少女あくたがわ   作:枩葉松

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第2話 禁煙

 翌朝。

 

 久しぶりに「行ってきます」と家族に声をかけてから家を出た東條の足取りは、ここ数ヵ月の中で一番軽かった。

 先日の一件で遊び仲間との付き合いをやめ、連絡先も全てブロックし、その勢いで全てのSNSのアカウントを削除した。日向を歩く人々への後ろめたさがないだけで、気怠いだけだった朝が随分と気持ちいい。

 

「ねえ聞いた? 蛯名先生、しばらくお休みだってさ」

「え、何で?」

「職員室でいきなり吐いて、それに気づかず笑ってたらしいぜ。何かの病気じゃね?」

 

 教室に着くと、クラスメートたちがそんなことを言い合っていた。

 

 ふーん、と東條は興味なさげに鼻息を漏らす。

 蛯名は口うるさくて、明らかに自分のことを下に見ていて、あまり好きではなかった。そんな彼がいなくなったことは素直に嬉しいが、しかしその理由が病気というのは何となく心がもにょる。

 

「あっ……!」

 

 時間割を見て、思わず声が漏れた。

 

 一時間目の授業は現国。

 黒石が担当の授業。

 

 いつもは何とも思わないのに、今日は違う。

 助けてくれた時の彼の姿が、褒めてくれた時のあの表情が脳裏に浮かび、自然と口元が緩む。そのだらしない顔を隣の席の男子に見られ、コホンと咳払いし窓の外へ目をやる。

 

(あぁー、やっば……)

 

 内心独り言ちて、またニヤついて。

 黒石の自信なさげな表情を思い出し、彼が差し伸べてくれた大きな手を思い出し、机に突っ伏してモダモダと足踏みをする。

 

(もぉー! 違う違うっ、そーゆーのじゃないしー!)

 

 あんな男はタイプじゃない。

 違う、違う。全然違う。

 

 と、自分に対して言い聞かせた。

 

 だけど、授業の開始が待ち遠しくて、そのせいか時間の進みがやけに遅く感じる。

 早くその顔を見たくて、朝のホームルームはずっとうわの空。

 

 授業開始を知らせるチャイムが鳴り、やっとその時が来た――と、思ったのに。

 教室に来たのは、別のクラスを担当する現国の教師だった。

 

「えーっ、黒石先生は体調不良のため、今日は私が代理を務めます」

 

 うへぇーと、わかりやす過ぎる落胆の表情の東條。

 隣の男子はそれを見て、あまりの間抜けさにブフッと軽く噴き出した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「…………っ」

 

 六畳一間の一人暮らし。

 古びた畳の上に敷かれた布団。

 酷い夢を見ていて黒石は、パッとまぶたを開くなり安堵の息をついた。

 

「水……水……っと」

 

 のそのそと身体を起こして、ふらつく足取りで台所へ。

 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、残り僅かな水を飲み干す。

 

「はぁー……」

 

 大きなため息をこぼすその顔は、秋の紅葉みたいに赤く火照っていた。

 

 昨日の夜、四十度近い発熱に襲われた黒石。

 病院に行くも特に原因はわからず、風邪かストレスだろうと片付けられた。

 

 ストレス……黒石には、心当たりしかなかった。

 

 いまだ指先に残る、教え子が頑張って仕上げてきた原稿を引き裂いた感覚。

 ゴミ箱へ押し込んだ時の、あの感覚。

 

 東條を救うため、本でひとを殴ったことでさえ落ち込むような男だ。

 あんなことをして、心にダメージを負わないわけがない。

 

(東條さんに謝った方が……いやでも、何て説明を……?)

 

 昨日から続く悩み。

 わけあってあなたの原稿を処分したと謝罪すべきか、しないべきか。

 

 謝罪すれば自分の中の誠実さをいくらか保てるが、一体何をどう説明すればいいのかわからない。

 その上、きっと彼女を深く傷つけてしまう。

 それだけは避けたい。

 

「…………何か、食べよ」

 

 ぐぅーと、空腹を知らせる胃袋。

 再び冷蔵庫を開くも何もなく、カップ麺の類もストックがない。

 

 黒石は再度ため息を落として、外出の準備を始めた。

 ちょうど飲み水もないし、夕食の調達ついでに諸々買いに行こうと思って。

 

 危なっかしい足取りで近くのスーパーへ向かう。

 カゴを手に、必要なものをポイポイと。

 霞む視界。流石にまだ外出はまずかったかと後悔しつつカゴをレジに置いたところで、「あっ!」と甲高い声が鳴り頭蓋骨を揺らした。

 

「く、黒石先生!? え、何で!? この近く住んでるの!?」

 

 ゆっくりと顔をあげた。

 レジに立っていたのは、金髪と派手な化粧が特徴的な少女――東條だった。

 

「……東條さん? えっと……こ、ここでバイトを……?」

「あ、うん。ちょっと前からね。ってか先生、大丈夫? 顔色やばいし、ふらふらだけど?」

「え? えぇ……まあ、ははは……っと、うぉっ」

「先生!?」

 

 急に膝から力が抜け、その場で尻餅をつきかけた。

 後ろの客からも心配されつつどうにか体勢を立て直し、たははと恥ずかしそうに笑う。

 

「いやちょっと、見てらんないんだけど! あたしさ、もうバイト終わるからちょっと待っててよ! 荷物、家まで運ぶの手伝うから!」

「……ん? い、いやいや! それは流石にまずい――」

「車で来たの?」

「あっ……と、徒歩ですが……」

「んじゃ、余計にあたしが運ばなきゃだよね! よかったー、助けてくれたお礼したかったし! 決定ね!」

 

 言いたいことを言って、何事もなかったように商品をスキャンし始めた東條。

 黒石はお金を払うも、商品は「あたしが詰めとくからー!」と彼女に持って行かれてしまった。

 

 体調不良なのもあるが、元より陰気な性格でああいった女子との交流にまったく慣れていない黒石は、何も言うことができずただその背中を見送った。

 

 

 

 ◆ ◇ ◆

 

 

 私――東條理一郎(りいちろう)は、十八歳の頃から一日も欠かさず煙草を吸う愛煙家だった。

 親に心配されても、妻に小言を言われても、娘の紫音ができても、煙草は手放せない。

 ニコチンがないと生きていけない――と、思っていた。

 

 あの日までは。

 

「学校でパパにお手紙書いたよ! 読んでー!」

 

 紫音がまだ、小学生の頃の話。

 学校で、お母さんかお父さんに手紙を書くという授業があったらしい。

 

 微笑ましいなぁと思いつつ、読む。

 内容は、煙草の匂いが臭いからやめて欲しいというもの。

 

 妻と結託して小言を言われているようで、まったくいい気分がしなかった。

 ぶっちゃけ、ムカついた。酷く腹立たしかった。

 

 でも……なぜか、全て読んでしまった。

 

 愛娘からの手紙だから、ではない。

 文章から読むことを強要されているような、そんな気がした。

 読む以外の選択肢を封じられているような気がした。

 

 ――以降、煙草を吸うことが()()()()()()()

 

 煙草を咥えるだけで、まるで犬の糞を口に入れたような不快感に襲われ吐く。

 わけがわからなかった。

 

 匂いはおろか、パッケージを見ただけでも気分が悪くなる。

 本当に、わけがわからなかった。

 

 当時職場には喫煙者が多く、この謎の現象のせいで仕事にならず、おかげで転職するハメに。

 年を追うごとにマシにはなってきているが、いまだに吸いたいという気持ちはこれっぽっちも湧かない。

 

「紫音ために禁煙なんて偉いわね」

 

 妻はそう言うし、私も表面上はそれを否定しない。

 いい父親だろ、という顔をしている。

 

 だが、違う。

 私は私の意思で禁煙したわけじゃない。あの手紙をきっかけに、煙草という存在への嫌悪を脳みそに植え付けられたんだ。

 

 そんなあの子が、短編小説を書くという授業の課題の参考に、何冊か小説を貸して欲しいと言って来た。

 

 嬉しかった。よくない連中と付き合い出して、酒に煙草も始めて、ずっと心配していたから。

 授業の課題に取り組むなら、何冊でも何百冊でも貸そうと思った。

 

 と、同時に。

 

 あの子が小説を書いて大丈夫なのか、と不安が過ぎった。

 私に贈った手紙のような、歪な魅力を帯びたナニカを生み出してしまうのではと危惧した。

 

 だからといって、私が紫音に協力しない選択肢はない。

 あの手紙は、何か偶然の産物。当時の担当の先生があれこれと手を加えた結果、ああいったものがたまたま生まれたのかもしれない。あの子に文才的なものはない。

 

 この時の私は、そう思っていた。

 ――否、そう思うことで自分を納得させた。

 

 今になって思い返せば、ここであの子に協力せず強く突き放していたなら、()()()()()は起こらなかったと思う。

 

 でも、仮にやり直したできたとしても、私は同じ選択肢を取るだろう。

 立ち直ろうとするあの子を、サポートせずにはいられないだろう。

 

 だって紫音は、私の大切な娘だから。

 




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