元大統領が行くトレーナー生活   作:赤部二郎

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土曜の夜に走る

私は初めての担当トレーナーを目の前にして、少しだけ戸惑っていた。

 

その人は、他の誰とも違った。

ニカラグア・トレイセン学園に赴任してきたばかりのアナスタシオ・ソモサ・トレーナー。年齢は他の若いトレーナーたちより明らかに上。背筋を伸ばし、いつもキャンペーン・ハットを被っている。その姿は、どこか“時代錯誤”のように見えた。

 

だけど、不思議と威圧感はなかった。

 

むしろ、目の奥にある“静かな炎”に、私は引き込まれた。あれは命令の炎じゃない。過去を抱えている人の目だ。

 

「君の脚は素晴らしい。だが、今のままではレースでは勝てない。」

 

初めての調整日、そう言われた私はムッとした。

 

「私、脚には自信あるもん。ジュニア育成でもトップだったし!」

 

「問題は脚じゃない。“呼吸”と“気”の配分だ。君はすべてをスタートにぶつけすぎている。残り400で息切れするタイプだ。」

 

驚いた。自分でも気づいていた癖を、数秒のフォーム確認だけで見抜いた。

 

「君の課題は“リズム”と“信じる力”だ。……それと、走る理由をもっと深く見つめたほうがいい。」

 

その日から、私はアナスタシオ・トレーナーの指導を受け始めた。

 

朝のジョグ、昼の坂ダッシュ、夜のフォーム分析。細かくて、古臭いメニューが多い。だけど、なぜか身体が応えてくる。毎日が、新しい“答え合わせ”の連続だった。

 

時折、彼は立ち止まり、遠くを見る。

 

「……昔、似たような坂で兵士を走らせたことがある。彼らは命を賭けて走っていた。」

 

私は最初、その言葉の意味がわからなかった。ただ、トレーナーの言葉には、いつも“重み”があった。何を考えているのか分からない。でも、その分、私が何を考えているのかを丁寧に聞いてくれる。

 

「なぜ走る? 君にとって勝利とは何だ?」

 

「えっ……勝てば、ファンがついて、家族も喜んで……」

 

「“それだけ”で、400メートル先にいるライバルに届くと思うか?」

 

答えられなかった。だけど、その問いは、ずっと胸に残った。

 

やがて、彼といる時間が好きになった。

怒鳴らず、叱らず、時に冗談を言う。でも、視線はいつも真っ直ぐ。訓練の後、日陰で差し出される水の味が、優しさと共にあった。

 

一度だけ、彼の帽子が風に飛ばされて、私が拾った時――

 

「……これ、昔から被ってるの?」

 

「これは“生きるための覚悟”だ。私がどこから来たか、何をしてきたか、それを忘れないための。」

 

言葉の意味はわからなかったけど、触れてはいけない“過去”があるんだと思った。

 

そして私は、自分も“過去”から逃げずに走ると決めた。

 

土曜の夜。

空の星がきらめき、トラックの照明がぼんやりと光る時間。私は黙って走っていた。トレーナーは何も言わず、ただ時計を見ている。

 

その沈黙が、なぜか心地良い。

 

「土曜の夜も走るんだな。」

 

「だって、私……“サタデーナイト”だから。」

 

言った瞬間、トレーナーが笑った。珍しい、心からの笑いだった。

 

「なるほど。なら、その名に恥じない走りを、見せてもらおう。」

 

私はその夜、誰よりも速く、誰よりも真っ直ぐに走った。

 

まだレースにも出ていない。

けれど、私と彼の間には確かな信頼が芽生えつつあった。

 

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