お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第16話「悦子:暗い家②」

 ◆

 

 やや時をさかのぼる。

 

 日下部家──

 

 悦子は朝食の後片付けを終えると、エプロンを外してリビングのソファに腰を下ろした。

 

 茂から電話があったのは、ちょうど彼が職場に着いた頃だった。

 

『今日は遅くなりそうだ』

 

 電話越しの声は疲れているように聞こえた。

 

『何かあったの?』

 

 悦子が心配そうに尋ねると、茂は少し間を置いてから答えた。

 

『いや、大したことじゃない。ただ、緊急の会議が入ってね』

 

 霊異対策本部の仕事はいつも予測がつかない。

 

 特にここ最近は忙しそうだった。

 

 それでも茂はなるべく早く仕事の見通しを立てて、帰る時間を悦子に伝える様にしていた。

 

 ──朝いちばんからってことは、よっぽど忙しいのね……

 

『分かったわ。無理しないでね』

 

『ああ。夕飯は適当に済ませるから気にしないで』

 

 電話を切ってから、悦子は時計を見た。

 

 午前九時過ぎ。

 

 掃除も洗濯も済ませたし、夕食の下ごしらえもある程度終わっている。

 

 少しゆっくりする時間があった。

 

 テレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。

 

 昼のワイドショーが始まっていた。

 

『──では続いてのニュースです。昨夜都内で発生した怪異の大量出現について、霊異対策本部は──』

 

 アナウンサーの声が響く。

 

 悦子は眉をひそめた。

 

 やはり昨夜の騒動は大きかったようだ。

 

 茂が外出を控えるように言ったのも頷ける。

 

 画面には霊異対策本部の記者会見の様子が映し出されていた。

 

『一時的な霊波異常により局所的に怪異の出現が確認されましたが、現在は収束しています』

 

 広報担当者の説明は曖昧で、要領を得ない。

 

 きっと詳しいことは分かっていないか、あるいは公表できないのだろう。

 

 悦子がそんなことを考えていると──

 

 ブツッ。

 

 突然、画面が乱れた。

 

 砂嵐のようなノイズが走り、映像が歪む。

 

 音声も途切れ途切れになる。

 

『──異常──認められ──注意を──』

 

「あら?」

 

 悦子はリモコンを手に取り、チャンネルを変えてみた。

 

 しかし、どのチャンネルも同じように乱れている。

 

 映像が波打ち、色が歪み、時折真っ暗になる。

 

 ──電波の調子が悪いのかしら

 

 そう思って、一度テレビの電源を切った。

 

 しばらく待ってから、再び電源を入れる。

 

 しかし状況は変わらない。

 

 むしろ悪化しているようにさえ見えた。

 

 画面全体が激しく明滅し、不快な高周波音が鳴り始める。

 

 悦子は慌ててボリュームを下げた。

 

 コンセントを抜いて、差し直してみる。

 

 テレビの裏側のケーブルも確認した。

 

 全て正常に接続されている。

 

 なのに画面は相変わらず乱れたままだった。

 

「困ったわねぇ……」

 

 悦子は諦めたようにため息をついた。

 

「あの人が帰ってきたら直してもらわないと」

 

 茂は機械に強い。

 

 きっと原因を突き止めて、すぐに直してくれるだろう。

 

 悦子はテレビの電源を切り、静かになったリビングを見回した。

 

 午後の柔らかな日差しが、レースのカーテン越しに差し込んでいる。

 

 平和な昼下がりの光景だった。

 

 テーブルの上に置いてあった本を手に取る。

 

『驚きの組み合わせ! 新感覚創作料理レシピ100選』

 

 悦子が最近ハマっている料理本だ。

 

 どれもこれもが奇怪なレシピであるにも関わらず、ちゃんとレシピ通りに作れば味は上々という悦子好みの料理が多数収録されている。

 

 日下部 悦子という女に明確な欠点があるとすれば、これだ。

 

 料理というものに対して余りにも創造性を求めすぎてしまう点だろう。

 

 だが味は悪くないので、夫である茂も余り強くは掣肘できないでいた。

 

 ともあれ、ページをめくりながら今晩は何を作ろうかと考える悦子。

 

 ──あ、そうだ。聖君がお友達を連れてくるんだったわね

 

 メッセージで知らせてくれた内容を思い出す。

 

 聖の友人二人が訪問するとの事。

 

 悦子は嬉しかった──聖が友達を連れて来るという事が。

 

 ──あの子はずっと遠慮していたから

 

 悦子の脳裏に、聖が初めて日下部家に来た頃の姿が浮かんだ。

 

 まだ中学生だった聖は、玄関で所在なさげに立っていた。

 

 小さなボストンバッグ一つだけを抱えて。

 

『お邪魔します』

 

 その声は消え入りそうなほど小さかった。

 

 最初の数週間、聖は幽霊のように静かだった。

 

 食事の時も最小限しか食べず、『もっと食べなさい』と勧めると子供らしくもない媚びた笑みを浮かべてお礼を言って食べる。

 

 部屋からはほとんど出てこず、トイレに行く時でさえ足音を立てないように歩いていた。

 

 聖がなぜそんな態度を取っているかは明らかだ。

 

 だが悦子と茂は根気強く聖に接し続けた。

 

 無理強いはせず、でも諦めもせず。

 

 少しずつ、本当に少しずつ、聖は変わっていった。

 

 初めて『おかわり』と言った時。

 

 初めて『悦子さん』と名前を呼んでくれた時。

 

 初めて学校であったことを話してくれた時。

 

 小さな変化の一つ一つが、悦子には宝物だった。

 

 そうして最近になって、ようやく心を開いてくれてきているという感があった。

 

 ──お友達もごはんを食べて行ってくれるというけれど

 

 育ち盛りならきっとたくさん食べるに違いない。

 

「少し多めに作っておいた方がいいかしら」

 

 そんなことを考えながらページをめくっていると──

 

 リビングの照明が一瞬消えた。

 

 すぐに点いたが、明るさが不安定だ。

 

 強くなったり弱くなったりを繰り返している。

 

「今度は電気?」

 

 悦子は本を閉じて立ち上がった。

 

 まるで電圧が安定していないような症状だ。

 

 以前にも似たようなことがあった。

 

 近所で電柱の移設工事をしていて、二時間ほど停電したことがある。

 

 もしかしたら、また工事でもしているのかもしれない。

 

 悦子はスマホを取り出した。

 

 地域の情報共有アプリを開く。

 

 町内会や市からのお知らせが確認できる便利なアプリだ。

 

 工事情報のページを確認するが──

 

 何も載っていない。

 

 電気工事も、水道工事も、道路工事も。

 

 今日この地域で予定されている工事は一つもなかった。

 

「変ねぇ……」

 

 照明は相変わらず不安定なままだ。

 

 チカチカと明滅を繰り返し、目が疲れる。

 

 もしかしたら、うちだけの問題じゃないかもしれない。

 

「佐々木さんに聞いてみようかしら」

 

 隣に住む佐々木家とは、長い付き合いだ。

 

 奥さんとは時々お茶をすることもある。

 

 もし地域全体の問題なら、佐々木さんも気づいているはずだ。

 

 悦子は玄関に向かって歩き始めた。

 

 その時だった。

 

「あら、クロちゃん」

 

 リビングの床を、黒い塊が滑るように移動してきた。

 

 クロだ。

 

 いつもより動きが速い。

 

 まるで急いでいるかのように、真っ直ぐ悦子の方へ向かってくる。

 

「どうしたの? お腹すいちゃったのかしら」

 

 悦子が優しく声をかける。

 

「聖君はまだ帰ってこないのよ」

 

 しかしクロは止まらない。

 

 そのまま悦子の足元まで来ると──

 

 ぺたり。

 

 右足首に巻きついた。

 

 ひんやりとした感触が、ストッキング越しに伝わってくる。

 

「まあ、甘えん坊さんね」

 

 悦子は微笑みながら、しゃがみ込んだ。

 

 そっとクロの表面に触れる。

 

 不思議な感触だった。

 

 ゼリーのようでもあるが、手が濡れたりべたべたしたりはしない。

 

 つるりとしていて弾力がある。

 

「ちょっとご近所まで行ってくるから離してね」

 

 優しく言いながら、クロを足から引き剥がそうとする。

 

 しかし──

 

 クロは離れない。

 

 むしろ、より強く巻きついてくる。

 

 足首から、ふくらはぎへと這い上がってきた。

 

「クロちゃん?」

 

 悦子の声に困惑の色が混じる。

 

 いつもなら、言えば素直に離れるのに。

 

 両手でクロを掴んで引っ張ってみるが、まるでゴムのように伸びるだけで離れない。

 

「困ったわね……」

 

 立ち上がろうとするが、片足にクロがまとわりついているせいでバランスが取れない。

 

 その時──

 

 ピンポーン。

 

 インターホンの音が響いた。

 

 悦子は片足にクロを巻きつけたまま、器用に片足で跳ねながら玄関へ向かった。

 

 ぴょん、ぴょんと跳ねる度に、クロがぷるぷると震える。

 

 仕方ないな、と悦子は苦笑しながら、ようやくインターホンの前にたどり着いた。

 

 小さなディスプレイを見る。

 

 聖が立っていた。

 

 学生服姿で、いつもの通学鞄を持って。

 

 悦子は反射的に壁の時計を見た。

 

 午後一時過ぎ。

 

 まだ学校が終わる時間じゃない。

 

 ──また早退かしら

 

 受話器を取る。

 

「聖君? どうしたの、こんな時間に」

 

『ただいま』

 

 聖の声が返ってきた。

 

「学校は早退になったの?」

 

 悦子が心配そうに尋ねる。

 

 昨夜の騒動もあったし、また異常領域でも発生したのかもしれないと悦子は思う。

 

 以前にも全校生徒が早退した事が何度かあったのだ。

 

 しかし──

 

『ドアを開けてよ、お母さん』

 

 ──お母さん? 

 

 悦子の手が受話器を握ったまま固まった。

 

 悦子はもう一度ディスプレイを見つめる。

 

 確かに聖だ。

 

 髪型も、制服も、体格も、何もかもが聖そのもの。

 

 ──でも

 

『ドアを開けてよ、お母さん』

 

 まったく同じ言葉が繰り返される。

 

 同じトーン。

 

 同じ間。

 

 同じ抑揚。

 

 悦子はふと足に纏わりつくクロを見る。

 

 ──クロちゃんは甘えているんじゃなくて、もしかしたら……

 

『ドアを開けてよ、お母さん』

 

『ドアを開けてよ、お母さん』

 

『ドアを開けてよ、お母さん』

 

 ごくり、と息を呑み──悦子は玄関のドアを睨みつけた。

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