お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第24話「雷神」

 ◆

 

 深夜二時四十七分。

 

 首相公邸、執務室。

 

 氷室兼続は革張りの椅子に深く身を沈め、闇に沈む東京の夜景を眺めていた。

 防弾ガラス越しに見える無数の光は、まるで地上に落ちた星屑のようだ。

 

 だが氷室の瞳に映るのは、現実の風景だけではなかった。

 

 ──もう余り時間がない

 

 氷室は内心の焦りを押し殺す。

 

 脳裏には別の光景が浮かんでいた。

 天上から舞い降りてくる数百万、いや数千万もの天の軍勢。

 純白の翼を持つ者、炎の剣を携える者、ラッパを吹き鳴らす者。

 

 そして地の底から這い出てくる悍ましい悪魔共。

 腐臭を放つ肉塊、千の目を持つ異形、人の理性を狂わせる囁き手たち。

 

 幻視ではない。

 いずれ訪れる未来の一端だ。

 

 氷室は執務机から視線を落とした。

 そこには極秘資料が広げられている。

 世界各地で頻発する異常現象の報告書。

 

 バチカンで目撃された天使の顕現、エルサレムで記録された地割れから立ち上る黒煙、ニューヨークで発生した原因不明の集団昏睡事件。

 

 現世への"浸食"はもうのっぴきならない所まで進んでいる。

 

 各国の霊的防衛機関も、もはや隠蔽しきれなくなりつつあった。

 表向きは自然災害や集団ヒステリーとして処理されているが、真実を知る者たちは理解している。

 

 世界の境界が、薄くなっているのだと。

 

「しかし……」

 

 氷室は呟いた。

 

 真に力のある存在が顕れるまではまだ時間がある。

 大天使や魔王といった、世界の理そのものを書き換えるような存在が完全に顕現するには、まだ数年はかかるはずだ。

 

 その前に行動しなければならない。

 

 氷室は立ち上がり、書斎の奥へと歩を進めた。

 壁一面を覆う書架には、一般には決して公開されない文献が並んでいる。

『本朝神仙記』『異界渡航録』『霊的国防論』──どれも国家機密に属する書物だ。

 

 その中から一冊を抜き出す。

 

『神国創生』

 

 氷室自身が二十年前に著した論文だった。

 強大な一柱の神を中心とした古き強き日本の再構築。

 それが氷室の目指す理想だった。

 

 ──"神"を喚ばなければならない

 

 それも早急に。

 他国の"祭壇"を破壊せしめなければならない。

 時間をかければ、他国にも"神"が降りてしまうだろう。

 

 氷室は地球儀を見つめた。

 

 アメリカ、ロシア、中国、インド、ブラジル──霊的大国と呼ばれる国々には、既に"祭壇"の建設が始まっている。

 表向きは巨大な研究施設や軍事基地だが、その本質は神降ろしの装置だ。

 

 力のある存在は何も日本だけにいるわけではない。

 

 ギリシャの神々、北欧の戦神、インドの破壊神、アステカの太陽神──どの国も自国の神話に登場する強大な存在を呼び寄せようとしている。

 

 ──神とは強欲だ

 

 氷室は苦い表情を浮かべた。

 

 自国で大人しく、というわけにはいかないだろう。

 必ずこの国へ勢力を伸ばしてくるに違いない。

 

 かつての戦争が領土や資源を巡るものだったとすれば、来たるべき戦いは信仰と霊域を巡るものになる。

 そして神々の戦いは、人間の戦争とは比較にならない規模の破壊をもたらすだろう。

 

 だからといって"神"同士を争わせるわけにはいかなかった。

 そんな事をすれば世界が滅びてしまう。

 

 氷室は窓辺に立ち、再び夜景を見つめた。

 この平和な光景が、神々の戦場と化すビジョンが脳裏をよぎる。

 ビルは瓦礫と化し、道路は裂け、空は業火に包まれる。

 

 それは氷室の本意ではない。

 

 氷室が望むのは破壊ではなく、再生だった。

 混沌とした現代を、神の秩序によって正す。

 それが『神国創生』の真の目的だった。

 

「本来ならば……」

 

 独り言が漏れる。

 

 もっと清浄で、もっと力のある"神"を呼べれば、とは思う。

 たとえば天照大神といった日本神話の主神。

 もしくはそれに連なる者たち。

 

 彼らならばこの国を正しく導いてくれるはずだ。

 

 しかし"神"が宿るとされるモノを探し出す時間はない。

 

 神器と呼ばれる品々はその多くが既に失われているか、あるいは所在不明となっているか、残されているものもほとんどがレプリカだ。

 

 となれば──

 

 東京都庁。

 既に在処がわかっている、都庁の"アレ"を使うしかなかった。

 

 氷室兼続の家──いや、祟兼続の家が長年鎮めてきた"アレ"を。

 

 祟の名を継ぐ資格は男児の氷室にはなかった。

 氷室という名は政界に進出する際に現在の妻に婿入りする形で改めたものだ。

 

 ──幸いにも、"アレ"も自ら現世に顕れようとしている

 

 氷室は薄く笑った。

 

 娘──麗華ほどではなくても、氷室にも"力"はあるのだ。

 霊的な波動を感じ取り、その流れを読む程度の能力は持っている。

 

 "アレ"が完全に眠っているなどとはとても思えない。

 むしろ逆だ。

 

 畑を耕す様に、自身が眠るこの地の土壌を肥やしている。

 ここ最近の怪異の増加も、そのせいだろう。

 禍津日神の瘴気が、地下から少しずつ漏れ出しているのだ。

 

 ──まあいい

 

 氷室は執務机に戻った。

 

 起きたくないということであれば厄介だったが、そうでないのなら後押しをしてやるだけだ。

 

 問題は別にある。

 いざ起こして制御できるのかどうか。

 

 禍津日神はその名の通り禍をもたらす神だ。

 黄泉の穢れから生まれたとされ、あらゆる災厄の根源とされる。

 そのような存在を人間が御せるのか。

 

 だがその点について、氷室には勝算があった。

 

 氷室は慎重に執務机の隠し引き出しを開けた。

 指紋認証、網膜スキャン、そして霊的な封印。

 三重のセキュリティを解除すると、小さな金庫が現れる。

 

 その中に一つの鏡があった。

 

 直径わずか十センチほどの古びた銅鏡。

 表面には緑青が浮き、一見すればただの古美術品にしか見えない。

 

 だが──

 

「直霊之鏡……」

 

 氷室の声には畏敬の念がこもっていた。

 

 これさえあれば禍津神の狂気を鎮める事ができる。

 

 氷室は白い手袋をはめ、慎重に鏡を手に取った。

 触れた瞬間、微かな振動が指先に伝わる。

 まるで生きているかのような不思議な感触だった。

 

 直霊之鏡。

 その由来を知る者は、もはや氷室を含めて数人しかいない。

 

 人の心にあるとされる四つの魂──荒魂・和魂・幸魂・奇魂。

 

 荒魂は勇猛果敢な魂、和魂は平和と調和の魂、幸魂は幸福をもたらす魂、奇魂は知恵と創造の魂。

 

 そして、その中心に在るとされるのが直霊だ。

 己を省みて誤りを正す根源的な霊性を意味する。

 

 この鏡こそ、神直毘神(かむなおびのかみ)のご神体である。

 

 氷室は鏡の表面を見つめた。

 くすんだ銅の中に、自分の顔がぼんやりと映っている。

 だがその奥に、もっと深い何かが潜んでいるような気がした。

 

「直毘(なおび)とは『直し』を意味する」

 

 氷室は呟いた。

 

 禍(マガ)を直(ナホ)す力を持つ神。

 大禍津日神が引き起こす災いや過ちを、神直毘神が本来の正しい状態に修正する。

 

 これこそが、氷室の切り札だった。

 

 禍津日神を呼び覚ましてもこの鏡があれば制御できる。

 理論上は、だが。

 

 氷室は鏡を金庫に戻し、再び封印を施した。

 

 ──急がねばならない……が

 

 氷室の思考を遮るように、執務室の空気が微かに揺らいだ。

 常人であれば気付かないほどの変化。

 

「やれやれ、連日しつこい」

 

 氷室は椅子から立ち上がることもなく、執務室の一角に向かって声をかけた。

 

 ◆

 

「よほど私が目障りの様だな」

 

 影は何も答えない。

 ただ、銀色の光が一閃した。

 

 投げナイフだ。

 音もなく、正確に氷室の眉間を狙って飛来する。

 

 だが氷室は微動だにしない。

 椅子に座ったまま、むしろ退屈そうに目を細めた。

 

 刃が氷室の顔面に達する寸前──

 

 かちん、と金属音を立てて、ナイフは虚空で弾かれた。

 まるで見えない壁にぶつかったかのように床に転がり落ちる。

 

 影がざわめいた。

 

 今度は直接的な襲撃を選んだらしい。

 黒装束に身を包んだ人影が、執務机に向かって疾駆する。

 その手には別の刃物──戦闘用のナイフが握られていた。

 

「ここへ忍び込めた以上は相応の手練れなのだろうが──」

 

 氷室はゆっくりと目を瞑った。

 

 まるで祈りを捧げるかのように、頭を垂れる。

 その姿は無防備そのものだった。

 刺客にとっては絶好の機会に見えたはずだ。

 

 刺客が跳躍する。

 

 天井すれすれまで跳び上がり、重力を味方につけて急降下。

 ナイフの切っ先が、氷室の無防備な首筋を狙う。

 

 だが──

 

「建御雷神よ」

 

 氷室の唇から、静かな呟きが漏れた。

 

 その瞬間、執務室の空気が激変した。

 

 氷室の背後に、黒い靄が湧き出でる。

 それは煙のようでもあり、影のようでもあり、あるいは虚無そのもののようでもあった。

 靄は渦を巻きながら立ち上り、天井まで届きそうなほどに膨張する。

 

 刺客のナイフが氷室に届く、その刹那──

 

 ばちり。

 

 鋭い音と共に、青白い電光が閃いた。

 

 刺客の体が弾かれたように後方へ吹き飛ぶ。

 壁に激突する寸前で身を翻し、なんとか着地するが、ナイフを握っていた右手から煙が立ち上っていた。

 

「ぐっ……!」

 

 刺客が初めて声を漏らした。

 手を押さえ、後ずさる。

 黒い手袋は焼け焦げ、その下の皮膚も火傷を負っているようだった。

 

「逃がさんよ」

 

 氷室が静かに言った。

 

「我が神の、糧となれ」

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