お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第7話「日常㉘(日下部 茂、日下部 悦子、眞原井 アリス)」

 ◆

 

 悦子の脳裏にあの時の光景が蘇る。

 それは池袋の街がまるで地獄絵図と化した瞬間だった。

 

 聖の姿を見失ったのは、ほんの一瞬のことだった。

 人波が押し寄せ、悲鳴が飛び交い、誰もが我先にと逃げ惑う──その混乱の中で、聖の姿はあっという間に見えなくなってしまった。

 

「聖君!」

 

 悦子は必死に叫んだが、その声は周囲の喧騒にかき消される。

 茂も同じように聖の名を呼びながら、人込みをかき分けて進もうとしていた。

 

 しかし──

 

 空を見上げれば無数の浮遊霊が宙を舞っていた。

 半透明の人影が、まるで雪のように降り注いだのだ。

 それらは生者を見つけると容赦なく取り憑いて行った。

 

「うわああああ!」

「助けて! 誰か!」

 

 憑依された人々は突然狂ったように暴れ始める。

 目は虚ろになり、口から泡を吹きながら、見境なく周囲の人間に襲いかかる。

 学校などで浮遊霊が原因で集団ヒステリーを起こすというような事はこれまでもないではなかったが、今回は規模が違う。

 

 さらに状況を悪化させたのは、異能者たちの介入だった。

 

「邪魔だ! どいてくれ!」

 

 とあるパイロキネシストが、あろうことか浮遊霊の群れに向かって炎を放射したのだ。

 が、こういった炎の類は基本的に浮遊霊といった非実体系の怪異には無力である。

 もしパイロキネシストが非実体系の怪異に対して何らかの攻撃を行うとするならば、通常の能力行使より多くの意識を集中しなければならない。

 要するに強いイメージをこめるのだ。

 強い意識やイメージは精神エネルギーとして作用する。

 これが霊体にも相応に影響を与える──のだが。

 単に発火だけを意識した能力行使では、霊体には影響を与える事ができない。

 

 炎は逃げ遅れた一般人の服に燃え移った。

 

「きゃああああ!」

 

 別の場所では念動力で瓦礫を飛ばす者がいた。

 浮遊霊を物理的に押し返そうとしたのだろうが、やはり効果はない。ただ、飛び散った瓦礫が人々を傷つけるだけだった。

 

 善意からの行動だったのかもしれない。

 だが統制の取れていない異能の行使は、混乱に拍車をかけるばかりだった。

 

 悦子は茂と共に必死で聖の姿を探し続けた。

 だが、どこを見ても同じような光景が広がるばかり。

 泣き叫ぶ子供、倒れ込む老人、血を流して呻く怪我人……。

 

 そして、いつの間にか自分たちも狂乱した群集に囲まれていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

「悦子、大丈夫か?」

 

 現在に意識が戻る。

 茂の心配そうな声が悦子を過去から引き戻した。

 

「ええ……」

 

 そう答えながらも悦子の顔色は悪い。

 そんな悦子を慰めるかのように、クロ──分体のクロの黒い触手がそっと伸びて、悦子の小指に優しく巻きついた。

 まるで「大丈夫だよ」と言っているかのような所作。

 

「ありがとう、クロちゃん」

 

 悦子は微笑む。

 本体と繋がっているこの分体の様子から、聖が無事であることは何となく分かる。

 だがそれでも不安は消えない。

 

「この子の様子で聖君は無事だとはなんとなく分かるけれど、でも……」

 

 言葉が続かない。

 茂は黙って悦子の肩に手を置き、そっと抱き寄せた。

 

 二人が今いるのは、新宿の岩戸町にある「救世会」の本部ビルだった。

 かつては宗教法人の施設として使われていたこの建物は、今や異能者たちの拠点として機能している。

 悦子と茂も、ここで寝起きしているのだ。

 あの池袋での混乱の中、二人を助けたのは他でもない──

 

 コン、コンと控えめなノックの音が響く。

 

「どうぞ」

 

 茂が答えるとドアが開いた。

 入ってきたのは眞原井 アリスである。

 

 ◆

 

 

「お邪魔してしまいましたか?」

 

 アリスは申し訳なさそうに首を傾げる。

 

「お二人の様子を見に来たのですけれど……色々と不便な事もあるかもしれませんが──」

「いえ、こうしてかくまってくれているだけでもありがたいことです」

 

 茂が頭を下げる。

 実際あの時アリスが現れなければ、二人とも群集に呑み込まれてしまっていたかもしれない。

 

「……ところで……」

 

 茂が言いかけると、アリスはすぐに察した。

 

「はい、御堂君の事ですわね」

 

 アリスの表情が真剣なものに変わる。

 

「動かせるメンバーを使って池袋を中心に都内を捜索させています。まだはっきりとした情報は出ていませんが……」

「そうですか……」

 

 茂の声に落胆の色が滲む。

 だが、すぐに気を取り直したように続けた。

 

「いえ、力を貸してくださっている事はとてもありがたいです」

「こちらこそ」

 

 アリスは微笑む。

 

「日下部さんの伝手で会のほうに武器もある程度供給できて助かっています。市ヶ谷の防衛省の方にはわたくしたちも伝手がなく……」

「あちらもあちらで大変そうですが、多少は組織も再編できつつあるようです」

 

 茂の言葉に、アリスは安堵の息をつく。

 

「心強いお言葉ですわ。この状況を打破するためには救世会だけではやはり力不足が否めません。都内に散らばっている様々な組織の力を結集しなければなりませんわ」

 

 アリスの言う通りだった。

 現在東京全体が巨大な異常領域と化している。

 かつては局地的に発生していた異常領域が、今や都市全体を覆い尽くしているのだ。

 そして一旦完成してしまった異常領域というものは通常、条件を満たさなければ脱出することがかなわない。

 都民が東京を出ていけないのはそういう理由からである。

 

「それと佐原君の事ですが、やはり防衛省のほうにも姿はないそうで……」

 

 アリスの言葉に茂の表情が曇る。

 

「そうですか……佐原君は聖の友人ですし、彼の立場を考えると一度話を聞いてみたいと思ったのですが……」

 

 佐原裕は元々、霊異対策本部機動隊の隊員である。この組織は、自衛隊から選抜された異能を持つ隊員で構成される特殊部隊で、特定異形災害への初動対応を主任務としていた。だが、池袋の一件の直前、裕は忽然と姿を消した。

 

「ところで、食料や水の確保はどうなっていますか?」

 

 茂が実務的な話題に切り替える。

 必要があれば自身が窓口となって市ヶ谷の防衛省と交渉しようと考えていた。

 

「幸い会には元々備蓄がありましたので当面は問題ありません。まあ以前から終末が近いとか騒いでいる人たちがいて、その人たちが色々ため込んでいたのですけれど。おかげで助かりましたわ。本当にこんな事になってしまうとは思ってもいませんでしたが──」

 

 アリスが苦笑しながら答える。

 

「ただ、長期的には不安があります。流通が完全に麻痺していますから」

「防衛省のほうでも、備蓄の配給計画を立てているようです。ただ、実行に移すにはまだ時間がかかりそうですが」

「それは朗報ですわ。食料問題は深刻ですから」

 

 二人はこうして現実的な話を続ける。

 異常領域と化した東京でどう生き延びていくか。

 組織間でどう協力していくか──地味だが、重要な話だった。

 

 合間、アリスはふと窓の外を見つめて溜息をつく。

 

 ──昼もなく夜もない、不気味な紫色の空が広がるこの魔都。御堂君、どこにいらっしゃるの? お二人とも心配していますわよ……

 

 

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