雪は、止んでいた。
異端の審問は、あまりにも静かだった。
告発、確認、焼却――すべてが“手続き”として処理された。
クラリスが壇上に立たされるとき、誰も声を上げなかった。
村人たちは、まるで“それが当然であるかのように”、首を垂れていた。
憐れみの目すらない。恐怖と沈黙、ただそれだけ。
「レオンハルト・クラリス。禁書の筆写と教育、無資格での文字教授、および神意に基づかぬ言説の流布。神の名において、汝に裁きを下す」
審問官の声は、鐘の音よりも冷たかった。
クラリスは、逃げなかった。
手錠も縄も必要なかった。
彼女はまっすぐに歩き、処刑柱の前で立ち止まり、静かに目を閉じた。
「姉さん……!」
俺は叫んだ。気がつけば走っていた。
だが父が――あの、穏やかな父が、俺の腕を強く引き止めた。
「やめろ……ユリウス、やめてくれ……っ。おまえまで燃やされたら……!」
「放せよッ!! なんで止めるんだよ!! 姉さんが殺されるんだぞ!!」
「それでも……神の決定なんだ……神の、秩序なんだ……!」
「は?」
吐き気がした。
なんなんだそれは。
姉さんは、子どもに本を教えただけだぞ。
祈るように物語を紡いで、人の心を温めただけじゃないか。
誰も傷つけてない。誰の金も奪ってない。誰の地位も脅かしてない。
それを“殺す”のが、秩序?
「ユリウス……見るな……見るんじゃない……!」
父の声が遠くで響く。
俺の視線の先で、クラリスの足元に火がともされた。
乾いた薪が音を立て、炎がゆっくりと立ち上る。
赤いマントが燃える。
髪が揺れ、目を閉じたまま、クラリスは――笑っていた。
「私は……間違ってなんかいない」
それが最期の言葉だった。
炎の中でも、声は震えていなかった。
誰よりも誇り高く、誰よりもまっすぐで、
誰よりも“人間らしい”死に方だった。
ああ、神様。
あなたは見ているか?
この国は、狂っている。
貴族が神の声を騙り、知識を独占し、民はただ震えて頭を垂れるだけ。
“正しさ”が焼かれ、“無知”が守られる。
そして皆、それを「当然」として受け入れている。
この地獄が“神の御心”だと?
笑わせるな。
◇ ◇ ◇
焼却のあと、父と母は審問官に頭を下げ、深々と礼をした。
「ご慈悲に感謝いたします……。娘の罪は、我らの罪……。深く、悔い改めてまいります……」
その姿を見て、俺は――純粋に、何をしているのかわからなかった。
娘を焼かれて、焼いた相手に頭を下げる。
何かの儀式か?
芝居か?
それとも、俺の知らない“神のための演技”でもしているのか?
我が家の家族仲は、そんなに悪くなかったはずだ。
流石に、姉を父と母が燃やしたかったわけじゃない。
そんな馬鹿なことは、ないはずだろう?
なら――なぜ、笑う?
「ありがとう……ありがとう、神よ……」
そう呟く母の声が、ひどく遠く聞こえた。
感謝の言葉とともに、微笑む口元。
その目には、もう何も映っていない。
心が、乾いていた。
世界のどこにも怒りの対象がなかった。
責める相手も、裁くべき悪も、すでにこの国の空気に溶けていた。
皆がそうやって、生きている。
生き残るために、自分を壊して、慣れて、祈って、笑って――そうして今日を越える。
人間は、ここまで空虚になれるのか。
もはや怒りも湧かない。
この世界の構造そのものが、そう在るべきものとして組まれているのだとしたら。
なら俺が異物なんだろう。
俺が、間違っているのだろう。
火の中で崩れ落ちた髪飾りを拾い上げたとき、ようやくその実感が、静かに心の底に沈んだ。
……教えただけだ。
読み方を、言葉を、書き方を。
それだけで、姉は焼かれた。
誰よりも優しくて、誰よりも賢くて、誰よりも“正しかった”人間が。
ただ、ただ文字を教えただけの人が火刑に処される。
正しく、この世界は“異世界”なのだと、俺は実感した。