羽沢珈琲店は人気の店である。Afterglowのキーボードとして看板娘の羽沢つぐみがいるのも勿論あるが、そもそもそれ以前につぐみが生まれる前から経営しているので、味を知ってくれる常連さんや、メニューが美味しいと言って新たに増える若い人たちにも評判がいいのだ。
そんな羽沢珈琲店では今日もお客さんが大量発生中だった。そこで働く1人の白髪の女性店員は羽沢珈琲店のアルバイトとして働いている。今日も元気に挨拶をしてお客様を迎えるのだ
「へいラッシェーイ! なに握りやしょーか!」
「イヴちゃんうちカフェだから……」
「えっと……寿司は淡白なものから食べるのがマナーだから……イカ2貫で」
「愛さんはなんでまたいるんですか!?」
「3日ぶりなんだから文句は受け付けんぞ」
「そういえばお久しぶりですね!?」
「つぐみさんに会えないのが寂しくてな、帰りにダッシュでここに寄ったのだ」
愛の言葉に対してときめいてしまったつぐみだが、アルバイトにいろはを教える事や、愛がここにいる事へのツッコミで、素直に喜びづらかった。
「それにしても、今日は人が多いな」
「今日は休日で、近くの商店街でイベントがあったのでお客さんが多いんですよ」
つぐみの言葉に少し考える顔をした愛、それを不思議に見ているとよし分かったと言って、つぐみに店の奥に通して父親に合わせて欲しいと頼んだ。
どう言うことかと尋ねたが、愛はすぐに分かることだと言って頼み込んだ。何をするか分からなかったが、自分の父親はこっちにいると指を指すと、愛はそこに向かって飲み終えたコーヒーとパンケーキの空皿を持っていった。
そして、しばらくしてから愛は戻って来た……エプロン姿で伝票とペンを持ってである。
「よし、つぐみさんは新人の研修をやっててくれ」
「え?」
「俺は注文取ってくるから」
「おお! コーヒーをカッコよく飲む人! もしかしてアルバイトの人だったのですか?」
「今日1日だけだ、コーヒーは普通に飲んでるつもりなんだが。とにかく、俺は鶴田愛。愛って呼んでくれ」
「愛さんですね!
「ねぇ、ちょっと待って??」
白髪のアルバイトであるイヴが自己紹介をすると愛は
──ブシドー!!
「ねぇ!? ちょっと待って!?」
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」
困惑しまくるつぐみを無視してすぐに来店者の対応をする愛がいた。バイト経験は勿論ないが、弦巻家としてマナーはある程度学んでいるし、何よりほぼ毎日つぐみの珈琲を飲みながら彼女が接客しているのを目にしている。
彼女の様に優しく、お客様の事を思いながら真心込めての接客は正直全く出来ない。それでも、こうして彼女のために手伝う事くらいは協力するくらいならさせて欲しいと心から願ってつぐみの父親に聞いてみたのだ。
愛の事を心配しながらイヴの研修をするつぐみをよそに彼は注文を取り、品物を運び、少しの空き時間には数枚皿を丁寧に洗った。弦巻家のシェフと料理をしていた事もあり、ある程度の厨房家事は出来るのだ。
「すみません、注文を……って愛君!?」
「花音さん、いらっしゃいませ」
「あら花音の知り合い?」
「鶴田愛です。つぐみさんのお店で1日だけアルバイトをさせて頂いてます」
仕事中に出会ったのは妹のバンドメンバーである松原花音と愛よりは金髪ではないが黄色いクリーム色の髪を靡かせる少女の2人だった。花音は愛を見た瞬間驚きを隠せなかった。その9割が……
──弦巻家の次期当主がバイトするなよ
そんな彼女の想いとは裏腹に愛は注文を取ろうとしてくれている。花音は紅茶を一つ頼むが、もう1人の少女は彼にオススメはなんだと聞いた。
「ち、
「あら、ここでアルバイトをするなら例え1日だけでもここのオススメくらい紹介するのが筋だと思うけど?」
「オススメはこの苺のパンケーキです」
「愛君分かるの!?」
「あら、看板メニューでは無いのね」
千聖と呼ばれた少女の疑問に愛は当然の様に、『たっぷり苺のパンケーキ』を勧めた。確かに羽沢珈琲店は人気メニューや看板メニューはメニュー表示の表に書くのだが、愛曰くこの店には実は美味しい隠れメニューがあると伝える。
それがこのパンケーキ。量が他のパンケーキよりも少なく、最大の特徴は他の苺よりもかなり酸味がある品種の苺を使っている。これだけ聞くとマイナスにしか聞こえないが、逆にこれが強みだと言う。
「このパンケーキ、酸味がある苺の分だけ、クリームを甘くしているんです。本来あるメニューのクリームパンケーキだけだと甘ったるくて気分を悪くされる方も居ますので、クリームだけかかっているデザートに関しては甘さを抑えているのですが……」
そうして愛は、酸味が強い苺のおかげでクリーム本気の甘さを体験できると言うのもありクリーム好きな人はオススメなのだと言う。それに、酸味が強い苺も別に甘く無いわけではなくて、寧ろクリーム本来の甘さと合わさり違和感なく苺も食べることが出来るという。
「クリームパンケーキを食べたいけど甘ったるくて食べきれないという方でも量も少し抑えている分簡単に皿を空にできるメニューです」
「私の負けよ、1つ頂くわ」
「千聖ちゃん!?」
本来なら少し揶揄ってやるつもりだった。Afterglowとはバンド経由で色々と世話になっているのもあり、そのメンバーのお店で急に男が働き出したとすぐに聞いたため、下心かどうか試してみたかった。
だが、蓋を開ければ専門家であった。花音は千聖の事情を汲み取りながらも彼女に一言伝えた。
──愛君には絶対勝てないと思うよ
「花音?」
「千聖ちゃん、愛君は中学の時からほとんど毎日このお店でつぐみちゃんのコーヒーやパンケーキ、多分全部のメニューを食べきっているの。だから私達よりもこのお店の事を知ってるよ」
「ま、毎日……ですって?」
「まぁ、今日は3日ぶりに来たけどな」
3日ぶりでも早すぎるペースだろと心の中で突っ込んだ千聖。お金はどうしているのかを問いただしたが、愛ははぐらかすのみだった。
「千聖ちゃん、お仕事の邪魔したらダメだよ。ごめんね愛君」
「いや、構わない。すぐにお持ちしますね……
サラッと本名を言われて驚いた千聖だが、元々子役をやっていたのもあり、テレビか何かで見たのだろうなとすぐに表情を戻した。一方、愛としては花音や今会ったイヴから少し聞いただけなのは別に言う必要も無かった。
☆
「あらかた落ち着いたな」
「うん、ありがとう愛さん……私は胃が痛いけど」
「痛むか? 胃薬あるぞ?」
胃の痛みの原因はお前だと言いかけたつぐみだが、楽しそうにイヴと会話をしながら胃薬を出す愛を見ると、なんだか今まで悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。
「今更だが、飛び込みとはいえよくバイトを許してくれたな」
「きっと愛さんの土下座が素晴らしかったからですよ!」
そんな事したつもりはないと笑って愛はイヴにツッコミを入れたが、つぐみは顔を赤くして父親との会話を思い出した。どうして愛にバイトをさせたのかと少しテンパりながら自分の父に聞いたところ、こう言われたのだ。
──お前が愛している男だからだ
そんな事を言われてしまってはツッコむ気力もない。そういえば愛が弦巻である事を知っているのは自分のみだった事を改めて思い出してため息を吐くことしかできなかった。
「また手伝えたら手伝うよ」
「またお願いします! 素晴らしい接客の人!」
「もうしないでください!!」
因みに愛のバイト代は羽沢珈琲店の無料クーポンで頂いた。これを機にたまに羽沢珈琲店で1日バイトをしている愛を見かけた嶋長エナがブチ切れるのは後日談である。