「遅すぎる」
「何が」
「箒の授業が」
オーソンは来るなりそう言った。怒鳴らないが明らかに苛立っている。
ウィルは細い眉を上げて少し高いところにあるオーソンの顔を見上げた。彼は厚みのある唇から細く白い息を吐いていた。
「言うほど遅いか?」
「いやおっせぇわ。遅すぎるわ」
「ええ…」
「クソ、ディペットめ…余計なことしやがって…」
オーソンがこのように言うのはわけがあった。
冬休み明けの初回授業。スリザリンとハッフルパフの一年生たちは、競技場に集められた。飛行術の実技のためである。
本来、この授業はもっと早い段階で行われるはずだった。
しかし当時のホグワーツ校長アーマンド・ディペットはそれに大きく反対した。
杖を握り始めたばかりの子供たちに、落下の危険性があることをさせるのはいかがなものかと言って、飛行術の教師に最低限の呪文を覚えさせてから箒を扱わせるように命じたのだ。
教師陣はこの措置に対しほぼ全員が、落ちたらその時どうにかすればいい、と思ったし言ったが、ディペットは「だめ。危ないから」と、当たり前すぎることを言って全員黙らせた。正論すぎて誰も何も言えなかった。
なんなら二年からさせようという話もあったのだが、七年あるホグワーツでの生活で一年も箒に跨らせない期間があるのはあり得ない、と飛行術の教師がバキバキの目で言ったため、冬休み明けから飛行術の本格的な授業をすることになっていた。
これは英断だった。二年からだったら多分、暴動が起きている。
ウィルは、そりゃハンドルを握らせる前に講習はするよな、と思っていたので特に異論はなかった。
「おかげで外クソさみぃし。クソが」
「それは本当に同意」
異論はないが、不満はあった。
この時期、ホグワーツ周辺の気温はマイナス5℃程度である。それでもホグワーツのあるスコットランドは、西岸海洋性気候で緯度の割には寒くない方なのだが、それでもこの季節、誰も外に出たくはない。薬草学の屋外授業ですらみんな舌打ちしながら受けているのだ。
「マ、でもいいわ。全然」
だが、そう…どうでもいいのだ。
オーソンの言葉が子供達にとっての真実である。
寒かろうが雨だろうが嵐だろうが、11の少年たちは喜んで外に出る。
現に今日は、生徒たち全員が10分前に集合という普段ならまずあり得ない事態が起きていた。いつもギリギリで授業に駆け込んでくるやつ、そもそもサボりが多いやつ、授業を大体寝ているやつ…などの不真面目なメンツが端の方で友達と駄弁っている、と言えば大体分かるだろう。
ウィルは不機嫌なようで全く不機嫌ではないオーソンを見て、やっぱり人間っては難しいなーと思った。
「あ、やっと来たわ」
「先生だ」
奥から小走りでやって来る人物がいた。
飛行術教師、バーバラ・フェルドマン。通称、マダム・フェルドマン。
後に就任するマダム・フーチの前任者だが、まあほぼマダム・フーチのようなものである。
外見とやや放任主義なこと以外は特に変わりはない。ちなみに五十代、既婚者である。
「はい!みなさん集まりましたね!大変お待たせしました。箒の授業です!この寒い中!一体誰のせいでしょうね!」
ドッと生徒が一同に沸いた。フェルドマンはニコッと短く微笑んだ。子供が七人いるから子供の集中を集めるのが上手い。
こうして、授業が始まった。
「長々続いた座学で皆さんよく分かっているでしょうが、まずは地面に箒を置いて。上がれ、と言って下さい。始めて!」
生徒たちは一斉に「上がれ」と言って箒を手に取った。ここまで散々待たされたのでこれはスムーズだった。みんな箒への憧れがあったのだ。
トムは箒に一言「上がれ」と言って、簡単に手に柄を掴んだ。当然、この男は一発成功だ。
「よし、全員箒が上がりましたね。では、箒に跨ってください。10秒間、一、二メートルくらい浮いてから地面に着地するように。絶対に、箒の柄から手を離さないように」
トムは箒で浮き上がった。
他の生徒も、さほど苦なくできている。その辺をグルッと一周くらいなら簡単にできそうである。
さて、ウィルはどうしてるかな、とトムはその方を見てズッコケそうになった。空中なのでそのまま落ちるところであった。
ウィルは箒に跨りすらしていなかった。笑うのを通り越して、周囲は唖然としている。
「どうしましたか、ウィリアム・ウォーカー!」
しかし彼は真っ直ぐに言った。
「メチャクチャ怖いです先生」
「恐怖心は捨てなさい」
「嫌です。怖いです」
「素直で結構。でもみんな最初はそうです」
「先生も怖かったですか?」
「……」
教師は黙った。体育会系の人間は、口調は荒いが案外素直なのである。
「ほらもう覚えていないじゃないですか。才能のある人はみんなそうです。できない人間への理解が…」
「ウィル、ウィル、飛ぼうね。大丈夫だからさ。ウン、今、君結構恥ずかしいことしてるから。先生も思い詰めないでくださいこんな生徒の戯言に」
「戯言って言われたよ」
「思いっきり戯言だったろ…」
ウィルは渋々と箒に跨った。
「君それ飛んでる?てか浮かんでる?」
「浮かんでるだろ5ミリほど」
「逆に難しいだろ」
「うるさいなエンジンも安全装置もないのに着地が不可能な高さまで上がる方が危険なんだよ」
「怪我したってすぐ治るよ、多分」
「ウィリアム。上がってください」
「上がってます先生」
「あと一メートル上がってください」
「保険が降りるなら上がります」
「ほけん…?いいから上がりなさい。なんで5ミリだけ上がってるんですか。その方が大変でしょう」
「地に足つけて生きていたいんです」
「君はまだホグワーツに足つけていたいですよね?」
「脅しだ…」
と、暗に脅しを受けてウィルは本当に一メートル上昇した。
教師もトムも驚いた。さっきまで散々ごねていた男が急にスーッと簡単に上がったので。ウィルはちょうど一メートルのところでピタッと止まるとスーッと降りた。
スーッと上がって、スーッと降りた。
「やればできるじゃないですか。できましたね」
「……」
「ど、どうしましたか…?」
「……」
「あっ」
トムは彼の顔が真っ白であることに気がついた。
怖すぎて口が聞けないらしい。教師は無言になると何も見なかったようにクルッと背を向けた。
その後の授業中、彼は一言も言わずに最低限のことをやった。一度も暴走したり、手を離したりはしなかったが本当に真顔なのでトムの方が笑って箒から落ちそうになった。
と、このように全然優秀じゃないところもあった。
ようやく終わった飛行術の帰り道、ウィルは明らかに元気がなかった。箒を持ってトボトボ歩いている。
きっと彼と仲がいい人間は普段無機質なこの男のこういうところが好きなのである。だから意外と友達がいる。
そんな背中をトムは誰より先に思い切り引っ叩いた。よろめいた男の手から箒をひったくって、空いた手を引いてやる。ウィルは何も言わずに素直に引っ張られた。
「君にも苦手なことがあったんだね」
ウィルは特に照れもせずに答えた。
「あるよ。人間だし」
「わりとなんでも出来るって思ってたけど」
「いやマジで全然そんなことはない」
「そうみたいだね」
それからトムは、たまにウィルを観察してみた。
そして分かったことは、やはりこの男が普通じゃないということだ。
まず、彼は集中のタイミングが人と全く違っていた。ノートの取り方一つ見てもそれは明らかだった。
ウィルは他の生徒がまだ教師の話を聞いているうちからノートを書き出す。それも大体は不規則な空白を開けて、要点や矢印を書いているのだ。
なんだろう?と思ってトムはそれを見ていたが、他の人間がノートを取るというタイミングで、彼はその空白に最低限のことを書き留める。重要単語とページとメモくらいだが。
それ以外で何をしているのかと言えば、うーんと少し悩むような顔をして、図形のような記号のような、とにかくよく分からないものをたくさん書く。
そして授業が終わる頃には、図形や数字だらけで文章はほとんどないという本人にしか分からないノートができているのだ。
トムも思わず初めて見た時「は?」と言ってしまった。
このノートから分かるのはウィルが本当にカケラも他者に共感を求めていないと言うことと、バケモノほど頭がいいと言うことだけである。あとはサッパリ分からない。どれだけ贔屓目に見ても、パッと見は近代美術に傾倒しているデザイナーが描いたラフスケッチか何かだ。
それほど難解なのだ。本人以外には。
だがトムは、ウィルのノートを何度も見ているうちに少しだが法則性がわかってきた。
おそらく彼は、普通の人間が聞き流すであろう最初の説明の段階で、頭の中に何となくの全体構造ができているのだろう。
それをそのまま、ザックリとノートに書いている。そのあとで最小限のまとめだけノートに書いているのだった。
「…って予想なんだけどあってる?」
「あってるあってる。てか君、最近そんなことしてたのか」
「君が分かるかなと思って」
「分かった?」
「多少は」
トムはそう答えると、ウィルのノートを指差した。
一つだけ、全く見当もつかなかったものがある。
初めて見たトムが思わず「は?」と言うしかなかった文字でも数字でもない、よく分からない小さな記号だった。
「でもこれだけは分からなかった。ホントになに?これ」
「体系だよ」
「は?」
「頭の中に知識をジャンル別にして分けてる。これは19世紀事件系影響度2重要性Bってこと」
「……き」
「ん?」
「いや、何でもない」
トムは思わず「キモッ!」と言おうとしてやめた。周りに人がいなかったら言っていただろう。
と、このように鳥肌が立つほど独特で立体的な脳のデザインを彼はしていた。なぜ彼が人に興味を持たないのか分かった気がする。そもそも脳に、共感や社会性といった部分が存在していないのだろう。代わりに好奇心と構造理解は異常なほど発達している。
そういう意味ではほぼサイコパスと同じと言える。支配欲求も承認欲求もないから、殺人に興味がないだけで。
また別の日のこと。
「だから、どうやってるのかって聞いてるんだよ」
「ノリだって」
「何を言っているんだ」
「ちょっと頑張れば簡単だよ」
「全然分かんないんだけど。ちゃんと説明してくれよ」
何度聞いても、「テンション」「ノリ」「気合い」としか答えない男にトムは業を煮やしていた。
トムはこの男は異常だ、と理解したところで、じゃあ距離を置こう、とはならない男であった。
それは彼にとって敗北を意味するからだ。
理解できないものはどうにかして理解しようとするし、理解したなら支配もできるという価値観である。
だから、どうにかしてウィルの思考原理のメカニズムを引き出そうと必死だった。
「元気だね〜」
「聞けよ。いや、話せよ」
「ンー…」
そうは言われても、ウィルにとって目の前のことを理解することは別に特別でもなんでもなく、自然にやっているから説明は難しい。
ウィルは自分を理屈派と思っていたが、その思考回路はそのままだと本人にしか分からないので、実質感覚派である。理解したことをそのまま人に説明するとまず分かって貰えない。
実際、ウィルは昔から仲良くなった友達から最初は単純に頭のいい男と思われるが程なくして大抵「君って頭いいけど変わってるよね」と全然釈然としないことをよく言われた。それは彼の思考回路が常人のそれとずいぶん違うので当然だったが、本人はいまだに「は?」としか思っていない。
しかし彼らと違い、トムはとことん諦めの悪い男だった。
ウィルのメチャクチャな説明をいくら受けようとも全く諦めなかった。
一体なぜ、ウィルがすんなり魔法が扱えるのか、その秘密を引き出そうとしていた。観察した時、彼が特に苦もなく魔法を使うところを見ていたからだ。
見たことない魔法も、難解な魔法も、呪文と効果を教えただけで、アッサリと。
もうそれは真っ当に努力しているトムにとって納得がいかないどころではないので、彼のやり方だけでも分からないとやってられないのである。
叶うことなら頭に直接手を入れて脳の引き出しを開けたいところだ。まあ、ウィルは後遺症がないならノータイムで「いいよ」と言うだろうが、その引き出し、開くは開くが開けたところで本人以外理解できないので意味がない。
ウィルはムキャッ!と怒っているトムを見て、仕方ないのでちょっと話を脱線させることにした。
「杖の動きってさァ…予想だけど、魔法陣の代わりなんだよね」
「そうなの?」
「多分」
ウィルはモソモソとクラッカーを食べながら話し始めた。トムが「おいしい?」と聞くと「まあまあ」と答える。まあまあらしい。
「俺が今から言うこと話半分で聞いてよ?違ったら恥ずかしいから」
「了解」
「物でも制度でも…なんでもそうだけど、複雑な工程はどんどん省略化すんの。で、多分…魔法って昔はもっとめんどくさいもんだったと思うよ。でもすごい長い時間かけて色んな人がそれを杖の動きと呪文のダブルアクションにまで省略したんだよ。でも本質にあるものは変わってない。杖の動きが魔法陣の代わりで、呪文は魔法の…性格?みたいなもんなんだと思う。杖の動きで箱を作って、呪文が箱の中身ね。ね?ノリでしょ?」
「……ん?」
「だから魔法を失敗する時ってね、材料?魔力量?が足りないか、レシピ?魔法?がよく分かってないからだよ。大抵」
「……」
と、ウィルは思考をなるべく分かりやすく話した。
普段の彼なら記号と二、三文字くらいで終わらせることを。聞かれたから。
別にこんなことが教科書に書かれていたわけもない。
ウィルが入学してから約半年、魔法を体系的に学んでみて、なんとなくこうなんじゃない?と思ったことを言ってみただけだ。証拠はない。
あくまで彼の頭の中だけにある仮説である。
「……なるほど」
トムは一定、この説明を理解した。
でも納得はしていない。なぜなら理解することと実際にできることは全く別物だからだ。
例えば、その道五十年の拳法の達人が「拳法なんてね、見た動きをそのまま再現するだけで何も難しくないですよ」と言ったところで「すげー!」と言われるだけで、何の説得力もないだろう。
理解ができても、それを身につけるには数十年はかかる。
理解したら、できる、というのがウィルの最も特異なところだった。
「…じゃ、この『アロホモラ』って魔法は君に言わせればどんな魔法?」
トムは試しに適当な呪文を一つやってもらうことにした。
鍵開けの呪文である。この城で使う機会は普通に過ごしてる限りないので初見の呪文のはずだ。
ウィルは分厚い本を斜めに見ながら適当にパラパラとページを捲った。
「んー…杖はほぼ動かさないかな。だって鍵開ける時って集中するし、あんま体の動きも無いじゃん。あと鍵さえ合ってれば錠なんて絶対開くもんなんだし。絶対に開くって思って言えば、多分いけるよ」
「やってよ」
そんなに言うならやってもらおうじゃないか、と挑むように南京錠をウィルの前に置いた。
トムは練習用に南京錠を一つ借りていた。一時間近くやって、トムはこの呪文をマスターした。確かに杖はほとんど動かさない。
ウィルは杖を取り出して、杖はほとんど動かさずに呪文を唱えた。
「アロホモラ」
ガチャン。
南京錠が外れた。
トムは本当に言った通りの方法で魔法を成功させた男に、感心を通り越して呆れていた。
「君、多分才能は僕よりあるよ」
「んなことないよ。みんなできるって」
できて堪るか。
トムは頬を引き攣らせた。本当にやってのけるからかわいくないし、笑えないのだ。
しかし、トムは彼が自分より優れている人間だとは思わなかった。
負け惜しみではなく事実である。
もはや言う必要ないほどトム・リドルは凄まじい努力家な上、血統的にこの男も魔法の理解は苦もなくやってのける。今は本人も知らないが、彼はサー・スリザリン直系の血を引いている男である。
別にウィルのやり方を真似なくても、トムは天才でしかなかった。
だから段々、ウィルの書くメチャクチャなノートも分かってきて、ある時たまたま彼の魔法陣がどういうものか直感的に分かった。トムは魔法陣を指差して「これってデイフォディオ?」と聞いてみると、ウィルは微笑んで「んふ。そう」と言った。自分の思考回路が説明もなく理解して貰えてうれしかったようである。
と、このようにウィルは才能はあるが分野によって向き不向きが激しかった。
ピタッとハマる教科は簡単にできるが、苦手なことは思考に合わないのか結構手こずる。
占い学などその最たるもので、ウィルはよく「法則が掴めない」と言っていた。これはトムも同意だった。
「掴めないってか、ない。あの教師はずっと何やってんだ?」
「本当にそう」
トムは首を縦に振って同意した。
「あれは学問ってか、趣味だな。明日あなたは不幸に会う…って、そりゃ18600秒もあれば良いことも悪いことも、一つや二つあるだろ」
「違いない」
「ビンズの授業より悪い」
「あの先生も大概だけどね」
「事実ベースなだけまだマシ」
ビンズとは、魔法史を教えてくれるゴーストの教師である。
ここで教えているからには優秀なことは優秀なんだろうが、この手の話題で引き合いに出されるということは、まあ、そういうことだ。
一言で申せば、ひたすら眠くなる教科書の朗読。
現代風にいうなら質の悪いASMRのような授業をする男である。教師としてはとても需要に乏しい男だ。
「君以外と歴史は興味あるよな」
「昔のこと知ってると大人と話す時便利よ?頭いい大人とか地位高い人って大体歴史を重んじるし」
「へー。君は歴史に興味あるんだね」
「いや興味は全く無いけど。まだ星の方が面白いね」
「あれって全然動きないし退屈じゃ無い?」
「いや分かると楽しいよ。ここ田舎ってか何もないから星めっちゃ見えるし」
「確かにね」
そう堂々と教師の悪口を話す二人は塔にいた。今は天文学の授業なのだ。教師は後ろに引っ込んでいるし、生徒はみんな眠そうにしているか喋りながら星空を見上げているので誰も二人を構わない。
「ほら、あれがオリオン座」
ウィルはそう言うと、空を指した。トムは無数の星が輝く空を見上げた。綺麗は綺麗だが、ここは星が多すぎて、何が何だかよく分からない。
「たしか…矢で撃ち殺された人なんだっけ」
「そう。オリオンは神様を愛して殺されちゃったんだよ。恋なんてしなければ死なずに済んだのにさ」
「…死んでも欲しかったんだろ」
「?分からない」
ウィルは心底不思議そうに言った。そこになんの悪気もない。
トムには彼が文字通り、子供の神様に見えた。