その冬は、例年よりも雪が早かった。
十一月の終わり、村の外れにある凍った沼地が、例年より一月も早く閉じたとき、誰かがぽつりと呟いた。
「こりゃあ、来るかもな」
来る、とは何を意味していたのか。俺にはまだわからなかった。
ただ、村の大人たちが焚き火を囲んで、言葉少なに顔を見合わせていた。誰も明言はしなかったが、“なにか”が近づいているのを察していた。
それは、最初は音もなく、色もなく、影だけがやってきた。
昼過ぎ。雪原の地平線に、黒い点が見えた。
馬車だった。帝都の紋章を掲げた、黒塗りの厳重な幌馬車。ついで、騎馬が二十。槍を携えた重装の兵士と、黒衣の司祭たちが列をなして村へ入ってきた。
村人たちが次々に道を譲り、帽子を脱いで頭を垂れた。
俺とクラリスは、鍛冶屋の屋根の上からそれを見下ろしていた。姉は、俺の肩をそっと押して、伏せさせた。
「ユリウス、目を合わせちゃダメ。あれは……“教会”の人」
「司祭……?」
「ううん、“審問官”。」
その言葉の響きは、雪よりも冷たかった。
幌馬車の後方から現れたのは、黒鉄の仮面をつけた男。司祭の装束の上に、黒い長衣。肩には聖氷教の双翼紋。まるで彫像のような無表情のまま、男は馬から降り、教会の扉を開けた。
「異端審問である」
静かな声だったが、全員が聞こえた。
村に、音がなくなった。
薪を割っていた男は斧を落とし、子どもを抱いていた女はその場にひざまずいた。誰もが顔を伏せ、凍ったように動きを止める。
俺だけが、わけが分からず呆然としていた。
姉がそっと囁いた。
「定期巡察っていって、帝国中の村を回って、“信仰の純粋性”を調べるのよ。嘘でも疑われたら、火あぶり。……だから、みんな怖いの」
「でも、クラリス姉さんは、何も悪いことしてないじゃん」
そう言った俺に、姉は言葉を返さなかった。ただ、俺の頭を抱くように撫でた。
その指が、少しだけ震えていたのを、俺は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、村の中央にある教会から、鐘が鳴った。
通常なら、夕べの祈りの合図。けれどその音は妙に重く、濁っていた。
鐘楼から吐き出された冷たい金属音は、村全体に重苦しい空気を運んできた。家々の戸は閉まり、窓からは灯が消えた。どの家も、祈るように沈黙した。
けれど、うちの鍛冶屋だけは、いつも通りだった。
いつも通りの鍋、いつも通りの薪の香り、いつも通りのクラリス。
だが、その“いつも”は、微かにズレていた。
「姉さん……さっきから、手震えてるよ?」
「……ばれた?」
姉は笑った。けれどその笑顔は、どこか引きつっていた。
「ユリウス。明日から、もう……子どもたちに本を読ませちゃダメよ。あの本も、見せないで」
「なんで? 火の鳥の話、みんな好きだったのに」
「“好き”と“許される”は、違うの」
火の鳥の本は、炉の奥深くに仕舞われた。木製の箱に入れられ、さらに布でぐるぐるに包まれた。
その一連の動作は、とても自然だったけれど、どこか……お別れのように見えた。
「ユリウス。もし、私がいなくなったら……」
「やだ、縁起でもない!」
「もしの話よ。ね? そのときは、あなたが、火の鳥になって。誰かを守ってあげて」
冗談みたいな言葉だった。でも、姉の目は、冗談じゃなかった。
それを“前世”の感覚が、告げていた。
この世界では、言葉が通じるよりも先に、“空気”が全てを語る。
家の外では、雪が強くなっていた。吹きすさぶ風が、夜空の星を隠していく。
不吉の幕が、すこしずつ、降り始めていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
村の広場に、帝都の審問官が集会を開いた。民の信仰を問う、“誓約の祈り”が執り行われるというのだ。
すべての村人は順に呼ばれ、神の前で清き信仰を誓うことになる。少しでも動揺すれば、口ごもれば、それだけで「疑惑」として記録される。
クラリスの名前は、五番目に呼ばれた。
俺は鍛冶屋の戸の隙間から、その光景を見ていた。
姉は、真っ直ぐに歩いていった。背筋を伸ばして、冷たい石畳の上を音もなく進んでいった。
祈祷台の前で膝をつき、手を組み、誓いの言葉を口にする。
その姿は美しくて、誰よりも“神の民”に見えた。
けれど、司祭の目は動かなかった。仮面の奥の瞳が何を見ているのか、誰にも分からない。ただその口が、ひとつの質問を投げかけた。
「レオンハルト・クラリス。貴女はこの村において、文字を教え、言葉を綴り、禁書に触れたという訴えが出ている。事実か?」
姉は――少しだけ、口元を歪めて、答えなかった。
……その瞬間だった。
俺の中で、なにかが、かすかに崩れた。