お姉さんと僕   作:埴輪庭

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閑話③「怪異行:ゴミ処理施設職員・室井の場合」  

 ◆

 

 午前五時前。

 

 日の出前のまだ薄暗い空の下、東京都廃棄物処理センター第三工場に一台のトラックが滑り込んできた。

 

 門番の老人が眠そうな目をこすりながらゲートを開ける。

 

 ここは都内でも最大級のゴミ処理施設だ。

 

「おはようさん、室井」

 

 トラックから降りてきた作業員が、すでに詰所にいた同僚に声をかける。

 

 室井と呼ばれた男は四十代半ばの小太りな体型で、ヘルメットの下から覗く髪には白いものが混じっている。

 

「ああ、おはよう。今日も早いな」

 

 室井は缶コーヒーを啜りながら答えた。

 

 この処理場で働き始めてもう十五年になる。

 

 最初の五年は普通のゴミ処理作業員だった。

 

 だが十年前、この施設に「特別処理棟」が増設されてからは、彼の仕事内容は大きく変わった。

 

「培養槽の調子はどうだ?」

 

「まあまあってとこだな。昨日の夜勤の連中が餌やりは済ませてるはずだ」

 

 餌。

 

 そう、彼らが世話をしているのは生き物だった。

 

 スライム。

 

 かつては都市伝説の一つに過ぎなかった存在が、今や産業用の道具として活用されている。

 

 室井は詰所を出て特別処理棟へと向かった。

 

 厚さ三十センチはあろうかというコンクリートの扉。

 

 認証カードをかざし、指紋と網膜のスキャンを済ませる。

 

 ガコン、と重い音を立てて扉が開いた。

 

 中は異様な光景だった。

 

 天井まで届きそうな巨大なガラスの水槽が、整然と並んでいる。

 

 その数、実に五十基。

 

 そしてそれぞれの水槽の中で、透明なゼリー状の物体がゆらゆらと蠢いていた。

 

 スライムだ。

 

 一基あたり大体バスケットコート一面分の体積を持つ巨大なスライムが、ゆったりと脈動している。

 

「今日も元気そうだな、おはよう」

 

 室井が水槽に近づくと、スライムがぴくりと反応した。

 

 まるで挨拶を返すように表面が小さく波打つ。

 

 有機物、無機物、何でも分解してしまうスライムの消化能力は、廃棄物処理において革命的だった。

 

 焼却処理では有害物質が発生する医療廃棄物も、埋め立てるしかなかった産業廃棄物も、スライムならきれいに分解してくれる。

 

 消化したものはスライムの栄養となり体積が増えるが、増えすぎた分は切り分けて新しい培養槽に移せばいい。

 

 まさに一石二鳥。

 

 いや、それ以上の価値があった。

 

 室井は作業着に着替え、他の作業員たちと合流した。

 

 今日のシフトは八人。

 

 皆、この仕事に慣れたベテランばかりだ。

 

「じゃあ、始めるか」

 

 主任の掛け声で作業が始まった。

 

 ◆

 

 午前六時。

 

 第一投入口が開き、ベルトコンベアに乗せられたゴミが次々と運ばれてくる。

 

 プラスチック、金属、ガラス、紙くず。

 

 分別なんて関係ない。

 

 スライムは何でも食べる。

 

「三番槽、投入開始!」

 

 作業員の一人がレバーを操作すると、天井のハッチが開いた。

 

 ゴミがザラザラと音を立てて、スライムの上に降り注ぐ。

 

 すると──

 

 ずるり。

 

 スライムの表面が盛り上がり、ゴミを包み込んでいく。

 

 まるで巨大なアメーバが獲物を捕食するような光景だ。

 

 ゴミはみるみるうちにスライムの体内に取り込まれ、透明な体の中を沈んでいく。

 

 そして数分もしないうちに、跡形もなく消えてしまう。

 

 完全に分解されたのだ。

 

「相変わらずすげぇな」

 

 若い作業員が感心したように呟く。

 

「何年見ても慣れねぇよ」

 

 室井は苦笑する。

 

 作業は順調に進んでいた。

 

 各培養槽にゴミを投入し、スライムの状態をチェックし、必要に応じて水や栄養剤を補給する。

 

 特定の種類のゴミを嫌がるスライムもいるので、その場合はゴミを引き上げて別の培養層へと投下すればよい。

 

 単調だが重要な仕事だ。

 

 ところが──

 

「おい、ちょっと来てくれ!」

 

 突然、離れた場所から同僚の声が響いた。

 

 室井が駆けつけると、十五番槽の前で作業員が困惑した表情を浮かべていた。

 

「どうした?」

 

「スライムの様子が変なんだ」

 

 見ると確かに異常だった。

 

 いつもは透明なはずのスライムが薄く黒ずんでいる。

 

 まるで墨を垂らしたような不気味な色合いだ。

 

「病気か?」

 

 室井が眉をひそめる。

 

 スライムも生き物である以上、体調を崩すことはある。

 

 とはいえ、作業員側にできる事はないのだが。

 

 というのも、病気にかかったスライムはただちに死んで消えてしまうからだ。

 

 だがこんな症状は見たことがなかった。

 

「とりあえずこの槽への投入は中止だ」

 

 主任が指示を出す。

 

 しかし──

 

 ぐにゅり。

 

 突然、十五番槽のスライムが大きく波打った。

 

 水槽の壁に激しくぶつかり、ガラスがビリビリと震える。

 

「なんだ?」

 

 作業員たちが後ずさる。

 

 スライムがこんなに激しく動くのは異常だ。

 

 ビシッ。

 

 嫌な音がした。

 

 見ると、水槽のガラスに亀裂が走っている。

 

「やばい、離れろ!」

 

 主任が叫んだ瞬間──

 

 ガシャァン! 

 

 轟音と共に水槽が砕け散った。

 

 ◆

 

 大量のスライムが、堰を切ったように溢れ出す。

 

 どろり、どろりと粘性の高い液体が床を覆い尽くしていく。

 

「逃げろ!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 作業員たちは我先にと出口へ向かって走り出す。

 

 だが──

 

 ずるり。

 

 足を取られた。

 

 室井の右足が、床に広がったスライムに沈み込む。

 

 引き抜こうとするが、まるで強力な接着剤に捕まったように動かない。

 

 それどころか、じわじわと足が溶けていく感覚がある。

 

「うわああああ!」

 

 絶叫が響く。

 

 振り返ると、若い作業員が腰までスライムに呑み込まれていた。

 

 必死にもがくが、その動きは徐々に弱くなっていく。

 

 作業服が溶け、その下の肌が露出する。

 

 そして──

 

 ジュウウウ……

 

 焼ける肉のような音と共に皮膚が溶けていく。

 

 赤い筋肉が露出し、それもまた溶かされていく。

 

 骨が見える。

 

 白い骨が。

 

 でも、それすらも数秒で溶けてしまう。

 

 最後に残った頭蓋骨が、ごぽりとスライムの中に沈んでいった。

 

 一人の人間が、たった三十秒で跡形もなく消化されてしまった。

 

 室井は恐怖で思考が真っ白になりかけた。

 

 だが、生存本能が彼を動かす。

 

 ポケットからカッターナイフを取り出し、スライムに捕まった足の部分を切りつける。

 

 ビチャッ。

 

 スライムの一部が飛び散る。

 

 効いている。

 

 スライムは物理的な攻撃には弱い。

 

 何度も切りつけ、ようやく足を引き抜いた。

 

 靴はすでに半分溶けている。

 

 中の足も、皮膚が赤くただれていた。

 

 激痛が走るが、構っている場合じゃない。

 

 他の培養槽を見ると──

 

 最悪だった。

 

 次々とガラスが割れ、スライムが溢れ出している。

 

 十五番槽だけじゃない。

 

 すべての槽のスライムが、同じように黒ずみ、凶暴化していた。

 

 床一面がスライムの海と化していく。

 

 逃げ場がない。

 

 高台に上るしかない。

 

 室井は必死に制御室へ続く階段を目指した。

 

 途中、主任が転んでいるのが見えた。

 

「主任!」

 

 手を伸ばそうとして──やめた。

 

 主任の下半身は、すでにスライムに呑まれていた。

 

 ゴボゴボと泡を立てながら、肉が溶けていく。

 

「た、室井……」

 

 主任が苦痛に歪んだ顔で、室井を見上げる。

 

「に、逃げ……」

 

 それが最後の言葉だった。

 

 主任の体が完全にスライムに沈む。

 

 室井は歯を食いしばり、階段を駆け上がった。

 

 ◆

 

 制御室にたどり着いた時、生き残っていたのは室井を含めて三人だけだった。

 

 皆、恐怖で顔面蒼白だ。

 

「ど、どうなってるんだ!」

 

 一人が叫ぶ。

 

「分からない……分からないが、とにかく助けを呼ぶんだ!」

 

 室井は震える手で非常用の電話を取った。

 

 霊異対策本部の緊急ダイヤル。

 

 こんな番号を使う日が来るとは思わなかった。

 

「もしもし! 東京都廃棄物処理センター第三工場です! スライムが暴走して……!」

 

 必死に状況を説明する。

 

 電話の向こうで、オペレーターが冷静に対応してくれる。

 

『分かりました。すぐに特殊部隊を派遣します。それまで安全な場所で──』

 

 ガシャン! 

 

 制御室のドアが破られた。

 

 いや、溶かされた。

 

 金属製のドアが、まるでチーズのように溶けて、穴が開いている。

 

 そこから、黒いスライムがドロドロと侵入してきた。

 

「うわああ!」

 

 一人が窓に向かって走る。

 

 ガラスを椅子で叩き割り、外へ飛び出そうとして──

 

 ビチャッ。

 

 窓枠に張り付いていたスライムに捕まった。

 

 腕から溶けていく。

 

 悲鳴を上げながら、そのまま窓の外へ引きずり込まれた。

 

 三階の高さからの落下。

 

 もう死んでいるだろう。

 

 スライムに消化されながら落ちていったのだから。

 

 もう一人も部屋の隅に追い詰められた。

 

 じりじりと迫るスライムから逃れようと、机の上に飛び乗るが──

 

 天井からポタリとスライムが垂れてきた。

 

 頭に落ちる。

 

 ジュウウウ……

 

 頭皮が溶け、頭蓋骨が露出し、そして──

 

 ぐちゃり。

 

 脳みそが床にぶちまけられた。

 

 室井は震えていた。

 

 もうダメだ。

 

 逃げ場がない。

 

 スライムは部屋中に広がり、ゆっくりと、しかし確実に彼を追い詰めていく。

 

 ふと窓の外を見た。

 

 美しい朝焼けだ。

 

 こんな時に、皮肉なほど美しい。

 

「家族に……会いたかったな……」

 

 呟いた。

 

 室井には妻と高校生の娘がいる。

 

 ──今朝、いってきますと言ったのが最後になるなんて、なあ

 

 スライムが足元に達した。

 

 ズブリと沈み込む感覚。

 

 激痛。

 

 焼けるような、いや、溶けていく痛み。

 

 そして。

 

 膝まで溶けた。

 

 腰まで溶けた。

 

 内臓が溶け出す感覚は、言葉では表現できない。

 

 苦痛を通り越してもはや現実感がない。

 

 胸まで沈んだ時、室井は最後に思った。

 

 ──スライムを、信用しすぎていたんだ

 

 便利な道具。

 

 従順な家畜。

 

 そう思い込んでいた。

 

 ──でも、違った

 

 これは怪異なんだ。

 

 人の理解を超えた、恐ろしい何かなんだ。

 

 それを飼い慣らせると思った人間の傲慢さが、この結果を招いた。

 

 そんな事を思う室井の視界が黒く染まっていく。

 

 スライムが顔を覆う。

 

 目が溶ける。

 

 鼻が溶ける。

 

 口の中にスライムが流れ込んでくる。

 

 舌が溶ける。

 

 歯が溶ける。

 

 そして──

 

 ◆

 

 二十分後。

 

 霊異対策本部第三機動隊の車両が、処理場の正門を突破した。

 

 黒い装甲車から次々と隊員が展開する。

 

 全員が対異形戦闘用の特殊スーツに身を包んでいた。

 

 隊長の松本一等陸佐が、ヘルメットのバイザー越しに施設を見渡す。

 

「各班、配置につけ。第一班は私と共に内部へ。第二班は外周を封鎖、第三班は地下への侵入口を確保しろ」

 

 きびきびとした動きで隊員たちが散開する。

 

 松本は腰のホルスターから特殊な拳銃を抜いた。

 

 対スライム用の塩酸弾が装填されている。

 

 通常の銃弾は効果が薄いが、強酸性の液体ならダメージを与えられる。

 

「生存者の反応は?」

 

「制御室に三名の生体反応がありましたが……十分前に消失しました」

 

 通信隊員の報告に、松本は歯噛みした。

 

 間に合わなかった。

 

 だが、今は目前の脅威を排除することが最優先だ。

 

「突入する」

 

 施設内部は地獄絵図だった。

 

 黒く変色したスライムが床一面を覆い、天井からも滴り落ちている。

 

 そして所々に人間のものと思われる衣服の切れ端や、溶け残った金属類が散乱していた。

 

「霊素濃度、異常値を検出!」

 

 測定班が叫ぶ。

 

 霊素──正式名称を「霊子素粒子」という、特定異形災害の発生と密接に関わる特殊な素粒子だ。

 

 通常の物質を構成する素粒子とは異なる振動数で存在し、生命体の精神活動や強い感情によって発生・増減することが、この十年の研究で明らかになっている。

 

 環境中には極めて低濃度で存在するが、怪異の出現時には急激に上昇する。

 

 今、測定器が示している数値は通常の三十七倍。

 

 自然発生では考えられない濃度だった。

 

「ただの暴走じゃないな、こりゃ……」

 

 松本は確信した。

 

 これは何者かの意思が介在している。

 

 自然にこうはならないだろう、という思いが松本にはあった。

 

 その時──

 

 ずるり。

 

 巨大な黒い塊が奥の通路から姿を現した。

 

 個々のスライムが融合した、直径十メートルはあろうかという巨大な球体。

 

 その表面には消化しきれなかった人骨が浮かんでいる。

 

「総員構え、撃て! “意識”を込めるのを忘れるなよ!」

 

 “意識”とはすなわち敵意や害意、殺意の事である。

 

 スライムはそういった攻撃的意識を向けられる事に滅法弱い。

 

 松本の号令と同時に、隊員たちが一斉に塩酸弾を発射した。

 

 ビシャッ、ビシャッと音を立てて、弾丸がスライムに突き刺さる。

 

 塩酸が反応し、スライムの表面が泡立つ。

 

 だが──

 

「効いてない!?」

 

 若い隊員が驚愕の声を上げた。

 

 質量が大きすぎるのだ。

 

 確かにダメージは与えているが、巨大なスライムにとっては蚊に刺された程度でしかない。

 

 そして、効かないばかりかスライムは反撃に転じた。

 

 黒い触手が鞭のようにしなり、隊員の一人を薙ぎ払う。

 

 特殊スーツが瞬時に溶け始めた。

 

「うわああ!」

 

 悲鳴を上げる隊員を仲間が必死に引きずり出す。

 

 スーツの表面は既に半分溶けていた。

 

 あと数秒遅ければ、中の人間まで──

 

「火炎放射器を使え!」

 

 松本が指示を飛ばす。

 

 二人の隊員が前に出て、背負っていた火炎放射器を構えた。

 

 オレンジ色の炎が、黒いスライムに襲いかかる。

 

 グジュグジュと不快な音を立てて、スライムの表面が沸騰し始めた。

 

 水分が蒸発し、体積が縮小していく。

 

「効いてるぞ! 押せ!」

 

 だが、スライムも黙ってはいない。

 

 体を分裂させ、床を這うようにして別の方向から回り込もうとする。

 

 その動きは単純な生物とは思えないほど戦術的だった。

 

「囲まれるぞ!」

 

 第一班の通信が入る。

 

「地下から増援が! 数は……数えきれません!」

 

 下水道からも黒いスライムが湧き上がってきていた。

 

 このままでは全滅する。

 

 松本は決断を下した。

 

「総員、撤退! 施設を放棄する!」

 

「しかし隊長!」

 

「これは命令だ!」

 

 隊員たちが秩序正しく後退を始める。

 

 だが、スライムはそれを許さなかった。

 

 出口に向かって殺到し、退路を断とうとする。

 

 その時だった。

 

「新入り!」

 

 松本が鋭い声をかける。

 

 すると一人の隊員が前に出た。

 

「はい!」

 

 バイザーヘルメットに隠れて顔が見えないが、若い男の声だった。

 

 入隊二年目の新入隊員だが、優れたパイロキネシスの能力を持つ。

 

 対怪異に於いて、現代兵器よりも異能のほうがより大きいダメージを与えられるというのは既に周知の事実である。

 

 そういう意味で、攻撃性に優れたパイロキネシスという能力は、こういった戦闘部隊では重宝される。

 

「最大出力での異能戦闘を限定解除する」

 

 松本の許可を得て、隊員は両手を前に突き出す。

 

 ◆

 

 最初は蝋燭の炎の様な小さい火だった。

 

 しかしそれはみるみるうちに肥大化し、たちまちバスケットボールより三回りほど大きい火球へと変じた。

 

「設備に被害が出ても構わん、やれ!」

 

 松本の号令とともに、火球はスライムへ向かって轟と唸りを上げて飛び──着弾、爆裂。

 

 同時に青年は掌同士を向かい合わせて、何かを抑え込むような仕草を見せた。

 

 すると外に放射されるはずの爆発のエネルギーが内側へと収束していくではないか。

 

 完璧な異能の制御であった。

 

 結果、黒いスライムは消滅した。

 

 後には焦げ臭い煙と床に残った黒い染みだけが残る。

 

 だが、安堵する間もなかった。

 

「隊長! 地下からの報告です!」

 

 通信隊員が血相を変えて叫ぶ。

 

「ターゲットから分離したと思われる個体が下水道を移動中! このままでは市街地に──」

 

 松本は即座に判断した。

 

「第二、第三班と合流。下水道での追撃戦に移行する」

 

 施設を出て、最寄りのマンホールへ。

 

 そこから地下へと降りていく。

 

 暗く、湿った下水道。

 

 だが隊員たちの装備には暗視装置が組み込まれている。

 

 緑色に染まった視界の中で、彼らは獲物を探した。

 

「熱源感知。前方五十メートル」

 

 そこにいた。

 

 通路いっぱいに広がる、巨大な黒い塊。

 

 八人分の人間を吸収し、その記憶と経験を取り込んだ「本体」だ。

 

 それは、まるでこちらを待ち構えていたかのように動かない。

 

「包囲しろ。逃がすな」

 

 隊員たちが素早く展開する。

 

 前後左右、すべての退路を断つ。

 

 そして──

 

「攻撃開始!」

 

 一斉射撃が始まった。

 

 塩酸弾、焼夷弾、冷凍弾。

 

 ありとあらゆる対スライム兵器が黒い塊に叩き込まれると、スライムがダメージを受けていく。

 

 だがそれでも動きを止めない。

 

 いや、むしろ──

 

『痛い』

 

 突然、声が聞こえた。

 

 いや、声じゃない。

 

 頭の中に直接響いてくる思念だ。

 

『痛い、痛い、痛い』

 

 それは室井の声だった。

 

 いや、室井だけじゃない。

 

 消化された八人全員の声が、混ざり合って響いてくる。

 

『助けて』

 

『家族に会いたい』

 

『まだ死にたくない』

 

 隊員たちの動きが、一瞬止まった。

 

「これは……スライムが、取り込んだ人間の記憶を使って」

 

「惑わされるな!」

 

 松本が一喝する。

 

「それはもう人間じゃない! ただの怪異だ!」

 

 その言葉で、隊員たちは我に返った。

 

 攻撃を再開する。

 

 だがスライムも進化していた。

 

 下水の流れを利用して、素早く移動を始める。

 

 触手を伸ばして天井や壁を這い、三次元的な機動を見せる。

 

 まるで、取り込んだ人間の知識を活用しているかのように。

 

「くそっ、賢くなってやがる!」

 

 若い隊員が毒づく。

 

 その瞬間、天井から黒い雫が降ってきた。

 

 隊員のヘルメットに付着し、瞬く間に溶かし始める。

 

「うわっ!」

 

 慌ててヘルメットを脱ぎ捨てる隊員。

 

 間一髪だった。

 

 だが、今度は無防備な頭部が露出してしまう。

 

「下がれ!」

 

 松本が部下を庇うように前に出た。

 

 そして、腰から別の武器を取り出す。

 

 それは、一見すると普通の手榴弾に見えた。

 

 だが──

 

「全員、耳を塞げ!」

 

 松本がピンを抜き、スライムに向かって投げつける。

 

 カン、と金属音を立てて、手榴弾がスライムの体内に沈み込んだ。

 

 そして──

 

 キィィィィィィン! 

 

 耳をつんざくような超音波が発生した。

 

 特殊な振動波が、スライムの細胞構造を破壊していく。

 

 ビリビリと震えながら、スライムの体が崩壊を始めた。

 

 まるで、形を保てなくなったゼリーのように。

 

『や、め、て』

 

 断末魔のような思念が響く。

 

 だが、松本は容赦しなかった。

 

「火炎放射器、最大出力!」

 

 隊員たちが一斉に炎を浴びせる。

 

 もはや抵抗する力も失ったスライムは、ただ燃えるしかなかった。

 

 黒い煙を上げながら、徐々に小さくなっていく。

 

 そして──

 

 今度こそ本当に、完全に消滅した。

 

 ◆

 

 松本は深く息を吐いた。

 

「各班、状況を報告しろ」

 

「第二班、異常なし」

 

「第三班、残存個体なし」

 

 すべて片付いた。

 

 少なくとも、この場所では。

 

 だが松本の表情は晴れなかった。

 

 スライムが見せた知性。

 

 取り込んだ人間の記憶を利用する能力。

 

 想定を超えた進化だった。

 

 もし、もっと多くの人間を取り込んだら──

 

 もっと多くの知識と経験を得たら──

 

 スライムは、どこまで「賢く」なるのか。

 

 嫌な想像が頭をよぎる。

 

 だが、今はそれを考えている場合ではない。

 

「総員、撤収。本部への報告書をまとめる」

 

 隊員たちが整然と撤収を開始する。

 

 ◆

 

 霊異対策本部 緊急対策会議室

 

 薄暗い部屋の中、プロジェクターが問題の映像を映し出していた。

 

 処理場の監視カメラ映像と、特殊部隊のヘルメットカメラの記録。

 

 出席者は本部長の黒田を筆頭に、各省庁の幹部級職員、そして内閣官房から派遣された特命担当官。

 

 全員が神妙な面持ちで画面を見つめている。

 

「死者八名。全員が施設の作業員です」

 

 松本が淡々と報告する。

 

「スライムは我々の攻撃により完全に殲滅しました。残存個体はありません」

 

「ご苦労だった」

 

 黒田本部長が労いの言葉をかける。

 

 だが、すぐに表情を引き締めた。

 

「問題は、スライムが示した『変異』だ」

 

 画面には、解析されたデータが表示される。

 

 通常の透明なスライムが、黒く変色していく過程。

 

 その変化はまるで何かに「感染」したかのように、全個体で同時に起きていた。

 

「原因は?」

 

「不明です。ただ──」

 

 松本は手元の資料を確認する。

 

「現場の霊素濃度が、通常の三十倍以上を記録していました。何らかの霊的干渉があった可能性が高い」

 

 会議室に重い沈黙が流れた。

 

 やがて、内閣官房の特命担当官が口を開く。

 

「この件は、機密扱いとします」

 

 その一言に、何人かが驚きの表情を見せた。

 

「しかし、八名もの犠牲者が──」

 

「聞いてください」

 

 特命担当官は冷静に続ける。

 

「現在、全国で稼働している産業用スライム施設は三百七十二箇所。これらが担っている廃棄物処理量は、年間約二千万トンに及びます」

 

 プロジェクターに新たな資料が映し出される。

 

 日本地図上に、赤い点が無数に打たれている。

 

 スライム処理施設の位置だ。

 

「もしこの事故が公表されれば、全施設の操業停止は避けられません。その場合、行き場を失った廃棄物はどうなると思いますか? 中には核廃棄物もあるのです」

 

 誰も答えられない。

 

 答えは明白だった。

 

 ゴミの山、環境汚染、そして公衆衛生の危機。

 

「さらに」

 

 特命担当官は続ける。

 

「医療廃棄物の処理も滞ります。感染性廃棄物が適切に処理されなければ、別の形での災害を引き起こしかねません」

 

「だからといって隠蔽するのですか?」

 

 若い官僚が声を上げた。

 

「遺族への説明は? マスコミが嗅ぎつけたら?」

 

「産業事故として処理します」

 

 特命担当官の声は感情を欠いていた。

 

「有毒ガスの発生による中毒死。遺族には十分な補償を行い、守秘義務契約を結んでもらいます」

 

「それは──」

 

「他に選択肢がありますか?」

 

 特命担当官の鋭い視線が、反論しようとした官僚を黙らせた。

 

「『スライムが人を食った』などという事実が公になれば、パニックは避けられません。ただでさえ特定異形災害への不安が高まっている中で、日常的に使われている技術まで危険だとなれば……」

 

 社会が崩壊しかねない。

 

 誰もがその結論に達していた。

 

 黒田本部長が重い口を開く。

 

「……分かりました。本件は特定機密として処理します。関係者には厳重な箝口令を」

 

 そして松本に向き直る。

 

「君の部隊の働きは見事だった。改めて礼を言う」

 

「任務ですから」

 

 松本は短く答えた。

 

 だがその表情には複雑なものが浮かんでいた。

 

 命がけで戦い、脅威を排除した。

 

 それなのに、その事実は闇に葬られる。

 

 これが霊異対策の現実だった。

 

「全国のスライム施設には」

 

 黒田が続ける。

 

「表向きは『定期点検』として監視を強化してください。同様の兆候がないか、注意深く観察を」

 

「了解しました」

 

 ◆

 

 会議が終わり、出席者たちが退室していく中、松本は廊下で黒田に呼び止められた。

 

「松本君。一つ、個人的な意見を聞きたい」

 

 黒田の表情は、先ほどまでの公式なものとは違っていた。

 

「あのスライムの変異。君はどう思う?」

 

 松本は少し考えてから答えた。

 

「正直に言えば……不気味です。まるで何かに『呼応』したような変化でした」

 

「呼応、か」

 

 黒田は考え込むように呟いた。

 

「実は、ここ最近、他でも似たような報告が上がっている。個別の怪異が同時多発的に活性化する事例が」

 

「はい、聞き及んでいます。まるで、何か大きな力が──」

 

「そこまでだ」

 

 黒田が制止する。

 

「今は憶測の段階だ。だが、備えは必要かもしれない」

 

松本は頷き──二人は無言で歩き続けた。

 

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