やはり俺の青春は大学でもこじれていく   作:ろーすけ

3 / 3
第三話:やはり一色いろはは計算高い。

 

 

 春の天気は気まぐれだという。つい先ほどまで温かな日差しが差していた空が、駅に着く頃にはいつの間にか鉛色の雲に覆われていた。ぽつ、ぽつ、とアスファルトに小さな黒い染みが現れ始める。これはいわゆる、降って湧いた災難というやつだ。俺は恨めしげに空を見上げ、ため息をひとつ落とした。

 

 傘は持っていない。いや、正確には家に置き忘れただけなのだが、持っていないものは持っていないのだからどうしようもない。天気予報のばかやろうめ。雨男のレッテルを貼られかねない自分の運の悪さに頭を抱えたくなるが、駅前の屋根の下で立ち尽くしていても事態は好転しない。小降りになるのを待つか、諦めてずぶ濡れで帰るか……どちらにせよ、暗澹たる気分だ。

 

 「先輩? 何してるんですか?」

 

 不意にかけられた声に、俺は肩を跳ね上げた。まさかこんなところで後輩の声を聞くとは思わず、驚いた拍子に心臓が嫌な音を立てる。恐る恐る振り向くと、そこには案の定というべきか、どこか楽しげな笑みを浮かべた一色いろはが立っていた。

 

 「……一色か。奇遇だな」

 

 内心の動揺を悟られないよう、努めて平静を装って返事をする。まったく、駅前で偶然会うなんてベタな展開はいらないんだが。これも青春ラブコメ的な何かの悪戯か? 俺は静かに現実逃避したくなる心を抑えつつ、一色の姿を改めて観察した。

 

 一色はいかにも大学生らしい私服姿で、小さな紙袋を手に下げている。どうやら買い物帰りか何かだろうか。こんな雨空の下でも、その表情は晴れやかだ。人の不幸を見て愉快になっているわけではない、はずだ。たぶん。

 

 「あれ、先輩もしかして――」

 

 一色が俺の手元をちらりと見て、何かに気づいたように目を瞬かせる。そして悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺の顔を覗き込んできた。

 

 「傘、持ってないんですか?」

 

 ぐっ……さっそく核心を突いてきやがる。よりにもよって、一色に弱みを握られるとは。俺は仕方なく正直にうなずいた。

 

 「生憎な。忘れてきた」

 

 「ふーん?」

 

 一色は意味ありげに声を上げ、俺の返事にゆっくりと頷く。その瞳には明らかな好奇の色。これはいけない。この女、絶対何か企んでる。俺の長年のぼっちセンサーが警鐘を鳴らし始めた。

 

 「ねえ先輩、奇遇ついでにお茶でも……と言いたいところですけど」

 

 出た、やはりそうきたか。かつて奉仕部に持ち込まれた無理難題の数々が脳裏をよぎる。あの頃の一色はいろいろと画策してくれたものだ。生徒会長選挙しかり、クリスマスイベントしかり。彼女の「相談」には常に裏があると警戒して然るべきである。今こうして微笑む一色の背後にも、したたかな計算が透けて見える気がした。嫌な予感しかしない。こういう誘いは大抵、面倒ごとの前触れだ。

 

 もっとも、当の一色は俺の内心など露知らず、芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。

 

 「この雨じゃあ、カフェに行くのも厳しそうですね~。それに折角ですけど、私、ちょっと荷物があって……」

 

 言いながら一色は手に下げた紙袋を軽く持ち上げてみせる。小さめの袋だが、ずっしりと重たそうだ。中身は何だろうか。いや、それより問題はそこじゃない。

 

 俺は一色の言葉の裏を測りかねて、訝しむように問いかけた。

 

 「荷物? 重いなら持つぞ」

 

 自分で言っておいて、しまったと思う。自然と出た先輩風を吹かせる発言に、一色がここぞとばかりに目を輝かせた。

 

 「えっ、いいんですか? さすが私の先輩、優しいですね。……あれ、もしかして口説いてるんですか? ごめんなさい、無理です。好きな人がいるので」

 

 「あーはいはい、いつものね」

 

 ご自慢の早口に俺が久しぶりに聞いたわそれ、と呟くと一色は可笑しそうに吹き出した。

 

 「冗談ですよ、ありがとうございます♪ 助かります」

 

 にっこりと微笑み、一色は紙袋を差し出してきた。お、おう……別にお前に優しくした覚えはないんだが。だが無邪気に喜ぶ様子を見てしまった以上、今さら引っ込めることもできない。結局、俺は観念して紙袋を受け取った。

 

 思ったより重く、一瞬腕にずしりとくる。この小柄な体でよくもまあこんな重い物を苦もなく運べるものだ。日頃のサッカー部マネージャーの力仕事で鍛えられているのかもしれない。もっとも大学では流石にマネージャーはやっていないか。

 

 「あれ? どうしました?」

 

 「いや……別に」

 

 一色が不思議そうに首を傾げる。いけない、つい考え事をしてしまっていたようだ。そんな場合ではない。このままでは一色ペースで話が進んでしまう。

 

 早いところ逃げ道を探さねば。俺は改めて周囲を見回した。雨は相変わらず降りしきっており、駅の軒下には他にも傘を持たぬ人々が集まり、雨脚を伺っている。今出ても数分でびしょ濡れ確定だな……。

 

 「先輩?」

 

 じっと空模様を睨む俺に、一色が小首を傾げて声をかけてきた。気づけば、彼女との距離が先ほどより近い。雨音に負けないようにか、少し声量を上げた一色の声が耳元でくすぐるように響いた。

 

 「……どうかしたか?」

 

  「どうかしたか、じゃないですよ。ねぇ先輩、本当に傘持ってないんですか?」

 

 上目遣いで覗き込んでくる一色。おいおい、そんな顔近づけなくてもちゃんと聞こえてるっての。相変わらずパーソナルスペースという概念がないのかこの後輩は。俺は一歩下がりつつ、先ほどと同じ答えを繰り返した。

 

 「だから忘れたと言ってるだろ。悪かったな、間抜けで」

 

 「いえいえ、別に責めてないですよ? ちょっと確認しただけですから」

 

 一色はにこにこと笑っている。これは絶対何かある。断言してもいい。俺は雨の匂い混じりの湿った空気を吸い込み、僅かに身構えた。

 

  「――それで、先輩。この後どうするつもりなんですか?」

 

 来た。お待ちかねの展開である。俺は心の中でそっと身震いした。捕食者に狙いを定められた小動物よろしく、何とか逃げおおせる策を模索する。

 

  「どうするつもり、と言われてもな。そりゃ、雨が弱まるのを待つさ」

 

  「ふうん。じゃあこのままずっとここで待つんですか?」

 

  「いや、いつまでも降ってるわけじゃないだろ。少し待てば小降りになるだろうし……」

 

  「それ、根拠ないですよね?」

 

 ぐっ。正論で切り返してくるとは卑怯な。俺は言葉に詰まり、視線をそらした。確かに予報も当てにならない以上、先の見えない待機には希望的観測しかない。下手すりゃ夜まで止まない可能性もあるわけで。

 

 一色は俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、クスリと笑みを漏らすと、なおも畳みかける。

 

  「ですよねー。じゃあ、どうしましょうか? 私も困っちゃったなぁ。実は私も傘忘れちゃって……このままじゃ帰れないです~」

 

 言いつつ、一色は「ありゃ困った」と全然困ってなさそうな声色を出す。両手を腰の後ろで組み、体を軽く揺らしながら上目遣いでこちらを見る様は、いかにも助けを求める小動物のようにも見える。困った小動物には手を差し伸べるのが人情というものだが、この場合は油断できない。小動物に見えて、その実腹黒い小悪魔だったりするのだからタチが悪い。内心で警戒レベルを最大に引き上げつつ、俺は慎重に言葉を選んだ。

 

  「……だったら大学に戻って傘を買うとか、どこかで雨宿りするとか、方法はいくらでもあるだろ。構内のコンビニにビニール傘くらい売ってるはずだ」

 

  「うーん、それもそうなんですけど。もう戻るのも面倒だし、寮に帰る頃には荷物もあるしずぶ濡れですよ。それにせっかく先輩に会えたのに別行動なんて、私寂しいです」

 

  「はあ?」

 

 なんだそりゃ。しれっとよくもまあそんな台詞を吐けるものだ。この女、俺をからかって遊んでいるのか? 訝しむ俺をよそに、一色はさらに一歩踏み込んできた。潤んだ瞳をこちらに向け、上目遣いに俺の顔をじっと見つめる。

 

  「ねぇ先輩。こんな雨の中、女の子一人を帰すんですか?」

 

  「っ……」

 

 う、卑怯な。そんなの、まるで俺が悪者みたいじゃないか。もとより一色を放置して自分だけ帰るという選択肢はないのだが、敢えて言われると妙に罪悪感を刺激される。

 

 とはいえ、だからといってどうしろというのか。俺が傘を持っていれば相合傘なんてシチュエーションもあったのだろうが、生憎持ち合わせていない。むしろ持ってなくて正解だったかもしれない。間違っても一色と肩を寄せ合うなど俺の精神衛生上よろしくない。主に色々な意味で。

 

 俺が黙り込んだのを好機と見たのか、一色はいよいよ勝ち誇ったような笑みを浮かべ――そして放った。

 

  「雨で困ってる後輩に、家ぐらい貸してくれてもよくないですか?」

 

 やはりそれが本命か! 俺は心の中で頭を抱える。予想通りの展開ではあるが、実際に言葉にされると破壊力が違った。

 

  「……お前な。簡単に言うけど、俺の家はここから少し離れてるんだぞ?」

 

  「少しくらいいいですよ。電車で4駅でしょ? それくらい乗りますって」

 

 あっさりと言い返されてしまった。どうやら一色はいろいろと調べがついているらしい。俺がこの大学に通うにあたって一人暮らしを始め、電車で数駅離れた場所に陣取っていることくらい想定済みか。抜かりないというか何というか……。

 

  「それに、電車乗っちゃえばあとは駅から家までちょっと歩くだけですよね?」

 

  「あ、ああ……まあ」

 

 確かに、最寄り駅から俺のアパートまでは歩いて5分とかからない。駅前から商店街を抜けて路地裏に入ればすぐだ。雨は降っているだろうが、せいぜい軽く濡れる程度で済むだろう。理屈の上では問題ない。

 

 だが心の準備というものがだな……。

 

  「ね、いいでしょ?」

 

 一色が悪戯っぽく笑いながら身を寄せてくる。こんな至近距離で笑顔を向けられてしまっては、もはや正気を保つのも難しい。雨音に紛れてふわりと漂う甘い匂いに、思わず意識がくらりと持っていかれそうになる。

 

 いかんいかん、冷静になれ比企谷八幡。ここで首を縦に振れば、この先待ち受けるのはさらなる試練だ。家に招き入れれば、今以上にペースを握られるに違いない。ならばここは男らしく断固拒否すべき局面――。

 

  「……はぁ。わかったよ。少しだけ、だぞ?」

 

 って、あれ? 気づけば俺はあっさり了承していた。おかしい、頭では拒否しろと命じていたはずなのに、口からはため息とともに肯定の言葉が漏れていた。どうしてこうなった。

 

 「さっすが先輩! 頼りになりますっ」

 

 ぱちぱちと小さく手を叩き、一色が満面の笑みを浮かべる。しまった、完全に術中にはまってしまったようだ。俺は額に手を当て、天を仰ぐ。天井なんてないけど。

 

 だいたい今の流れで断れる男がどれほどいるというのか。あんな顔でお願いされて断ったら人でなし確定ではないか。俺の人格がまた歪んでしまうところだった。うん、それは困る。それに後輩女子を一人雨中に放り出すなんて、やはり人道に反するというものだろう。仕方ない、これは不可抗力だ。そう、しょうがない。

 

 俺は必死で自分を納得させると、「行くぞ」とぼそり呟いた。一色は「はいっ」と元気よく頷くと、俺の隣に並んだ。俺が荷物を持っているのをいいことに、ちゃっかりと腕が触れそうな距離に寄ってくる。おい、ちょっと近いって。

 

 そんな抗議めいた視線を送る俺に気づいてか気づかずか、一色はいそいそと俺と同じ方向へ歩き出すのだった。

 

 こうして成り行きで一色と共に電車へ乗り込むことになった。ホームへ向かう短い間にも降りしきる雨で足元はびしょ濡れになり、車内に入った頃には靴の先から水が滴る始末だ。幸い車内はそこまで混んではおらず、俺たちはドア近くのつり革に並んで立った。しんと静まる車内にレールの軋む音が響く。そのわずかな揺れに合わせて、一色の肩が時折俺に触れそうに揺れるのが妙に気になった。

 

 先ほどまでの掛け合いが嘘のように、一色は大人しく前を向いたまま何も言わない。どうやら余計な茶々を入れるつもりはないらしい。普段はマシンガントーク気味の彼女にしては珍しい沈黙だ。ちらりと横目で伺うと、一色はドア窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めている。さっきまでの小悪魔のような笑顔は潜め、どこか物憂げにも見える横顔だ。

 

 ……疲れたのだろうか? 強がってはいたが、傘もなくずぶ濡れになったら流石にこたえるに違いない。講義やらバイトやら、大学一年の生活もそれなりに忙しいはずだ。俺も二年生になってようやく慣れてきたが、最初の頃は何かと神経をすり減らした記憶がある。新入生の一色なら尚更だろう。

 

 ふと、一色がゆっくりとこちらを振り向いた。視線がばちりとぶつかり、俺は思わず目をそらす。

 

  「……何か顔についてます?」

 

 くすりと笑いながら一色が問いかけてくる。気づかれていたか。こちらの視線に。

 

  「いや、別に」

 

 俺はそっけなく答え、窓の外に目を移した。視界に映る街並みは雨に煙ってぼんやりと滲んでいる。そのまましばし会話もなく、電車は単調なリズムで線路を進んでいった。

 

 やがてアナウンスが鳴り、俺たちの降りる駅が近づいたことを告げる。都心から少し外れたこの駅は、学生街にしては閑静な雰囲気だ。電車を降りた俺たちは、小走りで駅舎の屋根の下へと駆け込んだ。

 

  「うわぁ、結構降ってますね……!」

 

 ホームから改札を出る僅かな間にも雨粒が容赦なく降り注ぎ、一色の肩先や髪をさらに濡らしていく。駅前に出れば、強まる一方の雨と冷たい風が吹きつけてきた。

 

  「急ぐぞ、一色」

 

  「は、はい~っ!」

 

 俺は紙袋を持ち直し、一色を促して走り出す。ビニール傘を買う余裕もないので、覚悟を決めてびしょ濡れで行くしかない。商店街を駆け抜け、路地へ折れる。幸い家まではすぐだ。ざあざあと激しい雨音に耳を叩かれながら、俺たちはなんとか俺のアパートへとたどり着いた。

 

 古びた鉄製の外階段を駆け上がり、ポケットから鍵を取り出す。雨水で滑る手に苦戦しつつもドアノブを回し、ようやく部屋の中に飛び込んだ。

 

  「はぁ、着いた……」

 

 息を切らしながら靴を脱ぎ、玄関先で小さくなっている一色に声をかける。

 

  「ほら、一色も上がれよ。濡れるからドア閉めるぞ」

 

  「お、お邪魔します……」

 

 一色は遠慮がちに玄関を一歩踏み出し、俺の後に続いた。電気をつけ、俺は急いでキッチンからタオルを二枚持ってくると、一枚を一色に放った。

 

  「ほら、これで拭け」

 

  「ありがとうございます……」

 

 受け取ったタオルで一色は濡れた髪や顔を押さえ始めた。俺ももう一枚のタオルで頭をわしわしと拭きながら、改めて室内の状況を確認する。

 

 幸い、部屋に人を入れて困るようなものは散らばっていない。元々物が少ない殺風景な部屋だが、こういう時にはそれが功を奏したと言えるだろう。床には雑誌や教科書が数冊出ている程度で、洗濯物もギリギリセーフで畳んで棚に積んである。ゴミも今朝まとめたばかりだし、埃っぽさも感じない。うむ、我ながら一人暮らし初年度にしては健全な環境を保っているのではないか。まあ、誰も褒めてくれないので自画自賛しておくしかないのだが。

 

  「先輩の部屋、思ったより綺麗ですね~」

 

 部屋を見回していた一色が感心したように言う。タオルを頭に乗せたまま、きょろきょろと室内を見渡している。玄関から一歩入ればすぐにベッドとテーブルが目に入るワンルーム。居室部分は六畳ちょっとといったところか。その奥に小さなキッチンとユニットバスが付いているごく普通の安アパートだ。

 

  「別に誰も来ないし、こんなもんだ。そっちの床、濡れてないか?」

 

  「あ、大丈夫です。ちゃんとタオル敷きましたから」

 

 見ると、一色は自分の足元にタオルを敷いて立っている。どうやら雨水で床を汚さないよう気を使っているらしい。普段大雑把なようでいて、こういうところはきっちりしている。意外としつけがいいんだな、感心感心。

 

  「気が利くじゃないか。適当にそこに座っててくれ。俺はちょっと着替えてくる」

 

  「はいはーい。お構いなく~」

 

 一色は濡れたジャケットを脱ぎつつ、ひとまずといった様子でベッド脇の床に腰を下ろした。どうやら遠慮してベッドには座らないつもりのようだ。俺はクローゼットから適当な着替えを取り出し、バスルームに引っ込んだ。シャツが雨でへばりついて気持ち悪い。手早く上着だけでも着替えてしまおう。

 

 数分で着替えを終え、濡れた服を洗濯機に放り込んで戻ると、一色はタオルドライを終えたのか、髪を下ろしてポニーテールの跡を手ぐしで直しているところだった。その仕草がやけに女の子っぽい――というと言い方が変だが、普段はきっちり結っている髪をほどいたせいか、妙に色っぽく見えて直視に困る。

 

  「先輩、タオルありがとうございました。助かりました~」

 

  「あ、ああ。俺の方こそわざわざすまなかったな。雨、酷くなってきてたし」

 

  「いえいえ、先輩のおかげで風邪ひかずに済みそうです」

 

 一色はにっこりと笑って言う。まぶしい笑顔だが、今の俺には直視するのは色々とまずい気がするので視線を逸らした。俺は壁際に置いたままの紙袋に目を留める。

 

  「そういや、その荷物は何だったんだ?」

 

  「あ、これですか? ちょっと日用品をまとめ買いしてて……。寮に戻る前に降られちゃって困ってたんです。ホント、先輩に会えてよかった~」

 

 安心したように一色が胸を撫で下ろす。ふむ、つまり大学の寮に住んでいるのか。確かに一年生なら学内の寮に優先的に入れる制度があったはずだ。

 

  「寮暮らしか。門限とかあんのか?」

 

  「いちおうありますけど、寮母さん緩いんで平気ですよ。それより私、ちょっと体冷えちゃって……あの、先輩?」

 

 一色は言い淀み、上目遣いでこちらを伺ってくる。もじもじと落ち着かない様子で、頬には先ほどまでの雨のせいか赤みが差している。

 

  「悪いんですけど、シャワー借りてもいいですか?」

 

 きた。やはりそう来ると思った。俺は一瞬目を見開き、無意識に喉を鳴らす。まさか本当に言い出すとは思わなかったが、確かにびしょ濡れのままでいるのは風邪の元だ。理屈では断る理由はない。ないのだが……。

 

  「あー……別に構わないけど」

 

 そう答える以外に何がある? 俺は悟ったように肩をすくめてみせた。すると一色はパアッと表情を明るくする。

 

  「ありがとうございます! じゃあお言葉に甘えて……」

 

 立ち上がった一色が、手早く持っていたバッグから何かを取り出している。見ると、小さなポーチと替えの下着らしきものがちらりと覗いた。

 

  「……お前、その荷物にそんなものまで入ってたのか」

 

 思わず呆れてしまう。日用品の買い出しのはずが、ずいぶん用意周到というかなんというか。いや、女性が常に替えの身の回り品を持ち歩くのは普通なのだろうか? わからん。妹以外の女子の生活習慣など知る由もない俺である。

 

  「たまたまですよ、たまたま。深い意味なんてないですってば」

 

 俺の視線に気づいたのか、一色が照れ臭そうに笑いながら手をひらひらと振った。顔が少し赤い。さすがに予想外だったか。俺も逆に気恥ずかしくなり、「そ、そうか」とだけ答える。

 

  「じゃ、シャワー借りますね」

 

  「ああ。あ、シャンプーとか適当に使ってくれていいから」

 

  「了解でーす♪」

 

 一色はそう言い残し、ポーチと下着を手にバスルームへと消えていった。

 

 ドアの向こうでカチャリと鍵の閉まる音がした。続いてシャワーの水音が聞こえ始める。俺はごくりと喉を鳴らし、思わず耳を塞ぎたくなった。まったく、何という状況だ。自分の家のバスルームから女性――それもかつての後輩とはいえ、同年代の女子大生――が出す生活音が聞こえてくるなど、人生設計に存在しないイベント過ぎる。

 

 リビングでぼんやりと立ち尽くし、しばし呆然と天井を仰ぐ。いや待て落ち着け。別に俺は何もやましいことをしているわけではない。ただ雨で困った後輩を一時的に匿っているだけだ。うん、健全健全。そこに不純異性交遊のイメージなど皆無……のはずなんだが、なぜか背徳感が半端ない。悪いことしてないのに、ものすごくドキドキしてしまう自分が情けない。

 

 気を紛らわせるためにも何かしなければ。そうだ、せめて一色が出てきたときに着る物を用意しよう。彼女の服はすっかり濡れてしまっているはずだ。このままじゃ風邪どころか帰りの服装にも困るだろうしな。

 

 俺はクローゼットをごそごそと探り、比較的マシそうな部屋着を引っ張り出した。高校時代に着ていたジャージの上下がある。上はともかく、ズボンはウエストがゴムだから一色でも何とか履けるんじゃないか。念のため紐で絞めれば平気だろう。

 

 選りに選ってジャージというのも気が引けるが、他に貸せそうな服もない。俺のTシャツなんかじゃぶかぶかすぎるし、下はもっとない。妹がいれば予備の服くらいあったかもしれないが、生憎と俺にはそんな便利な展開を用意してくれるシスコン妹は今近くにいない。……久しぶりに思い出したな、小町元気にしてるかな。

 

 用意したジャージ一式を畳んでバスルーム前の床に置く。うっすら湯気がドアの隙間から漏れているのが見えて、鼓動が早まるのを感じた。いかんいかん、雑念は捨てろ。俺はそそくさと退散しようと背を向けた。

 

  「あれ、先輩?」

 

 しまった、タイミングが悪かったか。ドア越しに一色の声がかかり、俺は思わずぎくりと立ち尽くす。

 

  「ど、どうした?」

 

  「もしそこにいたらでいいんですけど……あの、そこの棚にタオルありますか?」

 

  「ああ、あるぞ。取っておくか?」

 

  「お願いします~」

 

 言われるままに、俺は洗面台の横に据え付けられた棚から乾いたバスタオルを取り出した。ドアを開けずとも取れる位置だったのは幸いだ。俺はそれをドアの前にそっと置き、大きめの声で知らせる。

 

  「ここに置いといたからな」

 

  「ありがとうございます!」

 

 ガラリとドアが少しだけ開き、濡れた手がひょいと伸びてタオルを引っ込めた。その一瞬、湿気と石鹸の香りがふわりと流れてくる。俺はぶんぶんと頭を振り、雑念を追い払った。

 

 危ない危ない。うっかり覗き込んだりしていたら、比企谷八幡として終わってしまうところだった。俺は自分の自制心を称賛しつつ、リビングへ戻る。

 

 さて、シャワーが終わるまでに何か温かい飲み物でも用意しておくか。幸い、非常用にインスタントの粉末スープを買い置きしてある。コーンポタージュ味だったか。以前安売りでまとめ買いして余っていたはず……。

 

 俺はキッチンでやかんに水を入れ、コンロに火をつけた。シュンシュンと湯が沸くまでの間にも、心なしか自分の胸の高鳴りが収まっていくのがわかる。ふう、落ち着け俺。平静を装うんだ。今動揺していたらこの先身がもたん。

 

 やがて小さな湯気の輪が立ち上り、湯が沸いた。二人分のマグカップにスープの素を入れ、お湯を注いでスプーンでかき混ぜる。湯気と共に漂うとうもろこしの甘い香りに、少しだけ心が安らいだ.

 

  「先輩、お待たせしました~。ふう、生き返りました!」

 

 絶妙なタイミングで一色がバスルームから姿を現した。俺が差し出したマグカップを受け取りながら、はふーっと満足げな息を吐く。

 

 ジャージ姿の一色は、普段とはまた違った雰囲気だった。俺のジャージはサイズが大きく、袖や裾が余っているのだが、それをブカブカと着こなす姿はなんというか……。

 

  「ぷ、ふふっ。どうですか先輩? 似合います?」

 

 一色がいたずらっぽく上目遣いで尋ねてきた。俺が無言で視線をそらすと、彼女は得意げに胸を張って見せる。

 

  「いや、別に。少なくとも似合ってないとは言わんさ」

 

  「ですよね~。先輩の貸してくれたジャージ、ちょっと大きいですけど暖かくて気持ちいいです」

 

 袖からちょこんと指先だけ覗かせてマグカップを両手で包む仕草が何とも絵になっている。普段着慣れない部屋着姿だからか、妙に新鮮だ。こいつ、思った以上に家庭的というか、家にいるときはこんな感じなのか……。

 

 などと呑気に感心している場合ではない。危うく見惚れていたなんて口が裂けても言えない。俺はマグカップを一口すすり、言葉を紡いだ。

 

  「……とりあえず、それ飲んだら少し休んでいけ。雨、止みそうにないしな」

 

  「はい、そうさせてもらいます。お言葉に甘えて、もうちょっとだけお邪魔しますね」

 

 一色はふにゃりと笑みを浮かべ、ベッドにちょこんと腰掛けた。俺は椅子を引き寄せ、一色とは少し距離をとって座る。

 

 外は相変わらず土砂降りで、雨粒が窓ガラスを絶え間なく叩いている。室内にはテレビも音楽もなく、静かな空気が流れた。かちゃかちゃとマグカップの中をスプーンでかき混ぜる音だけがやけに響く。

 

  「……なんだか、不思議ですね」

 

 不意に一色がぽつりと零すように言った。

 

  「何がだ?」

 

  「いえ、まさか先輩の部屋で一緒にコーンスープ飲んでるなんて思わなくて」

 

  「ああ、それは俺も同感だ」

 

 俺は肩をすくめた。確かに、数時間前までは想像もしなかった光景だ。傘を忘れただけでどうしてこうなった。

 

  「高校の頃は、先輩の部屋に行く機会なんてなかったですもんね~。なんかちょっと新鮮です」

 

  「そりゃあお前と家で会う理由なんてなかったしな。奉仕部の部室くらいだったろ、ゆっくり話したのは」

 

  「ですね。でもあの頃より先輩とこうして普通に話せるの、私けっこう嬉しいんですよ?」

 

  「はあ……?」

 

 思わぬ率直な言葉に戸惑う。何を言い出すのかと思えば。俺は思わず一色の横顔を見やった。

 

 一色はいまだカップを両手で包み込み、表情を崩さず正面を見据えている。その頬はわずかに上気し、湯気に霞んで柔らかく見えた。

 

  「高校の頃の先輩って、もっと刺々しい感じだったじゃないですか。私、正直ちょっと話しかけづらかったんですよ?」

 

  「……そうか?」

 

  「そうですよ。いつも無愛想で、なんか人を拒けてる雰囲気ありましたもん」

 

  「別にお前に限った話じゃない。他の連中にも同じ態度だ」

 

  「知ってます。でも、そういう先輩にいろいろ手伝ってもらっちゃいましたしね。生徒会やら何やら。感謝してますよ、一応」

 

 一色はくすっと笑った。カップをテーブルに置き、そっとベッドのシーツに手を滑らせる。

 

  「だから、こうしてまた先輩と普通にお喋りできる関係になれて、良かったなって思ってます。大学でもよろしくお願いしますね、先輩」

 

 照れくさそうに笑いかけてくる一色に、俺は不覚にも一瞬見惚れてしまった。彼女の言葉はまっすぐで、冗談めかした調子もない。その瞳にはあの計算高い光も潜んでおらず、ただ穏やかな色が浮かんでいるだけだった。

 

  「……ああ、こちらこそ」

 

 それがやっとの返事だった。気恥ずかしさに、一度視線を外してからもう一度戻すと、一色はぽふっと俺の枕に背中を預けて天井を仰いでいる。

 

  「ふー……落ち着く……」

 

 小さく呟き、目を閉じる一色。浴びたての髪から一筋、水滴が頬を伝ってシーツに染み込んだ。

 

 俺はぎこちなく空になったカップを持て余し、所在なげにテーブルに置いた。胸の鼓動が、さっきより速くなっている気がするのは気のせいだろうか。

 

  「……おい、一色」

 

  「……zzz」

 

  「寝るなよ。お前、寮に帰らなくていいのか」

 

  「んー……もうちょっとだけ。このまま雨止むまで、ここにいていいですか……?」

 

 ふにゃりと力の抜けた声で返事が返ってくる。一色はいよいよベッドに横になり、俺の枕を抱えるようにして丸くなった。

 

 ちょ、ちょっと待て。さすがにそれは色々とまずい。俺は目のやり場に困り、慌てて立ち上がった。

 

  「お、おい、一色さん? 本気で寝るなよ?」

 

  「……だって、気持ちいいんですもん。先輩のベッド、あったかい……」

 

 くぅ、そんな無防備な姿で言われても困る。髪の香りと残り湯の温かさが相まって、妙に艶っぽい空気すら感じてしまうのだが。これは試されているのか? 俺の理性が? 早くも限界なんですがそれは。

 

 俺は所在なくその辺を数歩うろうろし、呼吸を整えた。落ち着け。ここで取り乱したら負けだ。こういう時はどうする? そうだな……。

 

  「まったく……困った後輩だ」

 

 俺は苦笑混じりに呟き、クローゼットから薄手のブランケットを取り出した。それをそっと一色の肩にかけてやると、彼女は小さく身じろぎしただけで、すぐに静かな寝息を立て始めた。

 

  「お疲れさん。一日振り回してくれやがって……」

 

 小声でそう言いながら、俺は椅子に腰を下ろした。背もたれに体重を預けると、一気に疲労感が押し寄せてくる。今日はなんだかんだで気疲れした。甘いような苦いような、不思議な疲労感だ。

 

 視線を落とせば、無防備に眠る一色の寝顔が目に入る。普段小悪魔じみた表情を浮かべている彼女も、こうしていると年相応の少女に見えるから不思議だ。長いまつげ、少し開いた唇、すうすうと規則正しく上下する肩……いやいや、観察するな俺。覗き込む変質者と変わらんぞ。

 

 俺は目を閉じ、深呼吸する。少しひんやりした空気が肺に満ち、熱く火照った頭が冷やされていく気がした。

 

 外ではまだ雨音が続いている。だがその音も子守唄のように心地よく思えてくるから不思議だ。椅子にもたれたまま、俺もいつしか瞼が重くなっていくのを感じた。

 

 ……まあ、少しだけなら。雨が止むまで、ほんの少しだけ。

 

 こうして雨宿りの午後は、更けていくのだった。

[





どうも、ろーです。

雨が降ると、なぜか人の距離が近くなる気がします。傘の下で少しだけ身を寄せたり、濡れた肩を気にしてみたり。
今回の第3話は、そんな「突然の雨」がきっかけで、八幡の部屋に転がり込んでくる一色いろはのお話でした。

それにしても、一色いろはという女は、本当にスキがない。
びしょ濡れで「シャワー借りていいですか?」なんて言ってのけるそのしたたかさと、
「女の子を濡れたまま帰すのって、どうかと思いますよ?」と笑って見せるその強引さ。
どこまでが計算で、どこからが本音なのか。八幡はたぶん、一生わからないまま振り回されるんだろうなと思いながら書いていました。

でも、今回の話で少しだけ見えてきたのは、
「そうやって距離を詰めるのは、たぶん怖いくせに、それでも踏み込んでくる彼女の強さ」
みたいなものでした。八幡の部屋のソファに座る一色は、いつもより少し素直で、少しだけ寂しそうだった気がします。
もちろん八幡は気づかないでしょうけど。

いつも通りの皮肉屋と、小悪魔的な後輩。だけどそれだけじゃない関係が、たぶん少しずつ、始まってる。
そんな前兆を感じてもらえたなら嬉しいです。

では、また次の雨が降る日か、晴れた日かに。
読んでくださってありがとうございました。

 5月29日、小雨の中 某ハンバーガーチェーン店でポテトをつまみつつ。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。