「お、お邪魔しまーす……」
スーパーから歩いて十数分。
外観からして安いアパートの一室が、黒石の城だ。
東條は買い物袋を手に、恐る恐るといった表情で玄関に足を踏み入れた。
入ってすぐ、生活スペース。畳まれていない布団、まとめられたゴミ。何より目を引くのは、壁のような本棚とそこにギッシリと詰まった書籍。床にも本が積まれ、僅かに開いた押し入れからも本が覗く。
(ここが黒石先生の部屋……? う、うわぁー……ってかあたし、何で緊張してるの!? た、ただ荷物届けに来ただけじゃん!)
異性の部屋に来たのが、これが初めてというわけではない。
なのに少しだけテンションが上がっている自分がいて、東條は勢いよく顔を横に振った。
「買い物袋はそのへんに、適当に……あ、ありがとうございま……した……」
「ちょ、ちょっと! だいじょーぶ!?」
靴を脱ぐ途中で前のめりに倒れた黒石。
東條は目を見開き、彼に肩を貸してどうにか布団の上まで運ぶ。
「す、すみません……本当に、すみません……」
「いいって、別に。それより買ったもの、勝手に冷蔵庫に詰めちゃうよ? 先生は休んでて!」
「……ありがとうございます……」
時刻は午後九時過ぎ。
こんな時間に独身の男性教師が、未成年で異性の教え子を部屋に招き入れている。
この状況に当然黒石は危機感を抱いているが、体調が悪過ぎてそれどころではなかった。
ぼやけた頭で、東條の優しさに浸る。
問題しかないのに、その背徳感が少しだけ心地いい。
「うわっ、冷蔵庫の中すっからかんじゃん。大人の一人暮らしってこんな感じなの?」
「……あまり、ご飯食べないので……料理もしませんし……」
「とか言って、本ばっかり買ってお金ないんでしょ」
「…………」
図星だった。
新刊だけで毎月数万円の出費。古本屋でもかなりの数を買うため、黒石の財布はいつだって余裕がなかった。
沈黙を肯定と受け取った東條は、諸々を冷蔵庫に詰め込むなり振り返って、ニヤニヤと黒石を見た。
教師の間抜けな一面は、学生として素直に面白い。
「にしても、すっごい量の本だよね。これ、ちゃんと全部読んでるの?」
「合わないなぁと思って、途中でやめてしまうものもありますが……基本的には、まぁ……」
「へぇー。そんなに本が好きなら、作家とかになればよかったじゃん」
本棚を眺めながら簡単に言い放つ東條に、黒石はフッと鼻を鳴らした。
「なれるものならなりたかったですよ。でも……僕には、才能がなかったので」
「えぇー? こんなに難しい本ばっか読んでるのに?」
「読むことと書くことは違います。そのことに、もっと早く気づくべきでした……」
昔から本が好きだった。
高校生の頃、思いつきで出した小さな小説コンクールで賞をもらって、それから作家を志した。
大学四年間を執筆に捧げ、その後もバイトで食いつなぎながら頑張ってきたが……結果として、夢を追うより堅実な道を行くことを決めた。
「……芥川賞が、欲しかったんです……」
直木賞に並ぶ、日本で最も知名度の高い文学賞――芥川賞。
主に中堅以上の作家のエンターテイメント作品に贈られる直木賞と違い、新人作家の純文学作品に対して贈られるのが芥川賞だ。
「頑張って、頑張って、頑張って……自分の全部を犠牲にしても、全然上手くいかなくて。心がね、折れちゃったんですよ」
体調不良のせいだろう。
意味もなくセンチメンタルなことを言って、すぐにハッとした。
「ご、ごめんなさい。こんなこと聞かされても、困っちゃいますよね」
「ううん、別に。それより黒石先生は、何でその賞が欲しかったわけ? あたしよく知らないけど、そーゆー賞とらなくても作家にはなれるんじゃない?」
東條は特に何かしら知識があって言ったわけではないが、奇しくもその通りだ。
芥川賞を受賞するには、『文学界』『新潮』『すばる』『文藝』『群像』等の文芸誌に作品が掲載され、選出委員の目にとまる必要がある。
多くのひとが想像する賞のような、これを獲らなければデビューできないというものではなく、デビューしたあとにもらうもの。ゆえに、芥川賞をとっていない純文学作家は大勢いる。
「いや……まあ、そうですが……」
歯切れ悪く言って、どこか恥ずかしそうに視線を泳がす黒石。
おやおや、と東條は思った。これは面白い話の気配がする。
一歩、二歩と大きな歩幅で布団に近づく。
膝立ちになって、黒石を上から見下ろす。
「えー、なになに? 何で隠すのー?」
「……え、えっと……それは……っ」
「答えてくれなきゃ、黒石先生があたしを部屋に連れ込んだって学校で言いふらしちゃうぞ?」
「っ!?」
「あたしって評判悪いでしょ? 部屋でどーゆーことしたか、みんなすぐ察しちゃうだろうなぁ」
悪魔じみた笑みを浮かべた東條。
抱いてよ、と先日頼まれたことを思い出し、黒石の頬に体調不良とは関係のない熱が灯る。
二十代後半、いまだ童貞。経験のない黒石にとって、東條の笑みは色々な意味で身体に悪い。
「…………きな……ひ……向いて、もらいた、くて……」
「えっ?」
「で、ですから……!」
大きく息を吸う。
そして、頭の中に並べた台詞を読み上げる。
「す、好きなひとにっ、振り向いてもらいたくて……!」
数秒の沈黙。
パチパチと、東條はまばたきをする。
言ってしまった、と黒石の胸中を後悔が襲った。
不純な動機。純文学に携わる人間として、この上ないほど相応しくない。
笑われる、バカにされる――。
事実、東條の口元に笑みが浮かぶ。
だが、そこに嘲笑の色はない。両の瞳は、薄暗い部屋の中でもハッキリとわかるほどに爛々と輝く。
「えーっ! 何それ、エモい! いいじゃんいいじゃん! 青春じゃん!」
「……え、えも、い……?」
「詳しく聞かせてよ! どういうこと!? ねねっ、どういうことー!?」
「え、えっと……その……」
単純な話だった。
将来は作家になろうと大学に入学。
そこで入った文芸サークルの先輩に恋をし、しかしこれといったアプローチはできず、小説で何か結果を出せば自分に興味を持ってくれると思った。
真っ先にひらめいたのが、芥川賞受賞。
先輩も純文学を書いていたため、これしかないと若さに任せて確信した。
「……とまあ、いつの間にか僕の書くモチベーションはそんな不純なものになっていまして、そりゃあ結果が出なければ折れるというわけです」
「不純かなー? あたしは好きだけどなぁー」
「んでさ」と東條は続けて、興味津々に白い歯を覗かせた。
「その先輩には、結局告白も何もできなかったの?」
「……」
「えっ!? 告白したの!?」
「……教師になる時に、一応、好きでしたと。まあ、向こうはもう結婚されて子どももいますし、何がどうなるわけでもないのですが。自分の気持ちを整理するために……」
「男じゃん! 偉いよ先生、見直した!」
ベシベシと、黒石の肩のあたりを叩いた。
黒石は困り顔をしつつ、内心、少しだけ嬉しかった。
この話をしたのはこれで二回目だが、一回目の時は手酷く言葉で殴られたから。
『だからお前はダメなんだよ、クソ
数少ない友人の一人。
その男は、眉一つ動かさずそう言い放った。
辛辣だと思った。そこまで言わなくても、と思った。
……でも、その通りだなと思った。
事実、彼は作家として成功し、文章で生計を立て、定期的に本屋で作品を目にする。
いつも買って読むが、文句なしに面白い。
だから、彼の言葉は正しい。
自分は間違っている。
――そう思っていたからこそ、東條の笑顔が余計に眩しい。
自分のしてきたことが、無様な苦悩が、苦労が、無駄ではなかったと思えるから。
「あくたがわ賞かー、へぇー、ふーん……」
首を捻って、視線を右へ左へ。
東條はパッと黒石に目を合わせ、無邪気に小首を傾げた。
「――
何でもない問いかけ。
ただの雑談。
これといった野心もやる気も感じない、ただ聞いているだけだと一瞬で理解できる声音。
でも、黒石は硬直した。
自分が破り捨てた彼女の原稿を、あの強烈で激烈で鮮烈な文章を思い出す。
錯乱した蛯名を思い出す。
ここでもし、頑張り次第ではとれるかもしれないと言って、彼女が本当に頑張ってしまったら――。
その結果、どれだけの人間の人生が狂うのか、黒石には想像もつかない。
でも。
無理だ諦めろ、お前にはできない――などとは、口が裂けても言えない。
言えるわけがない。
教育者として、大人として、そんなことは。
ましてや、自分のバカな過去を好きだと笑ってくれたひとに、そんなことは言っちゃいけない。
「先生? どうしたの?」
額に汗がにじむ。
呼吸が乱れる。
視界が回る。
何をどう伝えるのが正解なのか、そして誠実なのか。
ひたすらに考えて、考えて、考え続ける。
「うわっ、熱っ!? ちょー熱出てるじゃん!?」
黒石の額に手を当てた東條は、その温度に目を剥いて仰け反った。
「ごめんごめん! あたし、邪魔だったよね! もう帰るからっ!」
荷物を手にくすんだ金の髪を翻し、急いで部屋を出て行った東條。
少し間を置いて、這って玄関まで向かい鍵をしめた黒石は、全身がしぼむほど深くため息をつく。
偶然にも、明確な回答をせずに済んだ。
でも、だからこそ。
「……これで、よかったのか……?」
何が正しいのかわからず、ただでさえぼやけた頭は余計に重たくなり。
黒石は布団に戻る気力もなく、その場で気絶するように眠った。
◆
黒石の家を出て、東條は帰路につく。
足先は遊び場ではなく、真っすぐに自宅へ。
「あくたがわ賞……あくたがわ賞かぁ……」
東條は、それが何かよく知らない。
そもそも、純文学という概念すらよくわからない。
わからないまま、ただそのワードを繰り返す。
自分を暗闇から引き上げてくれたあの男が求めていたというだけで、まったく知らないそれがとても価値があって眩しいものに思える。
「あたしがとったら……先生、褒めてくれるかな? 好きになっちゃったりする? へへ、ふひひっ」
軽い思考、軽い口ぶり、軽い足取り。
何の重みもない行進。
踊る髪先。
だけど、月明かりに照らされてできた彼女の影は、世界中のどんな夜よりも暗い色をしていた。
◆ ◇ ◆
俺――
順風満帆な教員生活。
何の文句もない日々。
……だったのに、ある日を境に、しばらく休むように言われた。
職員室で嘔吐し、自分でそれに気づいていなかったらしい。働き過ぎってやつだな。
せっかくの休み。
充実したものにしようとあれこれやってみたが……なぜか、どれも楽しくない。
彼女と一緒にいても、友達と趣味の釣りに出かけても、ユーチューブやネットフリックスを観ても、何も感動しない。
退屈だなと思った時、いつも頭の中をチラつくのは一つ。
――
東條が書いた、あの小説。
あれの続きが読みたい。
あれが欲しい。
たぶん、あれがあれば救われる。
そんな気がする。
でも、わかっている。
こんな感情は、おかしい。
だって、生徒が課題で書いた小説だぞ?
確かに面白かった、けど……それを読んでどうなる? 東條の小説が、ネットフリックスに転がってる数多の映画より面白いのか? そんなバカなこと、あるわけがない。
「疲れてるんだぁ、俺……いやマジで、これやばいかも……」
病院に行くと何とかって病名をつけられて、あれこれと薬を処方された。
それを飲んで、ただ寝る生活。
たまに起きて考えるのは、東條の小説の続きについて。
薬を飲んで寝て、起きてそのことを考えて、また薬を飲む。
起きて、あれは面白かったなと夢想する。
読みたい、読みたい、読みたい……その思いを殺すように、薬を飲み床につく。
読みたい。
ただひたすらに、読みたい。
寝ても覚めても、そのことしか考えられなくなってゆく。
食事よりも睡眠よりも、彼女とのセックスよりも。
東條の文章を思い出す方が気持ちいい。
涎が出る。
勃起する。
「……え、蛯名先生?」
「どう、されたんですか……?」
ある日の夜。
気がつくと俺は、学校の職員室にいた。
寝間着のまま、髪も髭もボーボーのまま。
黒石先生の前に立っていた。
「あっ! え、えっと……!」
何をやっているんだ俺は、と思った。
これじゃあ異常者じゃないか。何かもっともらしい理由をつけて、すぐに帰らないと。
――と、頭ではわかっているのに。
「と、東條の……あの課題、まだありますか!? あと、続きを書くようにお願いしてもらえませんか!?」
もうメチャクチャだ。
俺は暴れに暴れまくり、最終的に警察のお世話に。
本格的に入院することになり、その甲斐あってか今は随分とマシになった。
今はもう、奇妙な考えに悩まされることも、わけの分からない行動をとることもない。
だけど風の噂によると、今度東條の本が出版されるらしい。
そうなったら、俺は本屋へ行かずに済むのだろうか。
……いや、たぶん無理だ。
世の中に、あれより面白いものなどないのだから。