お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第52話「東京山手医療センター⑤(御堂聖、早川俊介、木下麻衣、原田浩二)」

 ◆

 

「……おい」

 

 早川さんの声は最初、冗談を言う時と同じ調子だった。

 

「おいおい、なんだよこれ。出れねえんだけど」

 

 掌がガラスも何もない空間を押している。ぺたぺたと叩く音だけが妙にはっきり聞こえた。

 

 早川さんは一度下がって、助走をつけて突っ込んだ。でも──次の瞬間にはエントランスの内側に立っていた。転んでもいないし弾かれてもいない。

 

 ループだ。

 

 受付をしていない人間は院内に入れず、入口の前をぐるぐる回される。さっき僕らが食らった仕掛けの、ちょうど逆向きのやつ。

 

「木下、そっちから手ぇ引っ張ってみてくれ」

 

 木下さんが敷居越しに早川さんの手首を掴んで引く。手首は敷居を越えた。でも肘から先が越えない。正確に言うと、越えたように見えた次の瞬間には早川さんごと院内に戻っている。目では追えているのに認識のほうが追いつかない。フィルムのコマ落ちみたいだった。

 

「なら念動でぶち抜くまでだ」

 

 早川さんが後ろへ下がると、待合の長椅子が一脚浮き上がった。今の出力なら車だって投げられるのかもしれない。長椅子は砲弾じみた速さでエントランスの正面へ突っ込んで──音もなく院内の床に転がった。ガラスには罅ひとつ入っていない。

 

「なんっ……だよ、それ……」

 

 肩で息をする早川さんの顔から、初めて笑いが剥がれていた。

 

 そして僕は、遅れて気がついてしまった。

 

 気がつきたくなかった。

 

「……あの」

 

 言うべきかどうか迷ったのは短い間で、でも言わないわけにはいかなかった。

 

黄泉戸喫(よもつへぐい)、かもしれません」

 

「よもつ……なんだって?」

 

「よもつへぐい。えっと……僕は学校でオカルト研究部にはいってたんですけど……そこの部長から聞いた事があります。あの世の竈で煮炊きした物を口にすると、あの世の住人になってこの世へ帰れなくなる──イザナミの神話のやつです。異常領域の中の飲食物は絶対に口にするなっていうの、避難所でも最初に教わるじゃないですか。でも」

 

 でも、あれは薬だった。

 

 食べ物じゃなかったから、誰もそこへ結びつけられなかった。僕だって今の今まで思い出しもしなかったのだ。水も食料も全部持ち込みで来て、あんなに気をつけていたのに。

 

「──は? いやいや待てって。異常領域って……そりゃわかるけどよ、でも今はここら一帯が異常領域になってるんじゃねえのかよ」

 

 それは……そうだ。例の掲示板にも書いてあったけど、いまは東京全部がすっぽり異常領域に変わってしまったそうだ。だから何か食べたら外にでれなくなるっていう理屈自体が……ああ、もう、なんだかごちゃごちゃしてきた。

 

 「……とにかく、診察室へ戻ってみましょう。あのドクターなら何か知ってるかもしれないわ」

 

 木下さんの言葉に僕らは頷いた。

 

 そして──。

 

 ◆

 

「ええ。早川様はご入院ですから。出れませんよ、当たり前じゃないですか」

 

「……は?」

 

「お薬を服用された患者様には入院していただく決まりです。経過観察がありますので」

 

「聞いてねえぞそんなもん!」

 

「お尋ねになりませんでしたので」

 

 早川さんの拳がデスクを叩いた。カルテの端が跳ねる。先生は眉ひとつ動かさなかった。

 

「副作用は特にねえっつったよな? あんた確かに言ったよな?」

 

「はい。入院は副作用ではありません。()()()です」

 

「じゃあ退院させろ。退院手続きだ、今すぐ」

 

「退院には主治医の許可が必要です」

 

「あんたが主治医だろうが!」

 

「はい」

 

「許可しろよ!」

 

「許可できる状態にありませんので」

 

 押しても引いても同じ調子だった。

 

「解毒剤は?」

 

 木下さんが割って入った。

 

「薬効を打ち消す処方はないんですか」

 

「当院ではそのような処方は行っておりません」

 

「じゃあ……代謝は? 薬効もいずれ切れるでしょう。薬なんだから」

 

「あれは霊子を凝縮したものです。代謝はいたしません。むしろ時間が経てば経つほどに()()()()()()でしょうね」

 

「馴染むって……」

 

 先生はそこで初めてカルテから顔を上げて、早川さんを見た。

 

「ですのでご安心ください。当院にいらっしゃる限り、早川様が飢える事も渇く事もありません。患者様にはお食事が出ますし、痛む所があれば治療もいたします。皆さまそうして快適にお過ごしですよ」

 

「皆さまって──」

 

 訊き返してから、多分全員が同じものを思い浮かべた。

 

 待合の長椅子に座っていた、何十人という半透明の人影。青っぽいのや、黒っぽいの。

 

 あの人たちは、いつから入院しているんだろう。まさか、早川さんと同じ様に……。

 

「退院の予定は?」

 

 最後に木下さんが静かに訊いた。

 

「さて」

 

 それで終わりだった。

 

 ◆

 

 エントランスへ戻る道すがら、早川さんは一言も喋らなかった。

 

 荷物はさっきのまま敷居の内と外に分かれて置いてある。原田さんがのろのろと段ボールを担ぎ直して、木下さんが僕のリュックを外へ押し出してくれて、それでも誰も帰ろうとは言い出せなかった。

 

「……ま、まあ、あれだ」

 

 先に口を開いたのは早川さんだった。

 

「入院っつっても飯は出るらしいしよ。ほら、しばらく療養だと思えばいいんだよ。三鷹さんに報告すりゃなんか手ぇ考えてくれるだろうし……青い薬持ってったろ、あれ調べりゃ解毒剤の目だってあるかもしんねえし……」

 

 語尾がどんどん細くなっていく。

 

「明日また来ます」

 

 僕は言った。他に言える事がない。

 

「食料とか着替えとか持ってきます。黄泉戸喫の事は他の人に聞いてみます。詳しい人がきっといるはずなので。だから──」

 

「……おう」

 

 早川さんは頷いて、それから笑おうとして、失敗した。

 

「な、なあ御堂」

 

「はい」

 

「お、俺を置いて出ていったりしないよな……? いや違う、出てけよ? 出てくんだけどよ、その、あれだ……見捨てたりはしねえよな? またちゃんと来るよな?」

 

「来ます。絶対に」

 

「……おう。おう、そうだよな。わりい、変な事聞いた」

 

 早川さんは掌で顔をごしごし擦った。指の間から覗いた目が赤かった。

 

 帰り支度は静かに済んだ。原田さんが「欲しいもんあったら明日持ってくるからさぁ」と精一杯明るく言って、早川さんが「じゃあ漫画な」と精一杯乗っかって、それが今日いちばん痛々しいやり取りだった。

 

 歩き出す。

 

 数歩進んだところで、隣を歩く木下さんの口が小さく動いた。

 

「使える男だとおもってたんだけどな」

 

 ……え?

 

 聞き間違いかと思って隣を見る。

 

「帰りましょうか」

 

 そう言っていつもの通りの声で、木下さんは先へ進んでいった。

 

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

  • ①問題ない
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