戦闘シーンより、たきなの心情をしつこく書く方がノレるってことですかね。
リコリコに夏の気配が漂い始めていた。
壁のカレンダーが六月の最終週を指しているにもかかわらず、クーラーの効いた店内では季節の実感は希薄だった。ただ、街行く人々の装いが徐々に軽やかになってきているのを、店の窓越しに見るたきなは、あぁ、もうそんな時期なのだとぼんやりと思う。
けれど、今のたきなの心を占めているのは、夏の気配よりも、もっと別のことで──
「……また、違う……」
誰にともなく呟いていた。
入口のベルが鳴った瞬間に、無意識に振り向いた。だが、入ってきたのは近所の常連の中年夫婦で、彼──高町恭也ではなかった。
そんなはずはない、と自分に言い聞かせた。店に来るのはいつも午後三時以降。大学の講義が終わった頃合いだ。午前中に来る可能性なんてほとんどないのに。わかってる。頭では理解している。
──でも、胸の奥がざわつく。
今朝からずっとそうだった。起きたときから落ち着かなくて、制服に袖を通す手にも力が入らなかった。何かが噛み合っていないような感覚。呼吸も、思考も、ずっとどこか引っかかっている。
それは、数日前の任務のせいだと、たきなにはわかっていた。
接近戦で敵に囲まれ、腕を切られたあの瞬間。視界が赤黒く染まる中で、唐突に一人の男が現れた。
──恭也さんが。
舞うように、しかし鋼のような斬撃で敵を制圧していった彼の背中を、たきなはただ目で追うことしかできなかった。そして……彼の声を聞いた瞬間、思わず安堵していた自分がいた。
あのときの感覚が忘れられない。胸の奥が、熱を持ったように疼いている。
「たっきー、最近さあ……」
カウンター越しから、くすくすと笑うような千束の声が飛んできた。
「視線、熱っぽいよ?」
「……なにが?」
聞き返す声が、我ながらひどく不機嫌だった。
「いやぁ〜? 誰かさんが店に来てないと、明らかに落ち着きなくなってるし。来たら来たで、すっごい目で見てるし。ふふ、いよいよメス堕ちか〜?」
「誰が、誰に、何堕ちって?」
眉をぴくりと跳ねさせながらも、思わず耳が熱を帯びた。
「ん〜〜、あたしはね、別に何でも応援するけどね?」と千束。
「恋愛相談なら乗ってやるぜ?」と、タブレットを操作していたクルミが口を挟んでくる。
「そもそも年上男子とか、実はたきな、ツボだったり?」
「ありえません。恋愛は任務に支障が出ます」
「むしろもう支障出てるように見えるけどね〜?」と千束がにやにや。
「……」
たきなは口をつぐむ。口喧嘩をする気力もない。
「てかさー! いいよね! 若いってだけで恋愛できて! アタシなんてもう干からび寸前よ!? この前も合コン誘われたけど、男性陣の平均年齢、下手したら二十代前半だったし!」
ワインボトルを握りしめて吠えるのはミズキだった。
「……それ、たぶん正体知られてるからじゃ」
「誰がスパイかっ!」
「いや、誰も言ってないけど」
「くぅ〜っ! なんで恭ちゃんの周りには、若くて可愛い女の子しか集まらないのよぉ!」
「そこは……まぁ否定しないけど」
「うん、あの人は確かにカッコいいよね」とクルミ。
「落ち着いてるし、戦いも強いし、実はいい声してるし。たきなが惚れるのも無理ないよね〜?」
「だから、惚れてませんってば」
強く否定しようとして、声が裏返りそうになるのを必死で堪える。
だが、そのときだった。
入口のドアが開き、控えめなベルの音が店内に響いた。
──彼が来た。
たきなの鼓動が、一瞬にして跳ね上がった。
視線を逸らしたかった。見ないふりをしたかった。けれど、気づけば目が吸い寄せられていた。
いつも通りの無表情。どこか儚げで、それでいてどこか影を纏ったような佇まい。その姿を見るだけで、胸の奥のざわめきがすっと収まっていくのを、たきなは感じていた。
「あら、恭ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。今日は客、多いな」
「そうね〜、ちょっとね。カウンター、空いてるからどうぞ」
「ありがとう、ミズキさん」
自然体の会話。常連客としての当たり前のやり取り。
だけど、その一言一言に耳を澄ましてしまう自分が、たきなには恐ろしく思えた。
(……なんで、こんなに落ち着くの?)
たきなは自分の胸に問いかける。
(ただ来ただけなのに。姿を見ただけで、こんなにも……)
自分の鼓動が、どうしても彼を中心にして波打ってしまうことに、戸惑いを隠せなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今日の喫茶リコリコは、昼過ぎの穏やかな空気に包まれていた。店内では、井ノ上たきながトレイを手にホールを回っており、その傍にはエプロン姿の高町恭也が控えていた。
「じゃあ、こっちのテーブルはお願いします。私は奥の片付けしてきますから」
「ああ、了解。たきなちゃんはそっち任せた」
阿吽の呼吸ともいえる連携で作業を進める二人の様子を、カウンター席から千束たちが観察していた。
「……なんかもう、完全に店員として馴染んでるよね、恭ちゃん」
「見た目も動きも無駄がない。優秀なバイトって感じ」
クルミの評価に、ミズキも頷いた。
「初めて来た時は、ただのコーヒー好きの大学生って思ってたけど……いや、今じゃもう準スタッフよね。しかも無給」
「ミカさんが腰痛めた時、代打で手伝ってくれたのが始まりだったんでしょ?」
「うん。それっきり、来るたびに自然と手伝ってる。……恭ちゃんって、ほんと義理堅いっていうか、そういう人なんだよね~」
千束の目は、どこか含みをもってたきなを見やった。
「でさ、最近のたきな。ちょっと様子、変わってきてない?」
「ん、変わってるよね。こう……視線の温度が高いというか。妙に集中してる」
「しかもさ、恭ちゃんが近くにいると、それだけでちょっと口数増えてない? 前なら“業務効率が”とか言いそうなのに」
「そうそう。それに、いつの間にか”高町さん”呼びが、“恭也さん”呼びに変わってるし……あと笑うようになったよね。前は無表情のまま接客してたのに、今じゃ自然に柔らかくなってる」
ミズキはビールをあおりながらぼやく。
「いいわねぇ……青春してるって感じ。あたしにも春が来ないかな……」
「千束がさ、どーせまたイタズラ心で茶化してるだけでしょって思ってたけど、こうも変化があると、さすがに疑えない」
クルミの言葉に、千束はふふっと笑いながら首をすくめた。
「いやぁ、私も最初はからかい半分だったんだけどね。最近のたきな見てると、なんか本気なんじゃって思えてきてさ……あれ、もしかして、これってもしかする?」
と、千束がひょいと立ち上がって、ちょうどカウンターに戻ってきた恭也に声をかけた。
「恭ちゃん、ちょっといい?」
「ん? なんだい」
「いやさ、最近たきながすっごく頑張ってるじゃない? あれってさ、恭ちゃんに……なんか、特別な感情とかあったり、するのかな〜って」
一瞬、静寂が店内を包んだ。
たきなの手が止まり、視線がぴたりと千束に向く。
空気の温度が下がるのを、全員が肌で感じた。
「……千束」
低く鋭い声が、ホールの空間を切り裂く。
「ッ! ち、違うのたきなっ!? いや、ほら、ちょっとした興味というか、空気的な? ねっ?」
「人の気持ちを、軽々しく話題にしないで」
「ごめんなさいっ!! ほんとごめんなさいっ!! わざとじゃないの!! 悪意もなかったの!! 空気読めなかっただけなの!!」
千束は慌てて頭を下げ、クルミとミズキが半ば呆れた表情でその様子を眺めていた。
「まぁ……今回は千束が悪いよね」
「うん。あれは雷落ちても文句言えないやつ」
当のたきなはというと、怒りの矛先をしまい込むように深呼吸をひとつし、無言で再び作業に戻った。
その背中を見ながら、恭也は苦笑しつつ、カウンターに戻った。
ミカが、グラスを拭く手を止めずに話しかけてくる。
「……悪かったね、空気が凍った」
「いや、俺は別に。ただ……少しずつ、見えてきた気もする」
そう呟いた恭也の視線は、ホールを静かに歩くたきなの背に向けられていた。
その表情には、何かを察した者の静かな色が宿っていた。
リコリコの昼営業が終わり、穏やかな午後の帳が下り始めていた。
店内に残っているのは、まだ片付けの終わらぬ椅子とテーブル。それに、カウンターに座る高町恭也──そしてミカだった。
「……ふう」
恭也は手にしたカップのコーヒーを一口飲み、静かに息を吐いた。夕刻に差しかかる光は琥珀色で、彼の瞳に反射して柔らかく揺れている。
目を閉じると、先ほどまで給仕に立ち回っていた少女の姿が、ふっと脳裏に蘇った。
──井ノ上たきな。
彼がこの喫茶店「リコリコ」の常連となってしばらくになるが、あの少女が自分に向ける視線は、最近どこか妙に真っ直ぐすぎた。
礼儀正しく、言葉少なで、しかし仕事には真面目で誠実な少女。
最初は単に、年下の、危うげな部分もある女の子──それくらいの認識だった。
だが最近は、少し違う。
何かを訴えるような、けれど口には出さない瞳。そっと見上げてくるような表情。
そこに含まれるものを──あえて気づかぬふりをしていた。
(……あいつの気持ち、ってやつか)
ぼんやりと考えて、恭也は困ったように眉を寄せる。
剣の間合いや敵意には即座に気づける。だが、こういう感情の距離は──さっぱりだ。
自分は、彼女のことをあくまで後輩の一人として──いや、強いて言うなら妹のように接してきたつもりだった。
それ以上の何かを、向けられることになるとは、思っていなかった。
(だからって、どう応えればいいのかなんて……)
重ねた指の節を押しながら、内心で言葉を濁す。
やたらと真剣な視線。必要以上に近づいてくる距離。
その一つ一つを思い出していくたび、どうにも落ち着かない気分になってくる。
「……ミカさん」
静かに名を呼ぶと、カウンター奥でカップを拭いていたミカが、ふと目を上げた。
「どうしたんだい、高町くん。珍しく真剣な顔をして」
「いえ。ちょっと、聞きたいことがありまして」
「ほう?」
恭也はあえてカップに目を落としたまま、続けた。
「……もしも、自分が意図しない形で、誰かの気持ちを──誤解させていたとしたら」
「ふむ」
「その人をこれ以上、傷つけずに済ませるには、どうするのがいいんでしょうか」
抽象的な表現だった。
それでもミカは、少し目を細めたあと、カウンター越しに微笑んだ。
「随分と優しい物言いだね。でも、それはもう十分君が悩んでいる証拠だと思うよ」
「……」
「名前を出さずにそうやって聞いてくる時点で、ある程度、答えは見えてるんじゃないかな」
「……そうかもしれません」
「誰かが君に特別な感情を抱いてる。けど、君はそうじゃない。その場合──」
少し考え込みながら、ミカは言葉を選ぶように続けた。
「余計なことを言わずに、でも不自然に避けたりもしない。必要以上に近づかず、かといって遠ざけない。……つまり、“自然体”でいるのが一番さ」
「自然体、ですか」
「そう。誰かの気持ちに気づいて、それを無視しないようにしながら、でも自分の立ち位置は崩さない。誠実でいるっていうのは、案外難しいけれど──君には、できると思うよ」
ミカの言葉は、穏やかでありながらもどこか鋭く、核心を突いていた。
恭也は、ふう、と短く息を吐く。
「ありがとうございます。……参考にさせてもらいます」
「どういたしまして」
カップを置いて立ち上がると、ふと、あの目が思い浮かぶ。
真剣すぎるほど真っ直ぐで、まるで感情をぶつけてくるような──少女の瞳。
その無防備な色を思い出してしまった瞬間、恭也は小さく首を振って、その像をかき消す。
そして、少しだけ固くなった顔を戻すように、無理にでも平静を装い、階段の方へと足を向けた。
(──さて。どうしたもんかな)
彼の背を、カウンターの奥からミカが見送っていた。
やれやれ、とでも言いたげに、しかしどこか優しい目をして。
明日もまた、喫茶リコリコは静かに開店する。
きっと変わらぬ日常のまま──けれど、どこか少しずつ、何かが変わっていく。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日は、いつもの朝だった。
リコリコの扉を開けたのは、開店準備を終えたたきなだった。千束とミズキがキッチンで軽口を叩き合い、クルミがカウンター奥でPCをカタカタやっている。日常が静かに流れる中に、ほんの少しだけ、胸の奥に引っかかるものがある。けれど、それが何かをたきなはまだ、はっきり言葉にできずにいた。
そんな中、開店から三十分ほどが経った頃、ドアが鳴る。チリンと軽快な鈴の音。振り向いたたきなの視界に、いつもの男が映る。
「こんにちは、高町くん。今日は早いね」
ミカが笑顔で出迎え、恭也は軽く会釈する。
「今日は講義が午後からなんです。ミカさんの淹れるブレンドを楽しみにしてまして」
定位置のカウンターへと歩を進める彼を、自然と目で追ってしまう自分がいた。そのことに気づいて、たきなは思わずまばたきをする。
何度目だ、この感覚は。
知らず心がざわつくのは、彼がこの店に現れた瞬間。無意識に肩の力が抜けるのも、彼の姿を視界に捉えた時。そんな自分を、正さなくてはいけない。そんな想いが、頭のどこかをかすめていく。
「……っ」
ぎこちない足取りでキッチンへ戻り、カップにブレンドを注ぐ。千束がこっちをちらりと見て、にやりと笑った。
「お、今日はたきなが持ってく? 配膳係デビュー?」
「いつも通りです。ただの通常業務です」
「はいはい。ご苦労さまですー、主任補佐さん」
やや意地悪げな言葉を受け流しつつ、カップとソーサーを手に取る。歩を進め、カウンター席へ向かい──その瞬間だった。
「……っ!?」
カップを差し出したたきなの指先が、恭也の指と、ほんの一瞬だけ、触れた。
ぴたり、と時間が止まったような感覚。
その直後。
「なに触ってるんですかっ!」
たきなは、思わず声を張り上げていた。
驚愕に目を丸くする恭也。カウンター奥のクルミが「おいおい……」と呟き、キッチンの二人も動きを止める。
店内は、一瞬で静まり返った。
自分でも何を言っているのかわからなかった。反射的に放った言葉に、誰よりも自分自身が戸惑っていた。
「……っ……失礼します!」
かすれた声で言い残し、たきなは踵を返してバックヤードへと逃げるように消えた。
その場に取り残された恭也は、持っていた文庫本をそっと伏せた。
「ええと……俺、何かしましたか?」
「いやー、違うのよねぇ」
ミズキが肩をすくめながら、残されたカップを彼の前に置く。
「思春期女子の扱いって難しいわよねぇ、恭ちゃん」
「……あれが?」
「そー。あれが、なのよ」
横から千束が加勢するように頷く。
「たきなさー、最近ちょっと情緒が不安定でね? この前なんて“メス堕ち”って言ったらマジでガチギレされたんだから」
「それは……怒って当然では」
「えーっ、千束悪くなーい!」
冗談半分に騒ぐ千束とミズキを横目に、恭也は少しだけ視線を伏せる。
──あの反応は、やはり……。
彼の脳裏に浮かんだのは、先日ミカに向けて交わした会話だった。
一方、バックヤードでは。
たきなが椅子に座り込み、両手で顔を覆っていた。
「なに……してるの、私」
心臓がうるさく脈打つ。ほんの一瞬、触れただけの指先が熱い。思い出すたび、胸が痛いような、くすぐったいような気持ちになる。
「私……どうして、あんな」
叫んでしまった言葉。みっともなく、感情をむき出しにしてしまった姿。
──自分の中に、“女”がいる。
その事実が、たきなを何よりも動揺させていた。
今まで感情より任務を優先し、理性で行動を律してきた。恋愛感情なんて、非合理的で不必要なものだと思っていた。それなのに。
「私……恋……してるの……?」
思わず口にしてしまった言葉に、自分で驚く。
認めてしまったら、もう元には戻れない気がして。だから、怖かった。
けれど──。
否定できなかった。あのとき、助けられて安堵した自分を。
夜。リコリコのテーブル席。
店が閉まったあと、空のグラスとつまみを前に、三人が輪を囲んでいた。
「ねー、あれやっぱりたきな、完全に堕ちてるよね?」
「堕ちてるというか……もう底抜けて沈んでるんじゃない?」
「クルミちゃん、言い方が容赦ないって」
千束が笑いながらもグラスを傾ける。ミズキはすでにワインを三杯空けていた。
「まあ、恭ちゃんのほうも無意識に罪作ってる感じだしね〜。なんとなく気づいてるっぽいけど、あえて何も言わない、みたいな」
「天然たらしってやつ?」
「どうだろうね~」
そう曖昧に返すと、ミズキはグラスに残っているワインをグイっとあおる。
「でもねー、あのたきながねぇ……。うーん、若いっていいわねぇ」
「ミズキが言うと完全に酒入ってるってバレバレだけど」
「うるさい。これは研究なの。恋愛研究会!」
ワイワイと笑い合うその中心に、当の本人の姿はない。
その頃、たきなは自室のベッドに座り、静かに膝を抱えていた。
灯りは落とされ、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。
(あのとき、声を聞いた瞬間、すごく安心した。……あれは、信頼? それとも、やっぱり──)
あの夜、そう名付けたはずの感情に疑念が起こる。
あれは、そう名付けてもよいものだったのか……
(指が触れたとき、私は……嬉しかった)
それを認めた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。
自分の鼓動が、名前を呼んでいる。高町恭也──と。
(……これが、恋)
こんなこと、誰にも言えない。言ったら、どうなるか分からない。
でも、この気持ちは、もう消せなかった。
顔を伏せる。頬に落ちた涙に、自分でも驚いた。
だけどその涙は、悲しみではなく、ただ、あたたかさを伝えていた。
(第4話 了)