春。
それは本来、冬の終わりとともに訪れる、命の芽吹きの季節であるはずだった。
だがこの帝国では、春は毎年「徴兵」の季節でもある。
すなわち、国家という名の胃袋に新たな“生け贄”が投げ込まれる、血の儀式の始まりだ。
村では毎年、この季節になると――
「誰が行くのか」で大人たちが責任をなすりつけ合い、
「誰が生き残れるのか」で子どもたちが震えながら名前を数える。
そして、今年。
……その生け贄が、十中八九、我が家から選ばれることなど、誰の目にも明らかだった。
例年と変わらぬ重々しい車輪の音が、雪解けの泥道に響く。
帝都からの徴兵馬車だ。黒塗りの巨体が村の中心に停まり、ぎい、と扉が開いた。
中から降りてきたのは、妙に豪奢な軍服をまとった肥満の男だった。
脂肪がはちきれんばかりに膨れ上がった体つき。将校服が彼の腹を必死に押さえつけ、ベルトが悲鳴を上げていた。
イシュバルツ帝国では、下級貴族が軍務に就かされるのが常。
軍隊は、貴族にとって「責任感を装いながら名誉と贅肉を貯められる場所」でしかない。
それでもあそこまで太れるなら、よほど戦場で汗をかかずに済んだのだろう。
「今年も我が帝国に、命を捧げる者はおらぬか――」
軍服の豚が、芝居がかった口調で声を上げる。
誰も答えない。答えられるわけがない。
その代わりに、村長がそそくさと近づき、羊皮紙の名簿を差し出した。
「この者たちです」
その声は、どこか勝ち誇っていた。
誰かの名前がそこに載っているという事実が、他の者の名を消すという救済になるのだから。
徴兵官は声を張り上げる。
「ヴァイス家三男、ルーカス」
「ノルド家四男、イグナーツ」
「レオンハルト家、長男――ユリウス」
その瞬間、息が止まった。
世界がゆっくりと、沈んでいく。
……やはり、そうなると思っていた。
ゆっくりと、静かに、確かに。
私は徴兵官のもとへ歩いていった。
徴兵官は演説をひとしきり終えると、満足げな顔で村長とともに、村で最も大きな建物の中へと入っていった。
補佐役の男が、無表情のまま、順に袋を配ってゆく。
中身は――ほんの僅かな路銀。
自分の命の値段が、この布袋一つかと思うと、喉の奥が乾いた。
「訓練地《ベルシュカ訓練営》に、今週中に集合せよ」
それだけを事務的に告げると、補佐の男も建物の扉をくぐって消えた。
村の若者たちは、たいてい一晩だけ家族と過ごしてから訓練地へ向かう。
そう――これが、最後の夜になるかもしれないから。
イシュバルツ帝国は、その広大な領土と膨大な人口を保つために、戦争を好んで利用してきた。
今も、南方のヴェルミヨン連邦と、資源地帯を巡って血を流し合っている。
昨年、徴兵された若者は……誰一人、帰ってこなかった。
誰もその話はしないが、皆、知っている。
戦争とは、国家が民を“整理”するための、静かで巨大な火葬場だ。
――それを知っていても、人々は一晩の安らぎを求めて家へ戻る。
最期の夜だと、わかっているからこそ。
……そんな時間を、今さら自分が過ごせるとは到底思えなかったが。
それでも、他の若者たちと同じように、俺もまた、家への道を歩き出した。
家に帰ると、母がいつものように台所に立っていた。
鍋からは柔らかな蒸気が立ち上り、香草とバターの香りが部屋いっぱいに広がっていた。
鼻の奥がツンとしたのは、冬の寒さのせいではなかった。
――暖かい手料理。
火にかけられた鍋。
音もなく立ち上る白い煙。
少し、前のことを思い出す。
炎の中で、ただ信念を抱いたまま、静かに燃えていった姉のことを。
母は、あれ以来、前よりずっと神に祈るようになった。
祈りの言葉が、後悔を包むカーテンのように繰り返される日々だ。
「ユリウス、あなたが無事に戻ってこれるように、今日もお祈りしてきたのよ」
「……ありがとう、母さん」
湯気の向こうで微笑む母に、どうにか返事をする。
口元は震えていなかったが、心の中で、何かが軋む音がした。
スプーンを動かしながら、少しずつ、当たり障りのない会話を交わす。
この家庭に残された“日常”を演じるために。
「お前が帝国のために戦うことで……クラリスの無念も、きっと晴れるだろう」
「……そうだね、父さん」
声に感情はなかった。父の声にも、感情はなかった。
それは、まるで読み上げられた“公式文”のように響いた。
姉が火刑に処されてから、我が家は少しずつ変わった。
外からの沈黙、教会からの冷たい視線、村人たちの無言の距離。
何もかもが、“そこにあるはずの何か”を恐れているようだった。
きっと両親は、その空気の中で、必死に「正しい家族」を演じようとしたのだ。
それが痛いほど伝わってきた。
火刑に処されるような者が出た家族――
それは、イシュバルツ帝国の中では“罪人の家”と同義だった。
だからこそ、両親は祈り、働き、笑った。
壊れていないことを、示すように。
誰のせいにもできない痛みを、“熱心さ”に変えて。
……たぶん、たぶん、そうやって、何かを守ろうとしたのだ。
けれど、やっぱり、どこかがおかしい。
何かが、根本的に、間違っている。
国王よりも宗教の権威が強かった時代? 中世ヨーロッパ?
――この帝国は、たぶんそれよりも古くて、もっと冷たい。
これは、仕方のないことなんだ。
そう言い聞かせてみる。
これが、帝国なんだ。
クラリスが火に焼かれて、誰も叫ばなかった帝国。
父も、母も、隣人も。
誰一人として、何も言わなかった。
そうやって、納得するしかないと、自分に言い聞かせた。
「そうだ、戦地に行くお前に渡したいものがあるんだ」
夕食が終わる頃、父がそう言って席を立った。
戻ってきた手には、小さな布包みがあった。
それは、無骨で、重たい鉄の匂いのするナイフだった。
鍛冶屋の父が、自ら鍛えたものだ。
「……父さん、これは?」
「あんたのために、素材も良いものを使ったんだって」
母が代わりに、少し呆れたように笑いながら答える。
「かなり頑張って鍛えたぞ。お前になら、使いこなせる」
「ありがとう、父さん」
本当に、優しい両親だ。
不器用で、時代の空気に従うしかない、けれども優しい人たちだ。
子供を想い、贈り物を用意して、祈ってくれる。
それだけは、嘘じゃないとわかる。
だからこそ、信じられなかった。
あの火刑の夜、貴族の前で微笑みながら頭を下げたのは――
他でもない、この父と母だったのだ。
……その違和感に、食べた料理を吐きそうになっても、
明るく、夜まで、両親と笑っていた。
まるで、それが“最後の夜”であることを、悟られぬように。