ニカラグア・トレイセン学園に初めて足を踏み入れたその日、私はある種の懐かしさに襲われていた。美しい中庭に古い煉瓦造りの校舎、規律の行き届いた構造と運営体制――これらすべてに、かつて自らが築いた国家機関の残影が重なるのだ。
だが、それは単なる記憶の投影に過ぎない。今の私は過去を名乗れぬ存在であり、ただの一人の新任トレーナーに過ぎなかった。
到着早々、私は学園事務局に呼ばれた。事務的な配属通知かと思っていたが、案内されたのは校舎の最上階。そこにある、分厚い木製の扉が示すのは、権威と孤高。そしてその名札にはこうあった。
『理事長室 カルロス・バレンシア』
扉をノックすると、中から低く落ち着いた声が返ってきた。「どうぞ。」
重厚なドアの向こうには、身なりの良い老年の男がいた。肩まで伸びた白髪を後ろで束ね、革張りの肘掛け椅子に深く腰掛けたその姿は、政治家というよりは退役将校のようだった。だが、その鋭い目は知識と経験の深さを物語っている。
「ようこそ。新任のトレーナー、アナスタシオ君だね?」
「はい、アナスタシオ・ソモサです。」
その名を口にした瞬間、理事長の眉がわずかに動いた。だが、明確な反応は見せなかった。
「なるほど……名前がいささか古風だが、気骨のある雰囲気だ。履歴書は拝見したよ。軍籍経験のような記述はなかったが、君の立ち居振る舞いから、何か……特別な環境で育ったのだろうと感じる。」
「それは……まぁ、人の上に立つ立場を経験したことはあります。」
事実ではあるが、決して嘘はついていない。
理事長は眼鏡を外し、私をまじまじと見た。
「言葉の選び方が妙に重たい。どこかで政務に関わっていたことは?」
「いえ、前の世界では……いや、前職では多くの調整ごとに関わる機会はありました。」
「……ほう」
彼はそれ以上は詮索しなかった。ただ、何かを計るような目で静かに笑った。
「この学園は、表向きはスポーツ育成施設だ。しかし、我々は国家の将来を背負う存在を育てている。つまり、教育というよりも“使命”なのだ。トレーナーは教師ではなく、伴走者であり、同時に矛盾を受け入れる存在でもある。君はその覚悟があるか?」
「あります。……いや、それ以上に“意味”を見出したいと思っています。」
理事長は一瞬目を細め、笑みを深めた。
「意味、か。……君は変わっているな。いや、実に面白い。君のような人間が、この学園には必要だと感じるよ。私の若い頃を思い出すな。」
私は、ふと気になって訊いた。
「理事長も、かつては“戦って”いたのですか?」
カルロス・バレンシアはその質問に対し、しばらく無言だった。そして小さく笑った。
「……私は、ある時代に“国家”と“帝国”という概念の間で揺れた男だよ。だが、それももう昔の話だ。今はただの老人であり、未来の足音を聞く者だ。」
彼は窓の外を見ながら、続けた。
「君に一つだけ忠告しておこう。ウマ娘を育てるということは、ただ勝たせることではない。“どこまで走るべきか”を、本人が見出せるよう導くことだ。時に彼女たちは、勝利よりも意味を求める。」
「……理解しました。」
「では、初めての担当ウマ娘の名前は?」
「サタデーナイトです。」
その名を聞いた瞬間、理事長はわずかに頷いた。
「彼女か……ならば、君には“導く資格”があるかもしれん。」
こうして、理事長カルロス・バレンシアとの関係が始まった。彼は私の過去を知らず、私は彼の戦いを知らない。だが、使命に殉じた者たちの共鳴は、言葉を超えて通じるものがある。