リコリス △ ハート^3   作:多聞町

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第10話 彼の背中、友の手のひら

 事件から五日が過ぎた。

 

 午後のリコリコには、静寂と気まずさが漂っていた。厨房の時計の秒針の音さえ、やけに大きく感じられる。店内に響くのは、クルミが叩くキーボードの音だけ。千束は包帯を巻いた胸に手を当てながら、ソファに沈んでいた。

 

 たきなは、カウンターに座ったまま、氷の溶けかけたグラスを見つめていた。何をするでもなく、何を言うでもなく。ただ時間だけが過ぎていく。

 

 恭也は、あれ以来一度も顔を見せていなかった。

 

 姫は帰国した。秘密協定は無事に締結され、政府間の目的は果たされた。負傷した姫の治療と警護は、直ちに移送先で行われたという。事件の後処理も、すべて内調によって完了した。シュピーゲルの影武者、情報攪乱者等の協力者すべて、と言ってもわずかに数人だったが、それも捕えた。テレビやネットには、当然ながら何の報道もなかった。残されたのは、虚無のような静けさだけ。

 

 ──あの日の終わりから、ずっとそうだった。

 

 リコリコの面々も、たきなに対して必要以上に言葉をかけることはなかった。触れてはいけないものを見るような、そっとしておこうとするような、そんな態度。だが、たきなにはそれがかえって堪えた。

 

 あの戦いのあと。あの人の姿だけが、なかったこと。

 

 どこかへ去った理由も、誰も語ろうとしなかったこと。

 

 ずっと、胸の奥がざわついていた。

 

 その沈黙を破ったのは、ミカだった。

 

「たきな、みんなも、ちょっとこっちへ……」

 

 柔らかく、けれど真剣な声が、たきなの耳に届く。彼女が顔を上げると、ミカは奥の応接室へとたきな、そして千束たちを促した。後をついていき、椅子に腰かけると、彼の穏やかな目がたきなに向いていた。

 

「高町くんの、本当の任務がやっと分かった」

 

 たきなは瞬きをした。ミカはゆっくりと頷いて続けた。

 

「今回の彼の任務、それは“シュピーゲルの殺害”だった」

 

 その言葉を、たきなはすぐには理解できなかった。だが、意味はひしひしと胸に落ちてきた。

 

「姫の護衛も、我々と行動を共にしたのも、すべてはその任務のための布石だった。彼は最初から、あの男を仕留めることだけを命じられていたんだ」

 

 息が詰まった。

 

 あの人が、最初から──。

 

 けれど、戦いの最中、そんな素振りは一度たりとも見せなかった。あのときの目は、ただ仲間として、仲間を守ろうとするまなざしだった。

 

 ミカの口調が、少しだけ重くなる。

 

「レインボーブリッジでの任務の前、六年前に横浜で起きた無差別爆弾テロの現場で、二人の御神流の剣士がシュピーゲルによって殺害されたという話があったね。彼らについても判明した。──殺害された二人の剣士の名は、高町士郎と、不破一臣。高町くんの父と叔父だ」

 

 たきなは息を呑んだ。ミカの声が続く。

 

「彼らは爆弾テロから一般市民を庇って大きな傷を負っていたそうだ。そこを襲撃された。そう……相手は、シュピーゲルだった。結果、二人とも命を落とした」

 

 言葉が、出なかった。

 

 そんな過去が──そんな喪失を背負っていたなんて。

 

 なのに彼は、たきなに、千束に、誰にもそれを語らなかった。

 

 シュピーゲルと対峙したときですら、その目に怒りの色はなく。ただ静かに、敵を見据えていた。

 

「……でも、恭也さんは……復讐心の欠片も見せなかった」

 

 たきなの声が震えた。

 

 その場にいる誰もが、たきなの胸のうちに触れていいのか戸惑っているようだった。けれどたきなはもう、抑えきれなかった。

 

「ずっと……そんなことを抱えて……私たちには、何も言わずに……」

 

 ぽたり、と涙が落ちた。

 

 コースターの縁に、一粒、しずくがにじんだ。

 

 目の前に浮かぶ、あの背中。

 

 まっすぐで、強くて、でもどこか寂しげで。

 

 守ってくれていた。いつだって、前に立って。

 

 ──私は、何も知らなかった。

 

 そして。

 

 ──もう、あの人はいない。

 

 その事実が、ただたきなの胸を締めつけた。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 ──このままじゃ、よくないよね。

 

 千束は、ほんの少し痛む胸をさすりながら、カウンターの奥で小さく息を吐いた。客足のまばらな午後のリコリコ。ミズキはいつもようにアルコールも摂取せずに、スマホをぼんやりいじっているし、クルミはどら焼きの餡を匙でこそいで、ミカに怒られている。たきなは、というと——

 

「…………」

 

 カウンターの端、窓際の席で、カフェオレも飲まずにずっとぼんやりしている。

 

 見るのがつらかった。話しかけても、うわの空で。銃の手入れも、コーヒー豆の計量も、最近はミスが多い。恭也がリコリコに姿を見せなくなってから、ずっとこうだ。

 

「クルミ~、さ……」

 

「言われなくてもわかってるよ。探せってことだろ、恭也」

 

 ミルクをかけすぎて白くなったどら焼きを皿の上に戻し、クルミは椅子をきいと鳴らして立ち上がった。

 

「でもさ、あれでも一応、内調の人間だよ? 前、抜いた情報だって、最初からほとんどフェイクの塊だったし、データベースにあるのは後付けされた履歴ばっか。年齢すら信用ならない。名前だって、もしかしたら……」

 

「違う」

 

 千束はまっすぐに言った。

 

「恭ちゃんが言ってたの。“妹が二人いる”んだって。“下の子はまだ小学生で”って。あの時の顔、覚えてるもん」

 

 そう、あれはまだ、彼の名前が分かってから間もなくのことだった。たしか5月の下旬、3か月前のことだったはず。彼がいつものようにやってきて、いつものカウンターに腰かけていて、千束が世間話を振ったときだった。あの頃の恭也は、いつも無表情に近かった。その彼が、一瞬だけ口元を緩め、柔らかい微笑みを浮かべて──妹のことを語ったのだ。

 

 その顔は、絶対に、嘘をつく人間のものじゃなかった。

 

「名前は……?」

 

「“なのは”って。高町なのは」

 

 クルミは、口の中で「うわ」と呟いた。案の定、極めて面倒な依頼だという顔をしている。

 

「高町って、意外と珍しい名字かもだけど……小学生で“なのは”って、アニメや漫画にも山ほどある名前だよ? 逆に該当者多くてやばいかも」

 

「お願い、クルミ」

 

 千束がかがみこむ。目は真剣そのものだった。

 

 それは誰のためでもない。自分のためでも、たきなのためでもない。彼女はただ、恭也を信じたかったのだ。その信じた言葉が、ひとつの真実にたどり着けるのだと証明したかった。

 

「やれやれ。ほんっと、どいつもこいつも……」

 

 キーボードを叩きながら、クルミはぶつぶつ言った。ミカに「どら焼きをちゃんと食べなさい」と窘められながら、あれやこれやと検索をかけ、政府データの断片から、いくつもの関連情報をつなぎ合わせていく。

 

 しばらくの沈黙ののち、液晶モニターに、ひとつの画面が表示された。

 

「……出た」

 

「ほんと!?」

 

 千束が思わず身を乗り出す。ミズキもグラスを置いてそちらへ顔を向ける。

 

「私立聖祥大学附属小学校、5年1組。高町なのは。住所は、ベースは海鳴市……。これ、海鳴市って、けっこう東京から遠いんじゃない? 新幹線か高速飛ばさなきゃ行けないレベルだよ」

 

「うんうん、それで、それで!」

 

「それだけじゃないよ」と、クルミはさらに画面を切り替えた。

 

「そっから芋蔓式に出てきたのが、これ。『翠屋』。どうも家族経営の喫茶店らしい。なのはの自宅にほど近いんじゃないかな。少なくとも同じ海鳴市。店長は“高町桃子”。画像つき……これ、なんか滅茶苦茶若くないか?」

 

 スクリーンに映し出されたのは、エプロン姿の華奢な女性。栗色の髪を揃えて肩に垂らし、少し舌を出した笑顔がやたらと可愛い。どう見ても二十代、それも前半に見えなくもない。

 

「これ、姉じゃないの!? ほんとに母親!?」

 

「母親らしい。SNSの書き込み見る限り、息子がたまに手伝ってくれて、とか出てる。すごいよね、天然パティシエ系美人。フォロワー五万人」

 

「はわわ……」

 

 千束の口から妙な感嘆が漏れる。ミズキは眉をひそめ、「なんか反則だなあ」と呟いた。

 

「ちょっと、ちょっと待って。じゃあ、恭ちゃんの家族って……」

 

「母親があの見た目で、下の妹が天使で、あと上の妹だっけ? “高町美由希”って女の子もいるらしい。かなり前の剣道大会の記録にあった。つまり、『翠屋』って、恭也の実家がやってる喫茶店で、恭也はそこで育ったってことになる」

 

 千束は胸に手を当てて、まだ痛みの残る箇所を押さえた。

 

「そっか、恭ちゃんはリコリコに来られなくても、こうして家族がいて……それが救いだと思いたいね」

 

 クルミは最後にぽんと手を打った。

 

「これで少なくとも、恭也が帰るはずの場所は特定、だな」

 

 

 

 

 たきなは俯いていた。

 リコリコのカウンター席に、ほとんど無言で座っているだけ。クルミの冗談にも、ミズキのからかいにも反応しない。いや、していないのではなく、できないのだろう。頬にかかる髪が、翳を落としている。

 

 恭也が姿を消してから、もう十日近くになる。

 あの決戦の夜から、彼はただの一度も姿を見せなかった。

 

 “シュピーゲルを殺害する”という過酷な任務が終了したから? それとも……

 ──嫌われたのだろうか。

 

 ふと、そんな考えが胸をよぎる。そのたびに、心が軋む。自分が拒絶される理由を考え始めると、止まらなくなってしまう。

 

「……たきな」

 

 声をかけたのは千束だった。包帯を巻いた胸を庇いながら、ゆっくりとカウンターの横に腰を下ろす。千束の表情は穏やかで、けれどもその奥に、微かな痛みが滲んでいた。

 

「落ち込んでるの、わかるよ」

 

 たきなは顔を上げない。けれど、わずかに指先が震えた。

 

「……私、やっぱり、恭也さんのことが……好きだったんだと思う」

 

 言葉が零れる。誰にも聞かせたことのない、弱音だった。千束はそれを遮らない。ただ、ゆっくりと頷いた。

 

「最初は、任務のことしか考えてなくて。でも、恭也さんの背中を見てるうちに……いつのまにか」

 

 言葉が続かなくなる。

 

「うん、わかるよ」

 

 千束はにこっと笑った。けれど、たきなの目には、少しだけその笑顔が滲んで見えた。

 

「私、千束に嫉妬してた……。千束と話してる時の恭也さん、すごく自然で……。でも、なにより、恭也さんと一緒に戦えている千束が羨ましくて……」

 

「えっ、そうなの?」

 

「……うん。でも、自分でも、どうしたらいいのかわからなくなって」

 

 たきなの肩が、小さく震える。その震えに、千束はそっと寄り添った。

 

「恭ちゃんのこと、探したい?」

 

 問いかけに、たきなは目を見張った。

 

「……知ってるの? どこにいるか」

 

「保証はないけどね。クルミが色々調べてくれたの。情報、ちょっとだけ掴んだんだ」

 

 千束は懐から、小さく折りたたまれたメモを取り出す。それをたきなの前に差し出した。

 

「そこにいるとは限らない。でも、少なくとも彼の“出自”には関係のある場所みたい」

 

 たきなは、ゆっくりと紙を受け取る。

 

「海鳴市……喫茶『翠屋』……?」

 

「ね、どうする? 行くかどうかは、たきなが決めていいよ」

 

 たきなは俯いたまま、指でメモの角をそっと撫でる。迷いが、胸の奥で渦巻いていた。

 

「でもね」

 

 千束がそっと続ける。

 

「本当に好きなら、連れ帰ってきてみなよ」

 

 その声には、柔らかさと、少しの頼もしさが混じっていた。

 

「私が恭ちゃんに説教してやる。私のたきなを泣かせるな、ってね」

 

 たきなは、初めて小さく笑った。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 翌日。

 昼前から降っていた雨は止み、午後の海鳴は、濡れたアスファルトと瓦屋根を淡く照らしている。高町家の最寄り駅を出たたきなは、小さな鞄の紐を肩にかけ直して、小さく息を吐いた。

 

「……本当に、来ちゃった」

 

 独り言にしては、声が震えている。昨日、千束から渡されたメモ用紙には、綺麗な丸文字でこう記されていた。

 

『海鳴市藤見町六四-五』

『喫茶 翠屋』

 

 ここにいるって保証はない、と千束は言っていた。けれど……と、たきなは足元の石畳を見つめる。心臓が、さっきからおかしい。緊張なのか、期待なのか、自分でも判別がつかない。

 

「翠屋……」

 

 スマホの地図とメモの住所を照合しながら、たきなは住宅街を進む。東京とは違う、ゆるやかな風の匂いがした。

 

 しかし……。

 

「えっ、こっちじゃないの?」

 

 地図に示された交差点に着いたはずが、喫茶店らしき建物は見当たらない。見回しても住宅ばかりで、周囲に人影もない。番地の表示も近くには無かった。

 

(……迷った?)

 

 たきなはポケットから再びメモを取り出し、眉を寄せた。その時。

 

「ねえねえ、あの人、困ってるっぽくない?」

「ほんとや。地図見とるし」

「観光客かな? でもこんなとこに観光地なんてないしなぁ……」

 

 耳に届いた複数の子供の声に、たきなは顔を上げた。そこには、ランドセルを背負った小学生の五人組が立っていた。学校帰りに誰かの家に遊びにでも行くつもりなのだろうか。みんな印象的な白い制服だ。

 ひとりは車椅子の少女で、黒髪の子が背後から押している。金髪の子が二人。ツインテールとショートカット。そして……

 

「あの……」

 

 意を決して、たきなは声をかけた。

 

「この住所、ご存じありませんか? 藤見町六四の……」

 

「それ──うちだよ!」

 

 元気な声でそう答えたのは、茶髪を二つに結んだ少女だった。名前を訊かずとも分かる。声のトーン、仕草のひとつひとつがどこか似ている。

 

「あなた……高町なのは、さん?」

 

 そう問えば、「えっ?」と目を丸くする少女。周囲の友達も、興味津々といった様子でたきなを眺めていた。

 

「知ってるの? なのはのこと」

「お姉ちゃんの友達とか?」

「え、でもお兄さんの関係だったら……」

「アリサ、それはまだ訊かなくていいやろ」

「ええー? 気になるじゃん!」

 

 会話がテンポよく飛び交い、たきなは少し圧倒されたように苦笑する。小学生とは思えないテンションだ。

 

 よくよく聞いてみると、住所と翠屋の立地は異なるらしい。住所はあくまでも住居のもの。翠屋自体は駅前商店街に立地するらしい。

 

 ──どおりで、迷うわけだ。

 

「翠屋まで、案内するね」

 

 と、なのはが笑顔で手を挙げる。たきなはお礼を述べ、五人のあとについて駅前へと戻っていった。

 

「じゃあ、お姉さんは観光じゃないんだね」

「ってことはやっぱ、お兄さん関連だよねぇ」

「それって、どっちの意味で?」

「フェイト、どっちって?」

「だから、任務とか、そっちとか」

「──えっちとか?」

「はやて!? そういう意味じゃないってば!」

 

 たきなは吹き出しそうになるのを必死にこらえた。制服姿で銃を持って歩くことは多かったが、小学生に囲まれている今の状況は、正直、想定外すぎる。

 

「で、お姉さんは、何をしに海鳴へ?」

 

「……べつに、大したことでは……」

 

 言葉を濁すと、アリサと呼ばれている、金髪ショートカットの子がすかさず身を乗り出してきた。

 

「もしかして……お兄さんの、恋人?」

 

「ち、ちが──」

 

「じゃあ、好きなの?」

 

「え──」

 

「お姉さん、顔赤くなってる」

 

「アリサすごい!」

 

 わあっと盛り上がる五人を前に、たきなは完全にペースを崩されていた。答えようとしても、喉がつまって何も出てこない。

 

「……お兄ちゃん、また照れ屋な人と知り合ったんだねぇ」

 

 笑顔でそう言ったのは、他でもない、なのはだった。

 

(……お兄ちゃん)

 

 その響きが、胸に残った。あの人にとって、日常だった場所。家族がいて、名前で呼んでくれる声があって、帰るべき場所が、あった──。

 

 胸がじんと熱くなった。その理由を、たきなは自分で理解していた。

 

 ──私には、無いものだ。

 

「ついたよ。ここが『翠屋』」

 

 駅前商店街の中にあったのは、ロッジ風の外観を持つ、あたたかな雰囲気の店だった。まるで、リコリコによく似ている。でも、どこかが違う。扉の奥にある“何か”が、たきなの鼓動をさらに早めていた。

 

 彼の背中を追って、ここまで来た。その理由を、ようやく自分で肯定できた気がした。

 

 

(第10話 了)





 千束の本編での出演は今回で終了。エピローグでの出演は残していますけどね。最後はたきなの全面的な味方である、という形で締めたかったので、こういう締めとなりました。
 本編などを見返すたびにこんな風に思います。奔放な姉と生真面目な妹のコンビ。なんだか微妙に対等ではないところが善き哉。
 ということで、ここからはとらハ(一部リリなの混じりですが)のメンバーに頑張っていただきます。
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