お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第34話「高田馬場②(モブ他)」

 ◇◇◇

 

 高田馬場の避難所──と呼んでいるが、実態は早稲田通り沿いの元予備校をそのまま転用しただけの空間であり、二階と三階の教室を段ボールの仕切りと毛布で区切った床が五十人ほどの寝場所として機能しているにすぎない。それを「避難所」と呼ぶのはおそらく正しい。が、「避難」という語が暗に含んでいる「こんな生活もいずれ終わる」という前提については、ここにいる誰もが口にしなくなって久しい。

 

 ◆

 

 避難所を運営する「管理委員会」──これもまた大仰な名前だが中身は元消防士の中年男と元予備校講師の女性と、かつてウェブベンチャーの代表を名乗っていた三十代の男の三名にすぎない──は、毎朝八時に入口脇のホワイトボードに連絡事項を書き出す。

 

 本日の記載。

 

 一、飲用水は井戸水を煮沸して使用すること。生水厳禁。

 二、Bブロックの住人は本日中に異能申告書を再提出すること。

 三、外出は必ず二人一組で行うこと。単独外出は原則禁止。

 

 三番目の注意書きの横には赤いマーカーで「厳守」と書かれている。ただし「厳守」の文字は日に日に色褪せており、それは規則の拘束力がどの程度のものかを雄弁に物語っていた。

 

 ◆

 

 異能申告書。

 

 これは避難所が配布したA4一枚の書式で、異能の種類と強度を自己申告させるものである。建前としては「有事における適切な人員配置のため」とあるが、要するに戦える者を選別して警備に回す仕組みにすぎない。

 

 そしてここに一つの問題がある。

 

 異能を正直に申告した者は警備に組み込まれ、紫色の空の下で怪異と対峙する義務を負う。申告しなかった者は建物の中で段ボールに囲まれて寝ていられる。この構造において合理的な選択がどちらであるかは子供にもわかる。

 

 結果として、Bブロックには「無能力者」が不自然なまでに集中していた。

 

 管理委員会の藤原──元ウェブベンチャーの男──はその不自然さに気づいていた。気づいていたが、嘘をついている者に「お前は嘘をついているだろう」と問いただす権限も度胸も彼にはなかった。

 

 §

 

 藤原が頭を抱えている間にも、避難所の日常は回り続ける。

 

 Aブロックの角で咳き込んでいる老婆がいる。彼女は崩壊の夜から一歩も外に出ていない。出る気力がないのではなく出たら死ぬことを正確に理解しているからであり、その判断力の明晰さと足腰の衰えの落差が周囲の同情を誘い、また同時にうっすらとした苛立ちを生んでいた。人間は自分より弱い者を守りたいと思う生き物だが、弱い者が自分より長くこの避難所にいるという事実は善意に微量の毒を混ぜる。

 

 老婆の名前は水谷ハル。七十三歳、異能なし──これは本当に「なし」である。その代わり彼女には三十年間近所の揉め事を仲裁してきた経験があり、段ボール越しに聞こえてきた夫婦喧嘩にさりげなく咳払いを挟むことで停戦させるという特技を持っていた。そのタイミングがこれまた絶妙なのだ。争っていたものは話の腰を折られて、それ以上言い争う気もなくなってしまう。ちなみにこの能力は異能申告書の項目に載っていない。

 

 水谷ハルの隣、Aブロックの仕切りを挟んだ向こう側にいるのは二十代の若い男女のグループだった。全員が「S」──渋谷の享楽的な若者集団──から流れてきた連中で、Sの空気に馴染めなかった者たち──要するに陰キャたちが池袋を経由してここに辿り着いている。

 

 ◆

 

 問題はCブロックにあった。

 

 Cブロックは三階の奥、元の講師控室を段ボールで囲んだ一角であり、ここに二週間前から新しく入ってきた七名がいる。

 

 池袋からの脱走者だった。

 

 阿弥陀羅──あの人狩り集団が跋扈する地獄のような池袋から逃げてきた人間は珍しくないが、七名が揃って逃げてきたというのは異例であり、そしてその七名の誰もが異能申告書に「なし」と書いているのは輪をかけて異例だった。

 

 阿弥陀羅の支配下から七人で逃げ延びる。無能力者だけで。

 

 藤原でなくとも首を傾げる話である。

 

 七名のリーダー格は三鷹という三十歳前後の男で、首の後ろに長い火傷の痕がある。火傷というよりは刃物で抉られた傷を雑に焼いて止血した跡に見えたが、藤原は医学的知識がないのでそう思っただけかもしれない。

 

 三鷹は寡黙だった。質問には最低限の単語で答え、食事の配給には律儀に並び、就寝時刻を守り、朝は誰よりも早く起きて廊下の掃き掃除をした。ルールを守るという点においてこれ以上ない模範的な避難者であり、模範的すぎて逆に不気味なのは人間の認知の面倒くさいところである。

 

 七名のうちもう一人、際立って存在感のある人間がいる。笹本と名乗った二十歳くらいの女で、左腕がなかった。肘から先が失われており、断面は古い包帯できれいに巻かれている。彼女もまた異能申告書に「なし」と書いていた。

 

 笹本は三鷹とは対照的によく喋る。喋るが、自分たちが池袋で何をしていたのか、どうやって逃げてきたのかについてだけは一切口にしない。代わりに天気の話をし、井戸水の味の話をし、天井のシミの形が猫に似ていると言い、茶化す。意図的な話題逸らしだ。

 

 §

 

 軋轢が表面化したのは昼の配給の列だった。

 

 Bブロックの住人であるランニングシャツの中年男──吉川──がCブロックの三鷹の前に立ち、列を割り込んだ。割り込んだというより三鷹の目の前で足を止めてわざとぶつかったのだが、三鷹は一歩下がっただけで何も言わなかった。

 

「おい、ぶつかっといて無言かよ」

 

 吉川が言った。声は大きく、廊下によく響いた。

 

 三鷹は吉川を見た。表情はない。ただ見ている。

 

「池袋から来たんだってな。阿弥陀羅から」

 

 列に並んでいた他の住人たちの目が集まる。配給列というのは不思議なもので、普段は誰もが己の疲労に閉じこもって周囲を見ないくせにこういう時だけ全員の耳が立つ。人間の注意力は脅威と娯楽にだけ敏感にできている。

 

「あそこにいたってことは何かできるんだろ。なのに申告書に『なし』って書いてる。おかしいだろ」

 

 吉川の言い分は論理としては正しかった。阿弥陀羅の支配下で生き延びるには何らかの力が必要であり、力がない者は食われるか奴隷になるかの二択だと掲示板にも書かれている。七人全員が無能力者であるという申告は、確率的にも状況的にも苦しい。

 

 だが論理が正しいことと、それを配給の列で声に出して言うことが正しいかどうかは別の話である。

 

 三鷹は口を開いた。

 

「……逃げるのに異能は要らねェんだ。足があればいいからな」

 

 声は静かだった。廊下の端には届かない程度の声量であり、それは意図的な抑制だと藤原には思えた。

 

 吉川は鼻で笑った。

 

「足があれば逃げられるか。へえ。じゃあそっちの姉ちゃんはどうやって腕なくしたんだ?」

 

 笹本が吉川を見た。彼女の目は笑っていた。これは「面白いことを言う人だ」という意味の笑いではなく目だけが笑ってそれ以外の表情筋が全く動いていないという種類の笑いであり、その異質さに気づいたのは列の前方にいた水谷ハルだけだった。

 

「犬に噛まれたの」

 

 笹本は言った。

 

「犬?」

 

「うん。大きい犬。すごく大きい犬に」

 

 大きい犬。

 

 まあない事はないだろう。紫色のドームの下では何がいてもおかしくないのだ。大きい犬がいてもおかしくないし、人面犬がいてもおかしくない。おかしくないということの恐ろしさを、ここにいる全員が身体で知っている。

 

 吉川は何か言いかけて、結局何も言わなかった。列に戻り、自分の分の食料を受け取り、Bブロックの段ボールの中に消えた。

 

 §

 

 配給が終わった後、藤原は階段の踊り場で管理委員会の緊急ミーティングを行った。議題はもちろんCブロックの処遇である。

 

「追い出すわけにはいかんだろう」

 

 元消防士の小野田が言った。五十八歳、この避難所のリーダー格、異能なし。こちらも本当に「なし」である。

 

「追い出すとは言ってません。ただ正直に申告してもらわないと」

 

「申告したら警備に回す。警備に回されたら死ぬかもしれない。そりゃ隠すよ」

 

 元予備校講師の堀内──五十二歳の女性──が腕を組んで言った。

 

「隠す気持ちはわかるけど、それを許したら全体が回らなくなる。今だって警備が足りてないのに」

 

 藤原が反論する。理屈としては正しい。しかし堀内もまた正しいのであって、両方が正しいにもかかわらず結論が出ないというのは民主主義の特徴であり弱点であった。

 

 吉川は論理が正しかった。堀内は感情が正しかった。小野田は経験が正しかった。

 

 こういった正しさの紛争地帯でまとまる話もまとまらなくなるものだ。

 

 藤原はホワイトボードの「厳守」の文字を見た。赤いマーカーの色はさらに薄くなっていた。明日にはもう読めなくなるかもしれない。

 

 ◆

 

 夜。

 

 建物の照明は崩壊後も非常電源で機能していたが、節電のため午後九時に消灯される。非常灯の緑色だけが天井の隅でぼんやり光る中、五十人分の寝息と咳と独り言が混じり合って低い潮騒のような音を立てていた。

 

 笹本は毛布にくるまって天井を見ていた。天井のシミは暗くてもう猫には見えない。代わりに人の横顔に見える。誰の横顔かは暗くてわからないが横顔があるということだけはわかる。

 

 隣で三鷹が寝返りを打った。

 

「三鷹さん」

 

「……なんだ」

 

「あの人、絶対疑ってたよね」

 

「そうだな」

 

「どうするの?」

 

 三鷹は答えなかった。笹本もそれ以上は聞かなかった。

 

 §

 

 小野田は夜中の二時に尿意で目を覚ました。五十八年間の人生で学んだことの一つは膀胱の衰えに逆らっても仕方がないということであり、もう一つは揉め事の大半は寝て起きたら小さくなっているということだった。

 

 一階の仮設トイレに向かう途中、小野田は建物の入口付近に人影を見る。

 

 それは──三鷹であった。

 

 入口の扉の前に立ち、外を見ている。扉は少しだけ開いており、隙間から紫色の空が覗いている。三月の夜気は冷たく、三鷹の吐く息が白い。そして視線はやけに厳しい。見張っているのか、それとも待っているのか。

 

 いずれにせよ、その目を見た小野田は声をかけるのをやめた。

 

 このご時世、藪には蛇どころか、鬼や悪魔が隠れていてもおかしくないからだ。 

 

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

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