天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
粉と牛乳と卵が溶け合い、滑らかに泡立った生地の甘い香りが、厨房の空間を満たしていた。
鉄製のフライパンが魔導コンロの青白い炎に舐められ、微かにチリチリと熱を帯びる乾いた音を立てている。油を薄く引き、熱が均等に行き渡るのを待つこの数分間は、料理人にとって呼吸を整えるための神聖な時間のようなものだ。
ボウルの中の生地をお玉ですくい上げ、静かに傾けてみる。
トロリと糸を引くように落ちていく生地の粘度は完璧だ。この厨房の保管庫にあった小麦粉は、俺が普段冒険者稼業の合間に買っていた安物の粉とは比べ物にならないほどキメが細かく、純白で美しい。卵も新鮮で黄身に弾力があり、牛乳に至っては王室御用達の濃厚なコクを放っている代物だ。こんな一級品の食材を使ってパンケーキを焼くなんて、孤児院にいた頃なら夢のまた夢だった。
準備は完全に整った。あとは、火加減を見極めて焼き上げるだけだ。
「お~い、そろそろ出来るぞ~!」
声をかけると同時に、扉の向こう側からバタバタと複数の足音が慌ただしく移動する気配が伝わってきた。
ルミナの軽やかな小走りの足音。フィオナの気取った、けれどどこか浮足立った靴底の音。そして、ステラが絨毯を蹴るトタトタという小さな爪の音だ。
椅子の脚が床を擦るギギッという鈍い音に続いて、食器がカタカタと触れ合う音が響く。どうやら、全員がテーブルの所定の位置に着席したらしい。空腹の子供たちを待たせるわけにはいかないなと、俺は思わず口元を緩めた。
フライパンの中央に、お玉一杯分の生地をそっと落とす。
ジュワァ……と、耳に心地よい柔らかな破裂音が広がり、白い生地が綺麗な円を描いて広がっていく。表面に小さな気泡がプツプツと浮き上がり始めるのをじっと見つめていると、背後でパタパタと遠慮がちな足音が近づいてくるのが分かった。
「あの~……何か、お手伝い出来る事はありますか?」
恐る恐るかけられたその声に振り返ると、そこにはメリルさんが立っていた。
両手をエプロンの前できちんと揃え、少しばかり緊張した面持ちで厨房の敷居を跨いでいる。先程までフィオナの突飛な言動に振り回され、床の上で生まれたての小鹿のように悶絶していたとは思えないほど、今は真面目な侍女の顔を取り繕っていた。
「ああ、メリルさん。手伝ってくれるかい?」
俺はフライパンの火力をわずかに絞りながら、作業台の上に用意しておいた大皿を顎で指した。
「焼き上がったやつから順に、テーブルへ運んでもらえるかな?」
「はいっ! お任せください!」
メリルさんは嬉しそうに背筋をピンと伸ばし、大きく頷いた。その素直な反応に、俺も自然と笑みがこぼれる。
「ありがとう、メリルさん。貴女の分も作りますので、焼き上がったら是非ご一緒にどうぞ」
俺のその言葉を聞いた瞬間、メリルさんはお盆を取り上げようとした手をピタリと止め、ひどく困惑したように眉尻を下げてしまった。
「あの……リオ様?」
「ん? なんでしょう?」
首を傾げる俺に対して、メリルさんは視線を泳がせ、モジモジと指先を絡め合わせながら、消え入りそうな声で呟いた。
「もう少し、その……普通に接してもらえると……」
「それは……」
俺は言葉を詰まらせた。
普通に、と言われても困ってしまう。俺にとって、目の前のメリルさんはさっき知り合ったばかりの女の子だ。いくら俺が平民の出で冒険者崩れだとはいえ、年頃の女性に対して最初から馴れ馴れしい口調で話しかけるのは、あまりにも無作法で失礼にあたるのではないかという遠慮がある。
それに、彼女は見た目こそまだあどけなさが残る少女だが、パルシリア王城で正式に雇用され、あろうことか第一王女の専属を務めているれっきとしたプロの侍女なのだ。一人の自立した人間として、相応の敬意をもって接するのが礼儀というものだろう。
俺がそんな理屈を頭の中でこねくり回していると、メリルさんはさらに居心地悪そうに身を縮こまらせ、上目遣いに俺を見つめてきた。
「その……フィオナ様やアンナ様を差し置いて、一介の侍女である私なんかに敬語を使われるのは……えっと……」
「あっ」
言いにくそうに、けれど必死に絞り出されたその一言を聞いて、俺はようやく自分の重大な失策に思い至った。
そうだ。彼女は侍女なのだ。
そして、この部屋には彼女の絶対の主君である第一王女フィオナがいる。さらに、王室とも深い繋がりを持つジークフリード家の関係者であり、騎士としてエリート中のエリートであるアンナがいるのだ。
俺はあろうことか、王女であるフィオナや騎士であるアンナに対しては、出会いの経緯やノリもあって完全に砕けた口調でフランクに接している。それなのに、一番身分が低いはずの専属侍女であるメリルさんに対してだけ、やたらと丁寧に接してしまっていたのだ。
客観的に見れば、これは極めて座りが悪い。
侍女である彼女の立場からすれば、まるで自分が王女や上官よりも偉そうに扱われているかのような居たたまれなさを感じるだろうし、周囲に対する示しがつかない。俺自身はただ単に「初対面の女性への礼儀」のつもりだったのだが、かえって彼女を窮地に追い込む配慮の欠如でしかなかったのだ。
(うわ……俺、めちゃくちゃ配慮がなってなかったじゃん……!)
平民感覚の礼儀をそのまま王宮に持ち込んで、結果的にこの年下の少女に無用な気まずさを押し付けていたのだ。情けない。
「……うん、そうだね。悪かった、俺の気が利かなくて。わかったよ、メリル」
俺は努めて肩の力を抜き、いつもの仲間たちと話すような柔らかい口調に切り替えて笑いかけた。
「ありがとうございます、リオ様!」
メリルさんの表情が、パッと春の陽だまりのように明るくなった。胸を撫で下ろすようなその仕草を見て、俺もホッと息を吐く。
「いや、こちらこそ悪かったね。君も遠慮しないで、みんなと一緒に食べてくれ。その方が俺も嬉しいからさ」
作り手としては、同じ食卓を囲んでみんなで美味そうに頬張ってくれる姿を見るのが一番の報酬なのだ。孤児院でも、冒険者パーティでも、飯はみんなで笑いながら食べるのが一番美味いと決まっている。
だが、俺がそう言って屈託なく微笑みかけた瞬間。
「……ぐふ!」
メリルさんの口から、まるでみぞおちに強烈なボディブローでも喰らったかのような、押し殺した呻き声が漏れ出た。
「メ、メリル!?」
突然の異変に俺は素で驚き、フライパンを握ったまま目を丸くした。一体どうしたというのだ。急性胃炎か? それともどこか持病の発作でも起きたのだろうか。
心配になって顔を覗き込むと、メリルさんは両手で真っ赤に染まった己の頬を必死に押さえつけ、視線を激しく上下左右に彷徨わせながら、小声でぶつぶつと意味不明な言葉を呟き始めた。
「な、なんて爽やかで優しい笑顔……! 邪気のない澄み切った瞳、包み込むような声……! あ、どうしよう、さっきまであんな、あんな破廉恥でふしだらな妄想の生贄にしていた殿方がこんなにも聖人だったなんて……死ぬ、恥ずかしすぎて私が今すぐこの場で爆発四散して死んでしまう……!」
「ど、どうしたんだ本当に? どこか痛むのか?」
「い、いえっ! なんでもありませんっ! ただ自分のどうしようもなさと浅ましさを、骨の髄まで自覚しただけでして……! は、運びますっ! 全力でお運びいたしますっ!」
メリルさんは火を噴きそうなほど真っ赤になった顔をブンブンと横に振ると、焼き上がって皿に移されたばかりの熱々のパンケーキを、まるで神殿に捧げる聖遺物でも扱うかのような恭しさで両手に掲げ、逃げるように厨房から飛び出していった。
「あ、うん……気をつけてね」
俺はその後ろ姿を、ただただ呆然と見送るしかなかった。
……フィオナの言う通り、これが『若さを持て余している』という状態なのだろうか。年頃の少女の情緒というのは、ダンジョンのトラップよりも予測不能で複雑怪奇だ。下手に深入りして地雷を踏み抜くよりは、生暖かく見守るのが大人の男としてのベストな選択肢なのだろう。
「さてと……次はステラ用のご飯の準備だな」
俺はステラの小さな身体に負担がかからないよう、細心の注意を払って専用の食事の仕上げにかかった。
「お、美味しい……!」
食堂スペースの方から、フィオナの素直な感嘆の声が響いてきた。
間仕切りの隙間から様子を覗き見ると、彼女はフォークに小さく切り分けたパンケーキを刺し、目を丸くして口元を押さえていた。王女としての気取った仮面が完全に剥がれ落ち、純粋な驚きと喜びに満ちた表情だ。
(よし、気に入ってくれたみたいだな)
料理を作る側として、一口目を口に運んだ瞬間の相手の表情を見るのは、いつだって心臓が跳ねるほど緊張するものだ。特に相手は、普段からパルシリア王宮の腕利きの一流宮廷料理人たちが腕によりをかけた御馳走を口にしているであろう本物の姫君である。俺の作るような庶民的で無骨なパンケーキが、彼女の肥えた舌に合うかどうか、内心では少しばかり不安だったのだ。
だが、フィオナの口から次に出た言葉は、相変わらずの切れ味だった。
「これに比べたら、メリルが普段作って寄越すパンケーキなんて、小麦粉をただ焼いただけの代物じゃない!!」
「姫さま酷いっ!?」
テーブルの脇に控えていたメリルが、心外だと言わんばかりに涙目で抗議の声を上げた。
「いくらなんでも、それは大袈裟過ぎます! 私だって王宮の調理場で先輩方に基礎を教わって、火加減だって一生懸命勉強したんですよ!? 小麦粉を焼いただけだなんて、そんな悲しいこと……」
言いながら、メリルはフィオナの皿の端から小さく切り分けられたパンケーキの破片を、フォークで掬って自分の口へと運んだ。
もぐもぐ、と小さな口が動く。
咀嚼すること、わずか二回。
ピキリ、とメリルの動きが完全に停止した。瞳孔が限界まで開き、光を失った瞳が虚空を見つめる。
「……私の作ったのは、小麦粉焼きだぁぁぁぁぁっっっ!!」
「大袈裟過ぎるよ、メリル」
俺は追加のパンケーキを乗せた大皿を両手に持ちながら厨房を出て、間髪を入れずにツッコミを入れた。なんで揃いも揃ってリアクションが劇団員のように大袈裟なんだ。
「だって、だってリオ様! 私の作るのと全然違うんですもん! 表面はサクッとしてるのに、中は信じられないくらいふわっふわで、噛むとジュワッとバターと小麦の甘みが口いっぱいに広がって……! 飲み込んだ後まで、鼻から抜ける香りが全然違うんです!」
「はは、こういうのは単なる場数の問題だよ。俺、これを作るのはすっげえ慣れてるからさ」
俺は焼き上がったばかりの湯気を立てるパンケーキの山をテーブルの中央に置き、苦笑交じりに頭を掻いた。
実際、自慢できるような高度な技術があるわけではない。
パンケーキというのは、言ってしまえば極めてシンプルな家庭料理だ。材料も小麦粉、卵、牛乳、少しの砂糖とベーキングパウダー、それに油くらいで済む。高価な香辛料や特別な魔導調理器なんて必要ない。手に入りやすい食材だけで、短時間で大量に作ることができる。
ただ、俺には一つだけ、無意識のうちに頼っている感覚があった。
フライパンの上の生地をじっと集中して見つめていると、生地の内部で熱がどう循環しているのか、表面の気泡がどのタイミングで弾け、どの瞬間に裏返せば最も美しく均一な狐色に焼き上がるのかが、まるで手に取るように感覚で分かってしまうのだ。
火の通り具合、生地の膨らみ、油の馴染み方。それらの微細な情報が、視覚を通して直接脳裏に流れ込んでくるような奇妙な感覚。昔から、剣を握っている時や集中している時にこういう感覚に陥ることがあったが、料理の時にもそれが勝手に働いてしまうらしかった。
(まあ、便利だから深く考えないようにしてるけどな……)
思えば、孤児院にいた頃は、腹を空かせた大勢のチビ共のために、朝から晩まで何十枚、何百枚とこのパンケーキを焼き続けたものだ。一枚でも多く食べたいと競い合う弟や妹たちの騒がしい声、シロップでベタベタになった小さな手、口いっぱいに頬張って笑っていたあいつらの無邪気な笑顔。
そして、冒険者パーティ『暁の剣』を組んでからも、野営の朝や依頼を達成した日の夜には、軽い食事として、仲間たちによく振る舞ったもんだ。
(みんな……今頃、どうしてるかな)
ふと、胸の奥に淡い郷愁と、チクリとした痛みが走った。
パルシリアの王城に身を寄せることになってから、もう半月くらいになる。目まぐるしく変わる状況、神域ダンジョンの脅威、そしてルミナとの出会い。様々な出来事に追われるあまり、仲間たちの顔を見る余裕すら作れずにいた。
今朝の診察でアスク先生から精神の負荷を指摘されたばかりだが、もしかしたら、そうした懐かしい日常から切り離されてしまった孤独感も、俺の心を無意識にすり減らしていた要因の一つなのかもしれない。
一段落ついたら、ルミナを連れて一度アジトや孤児院に顔を出してみたいものだ。
「……本当に美味しいわ、リオ」
俺の物思いを遮るように、向かいの席からアンナの感嘆を帯びた柔らかな声が届いた。
彼女は上品な手つきでフォークとナイフを扱い、切り分けたパンケーキを一口大にして口に運んでいた。その美しい双眸が、驚きと称賛の色に細められている。
「生地の下ごしらえの丁寧さもそうだけど、何より火の通し方が絶妙ね。外側は均一なきつね色でカリッとしていて、内側にはしっかりと水分が閉じ込められてしっとりしている。こういう誤魔化しの利かないシンプルな料理こそ、作り手の腕と経験が如実に表れるものよ」
「はは、アンナにそう言ってもらえると自信になるよ。ありがとう」
俺は照れくささに鼻の頭を指で擦った。
「アンナも、やっぱり料理は出来る方なのか?」
騎士としての卓越した剣技、知性、統率力、果ては高度な医療や薬学の知識まで修めている完璧超人だ。彼女のことだから、料理に関してもプロの料理人顔負けの腕前を披露してくれるのではないか。そんな期待を込めて尋ねてみたのだが、アンナは少し困ったように眉を下げ、控えめに微笑んだ。
「そうね……そこそこと言ったところかしら」
「…………」
絶対に、そこそこってレベルじゃないだろ。
俺は心の中で即座にツッコミを入れた。
そんな俺たちのやり取りを誇らしげに見つめていたルミナが、突然、小さな両手を腰に当ててフンスと鼻を鳴らした。口の端にたっぷりと黄金色のメイプルシロップをつけたままで、まるで自分の手柄であるかのように胸を張り、ドヤ顔をこれでもかと晒している。
「リオのりょうりは、せかいいち」
断言だった。
一ミリの疑いも、他者の追随も許さない、絶対の真理として彼女の小さな唇からその言葉が紡ぎ出された。金糸の髪を陽光に透けさせ、翠玉の瞳を爛々と輝かせて胸を張るその姿は、神話の女神というよりは、大好きな父親を世界一だと信じて疑わない無邪気な幼子そのものだ。
(うっ……! かわいすぎるだろ……!)
胸の奥を鷲掴みにされたような愛らしさに、俺の顔筋がだらしなく緩みそうになる。
「はは、嬉しいこと言ってくれるね。でも、俺よりも料理が上手い人なんて沢山居るよ、ルミナ」
俺はルミナの隣に腰を下ろし、ナプキンを手に取って、彼女の口元についたシロップを優しく拭き取ってやった。
「でもまあ……ルミナが喜んでくれるなら、俺で良ければこれから幾らでも作ってあげるさ」
「ん!!」
ルミナは満面の笑みを咲かせ、元気いっぱいにコクコクと首を縦に振った。
その屈託のない笑顔を見ているだけで、朝から溜まりに溜まっていた精神的な疲労や、診察室での重苦しい空気なんて綺麗さっぱり吹き飛んでしまう。
もっといろんな料理を覚えて、喜ばせてやりたいな。今度はグラタンとか、煮込み料理なんかを作ってみるのもいいかもしれない。
そんな温かな幸福感に浸っていた、まさにその時だった。
「うう~~……」
テーブルの端から、まるでこの世の終わりのような、怨嗟に満ちた重苦しい呻き声が響いてきた。
視線を向けると、そこにはステラがいた。
テーブルの端にちょこんと前足を揃えて座り込み、自分の目の前に置かれた陶器の小皿を、親の仇でも見るかのような物凄い形相で睨みつけている。青い耳は完全に真横へと倒れ、細い尻尾が不機嫌そうにパタン、パタンとシーツを叩いていた。
「どうしたんだよ、ステラ? 」
俺が不思議に思って尋ねると、ステラは恨めしげな瞳をグリンと俺に向け、今にも泣き出しそうな甲高い声を上げた。
「どうして僕だけこれにゃのさ~~!!」
「どうしてって……」
ステラの皿の上には、俺が厨房で手間暇をかけて仕込んだ特製の食事が盛られていた。
新鮮な鶏のささみを湯通しして油分を極限まで落とし、繊維に沿って細かくほぐしたもの。そこに、茹でてすり潰した少量のカボチャと人参を混ぜ合わせ、風味付けに塩分の入っていない出汁をほんの一滴だけ垂らした、完璧な猫用栄養食だ。
味付けこそ人間には薄すぎるが、素材の旨味と甘みは最大限に引き出してあるし、栄養バランスも消化への配慮も完璧なはずである。
だが、ステラの短い前足は、自分の皿ではなく、俺たちが食べているテーブル中央のパンケーキの山をビシッと指差していた。
「僕もあれ食べたい~~! あっちの、黄色くて惹かれる匂いがぷんぷんしてるやつを食べたいの~~!」
「いや、駄目に決まってんだろ。猫に人間の食べ物は毒だ」
俺は即座に首を横に振った。
これは意地悪で言っているのではない。常識として、人間の食べる料理には、動物の身体にとって有害な糖分、塩分、油分、あるいは特定の食材が含まれていることが多い。
特にパンケーキには、たっぷりのバターや砂糖が使われている。小さな動物の肝臓や腎臓に、そんな高カロリー・高脂質の食べ物を放り込めば、深刻な内臓疾患を引き起こす危険性があるのだ。
「ステラ、お前が普通の猫とは違うのは知ってるよ。だけどな、今のお前の身体はどう見てもただの生身の子猫だろ? 万が一にも体調を崩したり、毒になったりしたら取り返しがつかないんだから」
「むにゃあぁぁ……!」
「ほら、お前のために作ったそっちの肉を食べてみてくれよ。見栄えだって悪くないだろ? 鶏肉と野菜をじっくり煮込んでるんだぞ」
実際、ステラの食事を作る方が、パンケーキを焼く倍以上の神経を使ったのだ。骨が混ざっていないか指先で何度も確認し、温度も猫舌に合わせて人肌に冷ましてある。俺の注ぎ込んだ労力で言えば、間違いなくこちらの方が上だ。
だが、駄々っ子と化した青い毛玉に、そんな理屈は一切通用しなかった。
「僕の本能が! あれを喰わせろって激しく叫んでるの!!」
ステラはテーブルの上で二本足で立ち上がり、短い前足をバンバンと叩きつけて抗議した。
「ずるい! リオ君もルミナもフィオナもアンナもメリルも、みんなして美味しそうにハフハフ食べてるのに、僕だけパサパサの肉なんて理不尽だ! 差別だ! 神権侵害だぁぁぁっ!」
「神権侵害って何だよ……」
俺は額を押さえて溜息をついた。
まったく、口が達者な猫ほど厄介なものはない。
だが、ここで引くわけにはいかないのだ。子供の健康を守るのは、保護者たる大人の絶対の責務である。泣き喚かれたからといってホイホイと要求を呑んでいては、本当に取り返しのつかない事故に繋がりかねない。
(強い意志を持て、リオ・ハートフィールド……!)
俺は心の中で、自分自身に強く言い聞かせた。
相手がどれほど不服そうにしようと、ダメなものはダメなのだ。甘やかすことだけが優しさではない。時には心を鬼にして、厳しく突き放すことこそが真の愛情というものだ。
俺の意志は、鍛え上げた鋼鉄の盾の如く固い。いかなる甘言にも、泣き落としにも、決して屈するつもりはない。
俺が腕を組み、仁王立ちになって厳しい視線を向けると、ステラはピタリと暴れるのをやめた。
そして——。
「リオくん……」
スッ……と、ステラの瞳が、みるみるうちに大粒の涙で潤んでいった。
青い三角の耳をペタンと限界まで後ろに伏せ、小さく震えながら、両の前足を胸の前でぎゅっと合わせる。上目遣いに、捨てられた子猫そのものの、庇護欲を極限まで刺激する痛ましい表情で、俺の顔をじっと見つめてきたのだ。
「お願い……一口だけでいいから……。僕、生まれてからずっと暗い迷宮の奥底で一人ぼっちで……甘いものなんて、一度も食べたことがないんだよ……? 一口、ほんのちびっとだけでいいから……ダメ、かなぁ……?」
震える、か細い声。
鈴を転がすような、胸を締め付ける哀愁のメロディ。
(ぐ、おおおおおっ……!?)
俺の胸を、目に見えない巨大な衝撃波が貫いた。
心臓が痛い。良心の呵責が、全身の毛穴から冷や汗となって吹き出す。
だが! 耐えろ! 耐えるんだ俺! これは計算高いあざとい演技だ! 騙されてはいけない! 俺の鉄の意志は、これしきの精神攻撃で揺らぎは——揺らぎは……。
……。
…………。
サクッ。
「……リオ?」
少し呆れたようなアンナの涼やかな声が降ってきた。
見ると、俺の手は無意識のうちにナイフを動かし、パンケーキの端を小さなサイズに切り分け、小皿へとそっと移していた。
「笑ってくれ、アンナ」
俺は乾いた笑いを浮かべ、天を仰いだ。
「俺の意志は……焼きたてのパンケーキよりも、遥かに脆かったよ……」
「ふふ、知ってたわ」
アンナは口元を手で覆い、可笑しそうに肩を揺らしていた。
情けない。情けなすぎるぞ俺。だが、あんな目で訴えかけられて耐えられる人間がこの世に存在するだろうか? いや、存在しない。
「……ステラ。本当に、これだけだからな? あと、シロップのかかってない部分だけだ。もし少しでも喉に違和感があったり、お腹が痛くなったら、すぐに言うんだぞ」
俺が観念して小皿を差し出すと、ステラの顔から先程までの悲劇のヒロインじみた涙が嘘のように消え去り、爛々と輝く満面の笑みが咲き誇った。
「わーい! リオ君大好き! 愛してる!」
「現金なやつめ……」
ステラは待ちきれないといった様子で、小皿の上のパンケーキに顔を近づけた。
テーブルを囲む全員の視線が、一斉にその小さな青い毛玉へと集中する。
「いただきます!」
パクリ。
ステラは、小さな口をめいっぱい開けて、パンケーキの小片を飲み込むようにして口に含んだ。
ゴクリ、と。
部屋の中にいた全員が、唾を飲み込む音が重なった。
俺は息を詰め、ステラのわずかな反応も見逃すまいと前傾姿勢で身構えていた。
アンナもまた、笑みを消して真剣な眼差しでステラの手元を凝視している。もし万が一が起きたら、即座に応急処置を施さなければならない。俺の手のひらは、緊張による汗でじっとりと湿っていた。
なお、向かいの席に座るフィオナだけは、頬杖をつきながら「さあ、どうなるかしらね?」と面白がるようにニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべていたが、今はそれを咎めている余裕すらなかった。
パンケーキを口に含んだステラは——。
ピタリ。
まるで、全世界の時間が唐突に凍結したかのように、完全に静止した。
咀嚼する顎の動きも、左右に揺れていた尻尾も、呼吸すらも止まっている。目を見開いたまま、石像のように硬直して動かない。
「ステラ!?」
俺の心臓が跳ね上がった。
やっぱりダメだったのか!? 人間の食べ物の成分が、喉を詰まらせたのか、あるいは毒として作用したのか!?
「おい、ステラ! 吐き出せ! 今すぐ吐き出すんだ!」
俺が血相を変えて立ち上がり、ステラの口をこじ開けて無理やりにでも吐き出させようと手を伸ばした、その刹那。
「落ち着きなさい、リオ」
バシッと、アンナの細くもしなやかな手が、俺の手首を空中で制動した。一切のブレがない、完璧な力加減。
「慌てちゃ駄目よ。呼吸は止まっていないわ」
アンナは俺を押し留めると、自らステラの顔の高さまで身を屈め、穏やかで透き通るような声で優しく語りかけた。
「ステラ、大丈夫? 私の声が聞こえるかしら?」
アンナの問いかけに、硬直していたステラの頭が、ギギギ……と錆びた歯車のようにぎこちなく上下に動いた。
コク、コク。
頷いている。意識はあるようだ。
「そう、いい子ね。慌てて丸呑みしちゃダメよ。舌の上で転がして、ゆっくり噛みなさい」
アンナの母親のような落ち着いた誘導を受けて、ステラは言われた通りに、おずおずと小さな顎を動かし始めた。
ハム、ハム、ハム……と。
俺は胸の前で両手を握りしめ、冷や汗を流しながらその様子を見守るしかなかった。
本当に大丈夫なのか? 苦しんでいるんじゃないのか?
そんな俺の極度の緊張を察したのだろう、隣から小さな、温かい温もりがそっと伸びてきた。
ギュッ。
ルミナだった。
彼女は自分の両手で、俺の強張った右手を下から包み込むように握りしめていた。見上げられた翠玉の瞳には、一切の動揺も恐怖もなく、澄み渡った秋の空のような静けさと確信が宿っていた。
「だいじょうぶ」
短く、けれど力強いその言葉。
ルミナの手のひらから伝わってくる体温が、俺の胸の中で暴れ回っていた不安の波を、すーっと凪がせていく。
「ルミナ……」
俺が息を整えていると、向かいの席で観察を続けていたフィオナが、人差し指を顎に当ててクスクスと喉を鳴らした。
「う~ん、成程ね。心配しなくても命の危機とかじゃないわよ、あれは。……多分、生まれて初めて体験する強烈な『甘味』の刺激に、パニックを起こしてるだけね」
「……あ」
フィオナの的確な指摘に、俺は思わず声を漏らした。
そういえば、そうだ。
生まれてから気の遠くなるような年月を、あの冷たく暗い神域ダンジョンで過ごしてきたのだ。彼女にとって、「食事を摂る」という肉体的な行為そのものが未知の領域だったはずだ。ましてや、小麦の豊かな風味、バターの芳醇な油脂、そして砂糖がもたらす爆発的な糖分の快楽なんて、彼女の記憶のどこをひっくり返しても存在しない未知の刺激に違いない。
やがて、ステラの喉がコクリと小さく上下した。飲み込んだのだ。
「ステラ! 大丈夫か!? 気分は悪くないか!?」
俺は身を乗り出して、必死にその顔を覗き込んだ。もし少しでも顔色が悪かったり、苦しそうな素振りを見せるなら、即座にアスク先生の診察室へ担ぎ込む覚悟だった。
だが——。
「…………」
ステラの顔を見た瞬間、俺の思考は再び停止した。
溶けていた。
誇張でも比喩でもなく、本当にそう表現するしかないほどに、彼女の顔面がドロドロに溶け崩れていたのだ。
琥珀色の瞳はトロンと蕩け、目尻は限界まで下がり、口角はだらしなく開きっぱなしになっている。ピンと立っていた青い耳は完全に垂れ下がり、全身の骨という骨がすべて液体化してしまったかのように、テーブルの上にフニャフニャとへたり込んでいた。
「……うにゃあぁぁぁぁ~~ん……」
ステラの口から漏れ出たのは、この世の生物とは思えないほど甘ったるく、締まりのない脱力した鳴き声だった。
「こ、これがあ……『おいしい』って、いうことにゃのかぁ~~……? なんなのこれ……ふわふわしてて、あったかくて、お口の中でなにかがジュワ~って広がって……頭の奥がポカポカして、天国が見えるにゃあ……」
声まで完全にトロトロに溶け切っている。神としての威厳も、管理者の誇りも、何もかもがパンケーキの糖分によって綺麗さっぱり消滅してしまったらしい。
「……大丈夫、みたいだな」
俺は心底から安堵し、ドッと背もたれに身体を預けて長い息を吐き出した。どうやら毒物反応ではなく、単なる多幸感による精神崩壊だったようだ。人騒がせな毛玉め。
「……まだ、食うか?」
俺が苦笑しながら尋ねると、ステラはテーブルに突っ伏した体勢のまま、弾かれたように顔を跳ね上げた。
「うんっっっ!! 食べる! もっと食べるぅぅぅ!!」
全身の毛を逆立て、爛々と瞳を輝かせて元気いっぱいに返事をするステラ。
うん、間違いなく元気そうだ。健康被害の心配は完全に杞憂に終わったらしい。
「……あら? 結構いけるわね、これ」
不意に、背後からフィオナの感心したような呟きが聞こえた。
「ん。おいしい」
続いて、ルミナの満足げな声。
「本当ですね……! お塩も使っていないのに、お肉とお野菜の甘みがしっかり引き出されていて、すごく優しいお味です!」
メリルの弾んだ声まで重なる。
「え……?」
俺が慌てて振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
テーブルの隅に放置されていたはずの、ステラ専用の特製プレート——鶏ささみと野菜のペーストが、ルミナ、フィオナ、メリル、そして何故かアンナにまで綺麗にシェアされていたのだ。
「素材の味を巧みに引き出しているわね」
アンナが真面目な顔で咀嚼しながら、もっともらしく分析している。
「味付けを一切排している分、火の通し加減と食材の鮮度が問われるけれど、ささみは驚くほど柔らかく仕上がっているし、野菜の青臭さも完全に消えているわ。これなら病み上がりの病人食や、離乳食としても極めて優秀ね」
「いやいやいや! ちょっと待てお前ら!!」
俺は立ち上がり、ツッコミを入れた。
「それ、猫用のご飯だぞ!? なんで人間が寄ってたかって味見して絶賛してんだよ!」
「失礼ね、リオ。美味しいものに人間用も猫用もあるもんですか」
フィオナは平然とした顔でフォークの先を舐め、澄まし顔で言い放った。
「味付けが薄いだけで、使っているのは最高級の食材でしょう? 」
「ん。おいしいおにく」
ルミナまでがコクコクと頷き、嬉しそうにフォークを動かしている。お前たち、人間としてのプライドはどこへ行ったんだ。
すると、自分の皿が人間たちに奪われていることに気づいたステラが、テーブルの上で地団駄を踏み始めた。
「……むむむ! 僕のご飯を勝手に食べるにゃー!」
さっきまで「パサパサの肉なんて」と散々扱き下ろしていたくせに、他人が美味しそうに食べているのを見た途端、猛烈な独占欲が湧いてきたらしい。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに喉を唸らせながら、皿の周りを威嚇するようにウロウロと旋回している。
(……ふっ、興味が湧いたか)
俺は心の中で小さくガッツポーズを作った。
子供に野菜を食べさせる時の定番の作戦——「大人が美味しそうに食べて見せる」が見事な形で機能したのだ。怪我の功名とはこのことだろう。偏食を直すには、今が絶好のチャンスだ。
俺はステラの丸い頭を、手のひらで優しくワシャワシャと撫でてやった。
「安心しろって、ステラ。お前の分のおかわりなら、厨房にまだまだたくさんあるからな」
そして、テーブルを囲む全員に向かって、声を張り上げた。
「お~い、みんな! 人間用にちゃんと塩と香草で味を調えたやつもすぐ作れるから、そっちも出すぞ、食べるか?」
「食べるー!」「ん!」「是非お願いします!」「じゃあ、私も」
全員の手が一斉に挙がる。賑やかな声が、広々とした客室いっぱいに響き渡る。
俺は苦笑しながら再びエプロンの紐を締め直し、厨房へと足早に戻っていったのだった。
……そして、それからしばらくの後。
「く、るしい……」
テーブルの中央で、世にも無残な、虫の息のような呻き声が響き渡っていた。
「ぼ、僕……しんじゃうの……? ああ、僕にはまだ……なさねばならない重大な使命があるというのに……!」
声の主は、言うまでもなくステラだった。
仰向けにひっくり返った彼女の腹部は、真ん丸に膨れ上がっていた。手足はピーンと突っ張り、苦しそうにピクピクと痙攣している。
俺は額に手を当て、深い溜息をつきながら、隣に立つアンナへと視線を向けた。
「なあ、アンナ……これはどう見ても……」
アンナは静かに腕を組み、哀れみと呆れが半分ずつ混ざり合ったような眼差しでステラを見下ろすと、ゆっくりと首を横に振った。
「……完全に、食べ過ぎね」
「だよな」
このパンパンに膨れ上がった腹を見れば、どんな素人だって一瞬で診断が下せる。
あれから、パンケーキの味を占めたステラは、何度も何度もおねだりし、さらに俺が追加で作った猫ご飯まで、意地汚いほどの勢いでペロリと平らげてしまったのだ。
どうやら彼女の肉体には、一般的な猫のように特定の食材で急性中毒を起こすような制限はなかったらしい。だが——入る胃袋の物理的な許容量には、しっかりと限界が存在していたのだ。己のキャパシティを完全に無視して暴食に走った結果が、この無様極まりない有様だった。
「ふふ、見事な太鼓腹ね」
フィオナが面白そうに目を細め、細い人差し指を伸ばして、ステラの膨らんだ腹をツンと突いた。
「ぷぎゃっ!?」
「おなか、ぽんぽこりん」
ルミナも興味津々といった様子で反対側から身を乗り出し、小さな指先でぷにぷにと遠慮なく腹をつつく。
「や、やめてぇぇぇ~~! つつかないでぇぇぇっ! なんか……口から別のものが逆流して出ちゃうぅぅぅ~~!!」
涙目で必死にもがく青い毛玉と、それを楽しそうに観察しながらつつき続ける二人の幼女。
部屋の中には、再び賑やかで、他愛のない笑い声が満ちていた。
俺は椅子に深く腰掛け、その騒がしくも愛おしい光景を静かに眺めていた。
胃の腑が温まり、全身の血の巡りが穏やかになっていくのを感じる。少し前まで診察室で俺の心を縛り付けていた、重苦しい焦燥感や得体の知れない不安は、この笑い声に包まれるうちに、少しずつその輪郭をぼやけさせていた。
(……悪くないな、こういうのも)
目の前で笑っているこの小さな命たちを守り、こうして温かい飯を腹いっぱい食わせてやること。
今の俺にとって、目指すべき未来は、それだけで十分すぎるほどだった。
猫に人間の食事は絶対に与えてはいけません。
まして、砂糖とバターたっぷりのお菓子なんてもってのほかです。