お姉さんと僕   作:埴輪庭

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第23話「日常㊴(眞原井 アリス、日下部 茂、日下部 悦子)」

 ◆

 

 市ヶ谷、岩戸町。かつて帝都の防衛を担ったこの地は、今や紫色の天蓋の下、形而上の最前線として再定義されていた。救世会本部が置かれたビル──宗教法人の施設として使われていたこの建物は、今や異能者たちの拠点として機能している。

 

 その一室。応接間として使われている空間で、三人──日下部茂と悦子、そして眞原井アリスがいた。

 

「そろそろ情報も集まってくる頃だとおもいますので……お二人にはもう少し待っていただければと」

 

 そんなアリスの言葉に茂が深く頭を下げる。

 

「ありがとう、眞原井さん。君だけが頼りだ」

 

「良いのです、わたくしも御堂君の事は気になりますし」

 

 アリスが軽く笑みを浮かべる。

 

「あの……アリスさんのご両親はご無事なのかしら。こんな状況で……」

 

 そんな悦子の質問に、アリスは微かに口元を緩めて答えた。

 

「ええ。幸いと言いますか、両親は今、海外におりますの。東京がこうなる直前に、祓いの仕事で渡米しておりました」

 

「海外……?」

 

「はい。アメリカのコネチカット州ですわ。なんでも、博物館に保管されていた呪いの人形が逃げ出したらしく、その応援要請があったとかで」

 

 こともなげに語られる内容に、悦子は息を呑んだ。ちなみにアリスはさらっと言ったが、この呪いの人形──アラヴェル人形は数ある呪いの人形の中でもタチの悪さにかけては上から数えるほうが早い、非常に厄い代物である。

 

「呪いの人形……そんな恐ろしいものを、どうして博物館なんかに置いておくのかしら。ちゃんとお祓いしたり、処分したりはしないの?」

 

 うーん、とアリスが考える様に一瞬天井を見上げた。何をどう説明すれば分かりやすいかを考えていたのだが──

 

「悦子、それは少し事情が違うんだ」

 

 黙って話を聞いていた茂が口をはさむ。彼はアリスの父親がカトリックの高名なエクソシストであり、母親が陰陽師の血を引く者であることを知っている。霊異対策本部の職員は皆、それなりには情報通なのだ。

 

「その人形には、悪魔が憑依している。悪魔というのは日本の怪異や怨霊とは根本的に存在の位相が異なるんだ」

 

「位相……?」

 

「そうだ。怪異や怨霊は、いわばこの世の理(ことわり)の綻びから生じる現象、あるいは情念の残滓だ。それらは適切な手順を踏めば祓うことも、消滅させることも可能だ。膿を排出するように、あるいは腫瘍を切除するように。だが悪魔は違う」

 

 茂は指を一本立てた。

 

「悪魔は確固たる自我と目的を持った霊的存在だ。彼らは不滅であり、人間がそれを消滅させることはできない。我々ができるのは彼らを屈服させ、封じ込めることだけだ」

 

 ここで少し補足しておこう。西洋悪魔学(デーモノロジー)において、悪魔は堕天した天使、あるいは原初の混沌から生じた存在とされる。彼らは純粋な霊的存在であり、物理的な肉体を持たないがゆえに、人間が定義する「死」とは無縁である。その活動原理は神への反逆と人間の魂の堕落にあり、彼らを完全に消滅させることは、神自身にしか成し得ないとされている。

 

「だから、人形を破壊しても意味はない。むしろ憑代を失った悪魔が解放され、より大きな災厄を引き起こす可能性がある。それを防ぐためには、特別な措置を施した空間──つまり、博物館という名の精巧な檻に閉じ込めておくしかない。ともすれば広範囲に無差別な被害を及ぼす怪異とは異なり、悪魔の行動は計画的だ。だからこそ、封じ込めという手段が有効に働く。悪魔対策としては極めて理に適った方法論だよ」

 

 その解説は的確だった。アリスは静かに頷く。

 

「お見事ですわ、日下部さん。完璧な解説です。わたくしが付け加えることは何もありません」

 

 和やかな空気が流れ始めた、その時だった。

 

 ノックの音が響き、扉が荒々しく開く。

 

「隊長! 失礼します!」

 

 飛び込んできたのは、息を切らせた若い隊員だった。その顔には明らかな焦燥が浮かんでいる。

 

「緊急の援軍要請です! 新宿区、大久保病院裏!」

 

 アリスの表情が一瞬で切り替わった。先ほどまでの穏やかさは消え失せ、冷徹な指揮官の顔が浮かび上がる。

 

「状況は?」

 

「先遣隊が多数の怨霊と交戦中! 聖別弾の効果が薄く、苦戦しています! 至急、隊長の力が必要です!」

 

 大久保病院。医療拠点の確保は、救世会にとって最優先事項の一つだった。

 

「分かりましたわ。直ちに向かいます」

 

 アリスは立ち上がり、茂と悦子に向き直った。

 

「申し訳ありません。少し席を外します。聖君の件は、引き続き必ず」

 

「アリスさん、どうかご無事で」

 

 茂の言葉に頷き、アリスは部屋を後にした。その足取りには一切の迷いも躊躇もなかった。

 

 ◆

 

 新宿、大久保。病院の裏手は生と死の匂いが混濁し、発酵したような異様な空間と化していた。鼻腔を抉るのは消毒液と腐敗臭、そして名状しがたい甘ったるい臭気。それは都市そのものが巨大な屍体となり、その内臓から漏れ出す瘴気のようだった。空気が血の渇望に濁っているのがアリスにも分かる。

 

 アリスが現場に到着した時、そこはまさに地獄絵図だった。

 

「くそっ! キリがねえ!」

 

 先遣隊の隊員が叫び、小機関銃を連射する。聖別された銀の弾丸が闇を引き裂くが、効果は限定的だ。

 

 簡易的に聖別したものではせいぜいそんなものなのかもしれないが。

 

 そこにいたのは、かつて人間だったものたちの残骸だった。

 

 年若い女たち。二十人、いやそれ以上か。彼女たちは道沿いに立ち並び、虚ろな目で虚空を見つめている。その姿は、腐りかけたゾンビと表現するのが最も適切だろう。だが、それは単なる死体の腐敗ではない。もっと悪意に満ちた、冒涜的な腐敗だ。

 

 肌は土気色に変色し、所々が崩れ落ちて骨が露出している。

 

 ある者は皮膚が爛れ、黄色い膿が滴り落ちている。その膿はアスファルトに触れると、ジュッと音を立てて煙を上げた。ある者は腹部がぱっくりと裂け、そこから臓物ではなく、得体の知れない黒いヘドロのようなものが溢れ出している。

 

「隊長! 奴ら、タフすぎる上に厄介です!」

 

 リーダーが報告する。

 

「触れられると、その部分から急速に腐敗が始まります! 病魔の類かと!」

 

 実際、隊員の一人が地面に膝をつき、苦しそうに喘いでいた。その肌は急速に黒ずみ、まるで腐敗が始まっているかのようだ。感染。触れられただけで、様々な病と腐敗が伝播するのだ。

 

「分かりましたわ。後はわたくしが引き受けます。皆さんは援護を。決して近づかないように」

 

 アリスは指示を出すと、ゆっくりと前に出た。現在この場に残っているのはアリスを含めて六名。

 

 アリスは腰のホルダーから聖水のボトルを抜き放った。キャップを捻り、中身を掌に注ぐ。冷たい液体が皮膚に触れた瞬間、彼女の意識は鋭利な刃のように研ぎ澄まされた。

 

 祈りが奔流となって形を成す。

 

「──Recéde ergo in nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti(ゆえに退け。父と子と聖霊の御名によって)」

 

 聖句が闇を引き裂く。その声は、鋼鉄の響きを帯びていた。

 

 掌から溢れ落ちた聖水が、空中で結晶化する。一瞬にしてそれは一振りの細身の剣へと姿を変えた。青白い燐光を放つ半透明の刃が、紫光を受けて妖しく煌めく。

 

 アリスが動いた。

 

 踏み込みの激しさが颶風を生み、瞬きほどの短さで10数メートルを駆け抜けた。

 

 最初の一撃は、最も近くにいた膿を垂れ流す女。

 

 胸郭を貫き、頭部に向かって斬り裂く。

 

 ギィィイイイイッ! 

 

 金属を擦り合わせるような断末魔が響き渡る。その声は、単なる音波ではない。物理的な重さを持ってアリスの鼓膜を圧迫し、脳髄を直接揺さぶるような衝撃を伴っていた。

 

 女の体が内側から発光し、その腐った肉体が蕩け落ちていく──浄化完了だ。

 

 だが、他の怨霊たちが即座に反応した。四方から手が伸びる。腐臭が濃密な壁となってアリスの視界を歪ませる。

 

 アリスは身を翻し、迫りくる手を躱す。

 

 武というより舞だろうか、しかしその動きから繰り出される剣撃の鋭さたるや。

 

 アリスの意識は、次第に深く、冷たくなっていく。時間の流れが引き延ばされ、一秒が永遠にも感じられる。

 

 怨霊たちの動きがスローモーションのように見え、その隙間を縫うように剣を振るっていった。

 

 アリスの肉体性能は非常に高い。超人と言ってもいい。だがそれはアリスに限った話ではなく、エクソシスト全般に言える話でもあった。

 

 エクソシストというからには普段相対するのは悪魔の類だ。そして悪魔を祓う際は大抵肉弾戦となる。少なくとも()()ではそうだ。

 

 聖句や祈りも効果がないとは言わないが、それだけでは悪魔は祓えない。そんなアマ()な真似をしてたら悪魔にぶち殺されてしまう。

 

 悪魔は重量物や刃物などを遠慮なしにガンガン飛ばす、いわゆる物理攻撃を得意とするので、それに対抗するためには祓う側も一定の暴力はやむを得ないのだ。

 

 物質界に顕現した悪魔を死ぬほど痛めつけ、そして屈服させて追い払うのがエクソシストの主な退魔作法である。

 

 ◆

 

 一体、また一体と、怨霊たちが浄化の光に包まれて消えていく。だが、その度にアリスの体力も削られていく。

 

 視界の端で、一際大きな怨霊が動いた。

 

 他の個体よりも腐敗が進み、その体からは濃密な瘴気が立ち上っている。群れのリーダー格だろう。

 

 その怨霊が咆哮した。その音は重く、冷たい。

 

 次の瞬間、周囲に黒い霧のようなものが立ち込めた。それは急速に広がり、アリスを包み込む。

 

 視界が奪われる。そして肌に触れた場所から、焼けるような痛みが走った。

 

「くっ……!」

 

 これは単なる霧ではない。怨霊の憎悪と苦痛が凝縮された呪詛そのものだ。

 

 アリスの脳細胞の一部が悲鳴を上げた。このままでは、彼女自身もあの怨霊たちと同じように腐り果ててしまうかもしれない。

 

 だが、アリスは怯まない。

 

「──我は、神の剣なり!」

 

 アリスが叫ぶ。これはエクソシスト界隈では『調子に乗りやがって、ぶっ殺してやる』くらいのノリである。

 

 再び剣を構え直し、突進してくる怨霊のボスに向かって自身も走り出した。

 

 ◆

 

 数分後。

 

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っていた。

 

 アリスは剣を解き、その場に膝をついている。

 

 額には汗が滲み、呼吸は荒い。

 

 先遣隊の隊員たちが、呆然とした表情でアリスを見つめている。

 

「浄化は完了しましたわ。負傷者の手当てを」

 

 アリスは冷静に指示を出すと、ゆっくりと立ち上がった。そして、先ほどまで怨霊たちがいた場所に向かって十字を切り、祈りを捧げる。

 

「Requiem æternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.(主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ)」

 

 その姿は勇猛果敢な聖戦士ではなく、慈悲深い聖職者のそれだった。

 

 敵であったとはいえ、彼女たちもまた、この狂った世界の犠牲者だ。

 

 その魂を鎮めることこそが、眞原井アリスの務めだった。

 

空白行について。現在、句点「。」で終わる文章一つにつき空白行が一つありますが、これは読みづらいですか?

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