お姉さんと僕   作:埴輪庭

20 / 123
第18話「悪夢」

 

 ◆

 

 河野美雪は霊異捜査局渋谷分局の資料室で、透明なケースに収められた小石を見つめていた。

 

 ただの石ころ。

 

 路地の隅に転がっていたという、何の変哲もない小石だ。

 

「先日の異常領域から回収したものです」

 

 技術班の若手が説明する。

 

「街の外れの路地で発生した異常領域。現場には特に目立った痕跡はありませんでしたが、念のため周辺の物品をいくつか回収しました」

 

 美雪は眉をひそめた。

 

 一見すると、ただの石。

 

 だが、そこには確かに濃密な霊的残滓がこびりついている。

 

 美雪の異能がそれを感じ取っていた。

 

「河野さん、準備はいいかい?」

 

 同僚の声に振り返ると、観察記録用のカメラを手にした面々が待機している。

 

 美雪は小さく頷いた。

 

 念視──ヴィジョンと呼ばれる異能。

 

 物体に残された霊的残滓から、過去の光景や感情を読み取る能力だ。

 

 たとえそれが道端の石ころであろうと、強烈な霊的事象の近くにあったものならば、その波動は物体に刻まれる。

 

 恐怖、歓喜、絶望──そして時には、人ならざるものの気配までも。

 

 美雪はケースを開け、素手で石に触れた。

 

 瞬間、意識が肉体から剥離するような浮遊感が全身を包む。

 

 現実の資料室が薄れ、別の光景が網膜の裏側に浮かび上がってくる。

 

 一面の黄金。

 

 見渡す限りの稲穂が、風に揺れている。

 

 波のように押し寄せる黄金色の海。

 

 太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。

 

 美雪は息を呑んだ。

 

 この光景は明らかに現実ではない。

 

 東京のど真ん中に、こんな広大な稲田など存在しない。

 

 稲穂の中で何かが動いている。

 

 それは人影に見えるが、姿は判然としない。

 

 ──もっとよく視なければ

 

 そう精神力を集中した時であった。

 

 美雪の全身が総毛立った。

 

 “何か”は“女のようなモノ”だと分かった。

 

 しかし尋常のモノではない。

 

 腐肉が垂れ下がり、眼窩には蛆が湧いている。

 

 白い巫女衣装とみられる衣服は血と膿で汚れ、髪の毛は抜け落ちて頭蓋骨が露出していた。

 

 踊るたびに、腐った肉片が飛び散っている。

 

 そして美雪は視た。

 

 中学生か高校生らしき少年が、その化け物に向かって歩いていくのを。

 

 少年の顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。

 

 まるで天使を見るような、純粋な憧憬の眼差し。

 

 化け物が少年を抱きしめた。

 

 腐った腕が少年の体を包み込む。

 

 少年は幸せそうに、その胸に顔を埋めている。

 

 ──おぞましい

 

 なぜこの少年は、あんな化け物に抱かれて平気なのか。

 

 なぜ恐怖を感じないのか。

 

『ぽ』

 

 突如、美雪の耳元で声が響いた。

 

 文字にすれば間の抜けた音。

 

 しかし美雪の魂は、その一音に込められた底知れぬ敵意を感じ取った。

 

 ──見るな

 

 ──これ以上踏み込むな

 

 ──さもなくば

 

 恐怖が背骨を駆け上がる。

 

 美雪は慌てて意識を引き戻そうとした。

 

 念視からの離脱──接続を切る。

 

 普段なら造作もない動作が、なぜか上手くいかない。

 

 まるで見えない手に意識を掴まれているような──

 

『ぽぽぽ』

 

 声が近づいてくる。

 

 稲穂の海が赤く染まり始めた。

 

 まるで血の色の様だ。

 

 美雪は必死に目を閉じ、現実への帰還を試みる。

 

 資料室の蛍光灯の白い光を思い出せ。

 

 同僚たちの声を。

 

 コーヒーの匂いを。

 

 ようやく、意識が肉体に戻ってきた。

 

「河野さん!」

 

 誰かが叫んでいる。

 

「救護班を呼べ! 早く!」

 

 なぜそんなに慌てているのだろう。

 

 美雪は手の甲で顔を拭った。

 

 べっとりと、赤い液体が付着している。

 

 血だ。

 

 視界が赤く染まっていたのは、自分の目から血が流れていたからだと気づく。

 

 そして──

 

 ぽろり。

 

 何かが頬を滑り落ちた。

 

 床に転がったそれを見て、美雪は声にならない悲鳴を上げた。

 

 自分の眼球だった。

 

 そして──……

 

 ◆

 

 病室の天井の染み。

 

 美雪は片目だけでそれを数えながら、ぼんやりと時を過ごしている。

 

 左目には眼帯。

 

 もう片方は奇跡的に無事だったが、医師からは「しばらく念視は控えるように」と厳命されていた。

 

 ノックの音がして、ドアが開く。

 

「河野さん、調子はどう?」

 

 渋谷分局の上司、黒木課長が見舞いに来た。

 

 美雪は力なく微笑む。

 

「まあ、なんとか」

 

 黒木は病室の椅子に腰を下ろし、真剣な表情で美雪を見つめた。

 

「君が念視で見たものについて、聞かせてもらえるかな」

 

 美雪は少しの間、黙っていた。

 

 それから、ゆっくりと首を横に振る。

 

「覚えていないんです」

 

「覚えていない?」

 

 黒木の声に、わずかな疑念が滲む。

 

「はい。接続を切ろうとした時のことは覚えていますが、何を見たのかは……」

 

 美雪は視線を落とした。

 

 黒木はしばらく美雪を見つめていた。

 

 病室に重い沈黙が降りる。

 

 やがて、黒木が口を開いた。

 

「口に出す必要はない」

 

 美雪がわずかに肩を震わせる。

 

「君は何かを見た。しかし、それを話したくないのか?」

 

 美雪は答えない。

 

 ただ、じっとシーツを見つめている。

 

 黒木はさらに続けた。

 

「それとも──話せないのか?」

 

 その言葉に、美雪の体がぴくりと反応した。

 

 一瞬だけ美雪は顔を上げ、黒木と視線を合わせた。

 

 しかしすぐに美雪は視線を逸らし、再びうつむいた。

 

 黒木は小さく息を吐いた。

 

「……分かった」

 

 立ち上がり、ドアに向かう黒木。

 

 その背中に、美雪がぽつりと呟いた。

 

「すみません」

 

 黒木は振り返らずに答えた。

 

「謝る必要はない。君の身の安全が最優先だ」

 

 ドアが閉まる音が、病室に響いた。

 

 美雪は震える手で眼帯に触れた。

 

『ぽ』

 

 今でも耳の奥に、あの声がこびりついている。

 

 話せない。

 

 話してはいけない。

 

 あれは、人間が知るべきではない領域の何かだった。

 

 もし話せば──

 

 ──()()()()

 

 ◆

 

 退院の日はあいにくの雨だった。

 

 美雪は段ボール箱に私物を詰め込みながら、これが最後だと理解していた。

 

 霊異捜査局渋谷分局。

 

 三年間勤めた職場に、もう戻ることはない。

 

「本当にいいの?」

 

 同僚の山田が心配そうに尋ねる。

 

 美雪は力なく笑った。

 

「もう、無理なんです」

 

 念視能力自体は失われていない。

 

 だがあの日以来、何かに触れるたびに『ぽ』という声が聞こえるような気がして、能力を使うことができなくなった。

 

 トラウマ、と医師は診断した。

 

 時間が解決してくれるかもしれない、とも。

 

 だが美雪には分かっていた。

 

 どれだけ時間が経とうとも、もう二度と自分は現場復帰ができないだろうという事を。

 

「お世話になりました」

 

 深々と頭を下げ、美雪は局を後にした。

 

 雨に濡れながら歩く帰り道。

 

『ぽ』

 

 雨風に紛れて、あの声が聞こえた気がした。

 

 美雪は震える手で傘を握りしめ、雨の中を歩きつづけた。

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

  • ①問題ない
  • ②少し詰めて欲しい
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。