お姉さんと僕   作:埴輪庭

19 / 123
第17話「夢」

 ◆

 

 夢だ。

 

 そう理解するまでに、数秒かかった。

 

 体が浮いているような、それでいて地に足がついているような、不思議な感覚が全身を包んでいる。

 

 目の前に広がるのは、見渡す限りの稲穂だった。

 

 黄金色の絨毯──そう表現するしかない。

 

 風が吹くたびに、さわさわと穂が揺れて、まるで波のように押し寄せてくる。

 

 太陽の光を反射して、きらきらと輝く稲の海。

 

 そのただなかで、ひとりの女の人が踊っていた。

 

 白い巫女衣装が稲穂の金色に映えている。

 

 袖が風に舞い、裾がふわりと広がる。

 

 そして──

 

 ──穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……

 

 声が聞こえるのだ。

 

 遠く離れているはずなのに、その歌声は僕の耳にはっきりと届いた。

 

 澄んだ声。

 

 鈴の音のように清らかで、どこか懐かしい。

 

 女の人は両手を天に向けて、ゆっくりと回転した。

 

 白い衣装が円を描き、稲穂もそれに合わせて揺れる。

 

 まるで稲穂が彼女の舞に応えているかのようだった。

 

 僕は息を呑んで、その光景を見つめていた。

 

 美しいという言葉では足りない。

 

 神々しいというのも違う気がする。

 

 ただ、目が離せなかった。

 

 金色の世界の中で、僕はただただ女の人を見つめていた。

 

 ふいに女の人がこちらを向く。

 

 瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。

 

 ──きれいだ

 

 息が止まるほど、美しい人だった。

 

 長い黒髪が風になびき、白い肌が陽光に透けるように輝いている。

 

 そして何より、その瞳。

 

 血のように赤い瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。

 

 でも怖くない。

 

 むしろ、吸い込まれそうなほど魅力的で──

 

「あ……」

 

 僕は気づいた。

 

 この人を、僕は知っている。

 

「お姉さん」だ。

 

 十年前故郷の山で出会った、あのお姉さんだった。

 

 お姉さんは僕に気づいて嬉しそうに笑った。

 

 胸の奥がじんわりと熱くなる。

 

 お姉さんはゆっくりと手招きをしてくれた。

 

 細く白い指が、優しく僕を呼んでいる。

 

 僕は吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。

 

 稲穂が足元でさらさらと音を立てる。

 

 一歩、また一歩。

 

 なぜだろう、走り出したいのに足が妙に重い。

 

 ゆっくりとしか歩けない。

 

 でも確実に、僕はお姉さんに近づいていく。

 

 やがてお姉さんの前に立つ僕。

 

 見上げると、やっぱり背が高い。

 

 二メートルを優に超えるその身長は、子供の頃と変わらない。

 

 いや、もしかしたら僕が成長した分、相対的には少し縮まったのかもしれない。

 

 でも、やっぱり見上げる形になる。

 

「呼びつけてごめんなさい」

 

 お姉さんの声は、歌うように優しかった。

 

「私はこれ以上そちらへいけないのです。今は、まだ」

 

 その言葉の意味を考える前に、お姉さんは僕を抱きしめた。

 

 ふわりと包み込まれる感覚。

 

 白い巫女衣装の袖が、僕の体を覆う。

 

 そして──

 

 顔が、柔らかな胸に埋まった。

 

 普通なら恥ずかしくて死にそうになる状況だ。

 

 でも、不思議と恥ずかしさは感じなかった。

 

 むしろ当然のことのように思えた。

 

 ──僕は弟なんだから、お姉さんに甘えても当然だ

 

 そんな思いが、心の奥から湧き上がってくる。

 

 温かい。

 

 お姉さんの体温が、じんわりと僕に伝わってくる。

 

 懐かしい匂いがした。

 

 稲穂の香りと、何か甘い花のような香り。

 

 そしてなんとなくお線香のような香りも混じっている。

 

「聖くん」

 

 頭上からお姉さんの声が降ってきた。

 

「逢えてとてもとてもとてもとてもとてもとても嬉しい」

 

「とても」を六回も重ねるその言い方がなんだか可愛らしくて、僕は思わず笑みがこぼれた。

 

 お姉さんの腕に、ぎゅうっと力が込められる。

 

 より強く、より深く、僕を抱きしめてくれる。

 

 まるでもう二度と離したくないとでも言うように。

 

 僕もお姉さんを抱きしめ返した。

 

 細い腰には確かな存在感があって、お姉さんが本当にここにいることを実感させてくれる。

 

 このままずっとこうしていたい。

 

 そんな気持ちが心の中に広がっていく。

 

 でも聞きたいこともあった。

 

 ずっと、ずっと聞きたかったこと。

 

「お姉さん」

 

 僕は顔を上げて、お姉さんを見つめた。

 

 赤い瞳と目が合う。

 

 近くで見ると、その瞳の中にはいろんな色が混じっていることがわかった。

 

 朱色、緋色、茜色、紅色──

 

 さまざまな「赤」が複雑に絡み合って、宝石のような輝きを放っている。

 

「お姉さんの名前は、なんていうの?」

 

 ずっと聞きたかった質問を、ついに口にした。

 

 お姉さんは一瞬、驚いたような表情を見せた。

 

 それから、ゆっくりと微笑んで──

 

 唇が動いた。

 

「〇〇〇」

 

 その瞬間──

 

 世界が歪んだ。

 

 黄金色の稲穂が、ぐにゃりと曲がる。

 

 お姉さんの姿が、水に映った影のように揺らぐ。

 

 声は聞こえたはずなのに、なぜか頭に入ってこない。

 

 名前を聞いたはずなのに──

 

「あっ」

 

 急激に意識が浮上していく感覚。

 

 まるで深い水の底から、一気に水面へと引き上げられるような──

 

 目を開けた。

 

 天井が見える。

 

 見慣れた自分の部屋の天井だった。

 

「……夢、か」

 

 呟いて、ゆっくりと体を起こす。

 

 パジャマが汗でじっとりと濡れていた。

 

 窓から差し込む朝日が、カーテンの隙間から部屋を照らしている。

 

 夢の感触はまだ鮮明に残っている。

 

 稲穂の匂い、お姉さんの温もり、そしてあの優しい声──

 

「これ以上そちらへいけない……か」

 

 お姉さんの言葉を反芻する。

 

 どういう意味なんだろう。

 

「そちら」というのは、現実の世界のことなのか。

 

 それとも、もっと別の何かを指しているのか。

 

「今は、まだ」という言葉も気になる。

 

 いつかは来られるようになるということなのだろうか。

 

 だとしたら僕はそれまで待てばいいのか? 

 

 いや、違う。

 

 ふと、別の考えが頭をよぎった。

 

 ──僕から、お姉さんのところへ行けばいいんじゃないか

 

 でも、どうやって? 

 

 そもそもお姉さんがいる場所はどこなんだろう。

 

 夢の中? それとも──

 

 頭を抱えて考え込む。

 

 答えは出ない。

 

 でもなんとなく分かりそうな気もしていた。

 

 もう少しで、何か大切なことに気づけそうな──

 

「聖くん! 朝ごはんよ!」

 

 階下から、悦子さんの声が聞こえてきた。

 

 現実の音が、夢の残滓を押し流していく。

 

「はーい!」

 

 返事をして、ベッドから降りる。

 

 足が冷たい床についた瞬間、完全に現実に引き戻された。

 

 でも──

 

 ──いつか、また会える

 

 そんな確信めいたものを抱きながら、僕は階下へと降りていった。

 

 朝食の匂いが階段を上ってくる。

 

 味噌汁と焼き魚の香ばしい匂い。

 

 日常のありふれた朝の風景。

 

 でも僕の心はまだあの黄金色の稲穂の海を漂っていた。

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

  • ①問題ない
  • ②少し詰めて欲しい
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。