羽田空港・国際線の一角。関係者以外立ち入り禁止とされたVIP用控室に、冷えた静寂が満ちていた。外の蒸し返すような暑気が嘘のように、空調の整ったその空間は、人工的な快適さに包まれている。
たきなは、部屋の中央で無言のまま立っていた。ミカの指示でローテを組んだ結果、控室の内警護に就いたのは千束と自分。廊下ではミズキとクルミが外周の警戒に当たり、恭也は政府側との打ち合わせの名目で一足先に“姫”との面会を済ませているらしい。
そして──
「皆さん、ごきげんよう。お久しぶりですわね!」
控室のドアが開いた瞬間、それまでの空気があっけなく破られる。にこやかに現れた黒髪の少女。いや、少女と呼ぶには、姿勢と所作にあまりにも隙がない上に、そもそも年齢も──。しかし、クルミとそう大して変わりない体躯と、その童顔が年齢を錯覚させる。
堂々たる足取りで歩み入り、軽く手を振ったその人物は、紛れもなく“姫”だった。
「久しぶり〜、姫っち!」
真っ先に駆け寄ったのは千束だった。たきなは自然と身構え、懐へと手を伸ばす。銃のグリップがそこにあると確かめるだけで、気持ちが幾分落ち着いた。
「ほんと、よくまた来たよねえ〜。でも、今度はあんなレインボーブリッジみたいな状況にはさせないから!」
「ふふ……あの時は、さすがに私もちょっとばかり震えましたわ。けれど、皆様のおかげで今の私があります」
「ん〜、お礼は焼肉でも奢ってもらおっかな?」
「構いませんわよ? ただし、王族の専属シェフの特製焼肉ですけれど」
「えっなにそれ超気になる! っていうか、やっぱり高級肉なの?」
「多分、日本の松阪牛とやらに匹敵するかと……あ、でも私はあまり違いがわからないのですけれど」
「ちょっ、そんなん食べさせてよ〜!!」
千束と姫が繰り広げる、あまりにも軽妙な応酬に、空間の温度が一気に五度は上がった気がした。続いて、いつの間に室内に入っていたのか、控室の壁際にいたクルミもスッと立ち上がり──
「やれやれ……またこうなるとは思ってたけどね。こっちのログも解析しがいがあるってもんだよ」
「お目にかかれて光栄ですわ、クルミさん。あの時は、私の影武者をしていただいただけでなく、なんでも、橋に仕掛けられた爆弾の位置も特定されたとか。貴女のおかげで、襲撃を回避でき、無事だったのですわ」
「当然。だって、ボク天才だから」
自信満々に返したクルミの頭を、横からミズキがぽんと小突く。
「こらこら、得意げに語ってんじゃないわよ、あんた」
「ぐっ……いてて。……なにすんのさ、運転しかしてないくせに」
「はいはい、悪かったわねぇ。どうせあたしは役立たずですよ~」
わざとらしい肩すくめに、控室の空気がゆるんでいく。
場の空気が賑やかになるほどに、たきなは自分の立ち位置が遠く感じられた。
姫の言葉には真心があった。千束の笑顔は、相手を包み込むように柔らかかった。クルミの皮肉も、ミズキの茶化しも、全てが“輪”の中にあることの証左だった。
──その輪に、自分はどうしても入れない。
「たきなー、大丈夫?」
唐突に声をかけられて、はっとする。千束が、心配そうに眉をひそめていた。
「……何でもない」
「む〜、ちゃんと寝てないでしょー。顔、すっごくこわいよ?」
「いつも、こうです」
「……ふーん? いつものたきなって言えばそうなんだけど……うーん、なんか変」
千束が頬に指をあてて考え込む姿を見て、たきなは目を伏せた。
“いつもの自分”。
その言葉が、今は少しだけ刺さった。
「……私は、何も変わっていません」
「ん~、じゃあ顔がこわいのは仕様ってことか……。まあ、いっか!」
ぱっ、と明るく笑って、千束は姫の隣に戻っていく。その背中を見送りながら、たきなは僅かに指先を握りしめた。
(本当に、変わってない……?)
“何か”が足りなかった。
皆の笑顔の連鎖の中に、自分だけがうまく溶け込めない。
いつから、だろう。千束の隣に並んでいるはずだった自分が、こうも遠く感じられるようになってしまったのは。
──いや、違う。
“恭也さん”がいるからだ。
気づけば目が、控室の外を探していた。
──居た。
彼女の目は、室外のガラス越しに映る人影を捉えた。恭也が、電話越しに何かを確認している。短く頷き、表情はほとんど変わらない。
ほわっ、と……胸が温かくなった。
(……好き)
自覚した想いが胸を占める。
彼の姿を目にしただけで……
しかし、次の瞬間!
ギリギリと胸が、締め付けられる。後悔が、たきなを襲う。
わずかに“負けた”という雰囲気を纏っていた彼。背中の負傷。右膝の古傷。あんなに懸命に戦っていたのに……
(私は、彼の隣に立てなかった……守れなかった……)
深く息を吐き、呼吸を整える。
(もっと強くならなきゃいけない。もっと……)
千束のように誰かを信じて笑えるほどでもない。クルミのように全能な頭脳があるわけでもない。ミズキのように空気を和ませられる自信もない。
ならば自分には、何ができるのか。
(強くならなきゃ……)
心の奥で、小さな呟きが繰り返される。
控室の中は、まだ賑やかだった。
姫が千束の頬を軽くつついては、逆に突っ込まれ、クルミは横からクスッと笑い、ミズキがいつもの調子で茶化している。
たきなは微かに、口元を引き上げた。
笑顔の仮面を、また一枚貼り直す。
──輪の中には入れなくても、役目だけは果たさなければ。
それが、今の自分にできる、せめてもの償いだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日の午前。
まだ8月ではあるが、郊外の政府施設は軽やかな雰囲気に包まれていた。
“秘密協定”にふさわしく、見た目は何の変哲もない3階建ての、ちょっと立派な公民館にも見える、その程度の施設。
これから数時間後に結ばれる一枚の書面が、世界の均衡にわずかながらも、確かな影響を与える。そんな政治的価値の渦中に、たきなは立っていた。
「今日は、よろしくお願いいたします」
内調側の指揮官、秋月がミカと握手を交わしている。
事前の襲撃情報は、何もなかった。
このため、今回の警護はたきな達も含め、おおよそ30名。ベラシアからは8名の手練れのSPが配置されていた。内調側からはリコリコメンバー以外に約20名。
これに加え、調印式に臨む日本側の最高列席者、外務大臣の警護にさらに10名ほど。
“シュピーゲル”の単独襲撃を最大限に警戒した布陣を引いている。
秋月の最終確認が、イヤーピースを通じて届く。
『事前の説明通り、今回は“姫”の直掩、調印会場庁舎内、調印会場庁舎外の、三重に円形の配置とする』
基本的には、庁舎外で迎え撃つ体制を取っている。
その中にあって、リコリコのメンバーは、バラバラの配置とされていた。
接敵の可能性が最も高い庁舎外に恭也。“姫”の直掩に最後の砦として千束。その中間、庁舎内にたきな。クルミは全敷地内のシステムを掌握するため、庁舎内のモニタールームに配置。ミズキは予備戦力として会場内をフレキシブルに移動。ミカは秋月と共に全体の統括を担う。
『もう間もなく、調印式列席者が到着する。全員、今一度、装備と配置を再チェック。各自の健闘を祈る』
その通信があってしばらく。
会場となる庁舎の車寄せ。そこに黒塗りの車列が静かに滑り込み、車から次々に降りる影──その中心に、“姫”がいた。
(……また、別の持ち場)
たきなは会場の見取り図を確認する。既に打ち合わせどおり、配置は完了している。
彼と自分は、今回も別々。彼は外、自分は内。合理的で、正しい判断。それでも胸の奥で、何かが小さくきしむ。
(──もし、今日またあの暗殺者が現れたら)
恭也の名を、誰にも気づかれないよう胸の内で呟いた。
『……東通路、内周A班、配置完了。異常なし』
インカム越しに呟く。誰かからの即時応答はない。ただ、無言の信頼が流れてくる。
(恭也さんは、庁舎の外)
外周、襲撃者に真っ先に対処する立ち位置。たきなが立つ場所は、突破を許した場合に対処する配置。
もちろん、それでもたきなは、視線を前に向ける。周囲の状況確認、射線の確保、退避経路の把握、そして──
(来るなら、撃つ。……でも)
(殺さない。私はもう、そういう撃ち方はしない)
不殺。それは千束から与えられた価値観。彼女に倣うようにして始めたはずなのに、今ではそれが“自分の選択”になっていることを、たきな自身が誰より理解していた。
『“姫”の書面確認が終わった。まもなく調印式が開始される……』
その通信が入った直後。
『──外周D班、駐車場西側の森、不審人物発見!』
『外周C班、こちらも確認した。追跡する』
『外周遊撃班、こちらも対処する』
──恭也さん。
無機質でありながらも切迫する通信の中に、彼の声が聞こえた。
安堵と心配。二つの感情が、たきなの心をかき乱した、その時。
『……ガガガ……ザーザー……プツッ……ガガッ……』
突如、インカムに雑音が流れ始め、音声がほぼ聴き取れなくなった。
(なにこれっ……敵は単独じゃないの?)
たきなの背を冷たいものが流れる。いやな予感……
そして彼女は弾かれたように、駆けだしていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
時はわずかにさかのぼる。調印式が執り行われる、中央ホールでは──
「……よろしいですわ。書面の最終確認は終えました」
姫が立ち、机に並んだ協定文書を整えた。同行の通訳や政府関係者たちが厳粛に見守る中、千束だけが彼女の背後で軽く足踏みをしていた。
「なんかさー、やっぱりこういうのって、カタい雰囲気で苦手だなー……」
「たしかに、にぎやかな場ではありませんものね」
そう返す姫の声音は穏やかだった。だが、次の瞬間──
『──外周D班、駐車場西側の森、不審人物発見!』
無機質な声が、インカム越しに全員に届いた。
皆、顔を見合わせる。
──襲撃犯の姿が捉えられた。
緊張とも、安堵ともつかぬ、複雑な雰囲気が周囲を支配した、さらに次の瞬間。
『……ガガガ……ザーザー……』
インカムから雑音。
反射的に千束とSPが“姫”の周囲を固める、と同時。
──バシュッ。
(サプレッサー付き!)
SPの一人が崩れるように倒れる。
射線を直感で認めると、千束は引き金を引く。
──パン、パン、パン、パン……
複数の射撃音。そして射線上、一人の警護官が身を翻す。
仮面。黒マント。沈黙の殺意。
「……遅かったじゃん、シュピーゲル」
応じる声はない。ただ、静かに
──バシュッ。
銃声は一発。だが、“姫”を逃がそうとしていたSP二人が同時に崩れる。
と、ほぼ同時に、千束の銃口が火を吹く。ゴム弾が放たれるが、黒影は肩を捻り、紙一重で躱した。そのまま周囲に向けて銃の乱射を始める。
悲鳴が上がり、会場外へと我先に逃げ出す人々。
その混乱が“姫”の脱出を、一瞬遅らせる。
「させないっ!」
──パン!
──バシュッ。
千束の叫びと二つの銃声は、ほぼ同時。
またもやSP一人が倒れ、“姫”の肩から鮮血が散った。
しかし、
「使わないんじゃなかったの、銃なんて……ずいぶん追い詰められてるって顔じゃん?」
姫の、会場からの脱出は成功した。
そして、“シュピーゲル”の行く手は、赤い制服の“最強のリコリス”が阻む。
千束は笑った。状況にそぐわぬ、楽しげな声音で。
だがその目は笑っていない。銃口は静かに敵を捉えたまま、間合いを詰めるでもなく距離を測る。
(……こんな至近距離、普通なら撃てば当たる。でも)
千束はすでに身体を弾丸の軌道に乗せていた。反応ではなく、予測。相手が銃口を向けた時点で回避の起動に入っている。
横跳び、空中反転、着地と同時に反撃。ゴム弾が放たれるも──仮面の男は一歩前に、ほんのわずかだけ傾いた。銃弾は空を裂く。
「うわ、やっぱ避けるか。あはは、ホントつまんないよねー。撃たれてくれたら終わるのに」
口調は軽い。が、その表情に遊びはなかった。至近距離での射撃は、彼女にとって戦闘の常道。だがそれが通じない相手。
ならば。
間合いを詰める。
千束は銃を構え直し、両手で持ち直す。そのまま体ごとぶつかるように踏み込むと、逆に放たれた拳銃のグリップによる殴打を手首でいなす。
銃と銃が打ち合い、金属音が弾ける。近接格闘戦。お互い一歩も引かぬまま、連打、捌き、蹴撃。
その中、シュピーゲルの動きに──一瞬の綻び。
(……今、仮面の下を見せようとしてる? それとも)
違和感が千束の神経を走ったが、時すでに遅し。
銃身を軸にした回転蹴り。千束の反撃は、彼の右頬──仮面の側面を正確に捉えた。破裂するような衝撃。
跳ねる破片。床を転がった仮面の半分。
露わになったその素顔──
「……え?」
そこにあったのは、間違いなく──
高町恭也の顔だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
調印式会場から離れた森の中。一つの戦いの決着が着こうとしていた。
(──奥義 射抜っ!)
雷の如き、突進。
刃が多重に、重ねた突きが閃く。
だが、そこに違和感。
「──くっ……!」
わずかに力を削いだ。
倒した黒衣の男をあらためる。
「やられた……」
恭也は、自分が嵌められたことを悟った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
おそらく、そう仕向けたのであろう。
千束の回し蹴りが、シュピーゲルの右頬を鮮やかに捉えた。仮面は破壊され、半分が飛び散る。
そして──
仮面の裏から現れた顔は──恭也だった。
息を呑む音が、千束の喉から漏れた。あり得ない。そんな顔だった。だがそれは千束にとっては致命的な一瞬だった。
風が切れる音。ナイフが、まっすぐ千束の胸元を穿つ。
空気が止まり、世界が凍りつくような感覚が場を支配する。だがそれは、次の瞬間に破られる。
血飛沫。
千束が、崩れるように倒れた。
「……は、ははっ」
倒れた彼女の唇が、わずかに吊り上がった。不敵な笑み。それは嘲笑でも、虚勢でもない。事実に裏打ちされた、自信。
「残念。私の心臓、人工なんだよね~。こんなナイフじゃ、止まらないの」
その言葉が事実でも、衝撃は肉体を蝕んでいた。呼吸は浅く、指先は震え、立ち上がろうとする膝に力が入らない。再び襲い来る気配。仮面を落とし、“恭也の顔”をしたシュピーゲルが、静かに歩を進める。無言のまま、ただナイフを構えて。
そのナイフが振り上げられた刹那、ホールのドアが蹴破られる。
「──千束っ!!」
──やめろ。
その絶叫に、内なる声が重なり、銃口を凶敵に向けた。
その男が恭也でないことなど、一瞬で悟る。
「千束を殺させて、たまるかああああああああっっ!!」
叫びと共に、引き金を絞る。撃鉄の音。銃身が跳ね、9mmパラベラム弾が閃光のように空を裂く。
だが。
“恭也”は、その全てをかわした。肩を、足を、頭を最小限に動かし、弾を紙一重で躱していく。千束とすら見誤る速度と間合い。まるで、たきなの戦い方を知り尽くしているかのように。
「なっ──!?」
驚愕が脳を鈍らせる暇もなく、足音。彼がたきなへ迫る。シュピーゲル──いや、“顔だけが恭也”の男が。
撃つ。引き金を連続で絞る。だが弾は当たらない。汗がにじむ。足が震える。距離が、詰まる。
そして──
見えた。ナイフの切っ先が、たきなの喉元に向かって閃く。
『嫌だ』
心が叫んだ。
千束に嫉妬はあった。恭也さんと話す彼女を見て、何度も胸が締めつけられた。それでも。
それでも、千束は──親友で、大切なバディで、わたしの……わたしの……!
撃つ。撃つしかない。だが間に合うか。
刃が、光る。距離は──ゼロ。
たきなは、引き金を──
その瞬間、風を断つような音とともに、影の間に割り込む者がいた。
「……恭也さん!」
応じる言葉はない。ただ二本の小太刀が、白刃のナイフと交差する。
次の瞬間、激突する二つの刃。信じがたい速さ。鋼の火花が宙に飛び、刃が、肉が、空間が裂けるような戦いだった。
一歩も引かない、引けない。死闘とは、こういうものだとたきなは思った。これが、恭也という男。彼が本気で戦う姿だ。
周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、たきなはただその場に立ち尽くしていた。
血が滲む千束の胸元。人工心臓への衝撃で彼女は動けない。
それでも彼女の眼差しは、なおもあの男に向いていた。
──私は、何をしている……?
目の前で、あの人が死ぬかもしれないというのに。
金属の響きが空気を裂く。
一本目の小太刀が振るわれる。それを受けるシュピーゲルのナイフ。その返しで斬り込まれるも、二本目がそれを押し返す。
まるで研ぎ澄まされた刃同士の対話のような、無駄のない動き。
それでも、拮抗は崩れない。
シュピーゲルは守りに徹している。
攻めきれない。恭也の右脚、古傷が悲鳴を上げているのかもしれない。
だが。
次の瞬間、空気が張り詰めた。
恭也の身体が弾けるように動く。
奥義──神速。
時間が、歪んだ。
彼の視界に映る世界は、モノクロ。
その中で、ただ一人。超速の刃が駆ける。
たきなは、息を呑んで見つめていた。
速すぎる。見えない。
それでも、恭也はその全ての一撃を的確に叩き込む。肩、胸、膝。しかし、どの軌道も……
──届かない。
その事実に、彼自身も気付いている。
守備に徹したシュピーゲルの動きは、まるで深海の魚のように揺らぎなく、確実だった。
ジリ……ジリ……と時間が、削れていく。
神速の制限時間は、あと数瞬。
たきなの鼓動が早くなる。
──何か。何か、私にできることは。
その瞬間、
カチリ。
空気が、戻った。
──神速の終わり。
恭也の視線が、たきなを貫いた。
その目が、語っていた。
『狙え、たきな!』
心が、揺れた。
私に……彼の力になれるの?
こんな私が、彼の隣に立っていいの?
でも……でも……!
私は、あなたの力になりたい。
あなたの隣に立ちたい。
その思いが、指先に力を込めた。
弾倉には、あと一発。
どこを狙えば。
彼の意図は、どこに──。
次の瞬間。
たきなの世界が、モノクロに染まった。
視界の中心。シュピーゲルの動き。
右脚が、弧を描く。
それは、恭也の身体を蹴り上げ、体勢を崩す狙い。
だが、その太ももが描く軌道の、その未来位置に──
たきなは、弾丸を『置き』に行った。
予知にも似た、狂おしいほどの直感。
経験に裏打ちされた、それは神業。
銃声が、空気を裂いた。
弾丸は、吸い寄せられるようにして、シュピーゲルの太ももへ──
──たきなは、確かに見た気がした。
恭也の顔をした、今まで感情を殺し続けてきたはずの男の、唇の端がほんのわずかに吊り上がったように──。
すぐさま起こる、常識外れの体捌き。
人間の関節構造を逸脱するような軌道で、シュピーゲルの体が弾かれた。
放たれた銃弾は、彼の太ももを掠めることすらなく、空を裂いて通過する。
シュピーゲルが反撃に転じる、その寸前。
「……行け」
それは言葉ではなかった。たきなの口の中で、わずかに震えただけの決意だった。
狙いは最初から違った。彼女の、そしてきっと彼の──本当の標的は、その先にある。
壁際。
その赤と銀の鉄製の容器。
──消火器。
太ももを狙ったように見せかけた一撃は、あくまで囮。
人の目にも、敵の思考にも、迷いを生じさせるためのミスリード。
だが──。
跳弾させることなく、鉄の円筒の中心を正確に撃ち抜く。
軌道の補正など許されない。誤差一ミリが命取り。
加えて、至近距離で超高速戦闘を展開する二人の男の、どちらにも当てずに、だ。
ミスリード。当てる。当てない。その全てが神業。それを同時に、重ね掛けで──
それを彼女はやってのけた。
炸裂──!
パンッ! と乾いた破裂音。
中身が一気に噴き出し、爆風にも似た勢いで白い霧が広がる。
視界は即座に奪われ、音も熱も曖昧になる。
敵の意識が、瞬間的に逸れた。
その隙を、恭也は決して見逃さない。
(──奥義 薙旋!)
地を裂くような一歩。
右の抜刀が鋭く薙ぎ払う。
一の太刀が敵の守りを削ぎ落とし──
瞬間、逆脚の軸で背後に躍る。
二撃目は後方から、真後ろの死角に斬撃が走る。
続けて三撃目、四撃目は──軌道を変えて、左右交差するように叩き込まれた!
まるで一つの時間軸に、異なる軌道の四つの刃が折り重なるかのように。
それは、全方向から同時に襲いかかる幻影にも似た、必殺の連撃だった。
白い霧が、静かに晴れていく。
そこに立っていたのは、一人の青年。
その足元には、腰から太ももにかけてを血に染め、仰向けに倒れた黒衣の影。
──シュピーゲル。
もはや彼に反撃の余力はない。逃走も不可能。
この瞬間、すべてが終わった。
たきなは、駆け出していた。
気づけば恭也の胸に、すがるように駆け寄っていた。
「恭也さん……!」
そこには、優しい笑みがあった。
激戦を越えたその顔は、穏やかで──
「完璧な援護だった。君を信じてよかった。ありがとう」
その言葉が、全てだった。
恭也に認められた。
彼の力になれた。
それだけで、胸がいっぱいになる。
もう、千束にも、フキにも──嫉妬などなかった。
この人の隣に立てた。
それが、嬉しかった。
けれど、次の瞬間。
たきなの心は凍りついた。
恭也が視線を逸らした。
倒れた男に向かって、無言で、躊躇なく──
小太刀の切っ先を、心臓に突き立てた。
ビクン、と跳ねた体。
恭也の顔をした男の口から血が噴き出し、やがて、動かなくなる。
「……っ!」
声にならなかった。
息が詰まり、喉が固まる。
千束の不殺が、当たり前だった。
戦っても、死なせない。
敵でさえも、見捨てない。
だから、恭也も──そうだと、どこかで信じきっていた。
これまで彼が人を殺さなかったのは、きっと優しさからだと。
──違った。
「これが、本当の『御神流』だ」
言いながら、恭也はたきなを一度だけ振り返った。
その瞳は、冷たく──けれど、微かに揺れていた。
次の瞬間、彼は背を向け、静かにその場を去っていった。
たきなは、立ち尽くしたまま動けなかった。
恐怖?
違う。悲しみでもない。
たきなが動けなかったのは──
あの時の彼の、表情に。
そう、それは、ほんの僅かだった。けれど確かに。
あの目の奥に──『哀しみ』と『諦め』が、宿っていた。
そう感じた気がしたからだった。
(第9話 了)
中盤戦はここまで。次回より終盤戦です。
なお、恭也はここで一旦フェードアウトです。