少女あくたがわ   作:枩葉松

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第1話 気持ちいいことは好き

 

 初めて夢中になって読んだ小説は、小学校の図書室にあった『かいけつゾロリ』だ。

 

 図書室じゃダントツ人気の本で、いつも誰かが借りてるから中々読めなくて、だから自分の手元に来た時は一気に読んだっけ。面白かったなぁ、あれ。

 

 ――なんてことを、自室の天井を眺めながら思い返す。

 

 あくたがわ賞っていう、小説の賞があるらしい。

 黒石(くろいし)先生が小説家を目指していた頃、その賞を獲りたかったんだって。

 

 あたしが代わりに獲ったら、黒石先生は褒めてくれるかな。

 うん、きっと褒めてくれる。それきっかけで付き合えたりするかも。へへ。

 

 でも、あくたがわ賞って、じゅんぶんがく? を書かなくちゃいけないって聞いた。

 黒石先生に借りて、ちょっとだけ読んだ。難しい。よくわかんない。何あれ。

 

 まぁー、たぶん、『かいけつゾロリ』くらい面白いものを書けばいいでしょ。

 できるかどうかわからないけど。

 

 やってみなきゃ、始まらないって。

 

 

 

 ◆ ◇ ◆

 

 

 

「起立」

 

 椅子が床に擦れる音を聞いて、東條紫音(とうじょうしおん)は目を覚ました。

 

「礼」

 

 どうやら授業が終わったらしい。

 まだ眠たい頭でそれだけを理解し、薄く開いたまぶたを再び閉じる。次は何の授業だったか。移動教室ならこのままサボってしまおうと、眠気に意識を預ける。

 

「東條さん」

 

 聞き知った声だ。

 たっぷりと時間をかけ、嫌々顔を上げた。

 

 二十代後半にしては、やけに老けた顔つき。分厚い眼鏡。現代文担当の黒石悠斗(くろいしゆうと)は、いつもの幸薄そうな表情でこちらを見ている。

 

「放課後、職員室までちょっと。課題についてお話があります」

 

 と告げて、そう歩くようプログラムされたロボットのような足取りで教室を去って行った。

 その背中を尻目に、東條は顔を伏せた。 

 

 

 

 ◆

 

 

 

「あれ。黒石先生、まだ残ってたんですか?」

 

 ガラガラと職員室の扉を開いて、二年A組担任の蛯名(えびな)は不思議そうに言った。

 その声を背中に受け、黒石は読みかけの本から視線を上げて時計を見る。

 

 時刻は午後九時を回っていた。普段の黒石は、遅くとも午後七時には帰る。「もうこんな時間か」と零して、栞に手を伸ばす。

 

「東條さんを待っていたのですが……今日は来そうにありませんね」

「うちのクラスの東條ですか?」

 

 息をこぼす黒石。

 蛯名は冷笑を添えて聞き返し、黒石は小さく頷く。

 

「授業で課題を出しまして。短編小説の執筆なんですが、彼女だけ未提出なんです。筆が進まないのなら、相談に乗ろうかと……」

「あいつに時間割いてもしょうがないでしょ。あのバカ、本当にバカなんですから」

 

 黒石の言葉にかぶせるように、蛯名は早口でまくし立てた。

 

「俺のことは呼び捨てだし、どの先生に聞いても評判は悪いし、成績は最底辺だし……はぁ、何であんなのが俺のクラスにいるかなぁ。妙な連中と遊んでるって話も聞きますし、変な事件とか起こす前に、いっそこのまま辞めてくれた方が助かりますよねー」

 

 シンと、職員室が静まり返る。

 そうですね、確かにその通りです――なんて返しを、蛯名は期待していた。だがそれはなく、蛯名はこの黙り込む男にどう声をかけたものかと乾いた笑みを浮かべる。

 

「僕は、教師ですから」

 

 か細く呟いて立ち上がった。

 無駄に長い手足。迫力はなくとも説得力のある体躯に、蛯名は緊張を覚える。

 

「〝しょうがない〟を、時間を割かない理由にはできません」

 

 俯き気味に放たれた言葉に、蛯名はバツの悪い表情を作った。

 

 彼の声から、嫌味を言ってやろうという意思は感じられない。

 正義感からの発言でもない。

 ただ本当に、そう思ったから言った、というもの。

 

 故にここで腹を立てるのも難しく、しかし同意するのも癪である。

 

「そ、そうですか……」

 

 結局、曖昧な返した。

 黒石はどう言葉を続けるわけでもなく、「お先に失礼します」と横を通り過ぎて行った。

 

 蛯名は未だ残って仕事を続ける教頭に視線を移した。

 会話に一切入って来なかった彼は、ようやくその時が来たと言わんばかりに顔を上げ、蛯名の顔を見るなり苦笑いを浮かべた。

 

「変なやつですよね」

 

 その言葉に、教頭はまたしても苦笑で返した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「お前それマジかよ」

「マジだって。いいカモだわあのオッサン」

 

 雑居ビルの地下一階に看板を出すその店には、昼間に背を向けた連中が集まっていた。

 ヘラヘラと心底楽しそうに笑う彼らを横目に、東條は煙草を燻らせる。

 

 きっと仕事の話だろう。

 何をしているのか詳しくは知らないが、彼らと一緒にいれば飲食に困ることはない。

 

 何より、ここは自分にとって安心できる場所だ。

 下手に詮索して、ここを失いたくはない。

 

 紫煙の行き先を目で追った。

 故障しているのか埃が詰まっているのか、上手く機能を果たしていない換気扇にすすられるようにして消える。

 

「なぁ、紫音」

 

 声の方向に視線を向けると、くすんだ金髪の男が立っていた。

 そこから言葉は続かない。だが、その目が求めるものは知っている。

 

「ふふっ。仕方ないなぁ」

 

 精一杯妖し気に笑って見せて、煙草を灰皿に押し付ける。

 

「あ、次オレな!」

 

 仕事の話をしていた男の一人が、元気よく手を上げた。金髪の男は、「お前は一人でやってろ」と毒づく。

 東條はあとの二人に小さく手を振って、金髪の男と共にトイレへ向かった。

 

 クラスに自分みたいな子はいない。

 いないから、自分はきっとすごいのだと。そう考えれば、足取りは不思議と軽くなる。

 

 洋式便器に腰を下ろして、彼がベルトを緩めるのを見つめる。用を足すわけでもないのにカチャカチャと急ぐその様が、東條は少し間抜けに思えて好きだった。

 

 何より、気持ちいいことは好きだ。

 嫌なことを考えなくて済むから。

 

 自分は大丈夫なのだと、納得することができるから。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 朝日が酔った頭に響く。

 電柱に手をついて、東條はオロロロと胃の中身を吐き出した。何を飲んだのかイマイチ覚えていないが、自分の腹からピンク色の液体が出てくるのは不快だ。

 

「じゃあなー」

 

 スタスタと離れてゆく男たち。

 東條は「あ、うん」と返事をするや否や、地面をイチゴオレ色に染める。

 

「……ちょっとは心配してよ。あんたらが飲ませたんだから」

 

 胃液の混じった酒の残りカスを吐き出して、恨みを含むように助けを求めるようにこぼす。当然、男たちには届かない。

 髪に少しだけ吐しゃ物がかかってしまった。ポケットティッシュで拭き取るが、まだ臭い。

 ひとまず自動販売機で水を買い、三分の一ほど胃に流し込む。ぼーっとした頭で、とりあえず家に帰ろうと目的を設定する。

 

「今日は平日だっけ……」

 

 ふらふらと歩きながら、学校があることを思い出す。

 別に登校したところで何をするわけでもないのだが、中学生までは一応真っ当に通っていたものだから、行かないというのは気が引ける。

 

 しかし、今日は頭が痛い。眠気も酷い。心の天秤が揺れ動く。

 ようやく家に着くが、どうするかはまだ考えていなかった。

 とりあえずシャワーを浴びてから決めよう。学校に行くにしろベッドに飛び込むにしろ、ゲロ臭い髪のままでは御免だ。

 

「あ」

 

 思わず、声を漏らす。

 玄関のドアノブに触れかけて、そっと手を引いた。タイミングよく中から出てきたスーツ姿の父親と目が合う。

 まだ半分眠っていた父親の眼は、自分を見るなり厳しくなった。それが悔しいのか、悲しいのか、自分でもよくわからないが、

 

「どいてよ。邪魔だから」

 

 反射的に、醜い声を吐き出した。

 瞬間、父親は東條の頬をはたいた。いつだったか男に貰った髪留めが飛ぶ。

 

「学校はどうするんだ……辞めるのか」

 

 はたいた手をさすりながら、父親は静かに問う。

 赤く腫れた頬から、一瞬だが痛みが引いた。

 

 辞める。退学する、学校を。その選択を、今まで考えなかったわけではない。

 まともに学生をしなくなって、どれだけ経っただろう。成績はボロボロで目も当てられない。わかっている、そんなことは自分が一番理解している。

 

「……っ」

 

 東條は唇を噛む。

 道を踏み外す。完全に。きっともう戻れない。そこに不安を感じないわけがない。

 

 だからこそ、父親にそれを言われることが腹立たしかった。望まれているように聞こえた。嫌に冷静な声音に虫唾が走った。

 

「辞めるって、言わせたいんでしょ……!」

 

 持っていたカバンを投げつける。

 すぐさま踵を返して、手ぶらで来た道を引き返した。

 財布もスマホもカバンの中にしまっていたことを思い出したのは、それからしばらく経ってからのことだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 小さい頃、その臭いがどうしてもダメで、父親に禁煙するよう手紙に書いたことがある。

 お母さんかお父さんにお手紙を出しましょうと、小学校の授業で宿題を出されたからだ。

 

 文字なら普段言えないことも伝えられるだろうと先生は言っていたが、それは感謝の気持ち的な意味で、禁煙を求めたのは自分だけだろう。……ちなみに、それを機に父親は禁煙した。

 

 そんなことを、ふと思い出す。

 歩道の端に座り込み、夜へと移り変わる街を見ながら、煙を吐いて。

 

 付き合いで身体を悪くするなんてバカバカしい。

 そんなことはわかっている。

 だけど、こうすることで安心する自分がいる。ここが自分の居場所だと、当たり前のように歩き煙草をする通行人を見て胸を撫で下ろす。

 

 これからどうしよう。

 

 カバンを取りに戻る勇気なんてない。

 きっと父親にはまたぶたれるし、母親はヒステリックに喚き散らすだろう。自分の教育方針について、夫婦喧嘩に発展するかもしれない。

 

 そういう煩いのは嫌いだ。

 

「おっ、紫音じゃん!」

 

 見ると、金髪の男といつもの二人がいた。

 東條は立ち上がり、うんっと身体を伸ばした。彼らとなら、この現実もいくらぼやける。

 

「帰ってねえの? 服、そのまんまだけど」

「あー、家追い出されちゃってさ。財布も無いし、どうしようかなって」

「そっか。じゃあちょうどいいや!」

 

 金髪の男は、東條の肩に手を置く。

 ちょうどいい。引っかかる言い方に、東條は眉を寄せた。

 

「俺ら、やばい先輩に借金作っちゃってさ。ちょっと返すの手伝ってくれよ」

「…………は?」

 

 一歩、二歩と後退る。

 しかし、彼はすぐさま東條の手首を取った。皮膚に食い込む指が、やけに冷たく感じる。

 

「だから、金作ってくれって言ってんだよ。仕事も紹介してくれるみたいだし、お前ならすぐだって! そういうの得意だろ?」

 

 男の視線が、自分の身体を上から下へ舐めてゆくのを感じた。

 

 それは、知らない目だった。

 バカ話をしている時も、セックスを求める時も、そんな目はしない。

 

「む、無理だって! 放してよ!」

「俺ら友達だろ!? だったら助けてくれよ! マジでやばいんだって、このままだと!!」

 

 どうして自分がこんな目に、とは思わない。

 種は自分で蒔いてきた。水も散々やった。芽が出るのは時間の問題だった。

 

 でも、受け入れられない。

 次に彼らと夜を明かせば、二度と朝が来ないような気がする。

 

 それは、とても、怖い。

 

「いだっ!!」

 

 鈍い音と共に、金髪の男が尻もちをついた。

 

 誰かが彼を、紙袋で殴った。

 この状況で、そんな親切を焼くような人物に、東條は心当たりがない。自由になった手首をさすりながら、紙袋の持ち主へ視線を流す。

 

 ――黒石だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 黒石に手を引かれてひたすらに走り、知らない公園に行き着いた。

 

 たいした運動量でもないのに、黒石は立ち止まるなり膝を着いて吐き、落ち着こうと深呼吸をしかけてまた吐いた。まだ若く、体格も細い以外は悪くないのだが、運動とは無縁の人生を送ってきたことがわかる。

 

「……あたしのこと、探してたの?」

 

 東條はベンチに腰を下ろし、そう尋ねた。

 

 水飲み場で砂漠帰りように水を飲む黒石は、東條をチラリと横目で見て蛇口を閉める。

 

「あの街には、行きつけの古本屋があるんです。今日はその帰りでした」

 

 口を手の甲で拭って言った。

 東條は自分の隣に置かれた紙袋を一瞥し、その中に分厚い本が何冊かあるのを確認する。

 

「まさか、ひとを殴ることになるとは……あぁ、僕ってやつは……っ」

 

 苦い面持ちで俯き頭を掻く黒石に、申し訳ないことをしたなと東條は思った。

 通報されたらどうしようとか、これで職を失ったらどうしようとか、そういう不安を巡らせているのだろう。東條は「安心しなよ!」と足を組み替える。

 

「あいつら、ひとに言えないこと結構やってるし。警察とかに頼れないと思うよ?」

 

 具体的に何をやっているかは知らないが、具体的に知らない方がいいことをやっているのは知っていた。そんな身分で、通報などできるわけがない。

 

 その言葉に黒石は顔を上げ、ジッと東條を見据えた。

 ボサボサの頭のまま、彼女に歩み寄る。温和な顔に似合わない、鬼気迫る表情を装備して。

 

「そ、そんな人たちと、付き合ってはいけません!! 何を考えているんですか、あなたは!!」

 

 怒った。

 唾を飛ばして、口を大きく開けて、目をカッと見開いて。

 

 完全に予想外の反応に、東條は硬直する。

 

 別に怒らせるつもりなんてなかった。あぁよかったと、笑って欲しかった。

 本当にただ、それだけだった。

 

「あ、えっと……ご、ごめんなさいっ」

 

 その言葉は、自然と溢れて出た。

 最後に誰かに謝ったのはいつだったか。もう随分と遠いような気がする。

 

 説教は嫌い。でも、これは悪い気がしない。

 自分のことを真正面から見てくれている気がして、むしろ気分がいい。口元が緩む。

 

「……こんなはずじゃ、なかったんだ」

 

 自嘲気味に言って俯く。あの街に取り残した男たちを思い出して。

 

「フツーじゃダサいと思った。周りよりもすごいって言われたくて、あたし自身がそう納得したくって……!」

 

 将棋界に旋風を巻き起こす中学生とか、スケートで世界ランクに食い込む高校生とか。

 ニュースを流せば、嫌でも目に入ってくる。

 

 身近なところにも、クラスをまとめる委員長がいて、部活を率いる部長がいて、全生徒の代表を張る生徒会長がいる。陸上で全国大会に出る生徒がいれば、全国模試でいい成績を出す生徒だっている。そんな彼ら彼女らに、自分は到底及ばない。

 

「……でも、どうすればいいかなんてわかんないし。寄って来る男と遊んでるのが一番手軽でさ。気持ちいいし、嫌なこと考えなくていいし」

 

 勉強ができればよかった。運動ができれば違っていた。

 何もかも中途半端で、得意なことなんて一つもない。あの男たちと一緒に、転がり落ちてゆくことすら許容できない。

 

「ねえ黒石……あたしのこと、抱いてよ」

 

 彼を見る。

 冗談ではない。自暴自棄のつもりもない。ただ、このままでは情けない自分に耐えられなくなる。勝手に消えてくれない現実なら、せめてハリボテで覆い隠してしまいたい。

 

 今までのように。これからのように。

 

「できません」

「あたしが生徒だから? 学校なら辞めるよ」

 

 自分でそう口にして、その重さに汗が滲む。

 

 不格好な笑みで、黒石を誘った。

 彼は恥ずかしそうに「そ、その、何というか」と漏らして、

 

「……経験が、ないもので……」

 

 と、頬を掻きながら続けた。

 

 東條は目を見張る。笑う場面なのだろう。きっと、いつもなら手を叩いて腹を抱えていた。

 そう、いつもなら。

 

「そんなこと言わないでよっ!!」

 

 ぽたり、ぽたりと、涙が地面に落ちて消える。

 今欲しいのは、気遣いでも純情でもない。

 

 求められたい。自分がここにいてもいいことを、確かめるために。

 

「あたし、それしか知らないんだから!!」

 

 顔をぐしゃぐしゃにして、嗚咽混じりに叫ぶ。

 求めれば、同じように求められて、あとは向こうが勝手にやってくれる。自分はただ、それを享受していればいい。それだけでよかった。それだけしか知らない。

 

 黒石は東條の隣に腰を下ろす。

 そのまま肩を抱くわけでもなく、腰に手を回すわけでもなく、横目で一瞥した彼は何やら神妙な面持ちを浮かべている。

 

「……僕はあなたくらいの頃、難しい本を読むのが好きでした」

 

 涙も鼻水も出尽くした頃、黒石はタイミングを見計らったように呟いた。

 

「内容なんてどうでもよかったんです。分厚い本を開いていたら、賢そうに見られるじゃないですか。そうすることで、自尊心と折り合いをつけていました」

「……あたしに読書しろって言いたいの?」

「読書は強要するものではありません。ですが、課題の提出は強要できます」

 

 東條の問いに、石黒はすぐさま返した。

 相変わらず、幸の薄そうな灰色の表情だ。必死なのか無関心なのかもわからない。でも、その目からは、温かいものを感じる。

 

「小説を書いてください」

 

 公園のすぐそばを、随分と楽しそうにエンジンをふかす車が通って行った。

 

「僕は異性の肌の温度も、夜の街の喧騒も、煙草の味も知りません」

 

 煙草、という単語にドキッとする。

 自分の膨らんだポケットに、黒石の視線を感じた。無意識に手を添えて隠すが、別段咎めるような雰囲気はない。

 

「あなたの書いたものに、僕はきっと感動します。……それは、セックスの代わりにはなりませんか?」

 

 黒石は手を組み、難しそうに眉を寄せて言った。

 

 少し驚いた。考えて、考え抜いて、出した答えがそれかと思った。もちろん、悪い意味で。

 プッと、東條は吹き出す。自分の涙が、急にバカバカしいものに感じた。

 

「褒めてあげるから書けってこと?」

「……まあ、そういうことになります」

「何それ。子供じゃないんだからさ」

 

 そんなものを書いたって、何も変わらない。

 第一に、文才なんてない。下手くそを晒して褒めて貰うなんてバカみたいだ。

 

 だけど、今更どう転んだところで、バカで間抜けな愚か者という評価は避けられない。

 それなら、彼の口車に乗っても同じこと。

 

 東條は小さく息をついて、やわらかく口角を上げる。

 

「……わかった。そうする」

 

 それは、今よりもずっとマシだ。

 

 

 

  ◆

 

 

 

 家へ帰ると、思っていたよりもあっさり中に入れて貰えた。

 怒鳴り声の一つや二つは覚悟していたが、母親は心配するばかりで、父親は呆れて物も言えない様子だった。

 

 ひとまず熱いシャワーを浴びて、冷めた夕食をチンして腹を満たす。

 正直眠い。早朝に家へ帰りそびれ、路上やベンチでうたた寝をしたが足りない。だけど、今日はまだすることがある。

 

「課題の参考にするから、小説を何冊か貸して……く、ください」

 

 父親の部屋をノックして、そうお願いした。

 

 すると父親は、まず目を見開いて、次に考え込むように視線を伏せ、数秒後に「あ、ああっ」と黄色い声をあげた。

 

 それから一言二言、これまでのことと朝のことを話して、小説を三冊受け取り自室へ急ぐ。

 父親のあんな顔は初めて見た。

 

「さて、と……」

 

 物置きと化していた勉強机を片付け、ホコリのかぶった椅子に腰を下ろした。

 最後に座ったのは、高校受験の前日だ。久々の感触にお尻が落ち着かない。

 

 黒石に貰った原稿用紙を前に、ひとまずシャーペンを取った。

 

 何も進まないまま、シャーペンをくるくると回して十数分。このままでは日が昇る。

 参考に借りた小説を開く。まともに読書をするのは久しぶりだ。

 まったく趣味な内容ではないが、それでもある程度読みやすいのは、そういうものを選び取ってくれたからだろう。

 

「……」

 

 書こう。凝ったものじゃなくていい。不格好でかまわない。

 自分のことを書くのだ。主人公は女子高生の方がいいだろう。

 

 これまでに経験したことを、物語調に。

 

 何だか仰々しい言い方だ。実際は酒をあおって煙草をふかして、完全に見放されるほどでもない反抗期を迎えていただけ。

 きっと黒石も、よくあるタイプの不良生徒だと思っていたことだろう。つまらないくせに面倒な女だと辟易しているに違いない。

 

 だったら。

 

 ペンを走らせる。凡庸なら、あの男たちに聞いた話も組み込めばいい。下手くそな文章なのだから、情報くらいは詰めておかないと。

 思っていたより漢字を忘れている。小学校で習うものですら。

 字だって随分と汚い。中学生の頃、少しだけ書道教室に通っていた。あのまま続けていれば、こんなミミズがのたくったような字にならなかっただろう。

 

 大きく息を漏らす。

 

 書き進むほどに不安が募る。褒めて貰う以上、相応のものに仕上げたいという気持ちが湧く。下手を許容できなくなってゆく。

 理屈ではわかっている。それがどうしようもないことだと。

 一流のスポーツ選手に一般人が太刀打ちできないように、参考に借りた小説のレベルにいきなり到達できたなら、世の中から小説家なんて職業は消滅するだろう。

 

 わかっている。わかっているけれども。

 

 東條は想像する。よくできた、頑張ったと言う黒石を。それはとても嬉しいことだが、屈辱のような気がしてならない。

 

 書いて。消して。

 書いて書いて。消して書いて。

 

 消して。

 

 消しゴムを使う手に力が入り過ぎて、原稿用紙が一枚ダメになった。今からじゃどこの文房具屋も開いていない。大切に使わないと。

 

 ふと思った。黒石は別に、明日提出しろとは言っていない。課題なのだから早いに越したことはないが、彼はそこまでのことを求めていないし、期待もしていない。

 

 一段落したら横になろう。

 ここを書いたら。この先を書いたら。満足したら、ペンを置く。

 

 久しぶりにシャーペンの芯を補充した。一本使い切ることが、こうも簡単だとは。

 高校受験を思い出す。芯に『合格』と彫ると受かる、なんておまじないが流行った。藁にも縋る思いでバカみたいに芯を無駄にしたなと、東條は一人笑う。今日までのことも、いつかバカ話の一つに列挙されるのだろう。

 

「……何か、やだな」

 

 独り言ちて、唇を噛む。

 平凡な反抗期。大袈裟に魅せたいだけの自傷行為。

 それでも、あの恐怖は本物だった。焦燥も鬱屈も、月並みなものだとしても、未来の自分に笑われるのは腹が立つ。

 

 だけど、たぶんそれは避けられない。おまじないにすら手を出した受験時の不安を笑ってしまうほど、時計の針は多くを曖昧にしてしまう。

 今書いているこれを遠い先で読み返して、恥ずかしいと思う日がやって来る。なにこれと苦笑して、あんな頃もあったよなと大人面で軽く流す。

 

 そうならないように、と。

 

 東條は一縷の望みをインクに線を書く。あとから見て笑えないものにしたい。目を背けるようなものに。

 眠気が外界の情報を遮断する。

 ここは今、どこよりも静かだ。

 

 あと少しだけと、点を打ち。

 もう少しだけと、丸を書く。

 

 うんっ、と身体を伸ばして、窓の外へ目をやった。夜空に朝が混じったような、見慣れた色がそこにはあった。

 ひとまず、書き終えた。勢いだけで完成させた。

 我ながらよく出来たと思う。初めてにしてはよくやった。自分はやれば出来る子なのだと鼻息を漏らす。

 

「ふぅー」

 

 ひと通り自己満足に浸って、体重と疲労を椅子の背に預ける。

 チラリと机の上に視線を配った。頑張ったとか健闘したとか、そういう精神的なところはさて置き、酷い出来であることは素人目にもわかる。

 

 これだけ頑張ったのに、と奥歯を噛み締めて、これまで頑張ってこなかったからだと、すぐさま真実に行き着いた。

 

 まぶたを閉じて、睡魔に身を捧ぐ。

 ボンヤリとした頭の中を、書き連ねた稚拙な文章がぐるぐると回る。

 

 そうして出来た渦を、東條は後悔と名付けた。

 

 

 

  ◆

 

 

 

 その日、東條が登校したのは放課後だった。

 

 椅子に座ってしばらく寝て、ベッドに移って熟睡して。途中母親に声をかけられたらしいが記憶になく、結局起きたのは昼下がりのこと。

 学校に行くべきかどうか。この時間帯なら悩む余地などないのだが、机の上の原稿用紙をそのままにしておけるほど、東條は我慢強い人間ではなかった。

 

 下校の流れに逆らって校門をくぐり、職員室の扉を叩いた。生徒からは奇異の目を向けられ、教師からは刺々しい視線を感じる。特に職員室内は敵陣のど真ん中のように感じたが、黒石は昨晩同様の顔色でそこに座っていた。

 

「よく一晩で、これだけ書き上げましたね」

 

 原稿の束を受け取るなり、彼はそう言った。

 その声音は、とても好意的なものだ。

 

 東條は背筋にむず痒いものを感じた。

 予想していた台詞だが、実際に聞くとこみ上げてくるものがある。

 

「で、でも、酷い出来でしょ? 字の間違いもあるかもだし、てか絶対あるし!」

「プロでも誤字脱字はあるので、そこはしょうがないですよ」

 

 恥ずかしそうに自己弁護の言葉を羅列する東條に、黒石は原稿に目を向けたまま淡々と返した。

 酷い出来を否定されなかったことにすぐさま気づいた東條は、更に言葉を並べようと口を開く。しかし、真剣に上から下へと目を走らせる黒石を前に、吐き出しかけた台詞を飲み込んだ。

 

「なるほど」

 

 そう呟いて、黒石は紙を捲る手を止めた。

 完成に数時間、読了に五分弱。その呆気なさに、東條は小さく「はやっ」と漏らし、

 

「ど、どう……?」

 

 不安げに眉を寄せてそう続けた。

 

 結果はわかっている。彼は褒めると言ったのだ。ここまでさせてこき下ろすような男ではないだろう。

 それでも、安心はできない。彼ではなく、自分を信用できていないから。

 

 息を呑む。

 じわっと手汗がにじみ、嫌に喉が渇く。

 

「面白かったです」

 

 黒石は顔をあげて言った。

 面白かった。今、そう口にした。

 

 これも予想していた台詞だ。定番中の定番の褒め言葉だろう。

 わかっていた、わかっていたのに。

 

「これは、東條さんにしか書けないものだと思います。――本当に、本当に、よく頑張りましたね」

 

 と、微笑む。

 優し気に、ハッキリとした口調で。

 

 そういう顔もするのかと目を見張って、次いで彼の言葉を咀嚼する。

 

 それは、甘い響きだった。

 お世辞だろと冷静ぶる自分よりも、それを素直に享受しようとする自分が上回り、熱として体外へ溢れ出た。どんな化粧でも誤魔化せないくらいに、表情が緩み切る。

 

「東條さん?」

 

 彼の問いかけに背を向け、東條は勢いよく職員室を飛び出した。

 その際、担任の蛯名と鉢合わせして怒鳴られかけるが、なりふり構わず走る。

 

 昨日今日と続けて全力疾走をするとは思わなかった。ひと気のない教室の前で立ち止まり、扉を背にしゃがみ込む。

 

「はぁあー……」

 

 大きく息を漏らしながら、未だ朱色が収まらない顔を両手で隠した。

 褒められると嬉しいなんて単純な原理に、気恥ずかしさが付属していることを久々に思い出す。

 

 黒石は言った。セックスの代わりにならないかと。あの頼りない顔で。

 それを思い出して、東條は小さく頷く。二度、三度と首肯する。

 

 気持ちいいことは好き。嫌なことを考えなくて済むから。

 

 放課後のひと気のない廊下には、運動部の足音や誰かの談笑がこだまする。

 どんな音でも届けてしまいそうなモルタル仕立ての壁とフローリングの床だが、その一滴が零れ落ちた音を聞いた者は、きっといない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「おい東條!! 待てっ!! おいっ!!」

 

 廊下に響く蛯名の怒号。

 しかしその背中はどんどん遠ざかって行き、立ち止まるどころか振り返る素振りすら見せない。

 

 どっ、とため息をつく。

 迷惑この上ない生徒。クラスの異分子。何で来たんだよ、このまま退学してくれよと、その苦々しい表情は語る。

 

「大変ですね」

「えっ? あぁ……はは……」

 

 職員室に入るなり、同僚の女性教諭にそう言われ、蛯名は少し照れながら頷いた。

 

 その視線は、自然と黒石の方へ。

 彼は片手で口を覆い、もう片手で原稿用紙の束を持ち、何やら深刻そうな表情を浮かべている。

 

「それ、昨日言ってた短編小説を出すって課題? もしかして、東條(あのバカ)が持ってきたんですか?」

「……え、えぇ……まあ……」

「へぇー! 黒石先生、一体どんな手を使ったんです? 課題出したらお金払うとか?」

「いや、そういうことは、まったく……」

「ふーん。ねえ、ちょっと見せてくださいよ!」

 

 どうせ酷い内容だ。下手くそだと内心罵って気持ちよくなろうと、蛯名は原稿に手を伸ばす。

 だが――。

 

「……」

「……あの……」

「……」

「黒石先生……?」

 

 黒石が、原稿から手を離さない。

 せせら笑ってやろうという魂胆が透けたか、と蛯名は思った。

 

 しかし、どうも違う。

 彼の目は、こちらを非難するような色をしていない。むしろ()()()()()()()、そういう気配すらある。

 

「……蛯名先生……」

「はい?」

「これは……()()()()()()()()()()()()()()……?」

 

 妙な言い方だな、と思った。

 

 読むな、ならわかる。

 自分の授業の課題として、生徒が出したもの。言ってしまえば、個人情報。通常、事情がない限り他人に見せたりしない。

 

 しかし黒石は、読まない方がいいと言った。

 含みのある言い方に、ただ小馬鹿にしたかっただけの蛯名の中に好奇心が湧く。

 

「まあそう言わず、ちょっと貸してくださいよ! 担任として、あいつが何を考えているのか知りたいですし!」

 

 もっともらしいことを言いながら、ほとんど無理やり黒石から原稿を奪い取った。

 

 はぁどれどれ、と目を落とす。

 批評家気取りの視線で、上から下へ、文章をなぞる。

 

「――――――――――――――――――――――――――――」

 

 なぞる。

 なぞる。

 なぞる。

 

「――――――――――――――――――――――――――――」

 

 なぞる。

 なぞる。

 なぞる。

 なぞる。

 なぞる。

 

「――――――――――――――――――――――――――――」

 

 なぞって。

 なぞって。

 なぞって……。

 

 なぜだかわからないが、どうしようもないほどに気持ち悪くなり。

 胃の中の物を、全て吐き出した。

 

「きゃぁああああ!!」

「うわっ!? どうしたどうした!?」

「え、蛯名先生、大丈夫ですか!?」

 

 騒然とする職員室。

 床を吐しゃ物まみれにして、スッキリとして、蛯名の目はすぐ原稿へと向かった。周りのことも、吐いたことも、今はどうでもよかった。

 

 それよりも何よりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「…………っ」

 

 一週間ぶりの獲物に齧りつく肉食獣が如く、目を剥いて原稿を読み耽る蛯名を見上げ、黒石はゴクリと唾を飲む。

 

 東條から原稿を受け取り目を通した瞬間、黒石は思った。

 ――何がかおかしい。

 

 ただの小説。

 見た目に似合わず字が綺麗なだけの、本当に何でもないただの小説。

 内容だって、ハッキリ言ってチープ。

 

 なのに。

 

 異様なほどに面白く感じて、異常なほどに続きが読みたくて――そういう、()()()()()をしていた。

 

 彼女の文字に、言葉選びに、独特なリズムに、脳が過剰に反応する。

 彼女の文章は、強制的に感情を生産する。

 感動せざるを得ない。

 

 黒石は早々にこの特異さに気づき何とか耐えたが、蛯名はそれができなかった。

 この文章から何を受信したのか吐き散らかし、それでもなお読書をやめない。周りで教師たちが騒ぎ、絶えず彼に声をかけ続けているのに。

 

「いやー!! 面白かった!! これ、続きはないんですか!?」

 

 晴れ晴れとした蛯名の声が、職員室内に響き渡った。

 現在進行形で大勢から心配されている者の発言とは思えず、誰も彼もが蛯名に奇異の目を向けた。

 

「えっ……いや、ないです。さっきも言いましたが、これは短編なので……」

「だったら、東條に書かせてくださいよ! ぜひ読みたいです!」

「い、いやぁ……っていうか先生、その……足元……」

「え? わっ、ぬわぁ!? ちょ、これ誰ですか!? えぇえ!?」

 

 原稿を放って、足元の惨状に驚く蛯名。

 この場の誰も彼もが思った。――蛯名先生は働き過ぎたのだ、と。

 異常者を見る目の中に、同情の視線が混ざり始める。

 

 その隙に黒石は原稿を回収し、静かに職員室を出た。

 あてもなく歩いて、立ち止まって、ふと手元に目を落とす。

 

「…………」

 

 文字が、一文が、視線を吸着する。

 眼球が勝手に、情報を取り込もうと動く。

 

 世界中の名作とされる作品は大抵読んだ。

 現代の市場を賑わす作品も欠かさず手に取る。

 文学もエンタメも分け隔てなく、何だって愛している。

 

 だからこそ、理解(わか)る。

 東條紫音という少女が紡ぎ出したこの作品は、自分がこれまでに出会って来たどれとも違う。

 

『これは、東條さんにしか書けないものだと思います。――本当に、本当に、よく頑張りましたね』

 

 あの言葉に、嘘偽りはない。

 こんなもの、他の誰かに真似できるものか。

 

「…………魔性(ましょう)だ」

 

 無意識のうちに、そう口から零れ落ちた。

 

 読み手を嘔吐させ、しかもそれに気づかないほど没頭させてしまう文章。

 そんな麻薬(ドラッグ)じみた小説を作り出してしまう暴力的な才能を、魔性以外の何と呼べばいいのか。

 

 もしこれが、世に出たら――。

 

 彼女の作品の可能性に、読書家の一人として自然と口角が上がった。

 きっとこの才能は、世間を席巻する。小説というコンテンツに激震を起こす。その過程で多くのひとを救い……しかし同時に、決して少なくない数のひとを()()。そう確信できる。

 

 どうか……。

 どうかこれが、彼女の最初で最後の作品であってくれ。

 

 ――と、教師とは言い難い願いを胸に。

 

 黒石は原稿を強く握り締め、縦に引き裂く。

 誰にも復元できないよう、細切れにする。

 

 頭痛を呼ぶ罪悪感。

 だけど、それよりも大きな危機感と、それに伴う義務感につき動かされ、残骸と化した原稿だったモノをゴミ箱の奥へ押し込んだ。




 とある短編賞に出す予定の作品です。
 3万字くらいまでは書きますが、以降はその時の気分で決めますのでご了承ください。
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