

「……そう」

 

 

私は張り詰めていた肩の力を、ゆっくりと抜いた。

謝罪の言葉は口にしなかった。そんな言葉を口にするのは、彼女の知性に対する侮辱だと感じたからだ。

フィオナは私の納得を見届けると、ふふんと得意げに鼻を鳴らし、再び軽やかなステップを踏んでルミナたちの元へと駆け寄っていった。

そして——。

 

 

「ぬはははは! 交代よメリル! 私にもその青いモフモフを抱かせなさーい!!」

 

 

先程までの空気など跡形もなくかなぐり捨てて、両手をワキワキと怪しげに蠢かせながらステラに飛びかかっていった。

 

 

「嫌にゃぁぁぁっ! てめえのその邪悪な手には絶対に抱かれたくないにゃあぁぁっ!!」

 

 

ステラが毛を逆立ててメリルの胸元から飛び降り、短い足を必死に回転させて絨毯の上を逃げ惑う。

 

 

「あああっ、姫様ご無体な! ステラ様が怯えていらっしゃいますぅ!」

 

 

メリルちゃんが涙目で止めに入ろうとし、その横でルミナが目を丸くしてパチパチと拍手をした。

 

 

「おお、なかよしバトル」

 

「どこが仲良しに見えるんだルミナ!? 助けてぇぇぇっ!」

 

 

甲高い悲鳴と、幼い笑い声と、猫の威嚇音が混ざり合い、部屋の中に再び賑やかな喧騒が戻ってくる。

その温かくも騒がしい空間を遠くに見つめながら、私は壁に背を預け、一人、深い深い思考の海へと沈んでいった。

 

アスク先生の下した診断に、間違いは絶対にない。

私は目を閉じ、先刻の診察室での老医師の厳しい、そして悲痛な表情を脳裏に呼び起こしていた。

アスク先生は、私の医術の師だ。

かつて私が騎士としての剣を置き、傷ついた人々を救うために医学の門を叩いた時、その厳しくも深い知識のすべてを惜しみなく授けてくれた恩師。

彼の診察の正確さ、人体と精神に対する観察眼の深さは並ぶ者がいない。

先生はこれまでの長い医師人生の中で、数え切れないほどの過酷な患者たちを診察してきた。

周辺諸国の苛烈極まる圧政や戦乱によって、心身をズタズタに引き裂かれ、命からがら逃げてきた避難民たち。

あるいは、自らの目の前で愛する家族や戦友を踏みにじられ、心を憎悪と復讐の黒い炎だけに染め上げて帰還した征伐騎士たち。

彼らの瞳の奥に宿る、破壊された精神の残滓。

どれほど屈強な肉体を誇る戦士であっても、魂に刻まれた亀裂は肉体を内側から腐食させ、やがて呼吸の仕方すら狂わせていく。

アスク先生は、そんな「壊れてしまった人間」を、嫌になるほど、吐き気を催すほどに診続けてきたのだ。

だからこそ、彼が相手の精神状態を見誤ることなど、天変地異が起きてもあり得ない。

そのアスク先生が、あそこまで顔色を失い、苦渋に満ちた声で告げたのだ。

胸が、冷たい手でぎゅっと握り潰されたかのように痛んだ。

リオは、周囲を安心させるための愛想笑いを浮かべていた。

けれど、その笑顔こそが、アスク先生の言う「最も信用ならん患者の吐く大丈夫」そのものだったのだ。

彼自身、自分の心がどれほどの悲鳴を上げているのかに気づいていない。

あるいは——無意識のうちに、気づかないふりをしている。

 

 

(リオは……ヴァリウスを殴ったことすら、覚えていない……)

 

 

暗い疑念が、私の胸の奥で黒い渦を巻いていた。

今朝目覚めたリオは、その事実を完全に忘却していた。

ヴァリウスと魔法の話をしていたところまでは覚えているのに、自分が魔法を拒絶したこと、そしてヴァリウスに手を上げたこと以降の記憶が、すっぽりと綺麗に抜け落ちているのだ。

単に、激しい頭痛やショックによる一時的な記憶障害であれば、まだいい。

脳震盪や極度の疲労によって、前後の記憶が一時的に曖昧になることは、戦場でも珍しいことではないからだ。

だが……私の直感が、長年戦場を生き抜いてきた私の第六感が、執拗に警鐘を鳴らし続けていた。

 

 

(嫌な予感がする……)

 

 

そう、リオを見ていると、言葉にできない底知れぬ不安が胸を掻きむしるのだ。

今朝、ベッドの上で目覚めた彼。

フィオナの突拍子もない言動に振り回され、声を張り上げてキレのあるツッコミを入れ、ルミナを抱きしめて優しく微笑んでいた彼。

一見すれば、元気で優しいリオ・ハートフィールドそのものだった。

けれど——何かが違う。

彼の内側に、絶対に欠けてはならない、何かもっと本質的で、決定的な『何か』が欠落してしまったような、奇妙な空虚さを感じるのだ。

まるで、最も重要な心の芯が抜き取られてしまったかのような。

外見は保たれているのに、ほんの少し強い衝撃を加えただけで、一瞬にして粉々に砕け散ってしまいそうな危うさ。

絶対に無くしてはいけない何かを落ちてしまったのではないか。

それを……見極めないといけない。

彼がこれ以上壊れてしまわないように。

取り返しのつかない深淵へと堕ちてしまう前に、私たちがその欠落の正体を突き止め、支えてあげなければならないのだ。

そして——。

思考がそこに至った瞬間、私の胸を張り裂かんばかりの痛切な悲鳴が、心の奥底から込み上げてきた。

 

 

(あんな……あんなにも優しい子を、私たちは、戦わせないといけないの……?)

 

 

奥歯を強く噛み締めた。

口の中に、鉄の味が広がりそうになるほどに。

診察室で彼が私に見せた、あの真っ直ぐな瞳を思い出す。

ルナ・マテリアルの存在を知った時、彼が真っ先に口にしたのは、自分自身の病状のことでも、名誉や富のことでもなかった。

『アンナ・ジークフリード様の治療は、可能でしょうか?』

『あの物質を使えば……アンナ様は、レオネル様の子どもを産めるように、なりますか?』

震える声で、まるで奇跡に縋るように紡ぎ出された、純粋で無垢なる祈り。

彼は、かつて戦場で母胎を傷つけられ、二度と子供を産めない体になってしまった伝説の英雄夫妻の悲劇を、心から悼んでいた。

そして、自分が命を懸けて危険極まりない神域ダンジョンへと潜ることで、その奇跡の物質を持ち帰り、見も知らぬはずのアンナ・ジークフリードに『普通の幸せ』を取り戻してあげたいと、本気で願っていたのだ。

目の前にいるこの私こそが、そのアンナ本人であることなど露ほども知らずに。

自分の命を削り、精神をすり減らし、魂をすり潰しながら……どこまでも、私とレオネルの幸せを願ってくれていた。

 

 

(どうして……どうしてそこまで……!)

 

 

熱いものが、目頭の奥底に込み上げてくるのを必死に堪える。

リオが、あの『始まりの騎士レオンハルト』と『終わりの聖女アリアンナ』の間に宿り、時を超えて現代に生を受けた奇跡の御子であるという真実。

そんな大層な血筋や歴史の因縁など、今の私にはどうでもよかった。

彼が誰の子供であろうと、どのような宿命を背負っていようと関係ない。

私にとって、リオは——暗闇の底で絶望していた私たちの前に現れ、ルミナを救い出し、私たちに再び家族としての光を灯してくれた、かけがえのない恩人なのだ。

泥にまみれ、不器用で、温かく、優しい少年なのだ。

そんな彼を、業魔とやらが跋扈する地獄のような戦場へと送り出さなければならないという現実に、私の心が激しい拒絶の悲鳴を上げている。

できることなら。

レオネルの手を取り、リオとルミナを両腕に抱きしめて、誰も私たちのことを知らない遥か遠くの片田舎へと逃げ去りたい。

小さな畑を耕し、朝には焼きたてのパンの匂いで目を覚まし、夜には暖炉の火を囲んで他愛もない話をして笑い合う。

そんなどこにでもある、けれど私たちには決して許されなかった、静かで温かな日常をリオとルミナに与えてあげたい。

だが。

私の理性という名の冷徹な刃が、その甘美な願いを無慈悲に切り裂いていく。

 

 

(リオが、神域ダンジョンに挑む運命から逃れることなど……出来はしないのよ)

 

 

冷たい諦念が、胸の奥底に重く沈殿する。

パルシリア王国の歴史上、最も暗く、最も罪深い大罪の象徴。

かつて建国王の長子アルバートによって、母アリアンナの胎内に宿ったまま、産声をあげることすら叶わずに惨殺された、失われた命。

その子が、長き時を超えて、現代のこのパルシリアの地に生を受け、世界の理を揺るがす神域のダンジョンへと挑もうとしている。

あまりにも、出来すぎている。

まるで、神話の語り部が丹念に紡ぎ上げた、壮大で残酷な英雄譚の主人公そのものではないか。

かつて私たちの前に姿を現したあの女性——レイン。

男であったはずの己の肉体を歪め、自らの胎内に我が子の魂を宿して現代に産み落とした、始まりの騎士レオンハルト。

彼の告げていた通り、これはリオという少年に課せられた、決して避けては通れない絶対の運命なのだ。

逃げることなど、誰にも許されない。

リオ自身が、足を止めることを拒絶しているのだから。

彼を無理やりに安全な鳥籠の中に閉じ込めたとしても、彼の魂は、自らを呼ぶ深淵へと向かって羽ばたこうと暴れ、内側から自壊してしまうだろう。

 

 

「…………ふぅ」

 

 

私は肺に溜まっていた重く冷たい空気を、すべて吐き出すように、長く、静かに息を吐いた。

俯きかけていた顔を、ゆっくりと持ち上げる。

これ以上、堂々巡りの思考の檻に閉じこもっていても、何の解決にもならない。

嘆いたところで、過去の惨劇が消えるわけでも、リオの背負う運命が軽くなるわけでもないのだから。

 

 

(今は……普段通りに接しましょう)

 

 

私は心の中で、自分自身に強く言い聞かせた。

過剰に心配して腫れ物に触るような態度を取れば、あの聡明で敏感な少年は、無理に笑顔を作ってしまうだろう。

 

 

(そして……見極めるのよ。リオの心の奥底に刻まれた、傷を)

 

 

何が彼をそこまで追い詰めているのか。

それを見つけ出し、彼が一人で抱え込んで押し潰されてしまう前に、受け止めてあげなければならない。

 

 

(私一人じゃないわ。レオネルもいる。エドワールやセシリア、ヴァリウスだって、協力してくれる)

 

 

皆で知恵を絞り、皆で手を取り合えば、きっとこの過酷な運命の嵐から、あの少年を守り抜く道が見つかるはずだ。

ジークフリードの名を継ぐ者として。

そして何より、彼の未来を願う一人の母として、私は絶対に諦めない。

胸の奥に、確固たる決意の炎を灯す。

 

 

(大丈夫……きっと、大丈夫よ)

 

 

私は自分の胸に手を当て、湧き上がる不安を無理やり押し込めるようにして、笑みを浮かべた。

こんなにも温かい居場所がある。

彼を愛し、彼を支えようとする仲間たちが、こんなにもたくさん周りにいるのだ。

どんな過酷な運命が待ち受けていようとも、私たちが彼の手を握り続けていれば、きっと乗り越えられるはずだ。

そう、信じたかった。

信じることで、胸の奥で蠢く得体の知れない恐怖を、振り払いたかったのだ。

だが。

この時の私は、まだ何一つ知らなかったのだ。

運命という名の残酷な怪物が、すでにどれほど深く、鋭利な爪をあの少年の魂に突き立てていたのかを。

彼が運命から、どれほど惨たらしい仕打ちが刻み込まれていたのかを。

そして——。

運命が一体何を、リオから奪い去っていったのかを。

私たちは、まだ誰一人として、気付いていなかったのだ。

 




段々とフラグ(爆弾)を積み重ねていきます。
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