LCLの海が引いた後、世界は静寂に包まれていた。荒廃した「赤い」浜辺。血の色に染まった海は、かつての人々の魂の記憶を映しているかのようだった。碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーだけが残されたこの世界で、彼らは再生の一歩を踏み出そうとしていた。しかし、その一歩は、あまりにも重く、お互いの存在は、まだ痛みを伴うものだった。
シンジは、アスカの手を握りしめていた。その掌には、ハヤトが倒れていた場所でアスカが握りしめていた、血で汚れた鉄筋が残っていた。シンジは、その鉄筋に宿る、アスカの、そしてハヤトの、深い「まごころ」を感じ取っていた。それは、彼がLCLの海の中で得た、他者との繋がりへの希求と呼応する、確かな温もりだった。
「気持ち悪い……」アスカはそう吐き捨てた。しかし、その声には、以前のような純粋な嫌悪感だけではない、かすかな、人間の温かさが混じっていたように、シンジには感じられた。彼女の涙は、シンジにとっては理解し難いものだったが、そこには確かに、アスカが生きることを選んだ、そして誰かの存在が彼女の心に刻まれている証が宿っていた。
その頃、奇跡的に命を取り留めたハヤトは、NERVの医療班によって回収され、臨時の野戦病院で目を覚ましていた。全身傷だらけで、激しい痛みに苛まれていたが、彼の意識は、アスカの安否へと向かっていた。
「アスカは……無事なのか?」
掠れた声で、彼は隣にいた医療班の隊員に尋ねた。隊員は、ただ沈黙するだけだった。彼らもまた、この世界の変貌に困惑し、何が真実なのか、誰が生き残ったのか、分からずにいたのだ。
ハヤトは、ベッドの上で動けない体に苛立ちながらも、瞼を閉じた。彼の脳裏には、量産型エヴァに立ち向かった時の、アスカの驚きの表情、そして、彼女が自分を心配して叫んだ声が鮮明に蘇った。彼は、アスカが生きていることを、本能的に感じ取っていた。
数日が経過した。LCLの海は徐々に引き、第三新東京市の地下にあったジオフロントの天井は崩壊し、青空が顔を覗かせていた。NERV本部の機能は停止し、戦略自衛隊も壊滅状態。世界は、まさに「無」からの再スタートを強いられていた。
シンジとアスカは、互いに距離を取りながらも、共に生き残った人類の最後の二人として、荒野を歩き始めた。彼らの間に会話は少なかったが、互いの存在だけが、かろうじて彼らを狂気に陥らせずにいた。アスカは、時折、ハヤトが握りしめていた鉄筋を、無意識に触れることがあった。その度に、彼女の表情に、微かな変化が訪れるのを、シンジは感じていた。それは、怒りでも、悲しみでもない、何か割り切れない、しかし温かい感情のようだった。
一方、ハヤトは、回復の兆しを見せ始めていた。彼を救出した医療班は、NERVの職員だった。その中には、かつてNERV学園で彼らを指導した教師もいた。混乱の中、彼らは生き残った人々を救い、医療活動を続けていたのだ。ハヤトは、教師や他の生存者たちから、人類補完計画の経緯、そしてエヴァが果たした役割について、断片的に聞かされた。シンジとアスカが、人類の存亡をかけた最後の選択を行ったこと。そして、この世界の再生が、彼らの手によって始まったことを。
ハヤトは、自分が無力だったことを痛感した。アスカを守ろうとしたが、結局、彼女の戦いを止めることはできなかった。しかし、同時に、彼自身の行動が、アスカの心に何らかの影響を与えたかもしれないという、かすかな希望も感じていた。彼は、自分がもう一度、アスカに会うことを決意した。今度こそ、彼女を一人にはしない。戦場ではなく、この再生の地で、彼女の隣に立つことを。
数週間後、ハヤトは、身体が完全に回復しないうちから、荒廃した第三新東京市を歩き始めた。食料も水も不足し、生存者たちは皆、絶望と疲労の中で生きていた。彼は、瓦礫の山となった街をさまよい、シンジとアスカの行方を捜した。彼らが向かったのは、きっと、LCLの海が引いた、あの浜辺だろうと推測していた。
そして、ついに、ハヤトはシンジとアスカを見つけた。彼らは、荒涼とした浜辺に座り込み、遠くの赤い海を見つめていた。ハヤトの心臓が、激しく高鳴る。アスカは生きている。その事実だけで、彼の目に涙が滲んだ。
シンジとアスカは、ハヤトの存在に気づいた。シンジは、驚きと、かすかな困惑の表情を浮かべた。彼の頭の中では、ハヤトの存在は、アスカの「まごころ」と結びついていた。そして、アスカは、ハヤトの姿を捉えた瞬間、その瞳を大きく見開いた。彼女の顔に、怒りも、苛立ちもない。ただ、信じられないという、純粋な感情が浮かんでいた。
ハヤトは、よろめきながら、二人の元へと歩み寄った。
「アスカ……」
彼の声は、掠れていた。
アスカは、ゆっくりとハヤトを見た。そして、その表情に、ほんのわずかな、しかし確かな変化が訪れた。それは、安堵にも、困惑にも、そして、微かな喜びにも似た、複雑な感情だった。
「あんた……なんで……」
アスカは、言葉を紡ごうとしたが、喉から声が出なかった。
シンジは、二人の間に流れる、言葉にならない感情の交流を、静かに見つめていた。彼は、アスカが握りしめていた鉄筋と、目の前のハヤトの姿を重ね合わせる。それは、自分が理解できなかった、アスカの心の奥底に存在する、もう一つの繋がりだった。
ハヤトは、アスカの傍らに座り込んだ。彼は何も言わなかった。ただ、そこにいること。彼女の隣にいること。それだけで、彼にとっての全てだった。アスカもまた、ハヤトの隣で、静かに座り込んだ。彼女は、目を閉じ、ハヤトの存在を全身で感じているようだった。そこには、エヴァのパイロットとしての重圧も、他者への不信感もない。ただ、一人の少年が、純粋な「まごころ」を持って、自分の隣にいてくれるという、温かい事実だけがあった。
シンジは、二人の姿をしばらく見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。彼の顔には、まだ迷いの色が見て取れたが、その瞳には、以前のような絶望の陰りはなかった。彼は、アスカとハヤトの間に、痛みを乗り越え、共に生きようとする、かすかな希望の光を感じ取ったのだ。
人類は、まだ不完全だ。互いを傷つけ合い、絶望を繰り返すだろう。しかし、アスカとハヤトのように、たとえ世界の終わりに立たされても、互いに手を差し伸べ、理解しようとする「まごころ」が存在する限り、人類には、まだ、やり直せる未来がある。
シンジは、荒涼とした浜辺の、遠くへと歩き出した。彼の向かう先には、まだ何も見えない。だが、彼の心には、アスカとハヤトが示す、小さな、しかし確かな光が灯っていた。それは、彼がこれから、一人ではない世界で、他者との繋がりの中で、自らの「まごころ」を見つけていくための、始まりの光だった。そして、アスカとハヤトは、再生の浜辺で、共に静かに座っていた。彼らの間には、多くを語らずとも、互いの存在を確かめ合う、温かい繋がりが芽生え始めていた。この世界が、再び色を取り戻す日が来るのかは、まだ分からない。しかし、彼らの心の中には、確かに、希望の光が灯り始めていた。