西暦2015年。世界は、終末の足音を聞いていた。地下都市ジオフロントの底、特務機関NERV本部。誰もが絶望の淵に立たされる中、碇シンジは自室に引きこもり、世界から目を背けていた。彼の掌には、かつて友人から贈られた音楽プレーヤーが握られている。その小さな機械から漏れる無機質な音が、かろうじて彼の心を現実に繋ぎ止めているようだった。
一方、その頃、第三新東京市は地獄と化していた。戦略自衛隊の襲撃。NERV職員の虐殺。そして、エヴァンゲリオン弐号機は、たった一体で、数多の量産型エヴァを相手に、孤立無援の戦いを強いられていた。
「このっ、クソッタレ共がぁぁっ!」
コックピットの中で、惣流・アスカ・ラングレーは叫んだ。血反吐を吐きながら、肉体が限界を超えていく。彼女の神経は研ぎ澄まされ、もはや痛みすら感じない。ただ、目の前の敵を破壊することだけが、彼女の存在理由となっていた。しかし、圧倒的な物量差と、S2機関を搭載した量産機の不死身の力は、確実に弐号機の装甲を削り、アスカの精神を蝕んでいく。
その時、弐号機の側を、一機の輸送ヘリが掠めるように飛んでいくのが見えた。戦略自衛隊の追撃を振り切ろうとする、民間人のヘリだ。アスカは一瞥しただけで、再び量産機へと意識を集中させた。だが、そのヘリの中に、彼女のクラスメートであるハヤト・ミヤモトがいたことを、彼女は知る由もなかった。
ハヤトは、友人の家族と共に、第三新東京市からの脱出を試みていた。だが、彼の目は、ヘリの窓越しに広がる地獄絵図から離れなかった。遠くに見える、赤い巨体。弐号機だ。たった一体で、無数の白い巨人たちと戦っている。彼の心臓が、激しく警鐘を鳴らした。アスカが、あそこで、たった一人で——。
「アスカ……!」
ハヤトは、思わず声に出した。
隣に座っていた友人の母親が、青ざめた顔で彼を見た。
「ハヤトくん、大丈夫なの? あそこはもう…」
彼女の言葉は、ハヤトの耳には届かなかった。彼の脳裏には、いつも気丈に振る舞いながらも、時折見せる脆いアスカの横顔が焼き付いていた。授業中に居眠りをする彼女に、こっそり毛布をかけてやった時のこと。テストで高得点を取り、得意げに笑った顔。そして、先日、彼女が一人で公園のブランコに座り、空を見上げていた後ろ姿——あの時、彼女は一体何を思っていたのだろう。
(アスカは、一人じゃない…)
ハヤトの胸に、強い衝動が突き上げた。彼は、ヘリのドアに手をかけた。
「ハヤトくん!? 何を!?」
友人の母親が叫んだ。
「ごめんなさい! 俺、行かなきゃいけないんです!」
ハヤトは、そう言い残すと、開いたドアから、躊躇なく身を投げ出した。パラシュートが開く。急降下する視界の先に、傷つきながらも戦い続ける弐号機の姿があった。
「あのバカ、何やってんだ!」
戦略自衛隊の兵士が、ヘリから飛び降りたハヤトの姿に気づき、慌てて無線で報告する。だが、その間に、ハヤトは弐号機が激戦を繰り広げる場所へと、猛スピードで降下していく。
地面に激しく着地したハヤトは、痛む体を叱咤し、弐号機へと走り出した。彼がエヴァに乗れるわけではない。武器を持たない一般人が、戦場に飛び込んだところで、何ができるというのか。だが、彼の心には、ただアスカの傍にいたい、彼女を一人にしないという、純粋で強烈な願いがあった。
弐号機は、既に満身創痍だった。拘束具は破壊され、赤い装甲は白い液体の飛沫と、量産機の血で汚れている。活動限界まで、あと僅か。アスカは、最後の力を振り絞り、量産機一体の首をもぎ取った。だが、その直後、背後から別の量産機に羽交い締めにされ、身動きが取れなくなった。
「う、ぐっ……クソッ! クソッ!」
アスカの咆哮が、コックピットに響く。量産機は、手に持ったロンギヌスの槍のレプリカを、弐号機の核心へと突き刺そうとしていた。アスカは、死を覚悟した。その時、彼女の脳裏に、母の姿が、そして……。
その刹那、弐号機の足元から、何か細いものが飛び出した。それは、ハヤトがどこからか拾い上げた、廃棄されたインフラの一部、おそらくは折れた鉄筋だった。ハヤトは、信じられないほどの速度で走り、量産機の足元に飛びつくと、その鉄筋で量産機の装甲を何度も叩きつけた。
鈍い金属音が響く。量産機には、全く効果がない。しかし、その行為は、アスカの意識を、死の淵から引き戻した。
「な、何よ……あんた……ハヤト……!?」
コックピットの中で、アスカの目に、信じられない光景が映った。弐号機の足元で、無力な人間が、自分を助けようと、巨大な量産機に無謀にも立ち向かっている。彼の顔は、恐怖と絶望に歪みながらも、彼女を見上げる瞳には、確固たる決意が宿っていた。
量産機は、その異物であるハヤトを排除しようと、巨大な手を振り下ろした。その一撃で、ハヤトの体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。鮮血が、アスファルトに飛び散った。
「ハヤトォォォォォォォォォォッ!!」
アスカは叫んだ。その声は、彼女の心底から絞り出された、絶叫だった。
通常であれば、この時点で弐号機は沈黙し、量産機に蹂躙されるはずだった。しかし、ハヤトの、あまりにも無謀で、しかし純粋な行動は、アスカの心に、予測不能な変化をもたらした。彼女の意識は、肉体の限界を超え、精神的なリミッターが外れる。
「あんたを……こんな所で、死なせるもんかっ!!」
アスカの怒りは、悲しみを通り越し、純粋な闘志へと昇華された。
弐号機の目が、再び光を放った。活動限界を無視し、まるで意思を持ったかのように、弐号機は量産機の拘束を振りほどいた。アスカの精神とシンクロした弐号機は、もはや人型兵器の範疇を超え、生き物のように咆哮した。ロンギヌスの槍のレプリカが突き刺さる寸前、弐号機は回避し、その巨大な手で、槍を振り下ろそうとした量産機の腕をもぎ取った。
「馬鹿な……活動限界を、超えているだと!?」
戦略自衛隊の指揮官が、モニター越しに驚愕の声を上げた。
弐号機は、最早、無敵だった。アスカの「守りたい」という強い衝動が、彼女の限界を超えさせたのだ。彼女は、地面に倒れ伏したハヤトの姿を視界の片隅に捉えながら、量産機たちを次々と破壊していく。その姿は、まさしく地獄の業火に舞う炎の鳥、不死鳥のようだった。だが、彼女の肉体は、限界を遥かに超えていた。コックピットの中で、アスカは血の泡を吹き、意識が朦朧としていく。
「これ以上は……無理だ……」
ヴンダーの艦橋で、ミサトは唇を噛みしめた。アスカのシンクロ率は、驚異的な数値を叩き出しているが、同時に、彼女の肉体と精神が崩壊寸前であることを示していた。
その時、弐号機のコックピットに、一つの思念が流れ込んできた。それは、外界の、純粋な「意志」の波動だった。その波動は、アスカの、極限状態の精神に触れたのだ。
「あなたは、もう一人じゃない。あなたは、愛されている」
その言葉は、直接的な音声ではない。それは、アスカの心の奥底に直接響く、優しい波動だった。
アスカは、目を見開いた。愛されている? この私を? 目の前には、血まみれで倒れているハヤトの姿があった。彼は、この私を助けるために、身を投げ出してくれた。
「その命を、粗末にするな。あなたは、未来を生きるべき存在だ」
その瞬間、アスカの脳裏に、母の優しい笑顔と、そしてハヤトの、あの必死な顔が重なった。彼女の心の中で、何かが弾けた。破壊することだけが目的だった彼女の戦いに、新たな意味が生まれた。彼女は、まだ、死ぬわけにはいかない。ハヤトのためにも、生きなければならない。
弐号機は、最後の量産機を粉砕すると、その場に膝をついた。活動限界を遥かに超えた機体から、赤いLCLが漏れ出し、パイロットとのシンクロが限界に達していることを示していた。アスカの意識は、ゆっくりと闇へと沈んでいく。だが、その意識の底で、彼女は確かに、ハヤトの温かい手を握り返していた。
その頃、NERV本部地下のLCLの海。碇シンジは、ユイの幻影と対話し、人類補完計画の是非を問うていた。彼の脳裏には、カヲルの言葉、そしてミサトやアスカ、レイといった、彼が関わった人々との記憶が去来する。
「シンジくん……あなたは、どうしたいの?」
ユイの声が響く。
シンジは、迷っていた。全てをLCLに還し、痛みのない世界を選ぶべきなのか。それとも、個の存在としての痛みを伴う世界を選ぶべきなのか。その時、彼の精神世界に、わずかなノイズが混じり込んだ。それは、アスカの叫び、そして、ハヤトという名を知らぬ少年の、純粋な「守りたい」という強い想いだった。
(アスカが……誰かに、守られている?)
シンジの精神世界に、これまでになかった情報が流れ込んだ。それは、アスカが、たった一人で絶望的な戦いを繰り広げていたわけではないという事実。そして、その戦いの中で、彼女が誰かの「まごころ」に触れ、生きる意味を見出そうとしていたという、かすかな希望の光だった。
シンジは、アスカが一人で戦っていたと思っていた。自分が傍観者である限り、彼女もまた孤独だ、と。だが、そうではなかった。アスカは、彼が知らぬ間に、誰かの愛情に支えられていたのだ。その事実は、シンジの閉ざされた心に、小さな衝撃を与えた。
「僕は……僕は……」
シンジの選択に、わずかな変化が生じた。彼は、アスカが、そして他の人々が、痛みを抱えながらも、他者との繋がりの中で生きようとしていることを、ハヤトの純粋な想いを介して、かすかに理解した。
最終的に、シンジは、個の存在としての再構築を選んだ。LCLの海が引き、シンジは荒廃した浜辺で、アスカの姿を見つけた。
アスカは、シンジに首を絞められながらも、彼を見据えていた。その視線の奥には、憎しみだけではない、深い諦めと、しかし、かすかな「生」への執着が宿っていた。
シンジは、彼女を絞め上げていた手を緩めた。そして、彼女の頬に触れた。その時、アスカの目から、一筋の涙が流れ落ちた。それは、彼女がハヤトの「まごころ」に触れ、再び生きることを選んだ、確かな証だった。
「気持ち悪い……」
アスカは、そう吐き捨てた。だが、その声には、以前のような純粋な嫌悪感だけではない、かすかな、人間の温かさが混じっていたように、シンジには感じられた。
シンジは、彼女の手を握りしめた。その掌には、ハヤトが倒れていた場所で、アスカが握りしめていた、血で汚れた鉄筋が残っていた。シンジは、その鉄筋に、アスカの、そしてハヤトの、深い想いが宿っていることを、本能的に理解した。
ハヤトは、奇跡的に命を取り留めていた。彼は、戦略自衛隊の混乱の中で、NERVの医療班によって救出され、応急処置を受けていたのだ。全身傷だらけで、意識は朦朧としていたが、かすかに息を吹き返した時、彼は空を見上げた。そこに、赤いエヴァの姿はなかったが、彼には、確かにアスカの存在を感じ取ることができた。彼女は生きている。それだけで、彼にとっての全てだった。
世界は、まだ変わっていない。人類は、これからも苦悩し、争いを繰り返すだろう。しかし、アスカとハヤトのように、たとえ絶望の淵にあっても、互いに手を差し伸べ、理解しようとする「まごころ」が存在する限り、人類には、まだ未来があると。シンジ、アスカ、そしてハヤト。彼らがそれぞれの場所で、新たな一歩を踏み出す未来が、静かに幕を開けようとしていた。