天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
凍てつくような絶対零度の静寂が、広々とした客室を重苦しく支配していた。
ステラと、メリルが、互いの体をぎゅっと寄せ合っていた。まるで極寒の吹雪の中で寄り添い合うかのように、肩をすくめ、息を殺してカタカタと震えている。
そして——この部屋の気温を一気に氷点下へと叩き落とした元凶である、二人の幼き少女、ルミナとフィオナ。
(な、なんでだ……!? なんで俺が過去の初恋を熱弁しただけで、こんな世界の終末みたいな空気にならなきゃいけないんだ……!?)
額から噴き出した冷たい汗が、頬を伝って顎の先からポトリと落下する。
俺は助けを求めるように、必死で視線を彷徨わせた。神域ダンジョンで凶悪な業魔と対峙した時ですら、ここまで胃が縮み上がるようなプレッシャーを感じたことはない。
そんな、呼吸することすら許されない死の静寂を、凛とした涼やかな声が切り裂いた。
「はいはい、そこまでよ。二人とも、いつまでもむくれないの」
アンナだった。
彼女は先程まで深々と額に当てていた手をゆっくりと下ろすと、静かに立ち上がり、絨毯を踏みしめてこちらへと歩み寄ってきた。無駄のない流れるような足取り。その気品に満ちた佇まいは、荒れ狂う嵐の海を鎮める聖母のようでもあり、同時に、戦場を平定する歴戦の指揮官のようでもあった。
アンナは俺の隣へと回り込むと、不満のあまり頬をパンパンに膨らませていたルミナの小さな頭の上に、そっと白くしなやかな手のひらを乗せた。
「むう……」
頭を優しく撫で回されながらも、ルミナは納得がいかないといった様子で、唇をへの字に曲げたまま喉の奥で低く唸り声を上げた。黄金色の前髪の隙間から覗く翠玉の瞳は、いまだに俺の顔面を睨みつけて離さない。
「気持ちは痛いほどよく分かるけれどね、ルミナ」
アンナは苦笑交じりに肩をすくめると、ルミナの視線を遮るようにして、俺の真正面に立ちはだかった。
すっと見下ろしてくる彼女の瞳。そこには、慈愛と憐憫、そして底知れぬ深淵のような怜悧さが同居していた。大人の女性だけが醸し出せる、圧倒的な包容力と精神的優位性。
「男という生き物の、どうしようもなく愚かで救いようのない面を丸ごと受け止めて、綺麗に受け流してあげるのも……女の甲斐性というものよ」
さらりと、人生を何周も経験してきた賢者のような格言を口にするアンナ。
その言葉の重みに、俺は思わず感嘆のため息を漏らしそうになった。さすがは名門ジークフリード家の血を引いた高潔なる騎士だ。器の大きさがまるで違う。
——だが。
次の瞬間、アンナの端麗な唇の端が、獰猛な肉食獣のように凶暴に吊り上がった。
「まあ、度が過ぎれば……容赦なく殴り飛ばして分からせるべきなんだけどね」
ブンッッッ!!
鋭利な風切り音が、俺の鼻先のわずか数ミリ手前で空気を爆発させた。
「ひぎゃっ!?」
情けない悲鳴が喉から飛び出た。
アンナが放ったのは、腰の回転、肩の沈み込み、そしてインパクトの瞬間の拳の握り込みに至るまで、寸分の狂いもない完璧な右の正拳突きだった。
一切のブレがない、風を両断する神速の素振り。踏み込みの衝撃波だけで、俺の前髪が激しく後方へと吹き飛ぶ。もし今の拳が俺の顔面に直撃していたら、間違いなく鼻骨と上顎が粉々に粉砕されていただろう。
(し、死ぬ……! いま確実に死の鎌が俺の鼻っ柱を掠めていったぞ……!?)
俺がカタカタと膝を震わせながら泡を吹きかけていると、アンナの武力行使を交えた苛烈な諫言を目の当たりにしたフィオナが、ふうと長いため息を吐き出した。
その吐息と共に、彼女の全身から立ち上っていた漆黒の業火のような禍々しいオーラが、ようやく少しずつ輪郭を失い、霧散していく。
「……そうね、うん。アンナの言う通りだわ」
フィオナは額に白く細い指先を当て、自嘲気味に口元を歪めてみせた。
「それにしても……私としたことが、情けないわね。自分自身の中に、こんなにも幼稚で、狭量で、見苦しい感情が眠っていたなんて……我ながら驚いてしまったわ」
「仕方ありませんよ、フィオナ様。どれほど類稀なる知性と頭脳をお持ちであっても、あなたはまだ、たった八歳の女の子なのですから。胸の奥がチクチクと痛んだり、不快になったりするのは当たり前の、ごく自然な心の反応です」
アンナは聖母のような柔らかな声音でフィオナを慰めるように語りかけた。
だが、その慈愛に満ちた表情のまま、彼女はくるりと首だけを百八十度回転させるようにして、再び俺へと氷柱のような冷徹な視線を突き刺してきたのだ。
「それで……リオ?」
「……は、はいぃっっっ!!」
背筋に電撃が走ったかのように、俺は椅子の上で直立不動の姿勢を取った。
顎を引き、両手を太ももの上にビシッと揃える。完全に、軍の鬼教官にどやされる寸前の新兵の心境だった。
「もう少し、女心というものを学びなさい。あんまり女の子とご縁が無かったというのは、先程のあなたの暑苦しい語りで嫌というほど痛感したけれど……」
アンナの説教は、怒鳴り散らすような下品なものでは決してなかった。
低く、静かで、けれど針のように研ぎ澄まされた声音が、俺の頭蓋骨の芯に直接染み渡り、チクチクと良心を苛んでくる。
彼女の言う通りだ。俺は自分のあまりの浅慮さと、配慮のなさを心から恥じた。
「……うん、悪かったよ。本当に俺が浅はかだった。もう少し、年頃になってから話すべき話題だったんだよな」
俺は深々と頭を下げ、真摯に反省の弁を口にした。
まだ八歳そこそこの、無垢で純真な幼い少女たちなのだ。そんな年頃の子供に、失恋話や色恋沙汰を聞かせたところで、退屈で共感できるはずがない。「女の子なら誰でも甘酸っぱい恋バナが好きだろう」などという、大人の安直でステレオタイプな偏見をそのまま押し付け、長々と一人語りを続けてしまった俺の配慮の欠如こそが、最大の元凶だったのだ。
俺のその、至極真っ当で神妙な謝罪を聞いた瞬間。
「…………」
アンナの動きが、彫像のようにピシリと完全停止した。
そして、彼女は右手の指先を眉間へと深く当てると、まるで耐え難い激痛を伴う偏頭痛に襲われたかのように、深々と、地を這うような重いため息を吐き出したのだ。
「……致命的にズレてるけれど……今は、もういいわ……」
アンナはこめかみを指先でギリギリと強く押し込み、激しい目眩を堪えるように固く目を閉じてしまった。
(お、俺の考えが……ズレてる……?)
俺は内心で激しく首を傾げた。
え、何が間違っているんだ? 幼い子供たちに恋バナを聞かせて退屈させたのが悪かったんじゃないのか?
アンナに「具体的に俺の思考のどこがどう致命的にズレているのか」を詳しく問い質してみたい衝動に駆られたが、彼女が本当に今にも過労で倒れそうなくらい辛そうに額を押さえているのを見て、とてもではないがこれ以上口を開くことなどできなかった。下手に刺激すれば、今度こそ寸止めなしの神速の正拳突きが、俺の顔面を消し飛ばしにやってくる。
重苦しい空気の中、カチャリとカップをソーサーに戻す乾いた磁器の音が、静かな客室に響き渡った。
「ねえ、リオ」
静寂を破って声をかけてきたのは、フィオナだった。
彼女はテーブルの上で両手の指を複雑に組み合わせ、真剣そのものの眼差しで俺の顔をじっと見つめていた。
先程までの悪戯っぽい年相応のからかいの色も、漆黒の炎を宿していた子供じみた怒りも、そこには綺麗さっぱり消え失せていた。
漆黒の双眸に宿っていたのは、単なる興味本位や好奇心などでは決してない、張り詰めた糸のような、痛切なまでの緊張感だった。
「その……『ミリア』って娘のこと、今でも好きなの?」
直球の、一切の小細工を排した刃のような問いかけだった。
隣に座るルミナもまた、俺のシャツの裾を握る手にぐっと力を込め、身を乗り出すようにして俺を見上げていた。その瞳には、痛々しいほどの真剣さと、何か決定的なものを恐れるかのような微かな怯えが揺らめいている。
テーブルの隅のステラも、メリルも、そしてアンナまでもが、固唾を呑んで俺の口元を凝視していた。
(なんで……みんな、そんなに切羽詰まった顔をしてるんだ?)
俺の過去の初恋の行方など、赤の他人からすればどうでもいい世間話の類のはずだ。それなのに、まるでパルシリア王国の命運を左右する重大な話の行方を見守るかのように、全員の神経が俺の一言に集中している。
奇妙な違和感に戸惑いながらも、俺は茶化したり、嘘をついて誤魔化したりすることなく、胸の奥底にある感情をそのまま言葉に乗せて紡ぎ出した。
「好きだよ」
迷いのない、澄んだ声だった。
「まあ……失恋したとはいえ、あの日からまだ半月かそこらしか経ってないからな。流石にそんな短期間で、心に綺麗さっぱり整理をつけて、完全に割り切れるほど器用な男じゃないさ」
俺が自嘲気味に肩をすくめながらそう告げると、フィオナの細い眉がピクリと跳ね上がった。
「……失恋?」
彼女の黒い瞳に動揺が走る。
そして、隣のルミナが、巣から落ちた小鳥のように首をコテンと傾げながら、掠れた小さな声を漏らした。
「しつれん……?」
「ああ、失恋だよ。ミリアはもう、さっき話した俺の仲間……魔法剣士のゼインと付き合ってるからな」
「つきあってる……?」
ルミナは「つきあってる」という単語の響きそのものが理解できないといった様子で、長い睫毛を震わせながら、大きな瞳をパチクリと瞬かせた。
八歳の幼子には、男女の交際という概念そのものが未知の領域なのだろう。俺はできるだけ刺激の少ない、分かりやすい表現を探しながら、穏やかに語りかけた。
「う~ん、そうだな……。お互いに世界で一番好き同士になって、将来、夫婦になるための準備期間に入る……ってことかな」
「ふうふの、じゅんび……」
ルミナは俺の言葉を咀嚼するように、小さな唇をもぐもぐと動かした。
そして、わずかに震える声で、ひどく不安そうに、探るような上目遣いで俺を見つめてきたのだ。
「リオは……それでも、ミリアのことが……すきなの?」
胸の奥を小さな手でぎゅっと握り潰されたかのような、痛切な響きを帯びた問いかけだった。
彼女の小さな指先が、俺のズボンの布地を力任せに握りしめてくる。その指先が、小刻みに震えているのが布越しに伝わってきた。
「うん、好きだよ」
俺はルミナの小さな頭にそっと手を添え、柔らかい金髪を撫でながら、優しく微笑みかけた。
「もちろん、いつかは時間の経過と共に、懐かしい思い出に変わっていくだろうけどさ。あいつのことを本気で好きになったこと自体には、何の後悔もないよ」
俺のその言葉を聞いた瞬間、正面のフィオナが、どこか不服そうに唇を尖らせて小さく鼻を鳴らした。
「……ふん。強がり」
「おう、強がりだ」
俺はあっさりとそれを認めて、カラカラと声を上げて笑ってみせた。
「好きな女が、信頼していた仲間の男と結ばれたんだぞ? 悔しくないわけがないし、強がりの一つでも言わなきゃやってられないさ。悔しくないなんて平気な顔をして涼しい顔で言えるなら、それは最初から本気で好きじゃなかったってことだろ」
そう、強がりだ。
心の底から平気なわけがない。
あの日、俺の胸の奥で何かが音を立てて粉々に砕け散ったあの生々しい感覚は、今でも昨日のことのように記憶に焼き付いている。
悔しくて、惨めで、情けなくて堪らなかった。
今だって、できることなら親友であるゼインのイケメン面を、思い切り一発ぶん殴ってやりたいという衝動はある。
そしてミリアに対しても、「なんで俺じゃダメだったんだよ、なんでずっと一番傍にいたのに、一言も相談してくれなかったんだよ」と、女々しく問い詰めたい気持ちがゼロになったわけじゃない。
仲間に対してそんなドロドロとした醜悪な嫉妬と憎悪を抱いてしまう自分が情けなくて、夜中に一人で吐き気を催すことだってあった。
けれど——それだけ激しく心が軋み、肉体が引き裂かれるように痛むからこそ。
俺はあの少女に対して、打算も打算もない、小細工なしの剥き出しの心で恋をしていたのだと証明できるのだ。
「でもな、後悔がないって言ったのは、嘘偽りのない本心だ」
俺は客室の高い天井を仰ぎ、静かに、深く息を吐き出した。
「ミリアに恋をしたこと自体は、俺の人生にとって間違いなんかじゃなかった。あいつが優しくて、努力家で、眩しいくらいに素敵な女の子だったのは、紛れもない事実なんだからさ。失恋したっていう結果は、単に……あいつの求めていた理想と、俺という男が、重なり合わなかった。ただそれだけのことなんだよ」
あいつの隣に立ち、その夢を支えるべき男は、俺ではなくゼインだった。
それを受け入れるのは死ぬほど苦しいし、未練が綺麗さっぱり消え去ったわけじゃない。
けれど、「こんなに苦しいなら、あいつに出会わなければよかった」「あいつのことなんて好きにならなければよかった」なんていう、過去を呪うような後ろ向きな後悔だけは、絶対に抱きたくなかった。
誰かを心から愛したという事実そのものを自分で否定してしまったら、俺が懸命に生きてきた十八年間のちっぽけな人生の思い出まで、すべて濁って消えてしまう気がしたからだ。
俺の言葉を黙って聞いていたフィオナは、長い睫毛を伏せ、手元の冷めかけた紅茶の水面をじっと見つめていた。
琥珀色の水面に、彼女の整った顔立ちが静かに揺らめいている。
やがて、彼女はふっと顔を上げると、王族特有の凛とした、けれどどこか恐ろしいまでの執念を感じさせる不敵な笑みを浮かべた。
「そう。まあ……いいわ。貴方のその泥臭くて青臭い理屈は、一応理解してあげる」
そして、彼女は細く白い人差し指を、俺の鼻先に向けてビシッと突きつけてきたのだ。
「けれどね、リオ。これだけは今のうちに、よーくその鈍い頭に叩き込んでおいて頂戴。——私は、貴方みたいに潔く身を引くような真似は、絶対にしないからね」
「あ、ああ……」
俺は彼女の放つ凄まじい覇気に気圧されて、引き攣った笑いを浮かべながらコクコクと頷くしかなかった。
確かに。この生まれついての覇王のような気質を持ち、知性と行動力の権化のような王女様が、好きな相手を前にして「お幸せに」などと物分かりよく身を引く姿など、どう逆立ちしても想像がつかない。
もしこの少女がいつか成長し、心から誰かを愛する日が来たとしたら……その時は、二人の間を阻む障害などすべて知略と権力と武力で完膚なきまでに薙ぎ払い、燃え盛る業火のように猛烈な包囲網を敷いて、相手を逃げ場のない檻へと追い詰めて外堀を埋め尽くすに違いないのだ。
(……頑張れよ、未来のフィオナの旦那様……)
俺はまだ見ぬ、将来この苛烈極まりない王女を娶ることになるであろう哀れな男に対して、心の中で深々と合掌し、哀悼の祈りを捧げた。
なぜか今、俺が彼女の「夫」ということになっているが、数年も経って彼女が社交界に出て視野が広がれば、素敵な貴公子たちと本当の恋に落ちるはずだ。
その時に、「そういえば昔、リオっていう冴えない冒険者の男と形だけの偽装結婚をして遊んでやったことがあったわね」なんて、酒の肴にして笑い飛ばしてくれたら、元夫としては万々歳というものだろう。
「……このクソボケ野郎がぁ……っ!」
「はいはい、フィオナ様、落ち着いて、ね?」
テーブルの向こうで、フィオナが何やら物凄い形相で小刻みに震え出し、アンナが必死になってその肩をポンポンと叩いて宥めていた。
……一体どうしたというのだ。王女様の情緒というのは本当に予測がつかない。
「まあ、俺が唯一、いまだに悔いてることがあるとすればだな……」
俺は少し気恥ずかしくなって、後頭部に手をやりながら苦笑いを浮かべた。
「告白する前に、全部が終わっちまったことくらいかな」
「告白……?」
フィオナが眉をひそめ、訝しげな声を漏らす。
「ああ。『もし先に俺から想いを伝えていたら、あいつと結ばれる未来があったんじゃないか』……なんて、そんな女々しくて情けない妄想を口にするつもりは毛頭ないよ。そんなのはただの結果論だし、フラれるのが怖くて逃げてた男の醜い言い訳に過ぎないからな」
そう、頭では分かっているのだ。
もしも、もっと早くに勇気を出して想いを口にしていたとしても、ミリアが最終的に選んだのは、やはりゼインだっただろう。
「でもさ……やっぱ男としては、ちゃんと想いを言葉にして伝えて、正面から盛大に玉砕してから終わりたかったよなぁ。自分の気持ちにケジメもつけられないまま、突然終わったのだけは……流石にちょっと情けなさすぎて、心残りなんだよ」
苦笑交じりにそう語りながら、俺はふと、隣に座る少女へと視線を落とした。
ルミナ。
俺の言葉を一言も聞き漏らすまいと、全身を耳にして見つめてくる、黄金の髪と翠玉の瞳を持つ小さな少女。
その無垢で澄み切った瞳と視線が交錯した瞬間——。
ドクン、と。
俺の胸の奥底を、冷たい氷の刃で貫かれたかのような激しい戦慄が駆け抜けた。
(……ああ、でも……)
俺の思考が、急速に凍りついていく。
現状を。
ここに至るまでの、目まぐるしく回転してきた運命の軌跡を、客観的に省みる。
(今思えば……失恋して、良かったのかもしれない)
ゾクリと、背筋を氷の塊が滑り落ちるような恐怖が、全身の毛穴を無理やり開かせた。
もしも。
もしも、だ。
俺の想いがミリアに通じ、奇跡的にあいつと結ばれ、恋人同士になっていたら?
あいつと二人で笑い合い、将来の診療所の夢を語り合い、普通の冒険者としての小さな幸福を享受していたとしたら?
(俺は……ルミナに出会えなかった)
あまりにも突拍子もない、飛躍した仮定だ。
だが、その予感は、荒れ狂う嵐のような確信となって俺の脳髄を激しく殴りつけた。
そうなっていたら、この娘はどうなっていただろう?
誰にも知られることなく。誰の救いの手すら差し伸べられることもなく。
ただの「なんでもないもの」として……この世界から、産声をあげることすら許されずに、永遠に消滅していたのではないか?
(……っ!)
悍ましい。
あまりにも恐ろしく、胸を爪で掻きむしりたくなるほどの絶望的な仮定。
想像しただけで、心臓が冷たい万力でギリギリと握り潰されそうになり、喉の奥が詰まって呼吸ができなくなる。
俺は頭を激しく横に振り、その悪夢のような幻影を力任せに脳裏から振り払った。
(……そんな未来は、もう絶対に存在しない)
そうだ。あの過去は終わったのだ。
現に今、この娘は俺の隣にいる。
俺の体温を求め、俺のシャツの裾を小さな手でぎゅっと握りしめ、温かいパンケーキを美味しそうに頬張って微笑んでいる。
誰にも奪わせはしない。この娘は、他の何者でもない『ルミナ』として、この光あふれる世界で、たった一つの尊い命として生きていくのだ。
だが……もしも。
俺がミリアと結ばれ、甘い幸福を手に入れることの代償として、この娘が世界に見殺しにされる未来が存在していたのだとしたら。
(俺は……あの謁見の間での、みっともない失恋にこそ、運命に感謝しなきゃいけないんだ)
自嘲の笑みが、自然と唇の端に浮かび上がってくる。
ステラが人間たちを虐殺する大厄災を引き起こさずに済んだのだって、元を辿ればまったく同じことなのだ。
神域ダンジョン『ヴァージニア』の、絶対不可侵の侵入条件。
——『純潔』。
あの理不尽極まりない、ふざけきった結界を突破できたのは、誰とも結ばれることのない哀れな非モテの童貞のままであったからこそなのだ。
もし俺がミリアと甘酸っぱくも清純な交際を深め、男として一線を越えてしまっていたら……俺はあのダンジョンの門前で弾かれ、一歩たりとも足を踏み入れることすらできなかった。
そうなればステラは暴走して王国に業魔を解き放ち、未曾有の大惨事が起きていた。
何が幸いし、何が災いとなるかなんて、神様にだって予測がつかない。
俺のみじめな失恋も、情けない非モテの過去も、すべてはこの小さな命をこの腕に抱きしめるための、必然の布石だったのだとしたら。
俺は心の中で、誰に聞かせるでもなく、魂の最深部から強く、強く誓った。
(俺は何度でも、絶対にルミナを選ぶ)
ミリアとの甘い恋人生活なんかよりも。
世界中のどんな美女たちに囲まれる華々しい英雄譚なんかよりも。
(……笑えるな)
長年、人生の中で温め続けてきた初恋よりも、出会ってからまだ日も浅い幼い少女を選ぶなんて。客観的に見れば、我ながら頭のネジが何本か吹き飛んでいるとしか思えない。
だが。
それでも俺は、迷うことなくこの小さな手を握りしめる道を選ぶ。
それだけが、俺のちっぽけな人生において、絶対に他人に譲ることのできない唯一無二の誇りなのだから。
「ん」
不意に、肘のあたりに柔らかく温かい感触が押し当てられた。
見下ろすと、ルミナが俺の腕にすりすりと猫のように頬を擦り寄せていた。
先程までのあの天変地異のようなジト目や膨れ面はどこへやら。彼女の整った小さな顔には、まるで春の陽だまりが満開に咲き誇ったかのような、極上の、満面の笑みが広がっていたのだ。
「……あれ? どうしたんだ、ルミナ?」
打って変わっての猛烈なご機嫌ぶりに、俺は目を丸くして尋ねた。
「ん。なんでもない」
ルミナは嬉しそうに目を細め、ぎゅっと俺の腕を両手で抱きしめ直した。
その小さな身体から、ポカポカとした幸福感のオーラが、春の陽光のように部屋いっぱいに溢れ出している。
(うーむ……本当に、女の子の機嫌の移り変わりというやつは、山の天候よりも予測がつかないな……)
さっきまであれほど激怒していたというのに、一体何が彼女の琴線に触れてここまで機嫌が治ったのか、俺にはさっぱり見当もつかない。
まあ、機嫌が直って笑ってくれているのなら、理由なんて何でもいいのだが。
俺は腕に擦り寄ってくるルミナの温もりを感じながら、ふと、胸の奥底から湧き上がってきた思いを口にすることにした。
それは、保護者として、あるいは兄として、この純真無垢な娘の未来を想うがゆえの、偽らざる祈りだった。
「なあ、ルミナ」
「なに?」
見上げてくる翠玉の瞳は、どこまでも澄み渡っていて、濁り一つない。
俺は一人の男として、人生の先達として、真剣に言葉を紡いだ。
「もしもな……いつかお前が大きくなって、心から『好きだ』と思えるような男が目の前に現れたら、躊躇わずに行けよ」
俺の言葉に、ルミナが小さく瞬きをした。
「俺みたいにさ、フラれるのが怖いからって告白もできずにウジウジ悩んで、手遅れになってから後悔するような真似は、絶対にして欲しくないんだ」
俺のような情けない思いを、この娘には絶対に味わわせたくない。
世界で一番幸せな恋をして、その想いが綺麗に実って欲しい。
たとえ万が一、想いが届かなかったとしても、「この人を好きになってよかった」と胸を張って笑えるような、眩しい青春を歩んで欲しいのだ。
「この人とずっと一緒に歩きたい、この人の隣に一生居たい……そう心から思えるような、本気で信じられる奴に出会えたらな。周りの目なんて気にせず、ドンドン自分からアタックして掴み取りに行け!」
俺が拳をぎゅっと握りしめて熱烈にエールを送ると、ルミナは満面の笑みを咲かせ、力強く頷いてみせた。
「……うん!!」
客室中に響き渡るような、一点の曇りもない、最高に気持ちのいい返事。
「よし! いい返事だ!」
俺は満足げに破顔し、ルミナの頭をガシガシと優しく撫で回した。素直でいい子だ。これなら将来、この娘がどんな過酷な運命に直面しようとも、きっと自分の足で幸せを掴み取ってくれるに違いない。
……と、そこまで熱弁を振るっておきながら。
(…………)
ふと、俺の脳裏を、最悪の近未来シミュレーションが掠め去った。
数年後。
見目麗しい、誰もが見惚れるような大人の女性へと成長を遂げたルミナ。
その彼女が、見知らぬ男の手を引いて俺の前に現れ、頬を桜色に染めながら——。
『リオ、わたし、この人と付き合うことになったの』
などと、恥ずかしそうに紹介してくる光景。
「あ……」
口から、乾いた音が漏れ出た。
思考が、急速に黒く濁っていく。
(俺……その時、本当に冷静でいられるのか……?)
ゴキリ。
俺の右手が、無意識のうちに白くなるほど強く握りしめられていた。
全身の血が逆流し、視界の端が真っ赤に染まりかけるような、激しい動悸と殺意。
(……無理だ)
確信した。
(俺、絶対に取り乱す。冷静でいられる自信が、一ミリたりとも存在しない……!)
その光景を目の当たりにした瞬間、相手の男の胸倉を掴んで壁に叩きつけ、「貴様、どこの馬の骨だ! うちのルミナに気安く触るな!」と怒鳴り散らさない自信が、俺にはこれっぽっちもなかった。
恐ろしいほどの解像度で、自分が血相を変えて暴れ回る未来図が脳裏に浮かび上がってくる。
さっき自分で「躊躇わずに行け」「ドンドン掴み取りに行け」と偉そうに熱弁を振るっておきながら、いざ具体的に想像した途端にこの理不尽極まりない拒絶反応。
我ながら、あまりにも身勝手で支離滅裂すぎる。
(そ、そうか……これが、世に言う……『年頃の娘を持つ父親』の心境というやつなのか……!?)
世の中の父親たちが、娘の連れてきた交際相手を散々睨みつけ、無言で強い酒を煽り、隙あらば叩き出そうとするというあの有名な話。
昔は「大人げない連中だな」と鼻で笑っていたものだが、今ならその気持ちが痛いほど……骨の髄まで共感できてしまう。
俺が一人で壮絶な葛藤を頭の中で繰り広げ、冷や汗をダラダラと流しながら苦悶の表情を浮かべていた、その時だった。
「…………」
テーブルの向かい側から、地獄の底から響いてくるような、低く重い呟きが鼓膜を震わせた。
視線を向けると、そこにはアンナがいた。
彼女は両肘をテーブルにつき、組んだ両手の上に顎を乗せ、この世のすべての愚か者たちを憐れむかのような、何とも言えない眼差しで俺を凝視していた。その瞳の奥底で、暗黒の炎がユラリと揺らめいている。
「……ここまで見事なまでに、自ら進んで墓穴を掘り続ける人間を見るのは……私の人生の中でも、初めての経験かもしれないわね」
「え……?」
俺が目を丸くすると、アンナは冷徹なまでの完璧な笑みをその端麗な唇に浮かべた。背筋が凍りつくような、戦場での処刑人を彷彿とさせる、怜悧で美しい微笑み。
「ふふ……いいわ、リオ。あなたがそこまで手のかかるおバカさんだというのなら……これから私が、みっちりと時間をかけて、教育してあげる」
ポキリ、と。
アンナの細く白い指先が、静かな音を立てて鳴った。
何を教育されるのかは分からないが、死ぬほど過酷な訓練が待っていることだけは本能が察知していた。
そして、その隣で優雅に冷めた紅茶をすすっていたフィオナが、深く、深く、人生の真理に達してしまったかのような達観したため息を吐き出した。
「ああ……なるほどね。よく物語や市井の噂話で聞く、『どうしようもないダメな男に、なぜか惹かれて破滅していく女の気持ち』というものが……今、この瞬間に、骨の髄まで理解できてしまったわ」
フィオナは手元のカップを見つめ、どこか遠い目をしながら、哀れみと諦念を含んだ声でしみじみと呟いた。
「母性本能を無自覚に狂わせる天然の危険物……。本当に、タチが悪いったらありゃしないわね」
「ちょ、ちょっと待てフィオナ!!」
俺はたまらず立ち上がり、身を乗り出して盛大なツッコミを入れた。
「俺がダメ男!? いくらなんでもそれは酷すぎるだろ! 俺は冒険者としてちゃんと真面目に依頼をこなして金を稼いできたし、酒や博打で借金を作ったこともないし、女性を騙して泣かせたことだって一度もないぞ!?」
自慢じゃないが、俺のこれまでの生き様は、絵に描いたような質素倹約と誠実そのものだったはずだ。
孤児院の弟や妹たちに毎月欠かさず仕送りをして、仲間たちと助け合い、他人に迷惑をかけないよう清廉潔白に生きてきた自負がある。
それなのに、なぜ八歳の小娘から「ダメ男に惹かれる女の気持ちが分かった」などと、人生の落伍者を見るような哀れみの目で見下ろされなければならないのか。
「世間一般の基準で言えば、確かに貴方は誠実で勤勉な好青年でしょうね」
フィオナは冷めた視線を俺に向け、小さく鼻を鳴らした。
「けれど、女心という一点において、貴方は救いようのないレベルの落第生……いいえ、存在そのものが周囲の女を狂わせる劇薬のようなダメ男よ。自覚がない分、タチの悪さはそこらの遊び人よりも遥かに上だわ」
「な、なんだと……!?」
俺が絶句していると、隣でルミナが俺の服の裾をクイクイと引っ張ってきた。
見下ろすと、彼女は相変わらずの極上のご機嫌な笑顔を浮かべ、小さな手で俺の腰に抱きついてきたのだ。
「リオ、だめおとこ?」
「ち、違うぞルミナ! 俺はダメ男なんかじゃないからな!?」
「ん。リオは、リオ。だいすき」
ルミナは満面の笑みで、俺の胸元にポスリと頭を預けてきた。
その無垢で圧倒的な肯定感に、俺の荒れ狂っていた心がじんわりと溶かされていくのを感じる。
そうだ。フィオナやアンナがどれほど理不尽な言いがかりをつけてこようとも、このルミナだけは俺の絶対の味方なのだ。この娘の笑顔さえあれば、俺はどんな理不尽な評価にも耐えられる。
「……ほらね、言った通りでしょう?」
フィオナが眉尻を下げ、心底から呆れ果てたように両手を広げてみせた。
「リオ様、大丈夫でしょうか……?」
「大丈夫じゃにゃい……もう、色んな意味で手遅れにゃ……」
テーブルの隅では、メリルが心配そうにおろおろし、ステラが諦めきったように首を横に振っていた。
俺の凄まじい困惑と理不尽への抗議を綺麗に置き去りにしたまま、昼下がりの柔らかな光が差し込む客室には、どこか噛み合わない、けれど不思議と温かな笑い声が、いつまでも静かに響き渡っていたのだった。
彼の恋愛関係の才覚は、環境もありますが天性のモノです。