お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第53話「木下 麻衣という女だったもの」

 ◆◆◆

 

 木下 麻衣という女にとって、早川 俊介という男は何(・)だったのか──言うまでもなく、恋人である。早川にとってもそれは同じだ。しかしその関係は、世間で一般的に考えられる様なものではなかった。

 

 ありていにいえば、二人は性と暴の絡む、ある種の協力関係を結んでいた。ただ、それは別に非難されるような事ではない。このご時世、一人では何をするにも不便が生じるし、不便で済むならまだしも危険でさえある──特にこの池袋周辺では。

 

 ゆえに徒党を組み、寄り集まり、危険から身を守ろうと考えるのは至極当然の事だ。ましてや麻衣の異能は争いには向かないものだ。

 

 しかし──。

 

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 麻衣は原田や聖から向けられる恐れ混じりの視線に少し煩わしいものを感じながら、早川と知り合った時の事を思い出した。

 

 元はと言えば、単なる職場の知り合いに過ぎなかった。

 

 麻衣は都内の病院で看護師をしていて、早川は医療器具の営業だった。ナースステーションの脇を、重そうな鞄を提げて会釈しながら通り過ぎていく男。最初の印象はその程度だ。名前を覚えたのも、向こうが先に呼んできたからだった。

 

 モーションをかけてきたのは早川のほうである。ただし、あれを恋心と呼ぶ気は麻衣にはない。医療器具の営業というのは、要するにドクターに気に入られてなんぼの商売だ。どの科の誰が発言力を持っているのか、誰と誰の仲が悪いのか、どの先生が新しいものに飛びつく質なのか──そういう情報は、当のドクターより現場の看護師のほうがよほど詳しい。

 

 大方目当てのドクターの情報でも欲しいのだろう、麻衣もそう分かったうえでしばしば早川の食事の誘いに応じたりなどした。そこからの進展は半ば既定路線で、もう一、二度食事をしたあとは抱かれてやろうか、位の事を考えていた──のだが。

 

 二人の関係が良い意味でも悪い意味でも固まったのは、まぎれもない、東京が丸い紫色の何かに覆われてしまった日の事である。

 

 ◆◆◆

 

 その日の朝、麻衣は目を覚ました瞬間から気分が悪くて仕方がなかった。

 

 体調が悪い、というのとは違う。熱を測っても平熱で、喉も痛まず、看護師の目で自分の体をひと通り検分してもどこにも異常はない。体の不調というのは、要するに部位を指させるものだ。ここが痛い、ここが辛い、と。

 

 ところがこの朝の麻衣には指させる場所がなかった。悪いのは体ではなく、体の内側にいる誰かのほうで──胸の裏あたりに、湿った布でも詰め込まれたような重たさがあるのだ。

 

 起き抜けのコーヒーも味がしない。窓を開けても空気が入ってこない気がする。

 

 神などというものを、麻衣は信じていない。信じている看護師は少ないだろう。人が助かるかどうかは、祈りではなく処置の早さで決まると知っているからだ。それでも、と麻衣は玄関の靴に足を入れながら思った。もし神が本当にいるのなら、今まさにこう言っているのではないか。

 

 ──今日は外に出ちゃだめだよ、と。

 

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 駅までの道を歩きながら、そう言えば昔から何度かこんな事があったな、と麻衣は思う。

 

 最初に覚えているのは小学生の頃だ。その日は遠足の日だったのだが、朝から麻衣は玄関で「行きたくない」と泣き喚いたものだった。母親はそんな麻衣を叱ったが、祖母だけが叱らずに「そら神さんの声やろ」と言って布団に戻してくれた。

 

 そう、神さんの声だ。

 

 あんたにだけ小さく囁いてくれとるんや、と祖母は言っていた。

 

 その声に従った事もあった。逆らった事もあった。逆らった日は決まって、無視できない良くない何かが起きた。例えば階段で転んで怪我をしたり。従った日に何が起きなかったのかは、当然ながら分からない。

 

 だからそれは信仰というより、体の隅に沈んだ癖のようなものとして麻衣の中に残っている。

 

 もっともその声も、大人になるにつれて数を減らした。学生の頃にはもう年に一度あるかどうかで、看護師になってからはほとんど思い出す機会もなかった。子供の耳にしか届かないものなのか、それとも自分のほうが聞き流すのに慣れただけなのか。

 

 どちらでもいい、と麻衣は思う。

 

 祖母はもういないし、あの声の出所を訊ける相手もいない。

 ──できれば休みたいけど。まあでも、あまり信じ込んでもね。

 

 胸の裏の湿った重たさは、電車に揺られている間も消えなかった。麻衣はそれを一度だけ確かめるように深く息を吸い、それきり考えるのをやめて病院へ向かった。

 

 そして世界が変わり──麻衣は色(・)々(・)と経験をし、世界が自分の想像しているよりもずっと優しくない事を知った。

 

 ◆◆◆

 

 早川と再会したのは池(・)袋(・)の避難所だ。

 

 世界が変わって二週間かそこらの頃だと思う。正確な日数は怪しい。あの頃は日付を数える気力もなかったし、数えて何になるのかも分からなかった。

 

 麻衣はそこで怪我人の手当てをしていた。技能があればより良い食料を受け取れるといった恩恵があるのだ。ましてや麻衣には傷の治癒を促進する異能がある。

 

「……木下さん、ですよね? やっぱり」

 

 覗き込む様にして声をかけてきた男がいて、それが誰だか一瞬分からなかった。無精髭のせいだ。見慣れたスーツの上着は埃で白茶けて、あの重たそうな鞄はどこにもない。

 

「なんだ……早川さん? 生きてたの?」

 

「ひどいなあ。そっちこそ」

 

 言った自分の声が存外弾んでいて、麻衣は内心で少し呆れた。別に好きな男でもないのに。まあ、それだけ参っていたという事なのだろう。

 

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 その頃の早川は異能避難所で顔が売れ始めていた。

 

 崩れた薬局の梁をどかして中の人間を引っ張り出したとかで、あの兄ちゃんは恩人だと、手当ての最中に喋っていく年寄りが何人もいた。念動の異能は地味で、派手好きの早川自身はそこまで自身の異能を気に入ってはいなかったが、それでも尊敬の念をもって見られる事には快感をおぼえた。

 

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「なあ木下さん、俺と組まない?」

 

 ある日、早川は麻衣にそんな提案をもちかけた。うっすらとした下心を麻衣は感じ取ったが、嫌悪も感激も特に見当たらなかった。早川の存在は男除けになるし、いつまでもこの池袋の避難所にいるわけでもない。食料が尽きるなり、化け物が現れたりといった事で避難所自体が崩壊する可能性は十分にある。

 

 より安全な場所へ移動する事を考えると、早川は良いボディガードになってくれるだろう──そんな打算が麻衣にはあった。

 

 となれば、と話は早かった。どうせ崩壊の前からあと一、二度食事をしたら抱かれてやろうかと思っていた相手でもある。

 

「いいわよ」

 

 考え始めてから返事まで、三秒とかからなかった。

 

 ◆◆◆

 

 ──あれから、色々とあったわね。

 

 池袋の避難所が阿弥陀羅によって襲撃され、二人して逃げ出した事。

 

 小規模の避難所を転々としてきた事。

 

 他にもある。

 

 そう、色(・)々(・)とある。

 

 ──いつからかしら。

 

 麻衣は自身が変(・)わ(・)っ(・)て(・)しまった切っ掛けを思い出そうとして──不意に左頬がひきつる様な歪な笑みを浮かべて、ほぅ、と一つ溜息をついた。

 

 

 

 

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

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